2020年3月30日月曜日

水色文庫について

ここに掲示するテキストの著作権は水城ゆうに帰属しますが、朗読(音読)についての著作使用権は解放します。朗読会、朗読ライブ、朗読教室、その他音声表現活動などで自由にお使いください。
その際、イベント内容についてひとことでかまいませんので、メールやコメントなどでお知らせいただけると、著作権者にとって望外の喜びとなります。

「水色文庫」の作品は電子ブック『祈る人』シリーズとしてアマゾンKindleから出版されています。こちらもご利用ください。

水城ゆうによる現代朗読ゼミやワークショップは、こちら〈現代朗読協会〉で開催されています。

既掲載作品
◎世界を切りとる
「砂漠の少年」「Milagro」「Kalimba Man」「Thank You So Much」「リサ」「農夫」「この河」「Even If You Are My Enemy」「Him」「Depth」「Swallowed in the Sea」「Bangkok」「An Octpus」「コンテナ」「待つ」「きみは星々の声を聞いている」「かなたから来てここにたどり着く」「ビッグウェーブ・サーファー」
◎日常
「Lookin' UP」「Bird Song」「温室」「初霜」「猫」「Time After Time」「Cat's Christmas」「水族館」「眠らない男(人)」「Solar」「Love Letters」「じぃは今日も山に行く」「サンタの調律師」「人形」「プール」「クリスマス・プレゼント」「Something Left Unsaid」「Start」「親知らず」「ひとり、秋の海を見る」「京都という街へのタイムスリップ」「とぼとぼと」「先生への手紙」「Solitary Woman」「Come Rain Or Come Shine」「Here's That Rainy Day」「締切り」「Dancin' On The Door」「おばあちゃん」「High Life」「You Gatta Mail」「Morning Plain」「五年ぶりの電話」「Someday My Prince Will Come」「爪を切る」「Heaven Can Wait」「The Pursuit of the Woman with the Featherd Hat」「ダイエット」「妻のいない日、ひとり料理を作る」「きみを待つぼくが気にかけること」「ラジオ局」「I'm Grad There Is You」「At the Platform」「Soon」「左義長」「A Flying Bird in the Dark」「単独行」「おまえの夏休みの宿題に父は没頭する」「豆まき」「コーヒー屋の猫」「自己同一性拡散現象」「ラジオを聴きながら」「蛍」「The Woman of Tea」「今朝の蜜蜂は羽音低く飛ぶ」「薪を割る女、蜜蜂」「暗く長い夜、私たちは身を寄せあって朝を待つ」「世界が眠るとき、私は目覚める」「かそけき虫の音に耳をすます」「編む人」 「悲しみの壁に希望を探す」「きみは星々の声を聞いている」「かなたから来てここにたどり着く」「遠くからやってきた波に乗るということ」「夏の思い出」 「肌にあたる海水の冷たさを思い唇がほころぶ」
◎メッセージ
「祈る人」「気分をよくして」「先生への手紙」「Fourteen」「雨のなかを」「古い友人への手紙」「A Red Flower」「眠らない男(人)」「雨の女」「I Am Foods」「祈り」「The Green Hours」「You Gatta Mail」「僕はスポーツ」「先生への手紙」「When It Rains」「Ranmaru Blues」「とぼとぼと」「ダイエット」「Miracle of the Fishes」「あめのうみ」「安全第一」「Ba-Lue Bolivar Ba-Lues-Are」「Why Do You Pass Me By」「Majisuka Police」「An Old Snow Woman」「The Sound of Forest」「The Night Has a Thousand Eyes」「Cat Plane」「青い空、白い雲」「朝はきらいだ」「Airplane」「A Flying Bird in the Dark」「捨てる」「共同存在現象」「しょぼんでんしゃ」「人像(ヒトガタ)」「歌う人へ」「亀」「また君は恋に堕落している」「死に向かう詩情」「自転車をこぐ」「飛んでいたころ」「身体のなかを蝶が飛ぶ」「ふとんたたき」「おんがくでんしゃ」「コップのなかのあなた」「ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にある」「イカ墨はえらい」「祝祭の歌」「帰り道」「繭世界」「朗読者」「舞踏病の女」「移行」「夜と朝をこえて」「待つ」「暗く長い夜、私たちは身を寄せあって朝を待つ」 「悲しみの壁に希望を探す」「マングローブのなかで「クラリネット」
◎不思議な話
「Three Views of a Secret」「Death Flower」「How Deep Is the Ocean」「ある夏の日のレポーター」「眠らない男(人)」「失われし街」「洗濯女」「タイム・トラベラー」「Smile of You」「手帳」「Depth」「Lonely Girl」「The Pursuit of the Woman with the Featherd Hat」「Oni」「階段」「ギターを弾く少年」「ふたつの夢「ひとつめの夢」」「ふたつの夢「ふたつめの夢」」「木漏れ日のなかで」「暗く長い夜、私たちは身を寄せあって朝を待つ」「夏の思い出」「ボトム・クオークの湯川結合で見えてきたタイムトラベルの可能性」
子どものころの七つの話
 「一 風呂の焚きつけの薪の話」
 「二 川に流された妹の話」
 「三 父と釣りに出かけた話」
 「四 ミミズの話」
 「五 蜂に刺された話」
 「六 夏の話」
 「七 砂場の糞の話」
「見えますか、私?」「きのこ女」「夜と朝をこえて」「ベニテングタケ子の好奇心」「世界が眠るとき、私は目覚める」「ロード・オブ・ザ・カッパン」「ファラオの墓の秘密の間」「イベントホライズン」
◎思考
「砂時計」「講演」「The Underground」「コップのなかのあなた」
◎音楽
「Three Views of a Secret」「Night Passage」「Lookin' UP」「Solar」「How Deep Is the Ocean」「サンタの調律師」「Blue Monk」「雪原の音」「Come Rain Or Come Shine」「Here's That Rainy Day」「セカンドステージ」「アンリ・マティスの七枚の音(1)」「アンリ・マティスの七枚の音(2)」「The Underground」「ギターを弾く少年」
◎男と女
「Milagro」「Night Passage」「彼女が神様だった頃」「Lookin' UP」「移動祝祭日」「How Deep Is the Ocean」「Thank You So Much」「Cat's Christmas」
 「Nearness of You」
「眠らない男(人)」「雨の女」「Blue Monk」「航跡」「沖へ」「Smile of You」「夏の終わり、遊覧船に乗る」「The Green Hours」「嵐の中の温泉」「ねむるきみと霧の中を通って」「セカンドステージ」「It Might As Well Be Spring」「I'm Grad There Is You」「Oni」「The Woman of Tea」「ベニテングタケ子の好奇心」「夏の思い出」
◎シナリオ
「初恋」「沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき(1)」「沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき(2)」「沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき(3)」「特殊相対性の女(1)」「特殊相対性の女(2)」「特殊相対性の女(3)」「祈り」「群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(1)」「群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(2)」「群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(3)」「群読シナリオ「Kenji」(1)」「群読シナリオ「Kenji」(2)」「群読シナリオ「Kenji」(3)」「ギターを弾く少年」
◎未来
「Night Passage」「Blue Monk」「The Burning World」「The Sound of Forest」「きみは星々の声を聞いている」「かなたから来てここにたどり着く」「アルチュール」「南へ」「ボトム・クオークの湯川結合で見えてきたタイムトラベルの可能性」
◎海とヨット
「迷信」「彼女が神様だった頃」「移動祝祭日」「Thank You So Much」「ぼくらは悲しみを取りかえる」「彼女の仕事」「嵐が来る日、ぼくたちはつどう」「航跡」「沖へ」「夜の音」「夜に聞くデッキの雨の音」「梅雨の合間に聴くマーチ」「コンテナ」「マングローブのなかで」「遠くからやってきた波に乗るということ」「落雷」「ビッグウェーブ・サーファー」 「肌にあたる海水の冷たさを思い唇がほころぶ」

著者からのお知らせ 2020.3.30

水城の末期食道がんについての経過や病状についての専門家の所見については、こちらをご覧ください。


◎4月2日:コミュニティ型「共感手帳術」講座(Slack&Zoom)
オンラインチームツールSlackを使ってNVCの練習を習慣化するためのツール共感手帳術を使う仲間たちの交流の場のためのオンラインミーティングです。どなたも自由にご参加ください。4月2日(木)20時から約1時間。

※参加申し込みおよび問い合わせは、こちらから。


◎4月5日:臨時朗読ゼミ(水城ゼミ)
ゼミ生が個人レッスンを受けるタイミングで臨時の現代朗読ゼミを開催します。新型コロナウイルス対策を受けてオンラインでの参加も歓迎です。それなりの内容で開催します。4月5日(日)10時から約2時間。

※参加申し込みおよび問い合わせは、こちらから。


◎4月6日:国立・韓氏意拳初級&養生功講習会
駒井雅和中級教練による国立での韓氏意拳初級&養生功講習会を4月6日(月)14時からJR国立駅徒歩5分の会場にて開催します。

※参加申し込みおよび問い合わせは、こちらから。


◎4月8日:共感編み物カフェ@国立春野亭(オンライン参加可)
4月8日(水)午後3時から午後8時まで、出入り自由、国立春野亭もしくはオンライン参加にて共感編み物カフェを開催します。編物をしながら、お茶を飲みながら、ゆるく共感しあう安心できる場です。編物以外の手仕事など自由にお持ちいただいてもかまいません。

※参加申し込みおよび問い合わせは、こちらから。


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2019年12月1日日曜日

イベントホライズン

(C)2019 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

   肌にあたる海水の冷たさを思い唇がほころぶ

                           水城ゆう


 あの丘を越えれば
 無限の波と雲が迎えてくれるとわかっているのに
 おまえは死の影におびえながら歩《ほ》をためらっている

 なにをしようにも
 なにをいおうにも
 なにかを思い出し
 思考と観念の痛みが
 ただ積み重なり
 がんじがらめになる日々に
 おおわれたのはいつからなのか
 おまえはもう思い出すことができない

 ほら
 もうそこに見えている
 丘を越えよ
 一歩踏みだせ
 すべてを呑みこみ
 すべてを断《た》ち切る
 降着《こうちゃく》円盤《えんばん》が
 まばゆく輝いている

 そこは時と光が引きのばされ
 あらゆる事象が人知《じんち》を超える
 イベントホライズン
 闇の此岸《しがん》に
 我らの地がある

  *

 いただき物の菓子箱を包んでいた包み紙の皺《しわ》を、きみは丁寧《ていねい》にのばしている。テーブルの上に紙をひろげ、隅々《すみずみ》まで手のひらと指の腹を使って、皺をまっすぐにしている。皺がのび、紙がまっすぐになると、きみはそれを半分に折る。端《はし》と端を合わせて、まずは長いほうからふたつに折る。角《かど》が正確に合っているのを確かめ、真ん中に折り目をつける。
 包み紙が半分になったら、さらにもう半分に折る。今度も角が合っているのを慎重に確かめ、きっちりと折り目をつける。さらにもう半分。四つ折の新聞紙ほどの大きさになると、きみは立ちあがり、物入《ものい》れの引き戸をあける。
 物入れには整理棚があって、段のひとつにきれいに折りたたんだ包み紙が何十枚も重なっておさめられている。いまたたんだばかりの包み紙をきみはその上に乗せ、そっと手のひらで押さえて厚みの感触をたしかめる。

  *

 おまえはまたうっかり、いつものようにろくに噛まずに肉の塊を飲みこもうとして、胸を押さえる。狭くなり、食べ物を胃へと送りこもうとする蠕動《ぜんどう》運動が鈍《にぶ》っている食堂に、とんかつのひと切れが引っかかって止まる。
 痛みと息苦しさで、おまえは涙目《なみだめ》になりながら、テーブルの上の水のコップに手を伸ばす。水を飲む前に、なかば無意識にこぶしを作った手で胸をとんとんと叩く。そんなことをしてもなんの効果もない。
 水をひと口ふくみ、飲みこむ。水は食道をふさいでいるトンカツのところで止まり、冷たくたまる。痛みをこらえ、待つ。水はやがて、肉塊《にくかい》のすきまをとおり、食道を通りぬけていく。それにつれて、引っかかっていた肉塊もするりと動きはじめ、ゆっくりと胃へと降りていく。
 痛みが引いていく。おまえはほっと息をつき、胸をさする。その奥にあるイベントホライズンを思いながら。

  *

 きみは大根を切ろうとしている。これから味噌汁を作ろうというのだ。葉の根元が残っている首のところをザクリと切り落とす。落とした首は捨てないでまな板の横に取っておく。つづいて五センチくらいのところで横に切る。円筒形ができる。包丁を皮にそってあて、大根の皮を薄くそぐように切りはいでいく。皮をはいだ大根は縦に切れ目をいれて、太いマッチの軸のような形にすると、水を張った小鍋にまとめて入れる。皮も捨てずに取っておく。
 つづいて人参《にんじん》を切る。葉がついたままだ。おなじように根元《ねもと》を切り落とす。皮はむかずに、大根のように、しかしもっと細い軸になるように、刻んでから小鍋《こなべ》に入れる。首についている葉は外側のものを何本か指でちぎってきれいなものだけ残すと、そのまま水を張った小皿に乗せる。大根の首も別の小皿に乗せる。
 それらを窓際《まどぎわ》に並べる。こうやっておくと、大根からも人参からもあたらしい芽が出て、あたらしい葉が伸びて彼の目を楽しませてくれるだろうと、きみは思っている。

  *

 おまえは浜辺でそれを見つけたのだ。波はちいさく、サーフィンの合間に波打《なみう》ち際《ぎわ》で休んでいた。手をうしろに突き、両脚を投げ出して波に洗われままにしていた。指先になにかが触れて、おまえはそれをつまみあげた。貝の死骸か小石だろうと思った。
 目の前にかざしてみると、それは自然のものではなく、あきらかに小さくて丸い人工物だった。ビーズ玉というにはすこし大きい、ペンダントというには小さい、大きめのイヤリングか丸いボタン、とんぼ玉のような、材質は木ではなくおそらく石または金属、表面にはこまかな彫《ほ》り物がしてあり、古代文字のような模様が浮かびあがっている。梵字《ぼんじ》のようにも見えるが、梵字ではなく、おまえが見たこともない文字だった。
 文様は浮き彫りなっているようだが、よく見ると透《す》かし文字で、掘りあげられた文字の奥にさらになにか透けて見えていた。
 かすかに光っている。しかもその光がちらちらとまたたいている。光源そのものが動いているようにも見えた。
 なぜかわからないが、おまえはそれを口にいれてみたい衝動にかられた。なめてみたくなったのだ。
 おまえはそれを口にいれた。舌の上にころがしてみると、思いがけず焼けるような熱を感じた。吐きだそうとするおまえの意志に反して、それは舌の上をころがり、喉の奥へ向かった。焼けるような熱さと痛みに、おまえは思わずそれを飲みこんだ。

  *

 きみはくねくねと扱いにくい細長いホースの先端を苦労してバスタブにいれる。バスタブには昨夜の残り湯がある。風呂蓋もホースも取りまわすたびに水滴が飛び散って、せっかく拭《ふ》きあげた風呂の床を濡らしてしまう。スリッパを脱げばいいけれど、靴下もいっしょに脱ぐ必要がある。
 ホースの先端には丸いプラスチックの口がついていて、そこから残り湯を吸いあげるようになっている。ドラム式の洗濯機で残り湯が使えるようにするのに、きみはとても苦労した。いろいろ調べて金具を取りよせたりして、やっと使えるようになった。たとえ残り湯といえども、そのまま下水に流してしまうにはしのびない。洗濯に使う分にはまったく支障はない。残り湯を最後まで使いきることが、きみには重要なことなのだ。

  *

 マイクロブラックホールは、そのシュヴァルツシルト半径が量子サイズのブラックホールである。ミニブラックホールとも呼ばれる。ブラックホールの質量はシュヴァルツシルト半径に比例するため、質量もそれに応じ小さいが、量子サイズであることを考慮すればきわめて大きい。
 ブラックホールを記述する一般相対性理論のシュヴァルツシルト解《かい》は、任意の質量のブラックホールを許容するが、当初はこのような極微《きょくび》のブラックホールを生成する現象は知られておらず、存在しえないと考えられていた。しかし、ビッグバン直後の高エネルギー状態の中で発生した可能性がある。

  *

 目覚めたとき、たしかにおまえは彼女の気配《けはい》を感じる。彼女の気配を感じている自分を感じる。おれはまだ生きている、と思う。それから「まだ」というのはおかしいなと思う。「まだ」でもなく、「さらに」でもなく、「もう」でもない。「いま」だ。目を閉じたままかんがえをリセットする。おれはいま生きている。
 息をしている自分に気づく。生きている自分。息を吸い、吐いている自分。胸郭《きょうかく》の内積《ないせき》が増加すると、ふくらんだ肺に臓器が圧迫される。食道が押され、脊椎《せきつい》とのあいだにある組織から痛みが生まれる。
 組織はあの物体を包みこんで肥大化している。歴史が生まれるはるか以前の古代人が、すでにうしなわれた技《わざ》を使ってあれを作った。原初宇宙の黒い力を閉じこめる技。
 黒い力は時間と空間を支配する。おまえも時間と空間に支配されている。すべての人間、生き物、存在が、宇宙の時間と空間に支配されている。黒い力はおまえの時間と空間をひずませている。
 あれを取りこんだおまえの身体《からだ》の細胞は異常な増殖をはじめている。増殖細胞は全身に転移し、おまえの時間をひずませていく。しかしそれは自然なことなのだ。宇宙の法則の一部なのだ。人がそれにあらがうことはできないのだ。
 おまえは横たわったまま目をあけ、彼女の気配を感じている自分のひずんだ身体を観察している。彼女はまだ眠っている。規則正しい寝息が聞こえている。それを邪魔しないようにおまえはそっと身体を起こす。

  *

 彼がきみに気づかれないようにそっと身を起こし、水を飲みに行くのを、きみは目を閉じたまま感じている。
 キッチンの流しには昨日の食器の洗い残しがあって、彼はそれを洗おうとしている。湯沸かし器のスイッチを入れる音がする。いくつかの食器を洗うためだけに盛大《せいだい》に、たっぷりとお湯を使うのを、きみはもったいないと思う。しかし、そのことをいうのはもうやめた。いまの彼は冷たい水を使うことがつらいらしい。彼の身体は感覚が鋭敏になったり鈍感になったりしていて、想像がつかないような変化が起きている。
 きみにはそれを止めることはできない。彼にもそれを止めることはできない。だれにもどうすることもできないことがある。

  *

 ふたりがかりで寝台に寝かされ、身体《からだ》の位置を神経質に調節される。胸に直接医療用マーカーで描《えが》かれた青黒い皮膚マークを目印に、照射される光で位置合わせをするらしい。ひとりが両脚を抱えて腰の位置を左にずらす。もうひとりはバンザイの格好にあげた両腕の位置を調整する。一ミリ単位の微妙な調整を繰り返し、やがてオーケーが出る。
 動かないでくださいねといい残し、ふたりの放射線技師は部屋を出ていく。巨大な円盤のような照射機がおまえの上におおいかぶさっている。
 やがて遠くからブザーの音が聞こえ、放射線の照射がスタートする。なんの感覚もない。実際にはレントゲン撮影の百倍以上の線量のX線が、腫瘍に向けて照射されている。
 感覚はないが、腫瘍の奥にある古代の玉が反応しているようだ。目を閉じると作りだされたイメージなのか、それとも実際のビジョンなのか、脳裏にそのようすがまざまざと浮かんでくる。
 透《す》かし彫りの古代文字のような文様《もんよう》の奥には、ちらちらと光が動いている。それが照射されるX線に反応するのか、ときにまばゆい閃光を上下に放つ。上下の放射光は、中心部に平たく広がった円盤のような光をつらぬいている。円盤は目まぐるしく回転し、体組織を引きよせ、吸着しているように見える。
 降着円盤。そこでは光ですら脱出できない重力の穴にむかって引きよせられた物質が、事象の地平線――イベントホライズンにそって回転している。限りなく光の速度にひとしい高速で回転する円盤上では、時空は無限に引きのばされている。ここでは一瞬が永遠にひとしく、点が無限の空間にひとしい。また時間と空間は重なりあいつつ並行して存在している。
 おまえの肉体はそれに向かって収束していく。時間という概念を創り出したヒトの脳世界では、それを死と呼ぶ。
 人知を超えた潮汐力《ちょうせきりょく》にとらえられ、おまえは巨大な渦に巻きこまれていく。いったん渦に巻かれればだれもそこから逃《のが》れることはできない。たとえそれがマイクロブラックホールであったとしても、ブラックホールに向かう流れは不可逆なものであり、元にもどすことはできない。しかし、その先にあるものは終焉《しゅうえん》ではない。ゴールではない。死という概念でもない。その先にあるものは認知が不可能な事象の地平線であり、すべてがあると同時にない場所でもある。
 やがてまばゆい光のなかでおまえは自分の姿を見る。いま、この瞬間、降着円盤のなかで行く手を凝視しているおまえ自身の姿を、周回軌道をぐるりと追いついてうしろから見る。おまえがいま見ているのは、前を見ているおまえ自身のうしろ姿だ。
 おまえはおまえ自身のうしろ姿に近づき、やがて追いこしていく。追いこしたかと思えば、また目の前におまえの後ろ姿がある。それはいまのおまえの後ろ姿ではない。おまえはウェットスーツを着てサーフボードを小脇《こわき》に抱《かか》えている。浜辺を波打ち際に向かっているおまえの姿はいつのものなのか。過去の自分の存在が降着円盤のなかでめぐり、それに追いついたいまのおまえが見ている。
 気がつくとおまえの姿が無数に見える。前にも後ろにも、横にも。上にも下にも。まるで巨大なマトリクスのように、あるいは全周囲の合わせ鏡のように、自分のさまざまな姿がめぐっている。はるか上には子どものころの自分の姿も見える。父親に手をひかれ、河原の堤防に植えられた桜の満開のトンネルの下を、生まれたばかりの妹に会いに病院に向かっている三歳のおまえの姿。期待と好奇心に満ちた、同時に不安がよぎる感情の記憶も、物質化してそこにあるがごとく感じることができる。
 きみはいただき物の菓子箱を包んでいた包み紙の皺を丁寧に、楽しげにのばしている。そうか、楽しんでいたのか、きみは、とおまえは気づく。切りおとした大根の首を小皿に置いているきみも、それを楽しんでいる。おまえが喜んでくれるかもしれないと想像して楽しくなっている。小皿を窓際に置いて、外からの光で若い葉が緑に透けているのを、微笑みながら見ているきみがいる。風呂の残り湯を無駄なく使うことに創意工夫の喜びを感じながらきびきびと選択しているきみの姿もある。
 そうか、ここにいたのか。みんな、ここに、すべてが無限の時間のなかにあるのか、とおまえは気づく。ここにすべてがある。
 私の肉体と魂が消失すると同時に、すべてが存在するイベントホライズン。私のなかにあり、また私自身をも含んでいる。
 全的理解がここにある。
 私はいま、ピアノを弾いていて、ここにいると思っているけれど、本当は宇宙のどこか、イベントホライズンの無限に引きのばされた時間と空間のなかにいるのかもしれない。
 私は――あなたは――おまえは――きみはここにいると同時に、ここにいないのかもしれない。
(おわり)

2019年8月17日土曜日

肌にあたる海水の冷たさを思い唇がほころぶ

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   肌にあたる海水の冷たさを思い唇がほころぶ

                           水城ゆう


 何度もなんども「これは夢ではない、リアルな現実に起こっていること」と確認している夢からさめると、自分がまだ生きていて、汗をかきながら浅い呼吸をしていることに気づいた。
 呼吸をするたびに胸の奥のにぶい痛みが脈動するように感じるのは、錯覚だ。
 最初は不整脈だと思った。だからハートクリニックに行ってみたりした。心電図をとり、ホルダー検査までした。「食道かもしれませんよ」という医師のことばを聞きながしていたことを、いまさら思いだす。
 呼吸と連動する痛みは肋間神経痛だ。それがどのようなメカニズムで発生するのかは知らないが、何度も経験している。息を吸うのがつらいほどのこともあった。いま息を吸うときに痛みに身構えてしまうのは、たんなる痛覚記憶による反射反応にすぎない。
 起きあがって枕元においたポーチから錠剤をつまみだす。ロキソニンひと粒で胸の奥の爆弾がいまのところ静まってくれるように思える。そのまま消えてなくなればいいのに、という常套的な願い言葉が頭の内側でこだまする。
 備えておいた水筒の水で薬を飲みくだす。いまのところ、水は支障なく飲める。
 ブラインドの角度を変えて光をいれると、椰子の木の影の角度からすでに午前七時をまわっていることがわかる。波打ち際をカモメが鳴き声も立てずにふわりと飛びすぎていく。風は強くないらしい。そのくせ波が高いのは、台風が近づいているという予報を裏付けしているのかもしれない。
 今日はなにしよう。
 問うまでもなく、うねりをともなった波が朝食前の私を呼んでいる。
 その前に、コーヒーを一杯。
 あと半年とか、あと数か月とか、限定的な余命を告げられたとき、人はそれまでとは違うなにごとかをやりたくなるらしい。行ったことのない場所に旅行するとか、食べたことのないものを食べに行くとか、会いたかった人に会いに行くとか、がまんしていた遊びに打ち興じるとか、なにか知らないけれど快楽にふけるとか。
 私は違うことをやりたくなる前に毎日が違うように見えはじめたので、違うことをやる必要がなくなった。コーヒーをいれることだって、昨日と今日とでは感じが全然違う。コーヒーが変わるのではなく、自分が変わるのだ。昨日の自分と今日の自分は全然違う人間だし、違う現象だ。
 そんなことは前から知っていたはずなのに、ちゃんとわかってはいなかった。限定的な余命を告げられなければそれが身体に落ちてこなかったなんて、どれほどおろかだったんだ、自分、と私は思う。
 もっといえば、限定的な余命だって、すべての人がそうだし、私だって生まれて以来ずっとそうだったはずで、なにも医者から余命を告げられたいまにかぎったことではない。
 ほんとにばか。
 パジャマを脱ぎ、生理用ナプキンを引きだしから出そうとして、生理はすでに終わっていたことを思いだす。
 ほんとにばか。かわいくすらある。
 あと何日、波に乗れる? ウェットスーツのすきまにはいりこんでくる最初の海水の冷たさを予想しながら、私の唇はほころびている。

2018年9月17日月曜日

ボトム・クオークの湯川結合で見えてきたタイムトラベルの可能性

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   ボトム・クオークの湯川結合で見えてきたタイムトラベルの可能性

                           水城ゆう

 だれもが過去の失敗を悔やむことはあるでしょう。あのときこうすればよかった、あるいは、あのときあんなことをしなければよかった、その時点にもどれればいいのに、もう一度やりなおせたらいいのに、と。
 我々ハドロン衝突型粒子加速器のチームは、ヒッグス粒子がボトム・クオーク対へと重力崩壊する事象の観測をATLAS側でおこなっていたときに、質量起源の理論モデルによって裏付けられていた湯川結合のゆらぎを測定することに成功しました。質量は時間に変換できますから、ニュートリノ振動を反物質的に減速してやることによって、時間を反転させうる地平が見えてきたことを意味します。
 一般に時間とは不可遡なものであり、リニアに進行するものと思われて(思いこまれて)いますが、もちろんそうではなく、局所存在的なムラがあり、ときには可遡的であることが第三世代フェルミオンの観測結果を待つまでもなく提言されていたことでした。実験高エネルギー物理学の立場からいえば、我々は確率冷却法をもって時間不可遡のもつれを打ち破るべくミューオンに張り付きますが、同時にまた、量子分野の理論物理側からも破られる可能性があることを高らかに予言するものであります。この予言はあらかじめ決定されていたことではありますが。

2018年9月3日月曜日

ビッグウェーブ・サーファー

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   ビッグウェーブ・サーファー

                           水城ゆう

 足首からぽっきりと折れて壊れてしまったマリア像と十字架のある丘のてっぺんに仁王立ちになって、カルロスは街と岬と海を見渡す。
 ナザレの白っぽい街は丘の中腹から浜に向かって所狭しとなだれ寄せている。数年前に作られた岬の展望台には、ヨーロッパ中からやってきた観光客が集っている。ヨーロッパどころか、アメリカやアジアから来た客もいるにちがいない。あのカメラを構えた男は、どう見ても日本人だろう。驚異的な視力で、カルロスはひとりひとりを見分ける。
 それから、岬の沖へと目を転じる。
 観光客たちには残念なことだろう、今日の波は六メートルにも満たない。だから彼だって海に出ないのだ。朝からボードに触ってすらいない。それでも波頭は派手に崩れ落ちて、下腹にひびく音を立てている。
 このまま十月が終わってしまうつもりだろうか。このシーズン、まだ一度もビッグウェーブには乗っていない。天気予報では、しかし、明後日の引き潮の時間に、かなりの波が期待できそうだとか。
 もう少し待つか。
 丘から街へと、足場の悪い岩場の道を、カルロスは軽やかに駆けおりた。もうすぐ五十に手が届くとはいえ、今シーズン絶好調で、身体は軽い。
 ねぐらに借りているガレージのロフトにもどる。借り賃はゼロ。その代わり、オーナーの庭の手入れと子どもたち——それがまた六人もいるときている——の世話をたまにすることになっている。家族をバルセロナに置いてひとり、二か月も波乗りに集中するためにここに来ている。そのくらいどうってことない。
 去年はでかいのに乗りそこねて、肋骨を四本も折った。むち打ちにもしばらく苦しめられた。今年、復帰すると宣言したとき、さすがに家族にもいやな顔をされた。知り合いからは、いい歳してなんで波乗りなんてのに金をつぎこむ、もっと家族を大事にしろといわれた。
 しかし彼は今年ももどってきた。
 仲間のなかには世界記録が目標のやつもいる。スポンサーを獲得してプロになるのが目的のやつもいる。女にもてたいだけのやつもいる。
 カルロスも聞かれたことがある。なんでビッグウェーブに乗るんだ、と。
 死と隣り合わせのときが一番生を感じるからだ、と答えたが、本心じゃない。そのことばはだれかの受け売りだ。彼がでかい波に乗るのは、波が彼の一部だから。いや、逆だ。彼が波の一部だからだ。
 二〇メートルを超えるばかでかい波に乗り、七階建てのビルの高さからまっさかさまにすべり落ちるとき、頭のなかは真っ白になり、自分が生きているのか、死んでいるのかすらわからなくなる。おれはまちがいなくこの瞬間のために存在しているんだと感じる。
 どんな形であれ、人はかならず死ぬ。そのときに、ある瞬間の感覚に輝かしく包まれて、笑いながら息を引きとれるかどうかってことだ。
 まったくおれって自分のことしか考えちゃいねえよな。カルロスはひとり、薄暗いガレージのロフトで低い笑い声を漏らした。

2018年8月27日月曜日

クラリネット

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   クラリネット

                           水城ゆう


 その人はそらの上からやってきた
 古びた黒いクラリネットを持って

 その人がクラリネットを吹くと
 古びた音がした
 アルトサックスでもフルートでもなく
 リコーダーでもオーボエでもない
 そのクラリネット吹きは
 いろいろなものを連れてきた

 ぜんまいじかけの柱時計
 ぎざぎざのついた洗濯板
 足踏み式のミシン
 三角乗りした自転車
 土でかためたかまど
 炭を乗せるアイロン
 手で汲みあげる井戸ポンプ
 黒板とチョークと黒板消し
 すこし調律の狂ったアップライトピアノ
 はさに干した稲の束
 軒に吊るした干し柿
 ハエ取り紙と汲み取り便所
 ナイフで削った鉛筆の先
 竹で作った鳥かご
 アカハライモリの住む田んぼ
 蛍が生まれる用水路
 カッコウが鳴く向い山
 渓流の飛び込み岩
 ツバメの巣
 夕立
 つらら
 雑木林

 クラリネット吹きは
 なつかしいメロディを何度か吹くと
 またそらの上にもどっていった
 連れてきたものたちも
 一緒に連れてかえってしまった
 それからというもの
 古びた黒いクラリネットは
 一度も見かけていない