2018年8月20日月曜日

水色文庫について

ここに掲示するテキストの著作権は水城ゆうに帰属しますが、朗読(音読)についての著作使用権は解放します。朗読会、朗読ライブ、朗読教室、その他音声表現活動などで自由にお使いください。
その際、イベント内容についてひとことでかまいませんので、メールやコメントなどでお知らせいただけると、著作権者にとって望外の喜びとなります。

「水色文庫」の作品は電子ブック『祈る人』シリーズとしてアマゾンKindleから出版されています。こちらもご利用ください。

水城ゆうによる現代朗読ゼミやワークショップは、こちら〈現代朗読協会〉で開催されています。

既掲載作品
◎世界を切りとる
「砂漠の少年」「Milagro」「Kalimba Man」「Thank You So Much」「リサ」「農夫」「この河」「Even If You Are My Enemy」「Him」「Depth」「Swallowed in the Sea」「Bangkok」「An Octpus」「コンテナ」「待つ」「きみは星々の声を聞いている」「かなたから来てここにたどり着く」
◎日常
「Lookin' UP」「Bird Song」「温室」「初霜」「猫」「Time After Time」「Cat's Christmas」「水族館」「眠らない男(人)」「Solar」「Love Letters」「じぃは今日も山に行く」「サンタの調律師」「人形」「プール」「クリスマス・プレゼント」「Something Left Unsaid」「Start」「親知らず」「ひとり、秋の海を見る」「京都という街へのタイムスリップ」「とぼとぼと」「先生への手紙」「Solitary Woman」「Come Rain Or Come Shine」「Here's That Rainy Day」「締切り」「Dancin' On The Door」「おばあちゃん」「High Life」「You Gatta Mail」「Morning Plain」「五年ぶりの電話」「Someday My Prince Will Come」「爪を切る」「Heaven Can Wait」「The Pursuit of the Woman with the Featherd Hat」「ダイエット」「妻のいない日、ひとり料理を作る」「きみを待つぼくが気にかけること」「ラジオ局」「I'm Grad There Is You」「At the Platform」「Soon」「左義長」「A Flying Bird in the Dark」「単独行」「おまえの夏休みの宿題に父は没頭する」「豆まき」「コーヒー屋の猫」「自己同一性拡散現象」「ラジオを聴きながら」「蛍」「The Woman of Tea」「今朝の蜜蜂は羽音低く飛ぶ」「薪を割る女、蜜蜂」「暗く長い夜、私たちは身を寄せあって朝を待つ」「世界が眠るとき、私は目覚める」「かそけき虫の音に耳をすます」「編む人」
「悲しみの壁に希望を探す」「きみは星々の声を聞いている」「かなたから来てここにたどり着く」「遠くからやってきた波に乗るということ」「夏の思い出」
◎メッセージ
「祈る人」「気分をよくして」「先生への手紙」「Fourteen」「雨のなかを」「古い友人への手紙」「A Red Flower」「眠らない男(人)」「雨の女」「I Am Foods」「祈り」「The Green Hours」「You Gatta Mail」「僕はスポーツ」「先生への手紙」「When It Rains」「Ranmaru Blues」「とぼとぼと」「ダイエット」「Miracle of the Fishes」「あめのうみ」「安全第一」「Ba-Lue Bolivar Ba-Lues-Are」「Why Do You Pass Me By」「Majisuka Police」「An Old Snow Woman」「The Sound of Forest」「The Night Has a Thousand Eyes」「Cat Plane」「青い空、白い雲」「朝はきらいだ」「Airplane」「A Flying Bird in the Dark」「捨てる」「共同存在現象」「しょぼんでんしゃ」「人像(ヒトガタ)」「歌う人へ」「亀」「また君は恋に堕落している」「死に向かう詩情」「自転車をこぐ」「飛んでいたころ」「身体のなかを蝶が飛ぶ」「ふとんたたき」「おんがくでんしゃ」「コップのなかのあなた」「ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にある」「イカ墨はえらい」「祝祭の歌」「帰り道」「繭世界」「朗読者」「舞踏病の女」「移行」「夜と朝をこえて」「待つ」「暗く長い夜、私たちは身を寄せあって朝を待つ」
「悲しみの壁に希望を探す」「マングローブのなかで
◎不思議な話
「Three Views of a Secret」「Death Flower」「How Deep Is the Ocean」「ある夏の日のレポーター」「眠らない男(人)」「失われし街」「洗濯女」「タイム・トラベラー」「Smile of You」「手帳」「Depth」「Lonely Girl」「The Pursuit of the Woman with the Featherd Hat」「Oni」「階段」「ギターを弾く少年」「ふたつの夢「ひとつめの夢」」「ふたつの夢「ふたつめの夢」」「木漏れ日のなかで」「暗く長い夜、私たちは身を寄せあって朝を待つ」「夏の思い出」
子どものころの七つの話
 「一 風呂の焚きつけの薪の話」
 「二 川に流された妹の話」
 「三 父と釣りに出かけた話」
 「四 ミミズの話」
 「五 蜂に刺された話」
 「六 夏の話」
 「七 砂場の糞の話」
「見えますか、私?」「きのこ女」「夜と朝をこえて」「ベニテングタケ子の好奇心」「世界が眠るとき、私は目覚める」「ロード・オブ・ザ・カッパン」「ファラオの墓の秘密の間」
◎思考
「砂時計」「講演」「The Underground」「コップのなかのあなた」
◎音楽
「Three Views of a Secret」「Night Passage」「Lookin' UP」「Solar」「How Deep Is the Ocean」「サンタの調律師」「Blue Monk」「雪原の音」「Come Rain Or Come Shine」「Here's That Rainy Day」「セカンドステージ」「アンリ・マティスの七枚の音(1)」「アンリ・マティスの七枚の音(2)」「The Underground」「ギターを弾く少年」
◎男と女
「Milagro」「Night Passage」「彼女が神様だった頃」「Lookin' UP」「移動祝祭日」「How Deep Is the Ocean」「Thank You So Much」「Cat's Christmas」
 「Nearness of You」
「眠らない男(人)」「雨の女」「Blue Monk」「航跡」「沖へ」「Smile of You」「夏の終わり、遊覧船に乗る」「The Green Hours」「嵐の中の温泉」「ねむるきみと霧の中を通って」「セカンドステージ」「It Might As Well Be Spring」「I'm Grad There Is You」「Oni」「The Woman of Tea」「ベニテングタケ子の好奇心」「夏の思い出」
◎シナリオ
「初恋」「沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき(1)」「沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき(2)」「沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき(3)」「特殊相対性の女(1)」「特殊相対性の女(2)」「特殊相対性の女(3)」「祈り」「群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(1)」「群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(2)」「群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(3)」「群読シナリオ「Kenji」(1)」「群読シナリオ「Kenji」(2)」「群読シナリオ「Kenji」(3)」「ギターを弾く少年」
◎未来
「Night Passage」「Blue Monk」「The Burning World」「The Sound of Forest」「きみは星々の声を聞いている」「かなたから来てここにたどり着く」「アルチュール」「南へ」
◎海とヨット
「迷信」「彼女が神様だった頃」「移動祝祭日」「Thank You So Much」「ぼくらは悲しみを取りかえる」「彼女の仕事」「嵐が来る日、ぼくたちはつどう」「航跡」「沖へ」「夜の音」「夜に聞くデッキの雨の音」「梅雨の合間に聴くマーチ」「コンテナ」「マングローブのなかで」「遠くからやってきた波に乗るということ」「落雷」

著者からのお知らせ 2018.8.20

8月24日(金)夜19時半から、国立春野亭にて現代朗読ゼミを開催します。
朗読や群読などの身体表現を用いていまこの瞬間の自分自身をのびやかに表現するための研究の場です。
詳細と申し込みはこちら

8月26日(日)夜19時から国立春野亭またはオンラインにて身体文章塾を開催します。
テキストで自分自身を伝えるために、自身の身体性とむすびついたことばや文体についてのさまざまな試みをおこなっています。
詳細と申し込みはこちら

夏の思い出

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Authorized by the author

   夏の思い出

                           水城ゆう

 ほかにはだれもいない高校の屋外プールには、暖かい雨が降りそそぎ、水面には無数の波紋が広がっている。
 ぼくらは首から上だけを水の上に浮かべ、水中で手足を触れあわせながら向かいあっていた。
「時給っていくらなの?」
「六百五十円」
「まあまあだね」
「でも二時間だからね」
 話すと声が奇妙な具合に水面を伝わり、プールのへりにぶつかってもどってくる感じがあった。屋外なのに、閉じられた部屋のなかにいるような親密さ。
「勉強する時間はあるわよね」
 彼女は先に京都の会社に就職して、ぼくが京都の大学に進学するのを待っている。そういう青臭い段取りになっていた。
「まあね」
 手をのばすと、水着に包まれた彼女の胸に指先が触れた。
「いつ戻るんだっけ?」
「お盆休みは明後日まで。って、いわなかったっけ? 午後の雷鳥で戻る」
「そっか」
 雨は当然、水のなかまではとどかず、ぼくらの髪と顔を濡らしている。
「大学に行ったら、もうすこし稼げるバイトしたいな」
「どんなの?」
「わかんないけど……プールの監視よりは稼げるやつ」
「稼いでどうするの?」
「そうだな、旅行に行きたいな。海外とか」
「いいね。いっしょに行こうよ」
「うん。来年の夏までぼくたち付き合ってればね」
「どういうこと?」
「もうすぐ別れちゃうんだよ、ぼくたち」
 なぜそんなことをいったのか、自分でもわからない。しかし、それは事実なのだと、ぼくにはわかっていた。
「どうしてそんなことをいうの?」
「ほんとうのことだから。ぼくたち、長く付き合わないんだよ。来年はぼくは京都の大学に合格するけど、きみは仕事をやめてこっちに帰ってきちゃうんだ。夏はぼくは京都の中華料理屋で深夜のバイトをする。その前にガソリンスタンドのバイトもちょっとやるかな。でも、深夜のバイトのほうが稼げるからそっちをやる。で、けっこう稼ぐんだけど、旅行には行かない。深夜のバイトをやめたあと、教材の配達のバイトをやるんだ。ほら、運転免許があるからね」
 自動車教習所にちょうどいま、通っているところだった。
「でも、これも長続きしない。バイト仲間から祇園のジャズバーのバーテンダーの仕事を紹介されるから。その仕事をぼくは三年くらいやる。筋《すじ》がよくて、マスターから本職にならないかと真剣にくどかれる。けど、ぼくはピアノ弾きになるんだ。ジャズバーに出入りしていたバンドマンの生活が魅力的でね。二年くらいやるんだけど、カラオケブームが来て仕事がなくなっちゃうんだ」
「カラオケってなに?」
 そうか、まだこの時代にはカラオケというものは存在しないんだった。彼女が知らないのも無理はない。
「仕事がなくなっちゃったぼくはしかたがないから、小説を書いたりする。結局はこっちにもどってきてピアノの先生なんかやるんだけど、書いた小説が出版社の目にとまって、職業小説家になるんだな。十年くらいやるんじゃないかな。そのあとは出版もうまくいかなくなって、自分で会社を起こしたり、ネットコンテンツの仕事をしたり、自分でもうまく説明できないような感じになっていく。そのあとのことはよくわからないな。自分でもどうなるかさっぱりわからない……」
 気がつくとぼくはひとりで話している。話していたはずの彼女はどこにもいない。そしてここは学校のプールでもない。海のまっただ中だった。
 空には雲が低くたれこめていて、見上げると雨つぶが私を押しつぶすかのように重く降りしきってくる。
 ここはどこなんだ。いつなんだ。彼女はどこに行ったんだ。ぼくが話していたのはなんなんだ。未来なのか、記憶なのか。
 なにも思いだせない。
 ぐるっと見回しても、陸地はどこにも見えない。
 私はいったいどうしてこんなところに……?

2018年8月14日火曜日

ファラオの墓の秘密の間

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   ファラオの墓の秘密の間

                           水城ゆう

 外気の侵入を完全に遮断するためのシールドで覆われた開口部をくぐり抜けると、すでに送りこまれていたロボットの照明で内部はくまなく照らされていた。
 明るすぎる。いや、これでも暗いのか?
 明暗の感覚が狂っている。
 影の部分にまで陽光がまわりこむかのようなギザの砂漠の強烈な日差し。そこから闇に閉ざされた大回廊と王の間を通り、ミューオン透視によってあらたに発見された秘密の間へ。ロボットの照明が昼より明るいように感じるのは、極端な差異がもたらす錯覚か。
 ほとんど宇宙服に近い完全装備の防護服に身をかためた我々は、秘密の間の奥へ慎重に歩を進めた。ロボットによる事前調査で、すでに驚くべき副葬品の数々が確認されていたが、あらためて直接目にすると、心臓が締めつけられような歓喜に包まれる。
 すでにロボットアームによって蓋が取りはずされている石棺のまわりに、我々は静かに集合した。四千五百年間眠りつづけた王の遺体をのぞきこむ。
 当然我々は王の遺体にはツタンカーメンのような黄金のマスクが装着されているものと予想していた。ところが、クフ王は素顔のままそこに横たわっていた。ただし、頭部には帽子がかぶされている。
 その帽子はどう見ても日本の麦わら帽子だった。
 そう、子どもが夏の海辺でかぶるあれ。大人が炎天下の草むしりでかぶるあれ。そんなものがなぜこんなところに……
 声もなく呆然と立ちつくす日本チームを、フランスチームは不思議そうな顔をしてながめている。


2018年7月30日月曜日

南へ

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   南へ

                           水城ゆう

 夕暮れになってバッテリーがこころもとなくなった。速力を半分に落とし、抵抗を減らす。とたんにボートがかきわける水音が消え、静寂が強調される。
 とはいえなにも音がないわけではない。先ほどの夕立(スコール)の名残りを葉にためている木々から、絶え間ない水滴が水面に落ちている。姿は見えないが、ときおりサギの鳴き声が森の奥から聞こえる。
 ヒロハシサギだな、とフルヤは反射的に判断する。中米を生息地とする鳥がここにいる理由は別として。
 しかし、彼の専門はヒルギなどに着生する熱帯ランの植生だ。
 すでに汽水域だが、このあたりはまだ塩分濃度が低い。さらに南へくだり塩分濃度が高まると、呼吸が重くなるように感じる。
 フルヤは暮れはじめた空を見あげて思う。もうひと雨来そうだ。西の空はピンクに近い紫に染められている。手前にスカイツリーが湿度のなかにくすんで黒々と浮かびあがっている。
 今夜はこのままどこかに係留し、明日も調査を続行する。ちょうどこのあたり、かつての江戸川の真上で、市川の高層マンション群が東にある。水位は四階あたりまであるが、着艇して上層階に行ければ湿った衣類を乾かすことができるだろう。
 あたりをつけてマンションのひとつに船首を向けた。おそらく京葉道路かなにか、苗床にしてヒルギが長々とマングローブ帯を作っている。海面上昇前は石垣島以南にしか生育しなかったニッパヤシも、帯状のところどころで林になっているのが見える。
 マングローブの脇をゆっくりと進めると、ヒルギモドキの枝のいくつかからフウランの一種が白い花をつけて垂れさがっているのが確認できた。花穂のシルエットがあまり見慣れたものではない。新種かもしれない。明朝確認しようと、フルヤは位置を頭に刻みこんだ。
 マンション北側の非常階段に調査用のゴムボートを横着けした。手を伸ばせばちょうど五階部分の階段の手すりに届く。が、金属もコンクリートもボロボロに腐食していて、ボートを係留するには危険だ。もやい綱をにぎって、ひょいと手すりのすきまから踊り場に立った。奥のほうにもうすこししっかりともやい綱を固定できるなにかがあるだろう。
 踊り場から振りかえると、半分水没して夕闇に溶けこみかけているトーキョーのシルエットがあった。ヒロハシサギが一羽、大きな嘴を突きだし、ゆっくりと水面を渡っていくのが見える。
 明日はもっと南へ、フルヤの脳裏をそんなことばがよぎる。

2018年7月22日日曜日

アルチュール

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   アルチュール

                           水城ゆう


 もたもたとお茶をいれるその手際のわるさに、私はいつものようにいらだってしまう。二a型の学習アルゴリズムに問題があることは承知の上で彼を購入したのだが、茶を所望したときはそれを後悔する。
「いったでしょう、アルチュール。茶葉は倍以上使って濃くしないと飲めたものじゃないって。そんなふうにとろとろいれない! 冷やすときは一気に氷に注ぐのよ」
 私のとげのある口調に彼はびくっとなり、さらに動作が鈍くなる。その感情反射アルゴリズムは頭の悪いパブロフの犬のようだ。
 いつまでもそんな風だと廃棄だからね。いつも思うこれは口に出さない。そのかわり彼に注文を出す。
「なにか詠んでちょうだい、アルチュール。なんでもいいけど……そうね、テーマは紅茶で」
 彼は一瞬かんがえ、すぐに口を開いた。
 そんなときはよどみない。しかも私のためにアイスティーを運んでくる動作もまったくとどこおりなく。

 おれの魂は琥珀の酒
 ただれた溶岩を伝って
 冷たい世界の化石となる
 未来永劫ここから見張れ
 淫らな女どもを

 聴きながら私はいつわりの優越感にひたる。二a型のアンドロイドを所有する身分。とはいえその私も三d型という、いまや骨董品にちかい型式の人工知能搭載ヒューマノイドではあるのだが。

2018年7月7日土曜日

落雷

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   落雷

                           水城 雄


 中継地の桟橋沖を通過したとき、二、三の人影がこちらに向かって手を振り、なにかいっているのが見えたが、僕もジョエルもそれを無視して下手《しもて》のマークへと直進した。
 風はアビームからややのぼりぎみ。ときおりやってくるブローに合わせてハイクアウトし、艇のバランスをたもつ。つま先をフットベルトに引っかけ、尻はほとんどデッキの外にはみだすほど身体をそらす。船首が立てる波しぶきと、二十分ほど前から降りしきっている雨つぶが、眼をあけていられないほど顔面をたたく。
 ヨットはいま右舷開き《ポートタック》で走っている。風が左へと振れていく。これ以上振れると、マークまでのぼりきれなくなって、方向転換《タック》が必要になる。舵棒《ティラー》を握っているジョエルはぎりぎりまでのぼらせようと、メインセールを引きこみ、自分もハイクアウトして艇を起こしにかかる。
 まだ五時前なのに、日暮れすぎのように暗い。湖の四方を囲んでいる山の稜線が、雨のせいもあってほとんど見えなくなってきた。たまに稲光がそちらの方角の稜線だけをくっきりと浮かびあがらせる。
 雨のせいで雷鳴の輪郭もぼやけている。
 下手のマークをノータックでかわした。レースは桟橋沖をスタートラインに、時計回りに下手マーク、中島、上手マーク、そして桟橋に戻る。これで一周。順風なら一時間弱の一周を二十四時間で何周できるか、あるいは二十四時間以内に二十四周回を先に終えたチームがフィニッシュというルール。
 午前十時にスタートして、この周回が十周めとなる。今日は風がある。とくに前線が近づいてきて風が強まり、強風のなか雨になった。
 ストームウェアをふたりともあわてて着こんだ。風がくるくる回って気を許せない。
 気がついたら並走しているレース艇はいなくなっている。そういえば、桟橋にセールを下ろしてつないでいる二艇があった。ほかにもすでに何艇かリタイアしたチームがありそうだ。
 桟橋で叫んでいたのは、レース中断を告げる声だったのかもしれない。
 ジョエルはまだ戻るつもりはないらしい。下手のマークをかわし、中島へと向かうコースは、風が真追っ手になった。急に波切り音が静かになる。それでもスピードはかなりのはずで、真横に広げたメインセールは後ろからの風をいっぱいに受け、ヨットを前のめりに押しだしていく。
 左手の稜線が鋭く光った。
 二、三、四……
 僕は数える。
 五と数えかけたところで雷鳴が聞こえた。
 まだ遠いな、と思ったとき、また光った。だいぶ明るく光った。
 一、二……雷鳴。
 雨が小降りになったようだが、追い風のせいでそう感じるだけかもしれない。引き波を見れば、艇がかなりスピードをあげていることがわかる。
 薄眼で見上げると、マストのてっぺんにはぐしょ濡れになった風見がへばりついている。マストはいかにもなにかを誘っているかのように、前後に揺れている。
 ジョエルは心配しているようすもない。ただまっすぐ中島をにらんでティラーをあやつっている。桟橋のほうをうかがったが、暗い雨のむこうになにも確認できなかった。
 また光った、と思った瞬間、衝撃と同時に目の前数百メートルの水面に電撃の柱が立った。ほんのわずかにとがった波頭に落ちたのだ。これくらい近いと、なにか乾いたものが耳元で破裂したような衝撃だった。
 ジョエルが僕を振りかえって、腹の底から笑いはじめた。僕も笑った。
「これにオチなくてヨカッタねー」
 ふたりで笑いころげる。
 あとで知ることになるが、僕らがレース中止、緊急避難の警告を無視して走りつづけたことで、本部の運営はかんかんになっていた。