2013年10月11日金曜日

移行

(C)2013 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author


   移行
              作:水城ゆう


私は木を見るように
あなたを見る
私は木をながめるように
自分をながめる

あなたは揺れている
風に吹かれて木が揺れるように
ときにはゆったりと心地よさそうに
ときには激しく嵐にもまれるように
私もそれを見て
ともに揺れる

灯台のてっぺんをすれすれにかすめて
戦闘機がやってきたとき
臆病な私は
闇夜を飛ぶ蝙蝠のように
ひらひらと逃げまどった

巨大な建屋が水素爆発を起こして
きのこ雲を吹きあげたとき
無責任な私は
死んだ蛇を振りまわす子どものように
きいきいと叫び声をあげた

それをあなたも見ていた

黒々とした巨大な波が壁のように押しよせてきたとき
あなたは幼い子の手を引いて丘の上をめざした
重機で築きあげた長大な岸壁が
豆腐をくずすみたいにあっけなく崩壊するのを見た

ラムネ壜のビー玉は
ビー玉ではなくて
本当はエー玉というんだよ
そんなささいな日常が一瞬にうしなわれて
瓦礫と放射性物質の山におおわれる

あなたの命は
大きな物語のなかに置かれているかもしれないけれど
あなたはもちろん
そんなことを望んではいない
私も望んではいない
あなたも私もささやかな物語を生きたいだけなのだ
それはささやかだけれど
美しい物語で
だれもがお互いを尊重し
しずかに愛しあっている

ひと粒のどんぐりが道ばたに落ちている
だれかがそれを見つけてつまみあげ
ポケットにいれる
しばらくしてどんぐりはポケットから取りだされ
土に埋められる
水分をふくんで
どんぐりはぷっくりとふくれ
皮をやぶって芽を出す
土から顔を出した芽は
光をあびて葉をひろげる
葉は風に揺れ
雨を浴び
光合成で二酸化炭素から炭素を取りだし
かわりに酸素を大気に放つ
どんぐりは風と光を浴びながら
樹木へと成長していく
それがあなただ

あなたは忘れてはいない
ファーストフードチェーン店でできあいのハンバーグをいつも食べなくても
ステーキ専門店で肉汁したたる焼いた牛を食べなくても
隣の畑で採れた季節の野菜と
私が作ったあたたかなスープをいただけば
それだけで充分に幸せであることを

あなたは思いだす
何リットルもの巨大エンジンを積んだ自動車を乗り回さなくても
冷え性になったり風邪をひきそうになるほどエアコンを回さなくても
私と連れだって自転車をこぎ
ベランダに打ち水をしてうちわをパタパタやれば
それなりに充分に楽しいことを

鉄とコンクリートでかためられた巨大な建造物はもういらない
木と土でできた古い家を補修しよう
マンションのために巨木を切り倒すのはもうやめよう
木々に巣箱をかけ鳥たちを呼びもどそう
原子力発電所を動かすのはもうやめよう
不便を楽しむ生活をしよう

あなたは朝
太陽とともに目覚める
日を浴び
酸素と二酸化炭素を交換し
活力を感じて
あたらしい一日に歩みだす
あなたは夜
夜の暗さを楽しむ
照明を落とし
暖かいくぼみに横たわり
休息の祈りをささげ
回復のために
眠りにつく

灯台のてっぺんをすれすれにかすめて
戦闘機がやってきたとき
臆病な私は
闇夜を飛ぶ蝙蝠のように
ひらひらと逃げまどった
そんな夜が二度と来ないことを
私とあなた以外のだれが祈っているだろうか
私とあなたの祈りがつながるように
夜の祈りが人々にとどくことを願う
政治家に
資本家に
社長に
株主に
官僚に
武器メーカーに

巨大な建屋が水素爆発を起こして
きのこ雲を吹きあげたとき
無責任な私は
死んだ蛇を振りまわす子どものように
きいきいと叫び声をあげた
そんな朝が二度と来ないことを
あなたと私以外のだれが祈っているだろうか
あなたと私の祈りがとどくように
朝の祈りが彼らにとどくことを願う

木を植える人がいる
種をまく人がいる
作物を育てる人がいる
靴を修理する人がいる
服を縫う人がいる
野菜を売る人がいる
年寄りが子どもたちに教える
子どもたちが年寄りの手を引く
自転車が通りすぎる
挨拶がかわされる
味噌と醤油が貸し借りされる
病気の人に寄り添う猫がいる
風が木々の葉を揺らして通りすぎていく
太陽と星々のかがやきが人々に安心をもたらす

笑顔のあなたがそこにいる
風に揺れる樹木のように
そこにいるあなたを
私は見ている
そういう街に私は住みたい

2013年7月26日金曜日

見えますか、私?

(C)2013 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

   見えますか、私?
                            作・水城ゆう


 なにかの物音で目がさめた。
 ぐっすり眠っていたように思う。前の日、思い出せないが、なにか大変なことがあってとても身体が疲れていた。夢も見ないで眠りこんでいた。
 身体は疲れていたけれど、意識ははっきりしていた。なんの物音だったのかと耳をすましていると、また聞こえた。ススーという物がこすれたり移動したりする音、カタンという小さな音。
 横になったまま音がしたほうに目をこらしてみる。暗くてよく見えない。なんだろう、だれかいるのだろうか。でも、そんな気配はない。ひとり暮らしのこの部屋にだれかがはいってきたらすぐにわかるはずだし、たしかにドアはロックしてある。
 ネズミだろうか。だとしたらそれはそれで怖い。私はゴキブリもネズミもクモも嫌い。
 何時ごろだろう。夜明けまでにはまだありそうだ。
 ベッドの横のカーテンを少しあけてみた。街灯の明かりが差しこんできて、部屋のようすがぼんやりとわかった。
 音がしたほうに目をこらす。そちらには衣類を入れた低いたんすがあり、上にはぬいぐるみや写真などの置物が立ててある。
 じっと見ていたが、なにも起こらない。
 もう一度寝直そうと、カーテンを閉めかけたそのとき、視線をはずしかけた目のすみでなにかが動いた。
 たんすの上のフォトフレームのひとつが倒れて伏せた形になっていた。それがすーっとまるでだれかの見えない手がそうしたみたいに持ちあがり、立ったのだ。
 私はあやうく悲鳴をあげかけた。

 その日から不気味なことが次々に起きはじめた。
 机にすわって本を読んでいると、開けてあったカーテンがすーっと動いて閉まった。めくれていたベッドカバーがぺろりと元にもどった。ならんでいる本の順番が勝手にならびかえられた。
 それが起こるのは夜だけではなかった。休日に昼間に部屋にいるときにも、現象が起こった。
 私の頭に浮かんだのは、古い映画のシーンだった。「ポルターガイスト」というタイトルのその映画では、家具やおもちゃが人の手も触れていないのに空中を飛びかう恐ろしい光景が繰りひろげられていた。それは悪霊のしわざなのだった。
 悪霊? そんなものに思いあたることはない。だいたいこれまで何年かこの部屋に住んできて、一度も起こらなかったことだ。それとも、悪魔払いをしてもらったほうがいいのだろうか。それってだれに頼めばいいの?

 いまも私の目の前で不思議なことが起きている。
 机の上に置いたコップが動いている。飲みかけの水が半分はいっている。それが横に動いた。机の端から床に落ちる、と思ったら、すーっと持ちあがった。
 空中を横に移動していく。キッチンのあるほうに浮遊していく。
 コップが流しのなかに着陸し、それからゆっくりと蛇口がひねられて水が出るのを見て、私はついにこらえていた悲鳴をほとばしらせた。

 気を失っていたのかもしれない。どのくらいの時間がたったのか、気がつくと人の声がしていた。
「あの子、本当に不憫《ふびん》。結婚式ももうすぐだったのに。宏彦《ひろひこ》さんには気の毒なことをしました」
 ママの声だった。でも、声のするほうにはだれもいない。空耳《そらみみ》?
「おれもくやしいですけど、運転手も謝罪してるし、誠実な人みたいだから。それよりお母さんこそ体調とか大丈夫ですか?」
 聞いたことのある男の声だった。宏彦さん? だれだっけ? その声はなんだかとても懐かしい感じがする。
「あの子が事故で亡くなってもうすぐ四十九日《しじゅうくにち》ね。でもまだこの部屋にいるような気がするのよ。だから時々こうやってここに来てみるの。あの子のことを感じたくて……」
 ママ、わたし、ここにいるよ。なんでママが見えないの? ママも私のことが見えないの?
 どうしてなの? 事故ってなに? 私、どうなったの?
 ひょっとして、私……死んじゃってるの? だからママのことが見えないの?

 自分が生きているか死んでいるか、どうやったら確かめられるんだろう。
 いまここにいる私、こうやってみなさんに話をしている私。
 生きているの? あなたたちには私が見えているの?
 私にはあなたたちのことが見えていない……

2013年3月28日木曜日

子どものころの七つの話「七 砂場の糞の話」

(C)2013 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

  子どものころの七つの話「七 砂場の糞の話」
                            作・水城ゆう


 男の子が多いときは山に行ったり河で遊んだりしたが、女の子と遊ぶときは家のなかか近所のことが多かった。
 隣の家はハタ屋で、年中休みなくガシャコンガシャコンと機織りの音がひびいていた。そこの娘は私と同い歳で、よくいっしょに遊んだ。うちに来て、母の作った焼きリンゴを一緒に食べたり、庭でままごとをしたりした。
 ある日、近所の砂場のようなところで遊んでいた。堤防の下の空き地のようなところで、そんなところにわざわざ砂場が作ってあるはずもなく、たぶんたまたま砂地がそこにあって、子どもの砂遊びの場所になっていたということだったのだろう。
 春の暖かい日で、堤防の土手に生えているしだれ柳の新緑が砂場の上をはいていて、気持ちがよかった。私とハタ屋の娘は、その下で砂でなにかを作ってあそんでいた。
 私の指がなにか細長い、やや柔らかい感触のものをさぐりあてた。なんだろうと思って、つまんで見たが、砂にまみれてそれがなんなのかよくわからない。指で押しつぶすと、簡単にぐにゃりとつぶれてしまった。
 ふと私は思いあたり、それを放りだすと、指を鼻に持っていった。
 強烈な臭気を感じ、私はあわてて家に走りもどった。洗面所で手を洗い、指のにおいをかいだ。においはまだ消えていなかった。砂場の物体は犬のものか猫のものかわからないが、動物の糞にちがいなかった。
 粉石鹸を指にまぶし、ごしごしとこすり、なんどもなんども洗った。においはなかなか消えなかった。
 その日は風呂にはいったのに、風呂からあがってもにおいはこびりついていた。翌日もにおいは消えなかった。何日もにおいは消えなかった。その指についたにおいはいま現在にいたるまで消えていない。

子どものころの七つの話「六 夏の話」

(C)2013 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

  子どものころの七つの話「六 夏の話」
                            作・水城ゆう


 子どものころに住んでいた家の庭には小さな池があり、井戸の水が引かれていた。井戸の水は年中ほぼ一定の水温で、夏は冷たく、冬は暖かく感じた。
 夏には畑でとれたもぎたてのトマトや西瓜《すいか》がよく池に浮かんでいた。とくにトマトは毎日のようにおやつがわりに食べていた。よく冷えた丸のままのトマトにかぶりついて、汁をしたたらせながら食べる。いまのトマトとちがって青臭く、酸っぱかったが、凝縮された味と冷たさが贅沢だった。
 夜になると蚊帳《かや》をつって、そのなかで眠った。
 縁側をあけはなした座敷に蚊帳をつっていたのは父のアイディアだったろうか。風がとおって、もちろんエアコンなどというものはなかったが、涼しくて気持ちよかった。そもそもいまほど暑くなかったような気がする。夜になっても三十度を超えているなどという日はなかったと思う。
 庭にむかってあけはなしてあるので、蚊はもちろん、いろいろな虫が舞いこんでくる。うちは河と山が近かったので、蛍もたくさんやってきた。昼間に遊びすぎて疲れはて、眠くて朦朧《もうろう》となった眼に、蚊帳の外を飛び交う蛍の光がうつっていたのは、ほとんど幻覚に近いような記憶として残っている。
 蚊や蛍のほかにも、蠅や蛾ももちろん飛んできた。蛾は電灯を消すとすぐにどこかに飛んでいってしまったが、蠅はなにが気にいったのか蚊帳のまわりをしばらくぶんぶん飛んでいたりしてうるさかった。
 カナブンやクツワムシが飛んでくることもあった。朝起きたら立派な角《つの》を持った雄《おす》のカブトムシが蚊帳にとまっていて喜んだこともあった。カスミ網に似ていたせいだろうか、雀《すずめ》やツグミが蚊帳に引っかかったこともあった。大きなカルガモとカワウが飛びこんできたときには、さすがにびっくりした。
 たぶんボスだろう、巨大なニホンザルが蚊帳に引っかかって暴れまくり、網をずたずたに引きさいて逃げていったときには、父も私もかんかんになってしまった。つかまえてこらしめてやろうとしたのだが、追いかける私たちをキッと見返した眼光が妙に鋭く、思わずひるんで足をとめてしまった。そのボス猿の口には、池から拾ったらしいトマトがくわえられているのが見えた。

子どものころの七つの話「五 蜂に刺された話」

(C)2013 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

  子どものころの七つの話「五 蜂に刺された話」
                            作・水城ゆう


 子どもら数人と山へ遊びに行った。私が子どものころは子どもたちは小さな子も大きな子も、まちまちの年齢の子が近隣でひとかたまりのグループを作って遊んでいた。山へ遊びに行くときも、大きな子が小さな子を引き連れる形で行くのだった。
 アケビかなにかを採りに行ったのだと思う。木によじのぼったり、薮をがさがさ歩いているうちに、たぶんうっかり蜂の巣があるところに踏みこんでしまったのだろう。私めがけて蜂が飛んできて、それを手で追い払おうとした。スズメバチのような大きな蜂ではなく、アシナガバチかなにかだった。気が立っている蜂に手首のあたりを刺されてしまった。
 たちまち真っ赤に腫れて泣き叫びたくなるほど痛かったが、とっさに大人から聞いた話を思いだした。蜂に刺されたときは小便をかけるといい、アンモニアが毒を消してくれる、というものだ。いまではその俗説は迷信であり、アンモニアが消毒どころかむしろ衛生的に問題があるのでやらないほうがいい、ということがわかっている。しかし、そのときはそう信じていたのだ。
 私はすぐにズボンをおろし、腫れた手首にむかって小便をかけた。信じられないことに、痛みはたちまち消え、腫れもおさまってしまったのだ。まぎれもない真実の記憶として、私のなかにそのことが残っている。
 ついでに小便はさまざまなものを消してくれる効果があることを私は発見した。あるとき、神社で遊んでいると、犬の糞を発見した。なにげなく私はそれに小便をかけてみた。するとたちまち犬の糞が跡形もなく消えてしまったのだ。
 その後、私はいろいろなものを小便で消した。親に見せたくない悪い点数の答案用紙、壊れてしまったおもちゃ、うっかり寝小便をしてしまったときも自分の小便でそれを消したりもした。

子どものころの七つの話「四 ミミズの話」

(C)2013 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

  子どものころの七つの話「四 ミミズの話」
                            作・水城ゆう


 私がもうすこし大きくなって、父とではなくひとりで釣りにでかけるようになったころの話だ。たぶん小学校の高学年、五年生か六年生だったと思う。
 父と釣りに行くときはそのへんの畑をほじくりかえしてとったドバミミズを持って行ったが、ひとりで行くときは釣果をあげるためにミミズの品質にこだわった。私の釣りのねらいは鮒で、近所の河川や沼にはヘラブナではなくマブナしかいなかった。そしてマブナはシマミミズが最高の釣り餌なのだった。
 私はシマミミズが大量にとれる場所を知っていた。それは祖父が経営する自動車修理工場の裏手にある牛舎の脇で、牛の糞を堆肥にするために大量に積みあげてあった。かなりの臭《にお》いだったが(よく近所から苦情が出なかったものだ。いや出ていたのかもしれない)、臭《くさ》さもなんのその、良質の釣り餌確保のためなら牛の糞の臭《にお》いなどなんでもなかった。
 牛糞の山を少し掘ると、シマミミズがぎっしりとからみあうようにうごめいていて、ものの数分で持参した味の素の空き缶がいっぱいになった。つやつやと太った最高のシマミミズで、私はそれで何百匹マブナを釣ったことか知れない。
 中学三年生くらいのころ、授業が退屈で、体育の時間にサボって学校を抜けだしたことがある。その際、だれもいなくなった教室の女生徒の机のなかから弁当箱を盗みだして、学校の外で食べてしまった。まだ昼休み前の時間だったのだ。
 空っぽになった弁当箱に、私はなにを思ったのか、牛舎の脇に行き、例のシマミミズをたくさん詰めこんで蓋をし、ハンカチでしっかりとくるんで女生徒の机のなかにもどしておいた。
 そのあとどうなったか。いまだと完全な犯罪行為であり(当時でもそうか)、私は少年院送りになっていたことだろう。

子どものころの七つの話「三 父と釣りに出かけた話」

(C)2013 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

  子どものころの七つの話「三 父と釣りに出かけた話」
                            作・水城ゆう


 子どものころに住んでいた家の前には大河が流れていて、それは堤防でせき止められているのだが、昔のなごりだろう、堤防の外側にも小さな支流や沼のようなものがたくさんあった。
 家の近所にも池というか沼というか水たまりのようなものがあって、それは「どんぶ」と呼ばれていた。魚釣りに最適な水場だった。
 高校の教員をしていた父は休みの日になると、よく私を連れてどんぶに魚釣りに出かけた。ホンダのカブに乗り、私はうしろの荷台ではなく父の前の股の間にハンドルにしがみつくようにしてまたがって、二人乗りで出かけた。釣り道具はおもちゃのような竹竿と簡単なしかけ。餌はそのへんの畑をほじくってつかまえたミミズ。
 どんぶにつくと、ふたりならんでどんぶのふちにしゃがみ、草むらの切れ目から竿を出して釣りをはじめる。釣りといっても、釣れるのはほとんどがちっぽけな鮒《ふな》で、たまにハヤか鯰《まなず》が釣れることもあった。鯰が釣れると大変で、鯰は鰓《えら》のところにトゲみたいなぎざぎざしたものがあって、うっかりすると指を切ったり怪我をする。そして鯰は仕掛けを深く飲みこんでしまう癖があるので、針をはずすのもむずかしい。そういうときは仕掛けをあきらめて糸を切らなければならない。
 その日は釣りをはじめてもあたりがまったくなく、数時間がたっても浮きはぴくりとも動かなかった。よく晴れた、暑い日だったように思う。父も私もダレはじめていて、もうそろそろ家に帰ろうかとかんがえていた。
 そして実際に帰るために父が腰を浮かしかけたとき、いきなり浮きがシュポッと水中に消えた。父があわてて竿を取り、思いきりしゃくりあげた。
 竿がグンとしなり、糸がさらに引きこまれた。
「お、お、えけぇぞ(大きいぞ)!」
 父が興奮ぎみに叫び、竿をさらに立てて獲物を引きよせようとした。しかし、まったく獲物はあがってこず、糸を切られないように父はどんぶのへりを、草をばさばさ蹴倒しながら右往左往した。
 どのくらいたったろうか、私には数十分にも思えたが、なんとか糸を切られないようにだましすかしのやりとりがあったあと、獲物がようやくこちらに近づいてきた。父がひときわ大きく竿をしゃくりあげると、いきなりどんぶのなかにじゃぶんと踏みこんでいった。水中に両腕を突っこみ、獲物をとらえてザバアッとすくいあげた。
 大きな魚が岸へと投げあげられた。見たところ、一メートルはあろうかという鯉だった。しばらくビチビチとはねていたが、すぐにおとなしくなった。
 父はその日、いつものように金魚すくいのちっぽけなビニール袋しか持ってきていなかった。それを鯉の口にかぶせ、カブの荷台に鯉をくくりつけて、家路についた。
 その巨大鯉はしばらく私の家の小さな池でゆうゆうと泳いでいたが、台風で堤防が決壊してあたり一帯が浸水したとき、流れていっていなくなってしまった。いまごろ、どこでどうしているのだろう。生きていればもう五十歳以上だが、なんとなくまだ生きてそのあたりを仕切っているような気がしている。

子どものころの七つの話「二 川に流された妹の話」

(C)2013 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

  子どものころの七つの話「二 川に流された妹の話」
                            作・水城ゆう


 うちの前には大きな河が流れていて、うちは堤防の下に建っていた。
 いまでこそその河は上流にダムができて、水流はちょろちょろと少なくなってしまい、しかも生活排水が周辺から流れこむものだからどぶ川のようになってしまったが、私が子どものころはとうとうと青黒い水がながれる立派な河だった。
 しかし、いまから書く妹が流された話は、その河のことではない。河の堤防の下に建っている私の家の前に、小さな用水路のような川が流れていた。これはたぶん、堤防を作るときに大河《おおかわ》の支流を残して、うまく生活用水として使えるように整備したものだろう。幅が一メートルくらいで、石垣を積んでふちがくずれないようにしてあった。
 ところどころに石垣をえぐって石段が作られていて、そこで洗濯をしたり水をくんだりできるようになっていた。
 小さな川とはいえ、水はしっかりと流れていて、深さはたぶん三、四〇センチはあったろう。私はよくその川に裸足ではいって、カワニナやトンボのヤゴをつかまえたりして遊んでいた。
 妹は私と四歳はなれていて、それはたぶん私が五歳くらいのときだったから、まだ歩きはじめて間もないころの事件だった。私がその川べりで遊んでいると、突然母が聞いたこともないような悲鳴をあげた。なにごとかと見ると、
「もと子が、もと子が流されてる!」
 と、川のへりで半狂乱になっている。あわてて駆けつけると、たしかに私の妹が川に沈んで、仰向きになったまま流されている。水面下に見える妹の顔はなにごともないかのように目も口もあいたまま、空を見上げている。
 母が川べりにはいつくばって妹を水の下から引っ張りあげようとしたが、妹の身体は川をまたぐ小さな橋の下にくぐりはいってしまった。
 騒ぎを聞きつけて、たまたま近くにいた私の叔父、つまり母の弟がかけつけてきた。叔父は二十歳すぎの頑健な若者で、さすがに機敏だった。そのままずぶりと川に飛びこむと、流れのなかに立って、橋の下から出てきた妹の身体をすぐにざっぷりと引っぱりあげた。大量の水しぶきをまき散らしながら、妹は川べりへ引きあげられた。
 妹は息をしていなかった。意識があるのかどうか、たっぷりと水をのんでいることはまちがいない。
 叔父が妹の足首をつかんでさかさまにぶらさげた。そして上下に振りながら背中をばんばんと叩きはじめた。
 すぐに妹の口から大量の水が吐きだされ、やがて咳きこみながら弱々しい泣き声が聞こえてきた。ああよかった、生き返ったんだな、と私は思った。
 その事件は私にも衝撃的で、とくに目と口をあいたまま仰向けに流されていく妹の顔は印象的だった。そして数日後、私も川に流されてみることにした。大河で赤ん坊のころから遊んでいたせいで、私は水遊びが好きだった。水がこわいということもない。石段から川にはいると、息をとめて流れに身体を乗せてみた。
 流れは意外に速く、私の身体はあっという間に運ばれていった。顔をあげると、目の前に黒く口をあけた暗渠《あんきょ》の入口が見えた。そういえば、川は私の家の前からすこし行ったところで暗渠のなかへと消えていて、その先がどこにつながっているのか知らないのだった。
 あわてて川から出ようとしたが、水流は強く、立ちあがることができなかった。私はそのまま真っ暗な暗渠のなかへと呑みこまれてしまった。
 そのあとのことの記憶はいまだにない。

子どものころの七つの話「一 風呂の焚きつけの薪《たきぎ》の話」

(C)2013 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

  子どものころの七つの話「一 風呂の焚きつけの薪《たきぎ》の話」
                            作・水城ゆう


 私が小学校にあがる前まで住んでいた家の風呂は、薪で炊いていたことを覚えている。
 風呂の外に焚き口があって、そこに薪を入れて火を焚き、お湯をわかしていた。なにしろ幼いころのことなので詳細は覚えていないが、ガスや、もちろん現在のように自動の湯沸かし器で焚いていたのではなかった。
 いまになって気になるのは、風呂を焚くための薪はどうやって調達していたのか、ということだ。
 そのことを、先日、母に訊いてみた。
 母は肺ガンの手術を二度に渡って受けたばかりで、右肺も左肺も、その一部を切除した。帰省するたびに話を聞いてやるが、とにかく自分の病気の話ばかりして、自分がいかにつらい大変な思いをしたのかを息子(私だが)に訊いてもらいたい様子だった。私は自分でも自覚しているが、けっしてよい息子ではなく、これまで心配ばかりかけさせてきたので、せめていまは母の話を聞いてやりたいと思うのだが、際限のない母の肺ガンの話はうんざりしてしまうことがあるのが正直なところだ。
 肺ガンの話が一段落ついたときに、昔の風呂の話を訊いてみた。とくに薪の話だ。
「薪で風呂を焚いてたよね」
「うん」
「外に焚き口があって、そこに薪をくべて焚いてたよね」
「うん」
「薪はどうやって調達してたの? 親父が薪割りしてた姿なんて見たことないけど」
 私の父は十年前に亡くなっている。
「もらってた」
「だれから」
「地主から」
 聞けばこういうことだったらしい。
 高校の教師をしていた父はまだ若いころにがんばって家を建てることにした。とはいえ、土地まで買う資金はなかったらしく、土地を借りていわゆる上物《うわもの》だけを建てた。私はその家で生まれた(ほんとは近くの病院だが)。
 家が建っていたのは大きな河の堤防の下で、背後には山が迫っていた。低い山だが、それでも幼い私にはそびえたっているように思え、夕方には早々と日が沈むのがいやだった。
 その山か、あるいはそのつづきの山なのか、とにかく地主は山も所有していて、木こりの仕事もしていた。農家なのだが、農作業のほかにも山に木を植えたり、伐り出したり、山仕事もしていた。山は手入れをしないと荒れる。下刈りしたり、間伐するのだが、そのたびに薪や焚き付けが大量にできる。それを時々束にして、母にくれたらしい。
 母はまだ二十代中頃の初々しい新妻で、近所の人からなにかと親切にしてもらったとすこし自慢そうにいった。
 家の軒下には大量の薪がいつも積んであって、古いものから風呂の炊きつけに使う。新しい生木は湿っていて燃えにくいからだ。時々私も焚きつけを手伝った。
 藁でくくった薪の束をほどくと、なかからいろいろな生き物が出てきた。一番多いのは蜘蛛。それから蓑虫。カマキリの卵が産みつけられていることもあった。春先でちょうど孵化のタイミングと合ったのだろう、束のあいだから大量のミニカマキリが湧いて出てきたときには驚いた。たぶん三百匹くらいはいただろう。薪をほどいた私の腕やら胸やら顔やらにわらわらとはいのぼってきて、あげくのはては髪の毛のなかにはいりこんだり、鼻の穴にもぐりこんだりしてきたので、くしゃみが止まらなくて困った。
 ほかにもトカゲやら蛇やら、百舌鳥《もず》や山雀《やまがら》の巣が出てくることもあった。巣のなかには卵や孵化したての赤裸《あかはだか》のヒナがいて、それを蛇が丸呑みにしようとしていることもあった。