2009年11月30日月曜日

When It Rains

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #11 -----

  「When It Rains」 水城雄


 こちらでは長雨が続いておりますが、そちらはいかがおすごしですか?
 満州はもう寒いのではないかとお父さまがおっしゃっておられましたが、お身体にさわりはありませんか?
 雨のせいで、戦地からのあなたのお便りは、インクの字がにじんで読みづろうございました。でも、読めることには読めました。ハルピンよりも遠くに行かれてしまったとのこと、とても心配です。でも、これもお国のためですもの、いたしかたのないことです。
 昭三は少し風邪をひいてしまいました。心配にはあたりません。鼻を出していますが、熱はもうすっかり下がりました。しばらく寝かせてありましたが、下の民子が心配顔で何度ものぞきこんで「にーちゃんダイジョブ?」と問いかけるのはおもしろくもあり、かわいらしくもありでした。
 お腹の子は順調のようで、ときどきびっくりするほど強く蹴られます。きっと元気な男の子でしょう。あなたはもうひとり、男の子をほしがっておられましたしね。
 先日のわたくしの誕生日には、たいそうなものをお送りいただき、ありがとうございます。大切に使わせていただきます。ほんとうにうれしうございました。おかあさまからもきれいな飾り櫛をいただいてびっくりしました。みなさまからお気づかいいただいて、とても幸せです。
 わたくしも二十歳になりました。まだまだ知らないことばかりですが、あなたのお留守のあいだ、おとうさま、おかあさまといっしょにしっかりとお家と子どもたちをお守りしておりますので、あなたもどうぞお国のためにおおきにお働きくださいますよう。
 でも、お身体にはくれぐれも気をつけて。
 鉄砲が飛んできたら、どうぞお隠れになってくださいましね。

2009年11月29日日曜日

夜に聞くデッキの雨の音

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----- Another Side of the View #3 -----

  「夜に聞くデッキの雨の音」 水城雄


「雪になるんじゃないのか、この雨」
 ハッチを閉めながら樋口がいった。
「そんなにひどく降ってるのか?」
「いや、ひどくはないが、冷たい」
 なるほど、彼のオーバーコートはぐしょ濡れというほどでもない。
「寒いな」
「いまつけたばかりだからな。おれもついさっき、来たばかりなんだ」
 私はストーヴの調子をうかがった。古めかしいデザインの真鍮製のキャビンストーヴ。シューシューという音を立てて快調に燃えている。
 樋口が差しだした紙袋を受けとるために、それまで読んでいた本をテーブルに置いて私は立ちあがった。樋口はコートを脱ぎ、私の本を手に取ってから、すわった。
 ギャレーに立ち、樋口が持ってきた袋の中身を点検した。
 レタス、ブロッコリ、トマト、アボカド、ソーセージ、生ハム、フランスパンが一本。袋から取りだし、さっそく調理に取りかかった。
「これ、おもしろいのか?」
 私の本を目の前まで持ちあげ、樋口がたずねた。
「まだわからん。読みはじめたばかりなんだ」
 ブロッコリのためのお湯をわかす。
「たぶんおもしろくないな」
「なら、なぜ読んでる?」
「書店に山のように積んであると、気になってつい買っちまうんだ。読みはじめたら、最後まで読まないと損したみたいな気分になる」
「おまえらしいよ」
 レタスを軽く水洗いし、指でちぎってサラダボウルに投げこんだ。
 樋口はそのまま本を読みはじめたようだった。私は調理を続けた。
 彼が船に来るのはひさしぶりだ。雨が降らなければ午後からやってきて、軽くセーリングするつもりだった。が、昼すぎから雨が降りだした。雪に変わりそうなほど冷たい雨だ。風はさほどないが、船はゆったりと揺れ、マストにリギンの触れ合う音が聞こえてくる。ときおりスプレッダーからまとまって落ちてくる水滴が、デッキをにぎやかに叩いた。外はもうすっかり暗くなったようだ。
 ギャレーとキャビンストーブの火で、だいぶ暖かくなってきた。できあがった料理を、私はテーブルへ運んだ。レタスとブロッコリとトマトのサラダ、アボカドの生ハム添え、フライパンで焼いたソーセージ。
 氷を落としたグラスをふたつ用意してから樋口と向かいあわせにすわると、彼が酒をボトルラックから取りだした。バランタインの 17 年だった。ボトルの中身は半分ほど残っている。
 樋口がそれぞれのグラスにスコッチを満たした。
 私はグラスを持ちあげ、なみなみと注がれた酒をながめた。
「おまえの考えていることはわかるよ」
 樋口がいう。
「なにが?」
「めんどくさがらずに、少しずつ注げばいいのにと思ってるのが、顔に書いてある」
 私は苦笑いした。
「すこしずつ注いでまめに氷をかえたほうが、うまいんだよ」
「厨房長のいってることだから、まちがいはないだろうさ」
「でもまあ、きみの気持ちもわかるよ。おれも面倒なのは苦手だ」
「よくいうよ」
「本当だ。その証拠に、食料の買いだしはきみに押しつけてる」
 彼は笑った。その笑い声が、私は好きだ。この三週間というもの、彼はまるでその笑いかたを忘れていたみたいだった。
「もうひとつの考えていることもわかるぜ」
「もうひとつとは?」
「女房からまだ連絡がないのかどうか、気にしてるんだろう?」
 私はかたい皮のパンをバリバリと手でちぎり、バターを塗りつけた。彼は酒を口に含んだ。
「まあな。で、どうなんだ? まだ連絡はないのか?」
「あったさ」
「へえ。それはよかった」
「内容にもよるさ。うまいな、このソーセージ」
「それで?」
「もうもどる気はないとさ」
「なるほど」
 どういう言葉を彼に返せばいいのか、私にはわからなかった。ハーバーにもどってきた船でもあるのか、揺れが急に大きくなった。耳をすますと、雨の音にまじってエンジン音が聞こえた。
 ウイスキーのおかわりを彼が自分でグラスに注ぎ、私も自分の分を飲んだ。
 しばらくして、彼がいった。
「何年たつのかな」
「4年じゃないかな。おれがいまの仕事に変わってからすぐにきみは結婚したんだ
から」
「結婚の話じゃない。船の話だ」
「ああ……7年ぐらいたつんじゃないかな、きみとおれがいっしょに船を持つようになったのは。この船はまだ2年だが」
「そんなになるかな」
「なる」
「もう34だもんな、お互いに」
「今年は5だ」
「ああ」
 揺れはもうおさまり、近くの桟橋から人の声が聞こえてきた。こんな寒い雨の日にセーリングとは、まったくご苦労なことだ。
「皮肉なもんだな」
「なにが?」
「どう考えてもおまえのほうが結婚に向いてる」
「結婚に向き不向きもあるもんか」
「あるよ、そりゃあ。げんにおれは失敗した。おまえだったらどんな女とだってうまくやっていけるだろうさ。つまらん本を最後まできちんと読みとおすみたいにな。おれの女房とだってうまくやっていける。うちの女房なら亭主が料理なんか作ったりした日には泣いて喜ぶだろうな」
「まだ終わったと決まったわけじゃないだろう」
「気休めはいい。おまえらしくない」
「すまん」
 そのとき、まるで急に食欲がわいてきたかのように、樋口がガツガツと料理を食べはじめた。
 手づかみで押しこんだレタスをほおばったまま、彼がいった。
「明日はどうする?」
「雨はどうなんだろう」
「明日いっぱい降るそうだ。それにもっと冷えこむそうだ。が、風はたいしたことないらしい」
 キャビンストーヴは快調に燃えつづけてはいるが。
 私は答えた。
「スキッパーはきみだ。きみが決めてくれ」
 彼はしばらく考えていたが、やがてきっぱりといった。
「出航だ。雨が降ろうと、たとえ雪が降ろうとな」
 私はうなずいた。彼に決めろといったのは、私だ。
 ご苦労なことではあるが。

2009年11月28日土曜日

先生への手紙

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----- Jazz Story #29 -----

  「先生への手紙」 水城雄


 拝啓。
 山々もすっかり色づき、いつ雪が舞い降りはじめても不思議ではない季節になりましたが、先生はいかがおすごしでしょうか。
 わたしのほうはなんとか元気でやっております。
 長男がやがて二歳になります。生まれてすぐのころ、少しアトピーが出て心配しましたが、大事にはいたらず、いまは元気に家のなかを歩きまわっています。といっても、せまい家なのですけれど。
 都会の生活なので、子どもが生まれると思いもかけない不自由がいろいろと出てきます。家がせまいこともそうですし、マンションの階段の登りおりもそうです。
 田舎では階段といえば、家のなかにあるものだけでしたよね。学校のギシギシいう木の階段もなつかしいです。でも、学校はもうあたらしい鉄筋コンクリートのものに建てかえられてしまったんですよね。
 あの階段を騒々しく駆けおりて、先生にしかられたことを思い出します。いまとなっては先生のおやさしがわかりますが、あの頃は厳しさばかりが身にしみたものです。
 子どもを抱いて冷たいコンクリートの階段を登りおりしていると、ふとそんなことを思い出したりしてしまいます。

 先生にこんなことを書くのはご迷惑かもしれませんが、書きます。
 子どもが生まれてから、わたしたち夫婦はあまりうまくいっていません。彼は仕事が忙しく、あまり子どものことをかまってくれません。そしてわたしのほうも子ども中心になってしまって、ついつい彼のことをおろそかにしてしまうことが多いのです。
 ささいなすれ違いでも、それが重なっていくと、夫婦の気持ちなんて離れていってしまうものなんですね。
 とてもおきれいだった先生の奥様は、いまもお元気でいらっしゃいますか?
わたしたち女子学生ばかりが何人か、先生のお宅にお邪魔したとき、やわらかい笑顔をお迎えくださいました。そしておいしい和菓子をごちそうになりました。
 先生は、お好きだった夏目漱石の小説の話をしてくださいました。覚えていらっしゃいますか?
 あのころのことが、わたしにはひどくなつかしいです。あのころにもどりたいと思うことがよくあります。でも、もどることはできないんですよね。この子も大きくなっていきますし、わたしたち夫婦も年をとっていきます。
 先生にお会いしたいです。でも、もう先生はいらっしゃいません。
 きっと暖かな笑顔を浮かべて、天国からわたしたちを見守ってくださっているのでしょうか。

2009年11月27日金曜日

The Green Hours

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----- Jazz Story #29 -----

  「The Green Hours」 水城雄


 拝啓。
 ひと雨ごとに秋深まる今日このごろですが、きみはどうしていますか。
 ぼくはなんとか元気でやっています。
 この季節になると、むかし痛めた膝がシクシクと痛むことがあるのだけれど、今年は割合調子がよくて、たすかってます。きっと、定期検診で血糖値を注意され、去年からスイミングを始めたことがよかったのかもしれません。
 毎朝、がんばって早起きして、早朝のプールにかよっているのです。だいたい朝の八時三十分くらいがすいているようです。休みながらゆっくりと、何度もプールを行ったりきたりしています。
 昔のぐうたらなぼくしか知らないきみには、きっと想像もできないことでしょう。
 がらんとひと気のないプールで泳いでいると、きみのことを思いだします。きみは海が好きでしたね。休みになると、いつもぼくを海に誘いましたね。
 ぼくも海は大好きだったから、誘われのはとてもうれしかった。
 取り立ての二輪免許に、買ったばかりの中古のバイク。それにまたがって、ふたりで海に出かけました。
 ぼくの身体に両手をまわし、しっかりとしがみついてくるきみのやわらかな胸の感触を、ぼくはいまもはっきりと思いだすことができます。

 海に着くと、ぼくは竿を組みたて、しかけをつける。
 針の先には、途中で買ってきた餌のゴカイ。キス釣りのしかけで、実際には釣れたことなんかないけれど、砂浜から海に向かってしかけを遠くまで投げいれる。
 その横で、きみは背中にしょってきた折り畳み式の椅子を組み立て、砂浜に広げる。
 しかけを投げこむと、ぼくはきみと砂浜に並んで座った。
 海からの潮風が気持ちよかった。
 ときには折り畳み椅子ではなく、シートを敷いて寝転がることもあった。
 きみはいつも手をのばしてきて、ぼくと手をつなぎたがった。ぼくはきみの手を握りかえし、そのまま眠ってしまうこともあった。
 秋の朝、膝が痛まないことに感謝しながら、ぼくはプールでそんなことを思いだしています。
 きみもときには、ぼくのことを思いだすことがありますか? きみがぼくを思いだすとしたら、どんなときなのでしょうか。
 きみはもう結婚しましたか? 子どもはいますか?
 きみはいま、どこでどうしているのでしょうか。

2009年11月25日水曜日

夏の終わり、遊覧船に乗る

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----- Urban Cruising #8 -----

  「夏の終わり、遊覧船に乗る」 水城雄


 電話のあとで車に乗ると、ダッシュボードにきみが置き忘れたはっか入りのガムを見つけた。
 紙をやぶり、ガムを口にいれる。
 かみしめると、きみの唇の味がした。
 遊覧船に乗ろう、とぼくは思った。

 夏の終わりだというのに、遊覧船の乗り場はけっこう混んでいて、どこからか聞こえるスピーカーの声に、まず切符売り場で切符を買うように、と指示された。
 大人一枚800円なり、の切符を買うと、断崖のつらなる海岸線の風景をバックに、白い船長の帽子をかぶった若い女性の写真が刷りこんであった。
 そういえば、この遊覧船は女船長による名調子が売りものだったのだ。
 しかし、この切符は、何年前の写真だろうか。
 切符売り場の横手には、年老いたアヒルが暑さにたえかねたようにうずくまっている。
 テントの下のベンチで待っていると、やがて乗船案内が流れてきた。テントの奥からは、炭火でイカを焼くにおいがただよってくる。
 20人ほどの乗客といっしょに、桟橋に向かった。
 家族連れが多い。中年の夫婦と小学生ぐらいの子供。子供たちはまっ黒に日に焼け、すこし型のくずれた麦わら帽子をひたいの上にずりあげている。夏休みの宿題はもう終わったのだろうか。
 おじいちゃんやおばあちゃんをまじえた家族もいる。足の悪い老人を、おばあさんが手を引いて、船に乗せている。
 頭上のスピーカーが鳴り、女性の声が告げた。
「前から順におつめください」
 他の乗客をやりすごし、いちばんうしろの席にすわった。
 板張りの甲板の感触が、スニーカーごしに心地いい。
 錆びた手すりに腕をあずけ、沖に目をやると、燈台をかすめるようにしてカモメが飛ぶ姿が見えた。
 ふいにぼくはきみからの電話のことを考え、悲しみをおぼえる。

 遊覧船はゆっくりと桟橋をはなれ、港の出口に向かった。
 頭上のスピーカーからは、流れていく風景を説明する女船長の声がとぎれなく聞こえている。
 きみはいった。
「あなたとはもう会わないわ」
 電話の声は、なんだかくぐもっていた。ひどく遠いところからかかってきた電話みたいだった。そして実際それは、ひどく遠いところからかかってきていたんだ。
「はなれているとだめなのよ、あたし」
 ときみはいう。そして、ごめんなさい、とつけ加えた。
 港を出ると、わずかなうねりが船をとらえた。つい数日前、通過したばかりの台風の名残りだろうか。
 ぼくはちょっとのあいだ目を閉じ、うねりに身をまかせてみる。
 目を閉じても、かすかにけむったような感じのする水平線が、まぶたの裏に残っている。
 ふたたび目をあけたとき、左手をご覧ください、とスピーカーがいった。
 左手には切り立った断崖がそびえている。断崖は水面から空に向かってほぼ垂直にのび、切り落としたような頂上には風でねじくれた松の木を乗せている。
 世界でもめずらしい断層がここでは見られるのだ、と女船長が説明している。学術的にもたいそう貴重なものなのです……
 受話器を持ったまま、ぼくはなにもいうことができなかった。ただきみの言葉を聞いているだけだった。
 最後にやっと、
「いつもの場所で待っているよ」
 それだけ伝えることができた。
 きみが帰ってくると、いつも待ち合わせる喫茶店。
「行かないわよ、あたし」
「いいんだ。待っているのはぼくの勝手だから」
 気持ちが悪い、とひとりの少女が泣き顔になっている。少女の背中を、母親がそっとさすってやっている。
 沖に出るほど、うねりは大きくなっているようだ。

 車の中には熱気が立ちこめていた。
 エンジンをかけ、エアコンを最強にする。
 夏も終わりだ。車内の空気の温度がさがるのに、思ったほど時間はかからなかった。
 エアコンを弱にもどすと、車内は静かになった。
 ダッシュボードのガムは、熱気で柔らかくなっていた。包み紙をとろうとしたが、ガムにくっついてしまっていた。無理にはがせば、紙がやぶれてしまうだろう。
 つい数日前も、きみをこの助手席に乗せていたんだった。やはり今日のように暑い日だったけど、あの日のほうが秋からは遠かった。
 仕事が軌道に乗り、きみは出かけることが多くなってきた。こちらですごすよりも、都会ですごす時間のほうが多くなってきたようだ。
 このままぼくたちははなれていってしまうのだろうか。
 車を走らせていくと、日に焼けた高校生が、夏服を着て歩いているのが見えた。彼女たちも一か月もたたないうちに、秋の服を身にまといはじめる。
 車を神社のわきの木陰に置き、喫茶店まで歩くことにした。
 境内をつっきる。敷石の上にはじけた爆竹が散らばっている。やしろの裏手にある栗の木は、小さな青い実をつけはじめている。
 ぼくはその喫茶店にはいった。
 なんだか、まだ身体にうねりの感触が残っているようだ。
 きみは、ここへはもう来ない、といった。ぼくはここへやってきた。
 どうだろうか。
 ぼくは待ってみることにするよ。
 きみはもうここへは来ないかもしれない。でも、ぼくは待つことにしたんだ。
 椅子に深く腰かけ、目をとじ、うねりの感触を思いだす。
 いつだって、夏は終わらせたくない。

2009年11月24日火曜日

Smile of You

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #4 -----

  「Smile of You」 水城雄


 窓からは雨上がりの湿った空気が流れこんでくる。
 花瓶のコスモスがかすかに揺れている。
 ぼくは怪我をして、車で運ばれ、手術を受けたばかりで、まだ麻酔がさめきっていなかった。
 ドアから入ってきたきみは「ひさしぶりね」といった。
 ほんとに。何年ぶりだろう。
 四年? それとも五年?
 五年ぶりに会うきみは、ずいぶんほっそりして見えた。きみはぼくの傍らにすわると、そっとぼくの腕に自分の手を置いた。
 どうしてる、ときみが訊いた。
 相変わらず。毎日、目先のことで走りまわってるよ。ちっとも楽にならない。でもそれなりに楽しくやってる。
 楽しくやってる? よかった。それを聞きたかったの。で、五年後の私はそっちにいるの?
 いるさ、もちろん。少しふっくらしちゃったけどね。
 そういう体質なのよ、しかたがないでしょう? そういって、きみは笑った。
 五年後にがんこになるよ、きみは。人のいうことを全然聞かない。
 そういう家系なのよ。わかって。
 もちろん、わかってる。文句をいってるんじゃない。そういうのも悪くないと思ってる。
 雲が動いて、秋の午後の日差しが病室に差しこんできた。
 もう行くわ、ときみがいう。そして立ちあがると、日差しのなかに白く光りながら、消えていく。
 ぼくはうとうとと麻酔の眠りのなかへもどっていった。

2009年11月23日月曜日

夜の音

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----- Another Side of the View #10 -----

  「夜の音」 水城雄


 スタート直後から雨が降りだした。
 いつもそうなのだが、雨が降りはじめると、すべての音が消えてしまったように感じる。船首が水を切る音、ハルに打ちあたる波の音、セールを流れる風の音、ステイが空気を切る音。人の声までがラジオのボリュームをしぼるようにスウッと遠くなり、消えてしまうように思える。クルーも雨とともに、口数が少なくなってしまう。
 闇もまた、雨とともに深まったように思えた。
 岸辺の明かりは、かすんでボウッとしか見えない。ひしめきあうようにして進んでいるレース参加艇のマスト灯も、薄暗くなり、しかしひとまわり大きく見えはじめる。
 やがて、ゆっくりと音がもどってきた。
 隣の艇のコクピットから、ひそひそという人の声が聞こえてくる。どうやら、スピネーカーをあげるかどうかの相談をしているらしい。
 風はきわめて弱い。スタート時、クローズホールドだった風向が、クローズ・リーチぐらいに落ちている。
「スピン、あげるか」
 スキッパーの木野はボソリとつぶやいた。
「いや……」
 森山がためらいがちにいった。
「この風ですからね。それに雨もある」
 若いクルーふたり――星と小木曽――はなにもいわない。いつも作戦は、木野と森山が決める。
「ジブ、もうすこし、出せ」
 木野はジブシートを握っている小木曽に、短く命じた。小木曽がすぐにシートを繰りだす。
「出しすぎ。引いて」
 小木曽があわててウインチを巻く。今度は巻きすぎだ。しかし、まあ、いいだろう。なにもかも自分の思いどおりにはいかない。小木曽もそのうち、おぼえてくれるだろう。
 星のほうは自分でかんがえて、ヒールを作るためにポートサイドのデッキ上にしゃがんでいる。
「隣、あげてますね」
 星にいわれ、首をねじって隣の艇を見た。なるほど、スピンをあげはじめている。ポールをあげるウインチの音が、水面を伝わってきた。さらに向こうの艇も、あげているようだ。こちら側にブローでもあるのだろうか。反対側の船団は、まだ一艇もあげていない。
 午後10時スタート、翌朝午前8時前後のゴール予定というナイトレースだった。参加艇はさすがに少なく、艇長会議では31杯と発表された。
 この風だと、しかし、午前8時にゴールすることなど不可能だ。
 できれば、午前10時には後片づけを終え、家にもどりたかったのだが。種子島宇宙センターの単身赴任から、ひさしぶりに帰宅したのだ。昨夜、出てくる前、小学校2年になる息子に、ラジコンのヘリコプターの組立てを手伝ってやる約束をしてきた。
 隣艇のスピンが、闇の中に白く浮かびあがった。デッキからの懐中電燈の光に照らされて、なまめかしく揺れている。風が弱く、不安定だ。ともすれば、タック側に裏風がはいりこみ、つぶれそうになっている。
 あげるか……その言葉を口の中にため、木野は森山のほうを見た。森山も隣艇の動きを注視している。
 並走していた隣艇が、スウッと前に出た。
 風が出てきたか?
「あげるぞ!」
 木野が全員に命令した。
 森山と星がフォアデッキに走った。小木曽がハッチをあけ、キャビンにもぐりこんだ。
 いうべき言葉を、いまは胸にためこみ、木野はフォアデッキのふたりの動きを注視した。
 森山がスピンポールをセットしている。
 小木曽がスピネーカーのセールバッグを持って、キャビンから出てきた。フォアデッキに走る。
 小木曽の動きはよかったが、ハッチを閉め忘れている。この雨なのだ。閉めなければキャビンがびしょ濡れになるのだ。
 わかってるってば……不意に声が聞こえ、木野はあたりを見まわした。いや、もちろん、頭の中から聞こえてきた声だ。小木曽の声であるはずがなかった。
 わかってるってば、あとでやろうと思ってたんだよ……息子の声だった。
 うるさいなあ、おとうさん。
 ティラー・エクステンションを持つ手のこぶしが、力をいれすぎて白くなっている。これでなぐられたとき、幼ない息子はどんな気分だったのか。
「ぐずぐずするな!」
 スピンがなかなかあがらない。
「なにをやってる?」
「アフター・ガイが……」
 星が言葉を途中でとめた。
「オーケイ! いいです!」
「あげるぞ!」
「はい!」
「よし、あげろ!」
 森山がスピン・ハリヤードを力まかせに引いた。
 スピネーカーがまっすぐにあがり、それからたよりなげに風をはらみはじめた。
「ガイ、引け! シート、引け!」
 つぶれる。
 ぐずぐずするな。レースなんだぞ。なんのためにやってんだ。
 木野は言葉を腹の中に押えこんだ。
 艇速が増した手応えがあった。やはりあげるべきだったのだ。できれば、他の艇の様子などうかがう前に、決断したかった。
 おれという男は……
 木野は奥歯をかみしめた。
 フォアデッキでは、小木曽がジブシートの取りこみを終えたところだった。
 コクピットにもどってきた小木曽に、いった。
「ハッチをあけっぱなしにするな。雨が降ってるのがわからんのか。中がびしょ濡れになっちまうだろう。雨のときは、出入りするたびにハッチを閉めるんだ。わかったか」
「はい、すんません」
 小木曽がこたえ、身体をちぢめるようにしてコクピットにしゃがみこんだ。ちゃんとしたオイルスキンを持っていない彼は、ぐしょ濡れになっている。
 この調子で風が強まってくれれば、明朝は早めにゴールできるかもしれない。
 木野はさらに、なにかいおうと口を開きかけた。が、結局は口をむすんでしまった。
 この気持ちを伝えられる言葉など、彼には持ちあわせがなかったのだ。

2009年11月22日日曜日

Love Letters

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----- Jazz Story #28 -----

  「Love Letters」 水城雄


 この上ない秋晴れの日、私はパソコンに向かって、苦情処理のメールを書いている。
 お客さまからの苦情。深刻な訴え。
 苦情処理係として、ここは誠心誠意、対応しなければならない。対応を間違えると、会社に甚大な損害をあたえてしまうことになる。お客さまの苦情に対して誠意ある態度を見せ、お怒りを静めてさしあげるのが、私の仕事だ。その仕事に対してお給料をもらっているわけだから。
 だから、どんな苦情が来ようと、冷静に、適切に対応しなければならない。
 なんてことだろう。
 ときどき泣きたくなる。愚痴をこぼしたくなる。椅子を蹴って立ちあがり、パソコンの画面に上司の灰皿を叩きつけたくなる。ああそう、私の近くで無神経に煙草をふかしている上司の存在だって、私には苦痛なのだ。
 でも私はいつもニコニコ。
「おはようございます」
「お疲れさまです」
「あ、コピーですか。わかりました、すぐにやっておきます」
 わざわざメールをいただきありがとうございます。お客さまのご要望の件は、早急に社内で検討いたしまして、ご納得いただけるような対応を……
 秋の空はどこまでも澄みきり、晴れわたっている。

 急に冷えこんできた。私はコートを持ってこなかったことを後悔した。もうコートを着て歩いていてもおかしくはない季節なのだ。
 例によって残業。苦情の電話。一時間近くもねばられてしまった。私がおかしたミスではないのに。でも、人のミスを処理するのが、私の仕事。
 自社ビルの通用口を出ると、ビルの谷間を吹きぬける突風にスカートをあおられる。
 もちろんすでに日は落ちている。とっぷりと暮れている。
 なにか暖かいものがほしい。
 でも、部屋に帰ってもひとり。空気は冷えきっているだろう。エアコンが暖まるまでの時間が哀しい。
 どこかに寄ってから帰ろう。
 どこに寄ろう? マック? スタバ? ミスド?
 私はポケットから携帯電話を取りだした。だれかにかけてみようか。
 思い浮かんだ顔は、今年の春に結婚したばかりの同級生。半月ばかり前に、妊娠したのよとうれしそうな声でかかってきた。
 私は電話をポケットにもどす。
 そのとき、立っていたサンドイッチマンと目が合ってしまった。もうサンタクロースの衣装を着こみ、新しいキャバレーの宣伝看板をさげ、四角い格好で立っている。
「気をつけて帰んな、お嬢ちゃん」
 サンドイッチマンが白い息を吐きながら、いった。

2009年11月21日土曜日

京都という街へのタイムスリップ

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----- Urban Cruising #15 -----

  「京都という街へのタイムスリップ」 水城雄


 山中越えで京都にはいろうと、大津の競輪場で右折した。
 161号線バイパス、という表示が目にはいる。こんな道は知らない。が、山科から東急インと都ホテルを左に見ながら、東山五条に降りていくとき、10年という歳月のへだたりが瞬時にして消えるのを感じた。

 結局、161号線バイパスに乗ったのは、道をまちがえたということになるのだ。そもそも、山中越えで京都にはいるつもりだったのだから。
 ところが、ついつい同行の女性にいいところを見せようと、知ったかぶりをよそおってバイパスに乗ってしまった。
 こんな道、いつできたのだろう。
 そういえば、湖西道路にしてもそうだ。かつては敦賀から琵琶湖の西を通って京都にはいるには、161号線一本しかなかったのだが、湖西道路などという自動車専用道路ができていて、驚かされる。その161号にしたところで、あちこちの町でバイパスができていて、ずいぶんと走りやすくなっている。
 たった10年という歳月で、こうも変わってしまうものだろうか。
 が、まちがえて乗った161号バイパスが山科で1号線と合流するあたりから、わたしの記憶は7年前と一致しはじめた。
 渋滞した山科を抜け、東山を京都市街にむかって降りはじめたとき、頭のすみで「右に寄れ」という声がする。
 やがて標識があらわれた。東山五条右に寄れ、とある。身体が、神経が街を思いだしはじめている。変わっていないな、と思う。
「3年ぶりぐらいかしら」
 と同行の女性が助手席でいう。
「観光ですか?」
「ええ。友人と」
 彼女の3年とわたしの10年。
 彼女の3年には歳月がつめこまれているが、わたしの10年はいま、どこに行っってしまったのだろうか。

 グランドホテルを予約してあった。
 夕方のラッシュをかいくぐり、ホテルの駐車場まですんなり車を乗りいれると、同行の女性がいった。
「慣れてらっしゃるのね」
「住んでたんですよ、この街に。8年ばかり」
 わたしは白状した。
「道理で。すいすいと運転されるんだなと思いました。さぞかし、なつかしいでしょうね」
「そうですね」
 わたしはうなずいたが、なつかしいという言葉ではいまの感情をいい表せないことがわかっていた。
 泊まったことはないが、このグランドホテルは多少知っていた。学生時代の皿洗いのアルバイト。妻とはじめての海外旅行に出かけたときは、ここから空港行きのバスに乗ったものだ。
 そんなことを、宿泊の予約をしたときにはまるで思いださなかったのに、ここへやってきたとたん、次から次へと思いだしはじめた。
 街、あるいは建物自体が、記憶を呼びおこす引き金になっているようだ。いや、記憶が呼びもどされたというより、感覚としてはわたし自身が10年前にそっくりそのままタイムスリップしてしまったようだった。
 チェックインし、それぞれの部屋に荷物を置くと、地下の〈たん熊〉で夕食をとった。まずしかった8年の間、決して口にすることのできなかった京の味覚だ。
「明日の仕事の成功を祈って」
 同行の女性がグラスを持ちあげた。

 コマーシャル・ヴィデオのロケの下調べのために、わたしたちは嵯峨野に車を向けた。
 秋も深まり、また平日ということもあって、観光客はまばらだった。
 車を丸太町の駐車場に置き、嵯峨野の細くまがりくねった道を、ゆっくりと歩いてのぼっていった。
 かたまって歩いている修学旅行らしい高校生のグループがいる。気のあった仲間で来ているらしい主婦のグループがいる。
 そういえば、わたしも学生時代、同級生3人でここへ来たことがある。男ばかりで来たものだから、アベックにずいぶんあてられて、つまらない思いをしたものだ。
「この角度から見た風景、使えると思いません?」
 ふと気づくと、彼女は持参したコンパクトカメラを構え、古びた竹の垣根を撮ろうとしている。
 そうなのだ。仕事なのだ、これは。感傷にふけっている時ではない。
 落柿舎、念仏寺、大覚寺と、わたしたちはロケの下見をすませていった。
 すっかり歩きつかれて、みやげ物屋にはさまれた喫茶店のひとつで、わたしたちは休むことにした。
 だしぬけに彼女がいう。
「いつもとちがう顔をしてらっしゃるのね」
「そうでしょうか」
 わたしはつるりと顔をなで、照れかくしにコーヒーを飲んだ。
 窓の外を、手をつないだ制服の高校生が通りすぎていった。

2009年11月19日木曜日

ひとり、秋の海を見る

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----- Urban Cruising #16 -----

  「ひとり、秋の海を見る」 水城雄


 偶然うまく焼けたパウンドケーキのように晴れあがった秋の日、ひとりで出かけた海岸は荒れていた。
 砂浜の手前で車をとめると、フロントガラスが波しぶきで白く曇った。

 だれだってそういう時があるだろう?
 生きていることに疲れ、いやけがさし、ふいにひとりになりたくなる。
 いろんなことが思うようにいかず、トラブルが続き、雑用ばかりがたまっていく。
 体調はぐずつき、部屋は散らかり、食べ物もおいしく感じられない。家族との会話も、なんだかすれちがいばかりだ。
 彼女が元の上司と親しげに歩いていたという噂を同僚から聞いたとき、ぼくはひとりになりたくて海に向かった。
 いつだってそうなんだ。車に乗り、ひとりになると、海に向かってしまう。海が近くにあってよかった、と思う。
 こんなに天気がいいのに、海はひどく荒れていた。
 砂浜には、見たこともないほど深くまで、波が押しよせていた。とがった波頭が、海からの強い風で白く泡だち、飛沫を空中にはねあげている。こまかい飛沫が、かすかに、ぼくの立っているところまで飛んでくる。
 こうやってしばらく立っていれば、髪はしょっぱくなり、肌はベトついてくることだろう。そんなことは、ぼくには気にならない。
 サーフィンをしている若者が、はるか沖に見えた。そのあたりでは、波が急激に海から立ちあがり、まるで絶壁のようにそそり立ってくるのが見える。その絶壁を、ウェットスーツを着た若者が、ころげおちるようにしてすべりおりてくる。
 晴れた空に荒れた海。
 一枚の板きれを武器に波とたたかう若者たち。
 みょうに心さわぐ光景だ。

 沖で急激に立ちあがった波は、不規則な線をえがきながら燈台のある突堤に向かってやってくる。
 突堤にななめにぶつかった波は、思いがけず高くしぶきを打ちあげる。いつもなら突堤の上を燈台にむかってぶらぶらと歩いていくのだが、今日はとても歩けそうになかった。ふだん、かならずひとりやふたりいる釣り人の姿も、今日は見えなかった。
 なにも彼女をひとりじめしようなんて、考えているわけではない。それほどまでぼくたちの関係は発展していない。ときおり会い、お茶を飲み、仕事の愚痴をこぼしあい、ときには映画をいっしょに観る程度の仲だ。
 でも、ぼくにはいま、彼女以外、女友だちと呼べるようなものはいないし、彼女のほうもそういったはずなんだ。会えばいつも元気な顔を見せてくれるし、別れぎわには「楽しかったわ」といってくれた。
 仕事がきつくなりはじめたこのごろ、せめて彼女の声を電話で聞くのが、ぼくにはなによりうれしかったんだよ。
 あの噂はほんとうなんだろうか。
 まあいい。いまはそんなことを考えるのはよそう。
 波は、ほとんど水平線をかくしてしまうほど、高くそそり立って、こちらに向かってくる。
 頭上では、強い風にさからって、カモメが羽をピリピリ震わせながら飛んでいる。

 夏には浜茶屋があったあたりも、いまはすっかり片づいている。
 打ち上げられた大きな流木のひとつに、ぼくは腰をおろした。波もここまではとどかない。
 ということはつまり、この流木をここまでうちあげるような高い波のときがあったってことだろうか、とぼくは考えた。先日の台風のときだろうな、きっと。
 そういうことをとりとめもなく考えるのは、楽しかった。仕事上のトラブルのことや、散らかった自分の部屋のことや、まずい昼食のことや、うそかほんとうかわからない噂のことをくどくど考えるより、波のことを考えているほうが、よほど楽しかった。
 流木に腰かけて波をながめていると、犬と少年がふいに視界の中にはいってきた。犬は、少年の祖母だろうか、ひとりの老女にロープで引かれている。というより、老女を引いているといったほうがいいだろうか。
 老女は、困ったような、それでいてうれしいような笑顔を浮かべながら、身体をうしろにそらせるようにして歩いている。
 まだ子犬だった。生後四、五か月といったところか。少年のほうはたぶん、小学二、三年だろう。子犬とそっくりなキラキラした目をしている。
 子犬が砂浜に穴を掘りはじめた。小さな前足でさかんに砂をはねあげながら、どんどん掘っていく。少年もその穴掘りを手伝いはじめた。
 老女はそのかたわらに立ち、海の方角をじっと見つめている。
 ぼくも海に視線をもどし、つまらない噂のことなど考えるのはよそう、と思った。
 沖を、大きなタンカーがゆっくりと横ぎっていくのが見えた。

2009年11月18日水曜日

Even If You Are My Enemy

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #44 -----

  「Even If You Are My Enemy」 水城雄


 彼女が目をさまして真っ先に思いだしたのは、昨夜のお父さんとの会話だ。
 お父さんは彼女の衣服のことをひどく気にする。昨日も、
「アイーシャ、外に出るときはきちんとチャドルを着けなさい」
 といわれた。これで百回めだ。いや、千回めかもしれない。彼女はただ、学校を休んでいる同級生のハッダードに、昨日出た宿題のことを伝えに行っただけなのだ。そしてハッダードはたった三軒向こうに住んでいるだけなのだ。
 それなのに、チャドルを着けろと口うるさい。
 家のなかでも肌をあらわにしていると嫌な顔をする。おまえはサンドニの売女《ばいた》かとののしられる。サンドニは行ったことがないけれど、パリのけがらわしい通りの名前らしい。何度かパリに行ったことがあるお父さんから聞かされた。
 パリにはムスリムが多いらしい。
「わたしも大人になったら行ってみたい」
 とアイーシャがいったら、おまえは家のことをしっかり身につけて、学校を出たら床屋のハッサンと結婚するのだ、といわれた。それはもう生まれたときから決まっていることなんだそうだ。そんなこと、まっぴらだ。わたしは学校を卒業したら、パリの美術学校に行って、絵の勉強をするんだ。なにも身にまとっていない美しいアラブの女の肖像を描くんだ。
 でも、とても許されないことだろう。パリに行くことも、アラブの女性の裸身を描くことも。
「ハッダードがなんで学校を休まねばならなかったか、よく考えなさい」
 お父さんがいう。もちろん、そんなことはよくわかっている。二、三日前、ハッダードがたまたま軍の兵士採用事務所の前を通りかかったとき、爆弾テロが起きて、ハッダードはそれで腕から肩にかけて二十針も縫う大怪我を負ってしまったのだ。腕がなくならなかっただけ幸運だとみんなからいわれた。
「世界は戦争の渦中なんだ。おまえひとりが自分のことだけ考えていればいいはずはないだろう」
 そのとおりだと思う。でも、なんでこんな時代に生まれてしまったんだろう。
 彼女は悲しくなって、ベッドのわきにそろえておいてあるサンダルを見つめた。
 赤いサンダル。今年、進級するとき、学校の成績がよくてほめられたとき、お母さんが、「おまえの好きなものをお買い、アイーシャ」といって買ってくれた。一番のお気にいりのサンダル。毎日それをはいて学校に行く。友だちからも「かわいいね」とうらやましがられる。
 サンダルを見るとすこし気分がよくなる。
 わたしの大切なサンダル。

「今日、われわれは並ぶもののない軍事力と偉大な経済的、政治的影響力を持つ地位を享受している。われわれは国際社会と強調するが、必要なら単独行動も辞さない」
 トマホークは固体ロケットブースターで射出され、ターボファンエンジンで巡航す
る。
 電波高度計による高度情報を、事前に入力されたレーダー地図と照合しつつ、計画された飛行経路に沿って目標へと誘導される。
 目標到達誤差は八〇メートルとされるが、搭載弾頭の破壊能力からすればこれは充分な数字である。

 彼女は朝の準備をすませて、学校に向かう。もちろん、お気に入りの赤いサンダルをはいて。
 家を出るとき、お父さんがいつものようにいう。
「アイーシャ、きちんとチャドルは着けただろうね」
 もちろん着けている。
 空はいつものように晴れわたり、一点の曇りもない。
 ハッダードは今日は学校に出てこれるだろうか、と考えながら、彼女は歩きはじめる。

2009年11月17日火曜日

沖へ

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----- Another Side of the View #5 -----

  「沖へ」 水城雄


 ひろい湖面にほとんど帆影が見えないのは、平日の午後だという理由だけではなかった。
 開店休業といった感じの貸しヨット屋の待合室から水路に張りだしているバルコニーに立って見ると、一面に白波が見えた。灰色の雲がかなりの速度で北からこちらに向かって流れている。が、雨が降りだすまでにはまだ時間がありそうだった。
 少年はいつものようにカゴのすきまから指をつっこんで緑色のオウムをからかってから、桟橋に降りていった。桟橋にも人影はなかった。怒ったオウムの鳴き声が、ここまで聞こえた。
 バルコニーの下のヨット置き場からレーザーをおろし、桟橋の先端までもやい綱を引いてまわしてきた。湖へと続いているこの水路のほうにも、波がたえず寄せてきていた。水路の向かい側にある大学のヨット部の艇庫も、今日は静まりかえっている。
 不安定に揺れ動くディンギーにマストを立てながら、これほどの風の中に出ていったことはあったっけ、と彼はかんがえた。
 父親にレーザーを買ってもらったのは、中学校にはいったとき。その前は、10歳の誕生日に買ってもらったOPディンギーに乗っていた。父親はこの貸しヨット屋で学生アルバイトからセーリングを教わった。ふたりだけで模擬レースをしても、どうしても父親に勝つことができなかった。しかし、レーザー乗りになったいま、おやじに勝つ自信はある。おやじがまだ生きていれば。
 マストを立てると、クリューが固定されていないセールがバタバタとさわいだ。
 ふいに少年は、今日の昼のできごとを思いだした。昼食を終え、体育館に行こうと教室を出ると、渡り廊下のところで彼女に呼びとめられた。
「渡辺くんが手紙をくれたの」
 と、彼女がいった。空にはまだ晴れ間が見えていたが、すでに風が出はじめていた。
「それで?」
 彼はわざとそっけなく訊いた。
「どうしようかと思って」
「なにを?」
「好きだって書いてあった」
 渡り廊下を風が吹きぬけ、彼女のスカートがバタバタとあおられた。それを押える彼女の手を見ながら、彼はいった。
「どうしてぼくにそんなこと、いうのさ」
「だって……」
 そういったきり、彼女はうつむいてしまった。
 少年はどうしていいかわからなかった。下級生のだれかがふたりを冷やかすような視線を向けながら、横をとおっていった。
「学校が終わったら、ヨットに乗りに行くんだ」
 まったく関係のないことをいい残し、彼女に背を向けた。そのときの彼女のびっくりしたような顔が、少年の目に焼きついている。
 それを脳裏から追いはらうように、彼はセールのクリューを引っつかむと、ブームエンドのロープをアウトホールに通した。
 ロープのテンションを調節し、セールをピンと張る。メインシートをブロックにとおす。ラダーを落としこむ。
 カイツブリが一匹、水路の向こう側をかなりの速度で泳ぎ、下手の橋の下に消えた。ホオズキを口の中で鳴らすような音が聞こえるのは、あいつの声だろうか。上手の崖の上では、柳の木がざわざわと身をゆすっている。
 センターボードをたたきこみ、ラダーにエクステンション・ティラーをとおす。
 すべての艤装を終え、彼はもやいを解いた。
 バウラインをコクピットに放りこみ、身体を中にいれながら、残った足で桟橋を強くけりつけた。メインシートを引きこみ、ティラーを引いて風下に向けると、すぐに、充分な風がメインをつかまえた。ハイキング・ストラップに爪先をひっかけ、思いきり身体をデッキの外に出した。
 水路の向こう岸がすぐに迫ってくる。タック。
 タック三回で柳の木の下をクリアして、ひろい湖面に出た。
 ヨットの上で機敏に身体を動かしていると、いつも担任の体育教師がいった言葉を思いだしてしまう。
「協調性がないんだよ、おまえには」
 バスケットボールの試合をしていたのだ、あのときは。
「ただやたらめったら、ひとりで動きゃあいいってもんじゃない」
 そうしてその言葉を思いだすと、母親のいったことまで自動的に思いだしてしまう。
「ちょっとは親のこともかんがえてよね。あんたには思いやりってものがないの?」
 水路の入口のすこし先にある防波堤が迫ってきた。いつごろできたものなのか、大きな岩を積みかさねたかなり古い防波堤だ。
 父親が教えてくれた。
「できれば右側を通過したほうがいい。右側は深くえぐれていて、かなり接近してもだいじょうぶなんだ。左側は水面下に隠れた岩があって、注意しなけりゃいかん」
 タックして右側にかわすことをかんがえた。が、やめた。すこしベアして、左側を通過することにした。シートをすこしゆるめ、接近する。隠れた岩の場所は、波がそこだけ乱れているので、よくわかった。曇っていて、山のほうから風が吹きおろしてくるような日には、本当にそこは危険なのだが。
「あたしの気持ちなんか、なんにもわかってくれない」
 放課後、玄関で上ばきを脱いでいた彼に近づいてきて、彼女は突然そういった。顔をあげると、もう去っていく彼女の背中しか見えなかった。背中に垂らした髪が、いきおいよく左右に振れていた。
 思いきりシートを引きこみ、艇を風上にむけた。親指にからませたシートが食いこんだ。ヒールが強まり、それをつぶすために思いきり身体を外にのけぞらせた。
 頭がほとんど水面につきそうになり、彼に見えるのは、ハルとマストとセールと、そして波しぶきだけになった。
 波しぶきが髪と顔を濡らした。
 そんなふうにして沖まで出ていかなくても、すでに自分が決心してしまっていることを、少年は知らないのだった。

2009年11月16日月曜日

Something Left Unsaid

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----- Jazz Story #24 -----

  「Something Left Unsaid」 水城雄


 ひとり、湿った闇に横たわったまま、私は息子のことを思っている。
 離れて暮らしている私の息子。
 夕立をいまにももたらしそうに重く垂れこめた雲は、いまだにこぼれ落ちてこない。開け放った窓から、湿気をたっぷりと含んだ大気がとろりと流れこんでくる。
 窓を閉め切り、エアコンをつけようか、私は迷っている。
 湿った空気に身を横たえるたび、私は思い出す。あの朝のこと。
 谷の台地で私たちはキャンプをしていた。密生しているミゾソバを足で踏み倒して、テントを張る場所を作った。なぎ倒した草がちょうどいいクッションになった。
 息子はまだ七歳に満たなかった。汗をふきふき、懸命に動きまわっていた。
もう10年も前のことだ。
 夕暮れが近づくと、谷を渡っていくヨシキリの鳴き声が聞こえた。
 コオロギの声、モリアオガエルの声。
 寝袋にくるまって眠っている幼い息子の横で、私はウイスキーを飲んだ。懐中電灯の明かりのなかで、いつまでも息子の寝顔を見ていた。
 そのときも、いまにも降りそうに空気は湿っていた。
 そう、いまがそうであるように。

 私は暗闇のなかで起き上がり、グラスにウイスキーを注いだ。
 ひと口含む。
 熱いかたまりが、喉から腹の奥へゆっくりと落ちていく。
 コンポーネントに手を伸ばし、スイッチを入れた。FM局からは静かなジャズが流れてきた。
 コオロギの声もヨシキリの鳴き声も、ずっと聞いていない。息子とは電話でしか話していない。そのかわり、私は音楽を聴いている。
 ひとりで。
 こういう湿った空気の夜が来るたびに、私は思い出すだろう。あのときの息子の寝顔を。私のたったひとりの子ども。
 あの谷の空気のこと。川が流れる音。虫の声、鳥の声、カエルの声。ミゾソバのクッションの感触。
 彼はそのことを覚えているだろうか。
 私はラジオから聞こえるピアノの音色に耳をすました。知らない曲だ。柔らかな和音が、アルコールのまわりはじめた身体に気持ちよくしみこんでいく。
 明日、電話してみよう。
 私はふたたび身体を横たえた。
 ようやく雨が降りはじめたようだ。雨の音と、雨のにおいが、開け放った窓から流れこんできて、私の身体をつつみこんだ。

2009年11月15日日曜日

タイム・トラベラー

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----- Urban Cruising #23 -----

  「タイム・トラベラー」 水城雄


 どこまでも続くまっ白な雪原。
 樹木の枯れ枝に咲いた雪の花が、冬の陽光の中できらめいている。
 その樹木のあいだを縫うようにしてテンテンと続いているのは、野ウサギの足跡だろうか。

 年に一度、わたしは時間旅行をする。
 大晦日、12月31日の午後11時59分、わたしは時間旅行者となって、自分の過去へとさかのぼるのだ。
 いまもわたしは、自分の書斎の椅子にもたれ、手にスコッチのグラスを持って、その時が来るのを待っている。
 お気にいりの部屋。
 お気にいりの音楽。
 お気にいりの飲物。
 ゆったりとしたぜいたくな気分の中で、わたしは時間旅行を楽しむための心の準備をしている。

 いつのことだろう、はじめて時間旅行を経験したのは。
 それは神のおぼしめしだろうか、あるいは神の気まぐれか、ふいにやってきたのだ。数年前の大晦日、いつものように家族と年越し蕎麦を食べながらテレビを見終わり、ひとりのんびりと入浴しているときだった。
 気がつくとわたしは、20歳にもどっていた。
 20歳のわたしは、寒い風に身をちぢこまらせて、自転車をこいでいた。見おぼえのある街だった。当然だ。そこはわたしが20歳のとき住んでいた街なのだから。
 わたしはこごえそうになりながらも、懸命に自転車をこいでいた。寒くてしようがないというのに、なぜか幸せな気分だった。手は冷たくかじかんでいたが、首に巻いたマフラーが暖かい。そうなのだ。このマフラーは、きみが編んでくれたものだ。クリスマスにきみがプレゼントしてくれたものだ。
 横断歩道にさしかかると、ちょうど信号が赤から青に変わった。わたしはとても幸せな気分だった。そうだ。これから君に会いに行こうとしているんだ、わたしは。
 そんなことがあったのを、数年前の大晦日まですっかり忘れてしまっていた。
 それが最初の時間旅行の経験だ。
 それ以来、毎年わたしは、いろいろな時間に旅行してきたものだ。
 今年はどこに行くことができるのだろうか。

 年に一度の時間旅行者となって以来、わたしは自分のさまざまな時代、年齢に旅行してきた。
 あるときはまだほんの五歳の自分へと旅した。五歳のわたしは、いまはもういない父親の膝にまたがって遊んでもらっていた。父親はまだ若く、いまのわたしとほぼ同じ年齢のたくましい男だった。父親はわたしに顔をこすりつけ、ごわごわした髭でわたしを痛がらせて喜んでいた。
 またあるときは、中学時代のわたしへと旅した。高校受験が間近にせまっていたわたしは、机にかじりついて英単語を暗記しようとしていた。わたしの背後にはストーブがあたたかく燃えており、わたしは必死になって睡魔とたたかっていた。部屋のドアがひらき、母親が夜食を持ってはいってきた。夜食のラーメンには、わたしの好きなもやしがたっぷり乗っかり、スープからはいい匂いの湯気が立ちのぼっていた。
 またあるときは、ほんの数日前のわたしへと旅したものだ。
 わたしはぬくぬくと布団にくるまり、目ざめようとしていた。妻がわたしの身体を揺すり、なにごとかをしきりに話しかけている。わたしはそれを聞くともなく聞いている。妻はわたしに、早く起きないと会社に遅れるわよ、といっているのだ。そのほかに、息子が昨日幼稚園でしでかしたいたずらの報告もしている。わたしは聞いているのだが、そのことは数日たつとすっかり忘れてしまうのだ。
 さて、今年はどこへ行くことができるのだろうか。どの年齢、どの時代へと旅することができるのだろうか。
 期待に胸をふくらませながら、わたしはスコッチをちびちびすすり、その時が来るのを待っている。

 時計の長針がほとんど真上を指そうとしている。
 今年もあと数分で終わりだ。新しい年がはじまろうとしている。しかし、わたしはその前に、時間旅行を経験してくるのだ。
 わたしはいま、去年の時間旅行のことをなつかしく思いだしている。
 去年の大晦日も、やはりいまと同じように、この書斎で時間旅行を経験したのだった。ただしスコッチではなく、確かブランディを飲んでいた。
 気がつくと、わたしはまっ白な雪原に立っていた。雪原にはところどころ、枯れた樹木が立っており、枯れ枝には雪がつもっていた。妙に暖かな光景で、雪原を横ぎる野ウサギの足跡を、わたしはずっと目でたどっていた。
 空には雲ひとつなく、冬の太陽がすべてをくっきりと照らしだしていた。ときおり枯れ枝から雪が音もなく落ちるのが見えた。雪が落ちるたびに、風に飛ばされた破片が空中に舞い、キラキラと光を反射している。
 その光景に見とれているぼくの横に、だれかが立った。
 顔をそちらにむけると、そこにはきみがいた。
 やあ、きみか。
 なつかしいね。
 忘れてはいないよ、この顔は。
 わたしの心の奥底で眠っていたなつかしい記憶が、いっきによみがえるのを感じた。そうだ。ここは、学生時代、きみとやってきた冬山だ。ほかにも何人かの仲間がいたんだっけ。みんな、どこに行ったのだろう。もうスキー場に出かけてしまったのかな?
 まあ、そんなことはどうでもいい。いまはこうやってきみとふたりきりで、まっ白な雪原をながめていられるのだから。
 時計の針が今年の終わりを告げようとしている。
 わたしはひとり、わたしがこれまでに歩いてきた道に乾杯しようと、グラスを持ちあげた。その瞬間、いつものように時間旅行がはじまった。
 さて、今年はどこに行くことができるのだろう。

2009年11月14日土曜日

この河

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #49 -----

  「この河」 水城雄


 毎日、決まった時間になると、その少年は川に水を汲みにやってくる。
 肩に天秤棒をかつぎ、両端には大きく粗末なブリキのバケツをぶらさげて。
 ころばないように慎重な足どりで岸辺まで降りてくると、天秤棒とバケツを地面に置き、両足を踏ん張って柄杓で水を汲みはじめる。そこまで降りてくる道はまるでけもの道のようにあやふやだし、雪溶け水でかさが増した流れは茶色く濁っている。
 体重を固定しにくいごろごろした河原の石の上に、ゴム草履をはいた両足を大きく開き、せいいっぱいやせた手をのばして水を汲む。何度も何度も汲む。ふたつのバケツがいっぱいになるまで汲む。
 そのようすを、私は対岸から望遠鏡を通して見ている。それが仕事だから。
 まだ春先の川辺の空気は身を刺すように冷たいだろう。しかし、私のいる監視所は石油ストーブで暖かく湿り、窓ガラスも曇りがちだ。私のかたわらでは、相方が銃の手入れをしている。いや、手入れというより、もてあそんでいるといったほうがいい。相方は銃器が好きなのだ。
 私は鹿のなめし皮で窓ガラスの曇りをもう一度ぬぐい、双眼鏡を目に押しつける。
 いつもそうなのだが、少年は水を汲み終えると、一種放心したような顔つきで川面をながめる。疲れのせいか、それともなにか別のことを考えているのか。
 少年は何歳くらいだろうか、と私は考える。八歳、あるいは九歳。いや、あちら側の子どもは栄養失調がちで育ちが悪く、年齢よりもずっと幼く見える。ことによるともう十一、二くらいにはなっているのかもしれない。
 少年はその水をなんに使うのだろう。もちろん飲むのだ。煮炊きに使うのだ。たとえ茶色く濁った雪溶け水だとしても、それは生活のための大切な水なのだ。
 少年はまだ川面を見つめつづけている。
 茶色い濁流は、うねりながらもまっすぐ下流に向かっている。少年が考えているのは、おそらくこの川が生まれる山あいの風景ではないだろう。この川が流れゆく、青くはるかなる世界。彼が思いをはせるとすれば、それにちがいない。
 この川のかなたには、海がある。
 彼は海を見たことがあるだろうか。
 彼をこの川に、この川の対岸の土地にしばりつけている者のことを、私は思わざるをえない。
 少年は苦しそうに身体をひねってしゃがむと、天秤棒をふたつのバケツに通し、やせた両脚を踏ん張って立ちあがる。天秤棒がしなり、少年の両肩に食いこむ。
 少年は川に背を向け、よろよろと堤防をのぼりはじめる。

2009年11月13日金曜日

雪原の音

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----- 音楽祭用短編 -----

  「雪原の音」 水城雄


 どこまでも続く雪原を渡りながら、夏のできごとを思いだしている。
 待ち合わせ場所にあらわれたきみは、暖炉から取りだしたばかりのマシュマロみたいな笑顔を浮かべた。
 はにかんで首をかたむけるしぐさ。肩よりすこし長い髪がゆれ、横にならぶといいにおいがした。
「ビールを飲みに行こう」
 ぼくはそういって、きみの背中をそっと押した。
 その掌の感触を思いだしながら、ぼくは雪原を歩いている。
 まるで夢の中のような光景だ。ゆるやかな起伏が曲線を描いて、はるかかなたに見える山の裾野までつづいている。
 白亜の起伏。
 冬の太陽がななめに照りつけ、起伏を強調している。まろやかな雪のふくらみのてっぺんは、光を反射してきらきらと輝いている。
 ふくらみの谷の部分、日陰になった場所を、なにかの足跡が点々とたどっていた。たぶん野うさぎだろう。まだ冷えきっていない昨夜の宵のうちに歩いたらしい。月光の中で目を赤く光らせながら、雪原をたどっていく野うさぎの姿を、ぼくは想像してみた。
 意味もなく、笑みが浮かんでしまう。
 だれもいないのに照れくさくなって顔に手をやると、手袋に凍りついた水滴がびっくりするほど冷たかった。
 ぼくは野うさぎの足跡をたどるように、雪を踏んでいった。
 夜の間にかたく凍りついた雪の表面は、ぼくがしっかりと体重を乗せても、びくともしない。きっと昼すぎまではこの雪原がゆるむことはないだろう。
 行く手のかなたにある立木から、粉のような雪が音もなく落ちるのを見た。ほとんど風もない冴えわたった大気に、拡散され、きらめき、雪原へと降りそそぐ水の結晶たち。
 ふいに音楽が聞こえた。
 ぼくは立ちどまり、あたりを見回す。
 だれもいない。
 ぐるっと身体をまわしてたしかめてみたが、ここにいるのはぼくひとりだ。でも、音楽が確かに聞こえてくる。
 ピアノの音。
 なんの曲だ?
 妙になつかしい……柔らかな旋律の……ゆるやかなテンポの……
 ――サティみたいだ。
 ぼくは思って、耳をすました。でも、サティではない。柔らかな旋律をささえる不響和音の進行が、曲に心地よい緊張感を作りだしている。ちょうど枯れ枝からこぼれた粉雪が、風のない大気に複雑なきらめきを残しながら拡散していくような……
 この曲は……サティよりずっと新しく……そして同時に古くもあるような……過去と未来を切りむすぶみたいで……
 聞きおぼえがあることを、思いだした。
 あのとき、あのバーで、きみは、ぼくがひどくビールを飲みたがることをおかしがった。
 ぼくはバーテンダーにビールをせかし、あわただしく飲んだ。ひどくかわいていた。
 なかば飲みほし、ようやく落ちついた。
 きみが横にいた。ぼくの横にならんですわっている。ぼくは初めて会った人のように、きみを発見した。きみはマシュマロみたいな笑みを浮かべ、髪からはいいにおいをさせ、そして音楽に包まれていた。
 そう、あのときの曲だ、これは。過去と未来を切りむすぶ曲。
 いま、きみがすぐ近くにいることを、感じる。
 どこにいる?
 ぼくはふたたび、雪原に足を踏みだした。
 靴底が氷の粒を踏みかためるざっくりとした感触。登山家にでもなったような気分だ。雪原を登っていくぼく。ざくざくと踏みながら、野うさぎの足跡をたどって歩いた。
 ピアノの音はどんどん近くなってくる。
 エアコンのよくきいたあのバーで、きみはすこし寒いといった。寒いといって、首をすこしかしげた。いまとなっては、それがきみの癖だということがわかる。
 ぼくは、
「冬だったらコートを貸せるのに」
 と思った。思ったけれど、口には出さなかった。口に出してしまうと嘘になってしまう気持ちというのは、確かにあるからだ。伝えるためには、長編小説を一冊書くか……そう、一曲の演奏が必要だ。
 ぼくは黙ってピアノ曲を聞いている。
 ゆるやかなリズムから、ふいにテンポが増し、音の密度が増えた。ぼくはひとつの音も聞きのがすまいと、耳をすます。
 密度はどんどん高まり、音はまるで壁のように分厚くなっていく。
 それにしても、この密度の濃さはなんだ。
 ――そうか。
 とぼくは思いあたる。ピアノは一台ではなかった。これは音の響宴だ。会話だ。過去と未来の音が出会い、出会いの喜びを表現しているのだ。
 ぼくは音の粒を追うことをあきらめ、音の波の中に身をまかせた。
 冷たくもあり、暖かくある。古くもあり、新しくもある。柔らかくもあり、鋭くもある。優しくもあり、激しくもある。
 まるでぼくら自身のように、音はいろんな顔を見せる。
 雪原を歩いていたぼくの身体は、いつしか静かに空中へと浮かびあがっていた。
 眼下に広がる果てしない雪原。
 どこから来て、どこへ行くとも知れぬ野うさぎの足跡。
 枝いっぱいに粉雪をためた枯れ木の森。
 雪のうねりをきらめかせながら、太陽が空を飛行した。
 突風にあおられ、ぼくの身体が一回転した。いや、突風と思ったのは、曲の転調だった。
 ふらふらするぼくの身体を、だれかがつかんだ。
 背後から腰にまわされたその手をつかんで、ぼくはすぐにそれがきみだとわかった。ちいさな、ぼくの掌にすっぽり収まる、きみの手。
「やあ、また会えたね」
 きみは首をすこしかしげ、笑みを浮かべた。あの、柔らかな笑みを。
 ぼくがコートの前をあけると、きみは中にするりともぐりこんできた。
 コートの中にすっぽりときみを包みこんでしまったぼくは、ゆっくりと雪原へと降りていく。
 曲はふたたびテンポをゆるめ、終曲へとむかっているようだ。
 過去と未来を、きみとぼくを、そしてあらゆるものを包みこんで、音は雪原へと舞いおりていく。

2009年11月12日木曜日

祈り

(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- Jazz Story #33 -----

  「祈り」 水城雄


 綿雪まじりの冷たい空気のなかで、私は大きな木に向かって祈りをささげる。
 神にでもなく、自分の幸せや健康にでもなく、ひとり、大樹に向かって祈りをささげる。
 昨夜見た、坂の途中で立ちつくしていたサンドイッチマンに。
 割り勘をごまかそうとした友人に。
 電話ボックスのなかで抱き合っていた若い男女に。
 席をゆずらず眠ったふりをしていた高校生に。
 祈りをささげる。
 ビルに衝突した飛行機の乗務員と乗客とテロリストに。
 くず折れるビルに。
 巻き散らされた白い粉に。
 アラファトとシャロンに。
 オウムとイエスの方舟たちに。
 祈りをささげる。
 私のコーヒーポットとオレガノの鉢に。
 息子に贈るハーモニカに。
 私は祈りながら、木の幹に手を触れる。
 見上げると、綿のような雪が暗い空のかなたから、ゆっくりと降りてくる。
 どこか遠くで鐘が鳴っている。

 この樫の木は、冬も青々と葉を広げて立っている。
 私が生まれるより前から、世界の人が生まれるずっと前から、樫の木はここにこうして立っていた。
 この樫の木より前に生まれた人は、ただのひとりもいない。
 この樫の木よりも長く生きる人も、ひとりもいない。
 樫の木が倒されないかぎり。
 樫の木が人の手によって倒されないかぎり。
 飛行機の形をした斧が、大陸のはずれの島に立っていた大きな木をなぎ倒した。斧の力はすさまじく、木は一瞬にしてくずれ倒れた。人の手が斧をふるい、人の手が何本もの木をなぎ倒した。
 人の手が細菌をばらまき、人の手がミサイルを異国に打ちこんだ。
 光でいろどられ、音楽があふれている街を、着飾り、作られた笑いを顔に張りつかせた人々が、目的もなく行き交っている。
 それを、今日、私は見ていた。
 雪がやんだ。
 私は手を樫の木に触れさせたまま、ひとり空をあおぎ、祈る。
 また鐘の音が聞こえた。

2009年11月11日水曜日

クリスマス・プレゼント

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----- Urban Cruising #21 -----

  「クリスマス・プレゼント」 水城雄


 五歳になったばかりの娘が、天井にむかって一生懸命お願いしている。
 サンタさん、どうかお人形のおうちをあたしにください。きっといい子にしてますから。
 もっと大きな声でいわないと、サンタさんに聞こえないわよ、と妻がいじわるをいっている。

 夕刻から雪が降りはじめている。
 ベタベタと重い雪で、まだ積もりそうにはない。が、気温がさがってきているのをみると、夜半には積もりはじめるかもしれない。
 明朝はスノータイヤが必要になるかもしれない。
 こごえそうなガレージでのタイヤの入れ替え作業のことは、想像しただけで気がめいってくる。
 あなた、お風呂にはいってきたら、と妻がいう。
 風呂からあがると、妻と娘が天井にお願いをしていた。
 ねえ、サンタさんて、どこから来るの?
 そういえば、うちには煙突などない。
 子どもの頃には、煙突のある家に住んでいた。といっても、風呂場の焚き口の煙突で、まだサンタクロースの存在を信じていた頃は、あんな細い煙突からサンタはどうやってはいってくるのだろう、と不思議に思っていたものだ。
 玄関からはいってくるのよ、ごめんくださいってね。
 妻がこたえている。
 じゃ、クリスマスの夜は玄関に鍵をかけちゃだめよ、おかあさん。
 だいじょうぶよ。ちゃんとお出むかえしてあげるから。
 ねえねえ、あたしもサンタさんをお出むかえしてあげたい。
 だめだめ。子どもは寝てなきゃ。こんな遅い時間まで起きてるような悪い子には、プレゼントをあげないぞっていわれるわよ。
 あたし、ちゃんと寝る。
 本当に積もらなければいいが、と思いながら、妻と娘の会話をぼんやり聞いている。

 テレビのニュースからはしきりに、「師走」という言葉が聞こえてくる。
 月末までにはまだ半月もあるというのに、なんとなく世の中はあわただしい。
 サンタさんはどこに住んでるの? と娘が妻にたずねている。
 絵本に書いてあったでしょ? フィンランドっていう国じゃない?
 あの絵本、あたし、好き。だってかわいいおもちゃがたくさん出てくるんだもん。でも、フィンランドって遠いところなんでしょ?
 そうよ。遠いところからサンタさんはやってくるのよ、トナカイのソリに乗って。
 あら、ちがうのよ、おかあさん。トナカイのソリに乗ってやってきたのは、昔のことなのよ。
 じゃ、今はどうするの?
 飛行機に乗って来るのよ。
 妻は笑いだす。
 へえ、だれに教えてもらったの、そんなこと?
 桃組のさっちゃん。だって、最近は昔より子どもも多いし、おもちゃもたくさんあるから、ソリなんかでは運べないのよ。だから飛行機に乗ってやってくるの。そのほうが早いし、寒くないから。
 そうね。去年、北海道に行ったときには、飛行機の中が暑くてこまったくらいだもんね。
 あたし、おぼえてるよ、飛行機に乗ったの。となりの席のおばちゃんに、チョコレートもらったの。でも、あのチョコ、あまりおいしくなかった。
 テレビ・ニュースには、ニューヨークかどこかのビルに取りつけられた、巨大なクリスマス・ツリーのイルミネーションが、大写しになっている。

 大きな声でいわなきゃだめよ、お願いは。と、妻が娘にいう。
 お外に出なくてもいいの、おかあさん?
 いいのよ。ちゃんと聞こえるのよ。でも、大きな声でね。
 サンタさん、どうかお人形のおうちをあたしにください。きっといい子にしてますから。
 クリスマス・プレゼントといえば、きまって思いだすひとつの光景がある。
 子どもの頃のイブの夜、興奮して眠れないので、起きて下に行ってみると、母親がひとりで黙々とプラモデルを組みたてていた。サンタクロースにお願いしたはずのリモコンの戦車だった。
 娘の人形の家は組みたてる必要はないが、そろそろ買いに行ってやらなければならない。そうして、娘に見つからないように、どこかに隠しておかなければならない。
 そういえば、娘が生まれてからは、妻にクリスマス・プレゼントを送らなくなってしまった。娘が生まれる前は、お互いになにか送りものをしたような記憶がある。なにを送ったのか、なにをもらったのか、もう忘れてしまったが。
 今年は、ひとつ、なにかプレゼントして、びっくりさせてやるかな。
 天井を向いて懸命に願いごとをとなえている娘。
 母親にむすんでもらったリボンが、頭のてっぺんでゆれている。
 こんな光景を、あと何回、見られることだろう。
 窓の外では、あいかわらず重い雪が降りつづいている。

2009年11月10日火曜日

I Am Foods

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #15 -----

  「I Am Foods」 水城雄


 ぼくはトマト。
 真っ赤に熟れてちょうど食べごろだ。
 これから湯むきにされて、ザク切りにしてトマトのスパゲティになる予定。きっとおいしいスパゲティができるだろう。みんなが楽しみにしてくれている。ぼくもおいしく食べてもらえてうれしいよ。

 ぼくはサンマ。
 いまがちょうど季節で、丸々と太っている。
 これから遠赤外線グリルでじっくりと塩焼きにされる予定。たっぷりと乗った脂がじゅうじゅうと音を立てて落ちて、いい匂いが部屋中に立ちこめる。みんなそれだけで口のなかが唾いっぱいになるんだよね。

 ぼくはニワトリ。
 成長ホルモンをたっぷり与えられていまがちょうど食べごろ。
 これ以上年寄りになってしまうと、ちょっと硬くなってしまうからね。だから、いまからシメられて、血を抜かれて、内臓も抜かれて、解体される。フライドチキンにするもよし、照り焼きにするもよしだ!

 ぼくはブタ。
 毎日モリモリと食べて丸々と太っている。どんなもんだい。
 これから解体工場に連れていかれて、身体のあちこちをバラバラに分解されて、肉やら内臓やらに切りわけられる。みんなの口に入るころには、ポークカツになってたり、ソーセージになってたり、ベーコンになってたりするってわけだ。
 どんなもんだい。

 ぼくは牛。
 ホルモンパンチを耳たぶにつけて成長したおかげで、ぼくの肉は柔らかジューシー。これから解体工場に連れていかれて、身体のあちこちをバラバラに分解されて……

 ぼくは鯨。
 いま捕鯨船に追いかけられているところ。これからモリを打ちこまれて、捕鯨船の上に引きずりあげられて、槍みたいなでっかい包丁で解体されて……

2009年11月9日月曜日

航跡

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----- Another Side of the View #2 -----

  「航跡」 水城雄


 バーテンは反対側の女性客と話しこんでいて、こちらに気づいてくれそうにない。
 まあいい。あわてることはない。こんなに風が気持ちいいんだ。
 椰子(やし)の葉を葺(ふ)いた桟橋の上のバーは、海からの風の通り道になっていた。彼は身体をなかばねじまげ、ビーチホテルのほうをながめやった。低い造(つく)りの白いホテルの前を、水着の上からTシャツをかぶっただけの女がひとり、ゆっくりと歩いているのが見えた。ほとんど銀色といっていい髪が、風に散っている。女はそれを押さえようともしない。
 カタマランのディンギーが湾内をかなりの速度で間切っていく。主人のいない犬が一匹、波打ちぎわの砂をしきりに掘っている。
 バーテンが話しているのは、大きな白い帽子をかぶった初老の女性だった。初老とはいえ、女性であることを放棄していない毅然とした美しさが、彼女にはそなわっていた。
 それはともかく、おれを干上がらせるつもりかい、ここのバーテンは? あわてることないとはいってみたものの。
 編んだ篭の中にオレンジといっしょに突っ込んであるラジオからは、陽気な調子のボレロが小さく聞こえていた。
 彼はふたたびビーチホテルのほうに視線をむけた。Tシャツの女はゆっくりこちらに向かってくる。
 トントンという音に振りかえってみると、バーテンが彼の前に立ち、カウンターを指先で叩いていた。
「あそこにお泊まりですかい?」
 唇のはしにかすかな笑みを浮かべ、そうたずねてきた。中年……といっても、彼よりは若そうだったが。二度ばかり沸かしなおしたコーヒーのような顔。
「いや、違う。長くいるつもりはないんだ」
「ご注文は?」
「キューバリブレ」
「ラムはカリオカでいいですかい?」
「それでいい。ちょいとラムを抑えぎみで」
「まだ日は高いってやつですかい。旦那はこちらへはやっぱり船で?」
「そう」
 彼は首をまわし、自分の船を見た。
 ビーチホテルとは反対側のハーバーに、41フィートのスループがつながれている。
 トン、と彼の前にグラスが置かれた。
「こちらへは休暇かなにかで?」
「そんなところかな」
「日本人ってのは休暇なんか取らねえってんじゃなかったんですか? あたしら、そんなことを聞いてますけどねえ」
「日本人だってわかるかい?」
「チャイニーズには見えませんや。40フィートにオートヘルムくっつけてる中国人なんて、いやしねえ」
 なんだ、こいつ。ちゃんと見てたんじゃないか、おれがはいってくるのを。
「40じゃない。41だ」
「似たようなもんでさ」
 バーテンは女性客のほうにもどっていった。
 キューバリブレ。ラム・アンド・コーク。
 濃い褐色の液体を、彼はひと口、飲んだ。
 Tシャツの女は桟橋の付け根を通り、ハーバーのほうへとむかっている。若い。十八、九といったところか。あいつの相手には若すぎるか。
 犬はまだ砂を掘っていたが、カタマランはもう見えなくなっていた。
 彼は半ズボンの尻ポケットから、一枚のすりきれた写真を取りだした。
 カウンターの上に置き、指先で押さえてゆがみを直し、じっと見入る。
 それから、おもむろにラム・コークを飲みほした。
 グラスをトン、とカウンターに置く。バーテンは振りかえろうともしない。
 で、指先で二度、トントンとカウンターをたたいてみた。バーテンがやってきた。
「もう一杯たのむ。それから……」
 こんなことはこれまでしたことはなかったのだが……。ここのバーテンの顔を見ていたら、なぜかその気になっちまった。なにかを確認したい気分に……
「こいつを見たことがあるかい? ちょうど一年前、このあたりにも立ちよってるはずなんだが」
「ちょいと待ってくださいよ」
 バーテンはまず酒を作ってから、慎重に写真に顔を近づけた。
「いや……」
 彼はいった。
「いや、見たことないでさあ。このバーへは寄らなかったんでしょう」
「たしかかい?」
「たしかでさあ。この人をお探しで?」
「いや……」
 探しているといえば、そうもいえる。が、ふつう、もうこの世にいない人間を、探すとはいわない。あいつが一年前たどった航路を、あいつの船で、これといった理由もなく追っている。ことによると、あいつが死んだことで失ったなにかを、探しているといえるのかもしれない。
 彼は写真をポケットにもどし、ビールを飲んだ。
 ハーバーに視線を向けると、Tシャツの女が自分の船に近づいていくのが見えた。女は船の横に立ちどまると、しばらくながめていたが、やがてライフラインをまたいで船に乗りこんだ。そう、まるで自分の船に乗りこむかのように。
 バーテンがアゴの先で示した。
「行ったほうがいいですぜ」
 いわれるまでもなく、彼は立ちあがっていた。
「ちょい待ち。これを持っていくといい」
 バーテンがいい、ビールの小壜を二本、すばやく抜いて彼に渡してくれた。
「あたしからのおごりでさ」
 おせっかいめ、と彼は思いながら、こたえた。
「いや、これはツケにしといてもらおう。すぐにもどってくるさ」
 バーテンがニヤッと笑う。
「あの子と?」

2009年11月8日日曜日

Blue Monk

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----- Jazz Story #12 -----

  「Blue Monk」 水城雄


「あなた、ひとつ聞いていい?」
「なんだ」
「あなた、あたしと結婚してから、浮気したことある?」
「おいおい、なんだい、唐突に」
「いいから、答えて」
「なんでこんなときにそんな質問に答えなきゃならないんだ」
「こんなときからだからこそ、教えてほしいのよ」
「待ってくれよ。おまえ、いまのこの状況、わかってんのか?」
「もちろんわかってるわ。もうどうしようもないってことぐらいね」
「まあ、それはそうなんだが……」
「だから、教えて。いいじゃない、もうあたしたち、終わりなんだから」
「終わりだからこそ、もっと有意義な話をしようじゃないか」
「有意義な話って、どんな話よ」
「それはその……あれだ」
「こんなことになって、いまさら有意義もなにもないじゃない。どうせ死ぬのよ、あたしたち」
「おい、それをいうなって」
「だって本当のことだからしようがないじゃない。現実を直視しなきゃ」
「わかった。現実を直視しよう。だから、昔の話なんか持ちだすのはやめろ。
どうしようもないだろう?」
「知っておきたいのよ、死ぬ前に」
「知ってどうする。どうせ死ぬんだ。知っても、その記憶は闇に消えるんだ。
どうせ消える記憶なら、清らかで美しい記憶のほうがいいだろう」
「あなた……」
「なんだ」
「そうやって話したがらないってことは、つまり、浮気したことがあるのね」
「なにいってんだ。あるわけないじゃないか」
「ほんとのこといって。どうせもうすぐ死ぬのよ。いまさらあたしに嘘ついてもしかたがないでしょ。最後に本当のことをいってよ」
「だから、浮気なんかしてないっていってるじゃないか」
「そうやって逃げるのね」
「逃げてなんかいないって。どうやって逃げるっていうんだ、こんなところから」
「そうね。外は真空だもんね。そしてエアーの残り時間はあと一時間」
「そういうことだ。いまさらあれこれいってもしかたがない。おれが浮気したことがあるかどうかなんて、どうでもいい問題なのさ」
「やっぱりしてたのね、浮気」
「してないって」
「なんだか熱いわ、あなた。息苦しいし」
「空調がおかしいんだ。酸素も残り少ないし」
「どうしてこんなことになっちゃったんだろう」
「わからない。すべて順調にいっていたのにな。コンピュータが暴走して、軌道をはずれてしまった」
「コンピュータなしじゃなにもできないのね、人間って」
「頼りすぎてたのかもしれないな」
「いまごろは無事に火星に到着して、植民地のみんなに再会しているはずだったのに」
「…………」
「ねえ、さっきの話だけど」
「浮気のことなら、ノーだ」
「…………」
「なあ、この曲、だれが演奏しているか知ってるか?」
「知らない。あなたはジャズ、あたしはテクノ。いつも違う音楽を聴いてたじゃない。いまはあなたに妥協してあげてるのよ」
「それはどうも、ありがとう」
「だれが演奏してるって?」
「モンク。セロニアス・モンク」
「ふーん、知らない。何歳くらいの人?」
「もう死んだ。ずっと前に死んだ。一世紀も前に死んだ」
「そうなの。なんか変な演奏」
「じっくり聴けばよさがわかる」
「そうね、じっくり聴けばね。でも、もうそんな時間はないわね、あたしたち」
「ああ……」
「浮気の話なんか持ちだしたりして、悪かったわ。いまさらそんなこと聞いても、しかたがないもんね」
「まあな」
「あたしの人生って、いったいなんだったんだろう。あなたのこと、なんにもわかってなかったような気がする。このピアニストのことだって、全然知らなかったし」
「それはお互いさまだよ。でも、そんなことをいまさらいっても、しかたがない。もうすぐ、おれたちはふたりとも死ぬ。人はみんな死ぬんだ。セロニアス・モンクを知ってる人も、知らない人も、みんな死ぬ。モンクもちゃんと死んだ」
「でも、彼はいまもこうやって聴いてくれる人がいる」
「その人間も、やがて死ぬ」
「…………」
「まんざら悪くもなかったよ」
「え?」
「きみといっしょにいられて、よかった」
「あたしもよ」
「いまもだ」
「うん」
「ほら、見てごらん。しし座のほうで流星が生まれているよ」

2009年11月7日土曜日

人形

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----- Urban Cruising #30 -----

  「人形」 水城雄


 やけににぎやかだと思ったら、テレビでは蜂蜜まみれになったクマのプーさんが、蜜蜂たちに追いかけられて大騒ぎを演じているところだった。
 やがて六歳にもなろうというぼくの息子は、かじりつくようにしてテレビに見いっている。
 このビデオ、もう何回見たことかわからない。
 風船が破裂したクマのプーさんは、その勢いで木にぶつかりそうになったり、地面をかすめたりしながら、猛烈な勢いで飛びまわっている。そのあとを、黒い雲のようになった怒り狂った蜜蜂の集団が、ブンブンとうなりながら追いかけていく。クマのプーさんは、無邪気にも木の洞(ほら)のたまった蜂蜜に手を突っこんでむさぼりなめたため、蜜蜂たちの怒りを買ってしまったのだ。
 やがて風船はしぼんでしまい、プーさんはあえなく墜落。が、しつこい蜜蜂はなおもプーさんに襲いかかってくる。
 心やさしい少年のクリストファーが、木の根っこにつまづいてころんだプーさんをひっつかみ、逃げる、逃げる。もとはといえば、プーさん、クリストファーに貸してもらった風船で、高い木の洞にある蜜蜂の巣までのぼったのだ。
 クリストファーとプーさんは、蜜蜂に追われて、とうとうどろんこの水たまり
に飛びこむはめになってしまった。うまい具合に持っていた傘をクリストファーが広げ、蜜蜂の大群の急降下爆撃をかろうじてかわした。
 大人が見てもおもしろい。子供が夢中で見るのもあたりまえだ。
 ほかにもディズニーのアニメビデオを、息子はたくさん持っている。ミッキーマウス、ドナルド・ダック、チップとデール、プルート、グーフィー、白雪姫、シンデレラ、ピノキオ、ダンボ。数えあげたら、きりがない。
 その中でも、息子はとりわけ、クマのプーさんが気にいっているようだ。
 画面では、難をのがれたプーさんが、今度はうさぎの家に行って蜂蜜をせびりはじめている。

 足を折り畳み、背中を丸めてペタンと尻をおとし、まるでおばあちゃんみたいな格好ですわりこんでいる。目はテレビ画面に釘づけになったままだ。
 生まれたときからなんだか暢気な性格で、おぼこいというか幼稚というか、とにかく子供っぽい。これでもう六歳になろうというんだから、おどろきだ。
 考えてみれば、そうなんだ、来年は小学校に入学だ。いつのまにこんなに大きくなってしまったんだろう。こんな赤ちゃんの延長みたいな性格で、ちゃんと集団生活が送れるんだろうか。クマのプーさんなんかいつまでも喜んでみていて、いいんだろうか。
 プーさんといえば、この子が生まれたとき、お祝いにぬいぐるみの人形をいくつかいただいた。その中に、クマのぬいぐるみがあった。灰色のクマで、サンディーという名前がついていた。
 いまでもそれは、息子の寝室に置いてある。
 彼を寝かしつけるのは、ずっと妻の役目だったが、ときおりぼくが寝かしつけてやることもあった。といっても、本をすこし読んでやるだけなのだが。
 そのときに、サンディーに役に立ってもらうのだ。
 息子は寝るときに枕を使わない。息子の寝室には枕が置いてない。息子と並んで横たわり、本を読んでやろうとすると、ぼくのほうは頭に血がのぼって具合が悪い。
 そこで、サンディーを枕がわりにちょいと使わせてもらうのだ。
 ちょうど具合がいい。
 サンディーはこぎれいな現代的なぬいぐるみのクマで、プーさんとは似ても似つかない。
 画面では、蜂蜜を食べすぎておなかが入口につかえ、うさぎの家から出られなくなったプーさんが、大騒ぎを演じている。

 おなかがつかえて動けなくなってしまったプーさんを、クリストファーがたすけだそうとするのだが、どうしても抜けない。あわれなプーさんは、つかえたおなかがやせほそるまで、そのままがまんしていなければならないことになった。
 うさぎは、入口をふさいだプーさんのおおきなお尻が目ざわりで、気になってしようがない。額縁をはめて花瓶をかざったり、ろうそくを立てたりと、工夫をこらすのだが、それが見ている者にはおかしい。クマのプーさんに出てくる人形たちは、みんな、どこかしらおかしなところがあるようだ。
 ぼくの息子はサンディーというクマのぬいぐるみをもらったけれど、ぼく自身も幼い頃、クマのぬいぐるみを持っていたことを覚えている。サンディーと同じく灰色のクマだったが、サンディーのようにこぎれいなクマではなく、いまから思えばテディベアというものだったように思う。
 かなり大きくなってからも、そのぬいぐるみを持っていた。まさかそれで遊んだわけではないが、おもちゃをしまってある押入をあけると、いつもそのテディベアが目についた記憶がある。あのぬいぐるみ、どうしたんだろうか。まさか、いまだにしまってあるということもないだろう。一度、おふくろに聞いてみることにしよう。
 なぜか男の子の人形というと、世間では「クマ」と相場が決まっているようだ。じゃあ、女の子はどうなんだろう。
 おもちゃ売り場などに行くと、じつにたくさんのぬいぐるみが山と積まれていて、目がチカチカするほどだ。でもやはり、ヒナ人形というものが定番なのだろう。うちには女の子はいないが。
 テレビでは、みんなが力を合わせて、プーさんをうさぎの穴からひっこぬこうとしている。

2009年11月6日金曜日

雨の女

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #61 -----

  「雨の女」 水城雄


 雨が降り出した。
 ぽつり、ぽつり、ぽつり。
 雨は嫌いだ。雨が降ると私の心も身体も流れて行く。
 雨は嫌い。だから、早く来て欲しい。

 彼が来た。私の願いが通じた。
 彼が傘を差しかけてくれる。雨に濡れた私の身体を拭いてくれる。
 彼の手が私に触れる。私は彼の指を感じる。彼の優しい指が、私の肌に触れる。
 彼の指が私の腕をなでる。彼の指が私の指に触れる。まるで私の肌が波立つように、そこから心地良さが生まれて、私の身体のなかを通り抜けていく。
 私は思わずため息を漏らす。
 私は彼のために生きている。彼がいなければ私は生きていることができない。彼が触れてくれなければ私は自分の存在を確かめることができない。彼が触れていないとき、私は存在していないも同然だ。
 彼の指が私の肩をなぞる。私は自分の肩の形を意識する。
 彼の指が私の乳房をなぞる。私は自分の乳房の形を意識する。そして快感に思わず声をあげる。
 あああ。

 やがて彼は私から離れていく。
 行かないで。懇願する私を彼は置き去りにする。私はまたひとりぼっちで取りのこされる。
 風が吹いてきた。
 あ、傘が飛ばされた。
 大粒の雨が容赦なく私に降りそそぐ。彼がそのことに気づいて戻ってきてくれることを私は願う。しかし、私の願いは彼に届かない。彼はもう遠くに行ってしまった。
 雨粒が私に降りそそぎ、私を濡らしていく。
 雨粒が私のなかにしみこんでいく。彼によってかろうじて形を保っていた私の身体に、容赦なくしみこんでいく。もろくも私の身体は溶けくずれていく。腕も肩も乳房も、顔も耳も頭も、みんな雨によって崩れ、雨水とともに流れていく。
 雨はどんどん強くなる。
 私の身体はいまや濡れて汚らしい灰色の砂山にしかすぎない。
 流されていく私は、雨水とともに海に流れこみ、砂浜の一部にもどっていく。
 私は、また彼が、砂浜の砂で、私を、作ってくれる、こと、を、願う、の、み。

2009年11月5日木曜日

洗濯女

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----- Jazz Story #33 -----

  「洗濯女」 水城雄


 わたしは今日も川に行く。洗濯物を抱えて。
 山々のいただきは、とうとう白いものに覆われた。朝の空気は身を切るように冷たい。
 わたしの粗末な家から川までの道は、泥や石ころですべりやすい。畑や林を縫って、だらだらとくだっていく道だ。
 立ち枯れて、開ききった穂を風に揺らしているススキが、朝の日差しをすかして光っている。
 柿の実はすっかり熟して、いくつかは地面に落ちている。渋柿だが、わたしは今年も干し柿を作った。その残りが、まだ木になっている。
 干し柿を作っても、わたしたち夫婦には子どもがいない。食べるのはわたしと、彼だけだ。
 彼は今日も山にはいっている。今日は冬にそなえ、柴を刈りに行っているのだ。昨日は大きな山芋を掘りあげてきてくれた。その前はサルノコシカケを採ってきた。
 川のせせらぎの音が近づいてきた。
 小さな川だが、昨日の雨で少し水量を増し、豊かに流れている。下のほうのよどみの手前に、彼が作ったヤナがまだ仕掛けたままになっているが、今年の漁はもう終わった。
 わたしは洗濯物の入った洗い桶を石の上に置き、川の水に手を入れた。

 水は肌を切るように冷たく、痛かった。
 わたしは歯を食いしばり、洗濯をはじめた。
 洗濯物といっしょに持ってきた洗濯板を流れに差し入れ、その上で着物をゴシゴシと洗う。水の冷たさを払いのけるように、手に力をこめる。
 ゴシゴシと着物をしごいていると、やがて手が冷たくしびれてくる。
 一枚洗い終わるごとに、わたしは手を休め、両手をこすりあわせて暖めなければならなかった。
 何度めかの手休めのとき、わたしは川面になにか浮かんでいるものを見つけた。
 上流のほうから流れてくる。
 丸いなにか。プカプカと浮かんで、こちらに流れてくる。
 それはどう見ても、桃だった。しかも、異常に大きい。
 こんな季節に桃?
 わたしは腑に落ちない気持ちのまま、川に足を踏みいれ、手をのばしてそれを取った。
 ずっしりと重い。まるでなかに、赤ん坊でも入っていそうだ。
 わたしは洗濯物を洗い桶にもどし、その上に大きな桃を乗せた。
 早く帰って、彼に見せなければ。でも、まだ彼は山からもどってきていないだろう。
 わたしたちに子どもがいたらどんなによかったのに。ふとわたしは、そう思った。

2009年11月4日水曜日

サンタの調律師

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----- Urban Cruising #22 -----

  「サンタの調律師」 水城雄


 そのちいさな講堂にはいっていくと、まず大きなクリスマス・ツリーが目にはいった。
 イルミネーションが不規則に点滅している。
 イルミネーションの前では、子供たちが元気よく駆けまわっている。

 講堂にはいっていったわたしをはじめは気にもとめていなかった子供たちも、わたしがピアノのそばに行き道具箱を広げると、たちまち興味を示しはじめた。
 床に膝をつき、道具箱の中身を出してならべていると、講堂をかけまわっていた子供たちのほとんどが、わたしのまわりに集まってしまった。
「おじいちゃん、これ、なに?」
 とりわけ好奇心が旺盛で活発そうな女の子のひとりが、わたしにたずねた。
 わたしはその子を見た。
 膝をついているわたしと、目の位置がほとんど同じくらいだ。母親にゆってもらったのか、長い髪をきれいなおさげにして、赤いリボンを結んでいる。
 わたしはこたえた。
「これはね、調律の道具なんだよ」
「チョーリツってなに?」
 女の子はたたみかけるように聞いてくる。
「調律っていうのはね、狂っているピアノの音を、ちゃんと元にもどしてやることさ」
「でも、このピアノ、狂ってなんかいないよ」
「よく聞くと狂っているのさ」
 わたしは立ちあがり、アップライト・ピアノの天蓋、前板、それから下の板などを取りはずし、弦の部分をむきだしにした。
 子供たちのあいだから、歓声があがる。
 毎年、クリスマス・イブになると、この幼稚園にやってきて、ピアノを調律するのが、わたしのなによりの楽しみなのだ。

 イルミネーションの前で、わたしは仕事をはじめた。
 ちいさなハンマー、音叉、共鳴を抑えるためのゴムのクサビ、弦を巻きあげるためのドライバー。
 椅子の上にならべられたそれらの道具に、子供たちは鼻をこすりつけるようにしている。
 わたしはゴムのクサビを弦の間に打ちこんでから、おもむろにまん中のAの音を鳴らした。それから音叉を膝にたたきつけ、ピアノの共鳴板の部分にあてがう。澄んだ正弦波の音が、ピアノの音にからまる。
 ドライバーで弦をしぼり、最初の音を合わせた。
 まわりでは、子供たちが興味シンシンでわたしの一挙手一投足を見守っている。加えて、なにごとかを口ぐちにしゃべりあっているが、音を合わせられないというほどではない。
 これで、神経質だった若い頃なら、幼稚園の先生に頼んで子供たちを遠ざけてもらったろうが、いまではむしろ子供たちがまわりにいてくれたほうが、仕事は楽しい。
 そういえば、わたしの息子にもこのような時期があったのだ。あの頃はまだ子供が多くて、町内にも子供会などというものがあった。子供会でクリスマスをしたことをおぼえている。わたしをはじめとする父親たちが交代で、サンタの役をさせられたものだ。子供の人いきれでむんむんする集会場で、あの服装をしているのはかなりつらかったものだ。
 わたしももう、このくらいの孫がいても不思議はない年齢になっているのだが、どういうわけか息子は子供を作ろうとしない。嫁とふたりで、気楽にやっているようだ。
 それもそれでよかろう、というわけだ。
 そんなことを考えながら、わたしはかなり弾きこまれて狂ってきているピアノの弦を、次々と調節していった。

 幼稚園のピアノの調律は、30分ばかりで終わった。
 そのあいだ、子供たちがいれかわりたちかわり、わたしの仕事の進行具合を点検しにやってきては、口ぐちに質問をあびせていった。
「おじいちゃん、この機械、なに?」
「どうしてこんなところにゴムをはさむの?」
「おじいちゃん、ピアノを作ったりもするの?」
 彼らにとって、わたしの仕事や仕事道具は、興味がつきないらしい。
 調律が終わると、わたしはピアノを片づけ、道具をいつもどおり、きちんとしまいこんだ。
「おわり?」
 とひとりの男の子が無邪気な顔で聞く。
「ああ、おわりだよ」
「もう弾けるの?」
「ああ、弾いていいんだよ。きみ、弾けるのかな?」
 男の子はかぶりを振った。
「あたし、弾けるよ」
 横にいた女の子が、目をかがやかせて、いった。
「ほう。それはすごい。でも、ちょっと待っててね。ちゃんと弾けるかどうか、最後にもう一度点検してみるからね」
 そういって、わたしは椅子にすわった。
 この瞬間が、わたしには一番たのしい。
 わたしは指を鍵盤に乗せると、おもむろにジングルベルを弾きはじめた。
 まわりから歓声があがった。
 弾き終え、道具箱をぶらさげて講堂から出ていくわたしのあとを、子供たちがゾロゾロとついてきた。
「おじいちゃん、ほんとはサンタさんなんでしょ?」
 ふりかえったわたしの目に、クリスマス・ツリーのイルミネーションが見えた。
 わたしはうれしくてしようがない。

2009年11月2日月曜日

嵐が来る日、ぼくたちはつどう

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----- Another Side of the View #11 -----

  「嵐が来る日、ぼくたちはつどう」 水城雄


 レースの中止が決定したのは、9時をまわってからだった。
 でも、結局、中止になることはみんなわかっていたのだ。もちろん、ぼくにもわかっていた。天気予報を注意して聞いていたものには、皆、わかっていた。
 ぼくがハーバーにやってきたわけは、ほかでもない、船が心配だったからだ。いま、ハーバーに集まってきているのも、船を気づかってやってきた者ばかりだった。
「よお。磯崎さん、来てるぜ」
 スタンのもやいの具合をたしかめていると、うしろから肩をたたかれた。〈フリーキー・ディーキー〉のオーナーの樋口さんだった。いつもながら、不精髭だらけの顔だ。フリーキー・ディーキーのバースは、ぼくたちの〈ノー・ウーマン〉の隣だった。
「知ってますよ」
 と、ぼくはこたえた。
「きみも電話でかりだされたクチかい?」
「ちがいますよ」
 すでに磯崎さんが来ていることは、船のもやいを見ればわかる。台風にそなえて、いつもの倍くらい、もやいを増強してある。あとぼくに残された仕事があるとすれば、まだ揺れの来ないキャビンでコーヒーでもわかし、オーナーの労をねぎらうくらいだ。
「きみも来いよ」
 樋口さんが手まねきした。
「なんです?」
「コーヒーがはいってる。〈デコイ〉ではじめてる」
 ぼくに残された最後の仕事も、べつのだれかに取られてしまったというわけだ。
「すぐに行きますよ」
 樋口さんに返事しておいてから、ぼくはノー・ウーマンのデッキに飛び乗った。
 なにも女っ気がないから、ノー・ウーマンという名前になったわけじゃない。オーナーの樋口さんがボブ・マーレイを大好きだから、という理由からだ。ノー・ウーマンには、「ノー・ウーマン・ノー・クライ」と続く歌詞がついている。おまえさん、泣くんじゃねえよ。
 備えが完全に終わっていることはわかっていたけど、ぼくはひとわたり、デッキ上を点検した。まだほとんど感じるほどではないけれど、ハーバーの中にはわずかなうねりがはいってきているみたいだった。マストが左右に振れ、そのたびにリギンがカチャカチャ鳴る音が聞こえた。
 泣くんじゃねえよ、おまえさん。
 そういえば、フリーキー・ディーキーというのも変わった名前だ。なんでも、60年代の後半、アメリカではやったイカレたダンスのことなんだそうだ。その頃、アメリカ中を放浪したあげく、デトロイトで自動車修理工をやって食いしのいだことのある樋口さんの思い出にちなんで、そう名付けられたのだという。
 いやはや。いろいろあるもんだ。
 デコイも、命名にはちょっと変わったいきさつを持っている。デコイのオーナーは武部さんという建築資材の会社の社長だけど、三年ばかり前、離婚した。武部さんの奥さんは、女性にしては風変わりな趣味だと思うけれど、デコイを作るのが好きだった。デコイってのは、つまりあの木でできた鴨のことだ。子どもも大きくなって、手を離れてしまうと、それこそ朝から晩までデコイ作りに熱中しちゃうんだそうだ。
 ある日、たまたま虫の居所の悪かった武部さんは、作りかけのデコイで足の踏み場もないほど散らかった部屋を見て、つい大声を出してしまった。このロクでもないデコイを片付けるか、おまえが出ていくか、どちらかにしてくれ。
 翌日、武部さんは、部屋いっぱいのデコイを抱えて、独身生活にもどった。教訓を忘れないように、武部さんは自分の船にデコイという名前をつけた。
 教訓というのは、こうだ。
「女から理不仁なことをいわれても、男から理不仁なことをいってはならない。たとえ相手が妻であろうと」
 最後にブームカバーを点検してから、ぼくはノー・ウーマンを降りた。
 ぼくがデコイのキャビンにはいっていったとき、全員がいっせいにはじけるように笑ったところだった。
「いや、きみのことじゃないよ」
 独身の武部さんが、ぼくにコーヒーをいれてくれながら、説明した。
「ある人の噂をしていたもんでね」
「だれの噂ですか?」
 ぼくはたずねた。
「だれのって……ここにいないやつに決まってるだろうが」
 みんな、ニヤニヤ笑っている。
 ぼくはコーヒーカップを受けとって、あいている席に割りこんだ。
 総勢七人。いつもの顔。いつもの笑い声。
「ああ、またあの人の噂ですね」
「そう、あの人の、な」
 磯崎さんがいった。彼の目は、おまえ、おれが点検したあとのデッキでなにしてたんだ、といっている。おれが全部やっといた。完ぺきだったろうが、え?
 ぼくはいった。
「よくないですよ、いない人の悪口をいうのは」
 背をもたれてくつろぐと、まだ揺れはほとんど感じられなかった。

2009年11月1日日曜日

じぃは今日も山に行く

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----- Jazz Story #27 -----

  「じぃは今日も山に行く」 水城雄


 じぃは今日も山に行く。
 痛めた膝をかばいながら。杖にすがって。
 晴れ渡った空。木々はすっかり葉を落としている。空には高く、オオタカが舞っている。じぃはオオタカの巣がある場所を知っている。なぜなら、オオタカの巣の近くに、毎年大きなマイタケが出る木株があるからだ。
 オオタカの鳴き声が空から降りてくる。それはときに、じぃの嫌いな音楽のように聞こえることがある。
 じぃは空を見上げ、顔をしかめる。オオタカに鳴くのをやめよといっているみたいに。
 じぃのひとり息子は音楽をなりわいとしているらしい。じぃはそれが嫌なのだ。いや、そもそも、音楽自体が気にいらない。わけがわからない。そんなものをメシの種にする人種など、とうてい信用することができない。
 じぃは今日も山に入る。マイタケを狩り、山芋を掘る。
 じぃの一日の稼ぎは、息子の嫁が家でやっているデータ入力の仕事よりも安いほどだ。
 しかし、今日も膝をかばいながら、じぃは通いなれた山道を分け入っていく。

 オオタカの巣の近くのマイタケは、今年はもう採ってしまった。
 今年も大きなマイタケが採れた。じぃはその場所をだれにも教えていない。
音楽をやっている息子にも教えない。
 だから、じぃはマイタケの株を通りすぎて、もっと山の上まで登っていく。
 汗がポタ、ポタ、と、ミズナラの枯葉の上に落ちる。
 またオオタカの鳴き声が聞こえた。
 じぃは顔をしかめ、家にいる息子の嫁のことを考えた。
 もちろん、音楽なんぞで食えるわけがない。じぃの息子なのだ。才能がないことはわかっている。しかし、どんな夢を見ていることやら、息子はふわふわと生きている。嫁はカネにならない内職に精を出している。大きな腹を抱えて。
 前から目をつけていた山芋のツルのところまでやってきた。
 じぃは手ぬぐいで汗を拭くと、小鍬を手にして土を掘りはじめた。
 ザク、ザク、ザク。
 山芋は大きいだろうか。いくらで売れるだろうか。そしてじぃは、生まれてくる赤ん坊のことを思う。
 頭上高く、オオタカの泣き声が聞こえる。