2012年11月14日水曜日

ふたつの夢「ふたつめの夢」

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  ふたつの夢「ふたつめの夢」
                            作・水城ゆう


 美容院のドアをあけたら、いらっしゃいませ、という元気な声がいくつも降ってきた。
 この美容院はオーナー美容師が自分の知り合いの知り合いで、カリスマ美容師たちのカリスマといわれているほどの腕前であり、また資格も持っている人だということだ。彼に切ってもらうのが理想ではあるが、私はとくにこだわっていない。若い美容師に交代で切ってもらっている。彼らとよもやま話をするのが楽しみでもある。
 元気な声は彼らと彼女らのもので、自分がはいっていくとすぐに、お荷物をお預かりしますこちらへどうぞ、といって丁重な扱いを受けた。
 自分はパナマの帽子と風呂敷包みを預け、鏡台の前の椅子によっこらしょと腰をかけた。
 外苑前から国立競技場に向かう途中にある店で、明るい道路に面しているのになぜか地下にあって、店内は薄暗い。しかし、明かり取りの窓が地表近くにあるので、完全な闇というわけでもない。地下特有の水のにおいというか湿気を感じる。
 ちりちりにちぢまらせた髪型の若い美容師がやってきて、今日はぼくが担当させていただきますどうぞよろしく、といってこちらの髪をちょっと触った。
 どうなさいますか、というので、任せるけどさっぱりと軽くしてくれないかなプールで泳いでいるので水に濡れた後始末が楽なのがいいんだ、と答えた。このちょっと伸びた感じはけっこうかっこいいですよもったいないですね、といわれたが、いや思いきってさっぱりとやってくれと要求した。
「そういえば、お客さん」
 と、若い美容師がいう。
「以前、この店に住んでおられたそうですね」
 自分はびっくりして聞き返そうとした。
 若い美容師はちゃきちゃきと鋏を鳴らしはじめた。切られた髪がするどく飛んで、凶器のように目に突きささるような気がして、自分は思わず目を閉じた。
「おれが? ここに?」
「ええ、オーナーからそう聞きましたけど」
 いわれてみると、そんなことがあったような気がしてきた。たしかに自分は一時期、地下室に住んでいたことがあった。光があまり差しこまなくて薄暗いことはそれほど苦でもなかったが、湿気が多いのにはまいった。業務用の除湿器を買って、四六時中回していた。バケツ一杯ほどの水が数時間おきにたまるほどだった。
 それがこの場所だったとはうっかり忘れていた。
 自分はあらためて鏡越しに店内を見回してみた。
 地下室なのに天井がかなり高い。ダクトが天井からのびていて、そこで換気がされているようだ。美容室なのに本棚がある。オーナーの趣味だろうか、床から高い天井までしっかりと作りつけられた本棚に、文学書や思想書を中心にびっしりとハードカバーが並んでいる。
 本棚がない部分の壁には額にはいった絵がかけられている。ひとつはモノクロの、目つきの鋭い猫を抱いた裸女の絵。もうひとつは「強盗」とキャプションがはいった雑誌の表紙のような絵。
 本棚といい絵といい、美容院にしてはかなり変わった内装だ。
 ここに自分が一時期住んでいたらしい。
 自分が住んでいたときは、本棚も絵もなかった。自分はほとんど本を持たない人間で、思い出してみるとソファベッドをここに置いていた。昼間はソファとして使い、夜になるとがらがらと引きのばしてベッドにし、真っ暗闇のなかで湿気を感じながら眠りについていた。
 ちゃきちゃきと飛んでくる髪をがまんして薄目をあけると、鏡のなかでは自分の背後にカウンターがあるのが見えた。カウンターにはウイスキーやリキュールの瓶がならんでいて、さらにその内側にはサイフォン式のコーヒーメーカーがあり、美容師がコーヒーをいれている。
 もうひとつ奇妙なことに、私のすぐ背後で女がひとり、光る板を持ってなにやら読みあげている。
 どうやら朗読をしているようだ。
 彼女も最近、この店のオーナーに髪を切ってもらったらしく、大胆ともいえるほど短いカットになっている。私は長い髪の彼女しか知らないので、まるで知らない人を見るような気がする。
 ここに自分が住んでいたときは、だれに遠慮することもなく音を出せたので、ピアノを置いて、昼夜かまわず演奏していた。
 いまはカウンターもあるし、私が住んでいたころほど広くはなくなっているので、ピアノはなく、せいぜいカウンターの端っこに小さなキーボードとコンピューターを置いてささやかに演奏する程度だ。
 さて、ようやくここにたどりついた。
 私の演奏をいまあなたは聴いている。
 彼女の朗読をいまあなたは聴いている。
 彼女がいままさに読んでいるのは、この文章だ。
 これは私の夢なのか、それともあなたの夢なのか。

ふたつの夢「ひとつめの夢」

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  ふたつの夢「ひとつめの夢」
                            作・水城ゆう


 家族そろってヘリコプターに乗ることになった。
 ヘリコプターに乗るのは生まれて初めてのことだ。家族全員が生まれて初めてヘリコプターに乗るのだ。
 ヘリコプターは私が通っている小学校の校庭に降りていて、乗りたい者が順番にならんで乗りこむのを待っている。
 ヘリコプターは軍用のものらしく、ボディが迷彩色に塗られていた。それがひっきりなしに飛び立ったり、着陸したりして、人々を乗降させている。
 家族連れが多い。
 私も父と母、私と妹の一家四人で列にならんだ。私たちの前には三百人くらいの人がいるように見えた。いつになったら乗れるんだろうと、私は心配になった。そして少しおしっこをしたいことにも気づいた。乗れるようになるまでおしっこを我慢できるだろうか。
 私たちの前には太った家族がいた。おなじ四人家族で、ただし子どもはふたりの女の子。両親もふたりの子どももとても太っている。たぶん四人合わせた体重は四百キロはあるにちがいない。そんなに太った一家を乗せてもヘリコプターは平気なのだろうか、私たちが乗る前に墜落して私が乗れない事態になるのはいやだな、と利己的なかんがえが浮かんできた。
 それにしても、私が通っている小学校でこのふたりを見たことはなかった。これほど目立って太っているふたり姉妹がいたら、絶対に知っているはずなのに。よその小学校からわざわざヘリコプターに乗りに来たのだろうか。その強欲な感じになんとなく嫌な気持ちになってしまった。
 そしたらとたんにヘリコプターに乗りたくなくなってきた。
 ちょうどヘリコプターが乗客を乗せて飛びたっていくところで、ものすごい砂埃が舞いあがり、列をなぎたおさんばかりの強風を吹きかけてきた。私は埃を避けて薄目をあけ、それでも飛びたっていくヘリコプターを見ていた。
 上昇していくヘリコプターのさらに上空に、ぽつんと小さな点のように、空をゆっくりと横切っていく飛行機の影が雲の合間に見えた。私はとたんに、どうせ乗るならヘリコプターなんかではなく飛行機のほうがいいというかんがえに取りつかれた。
「父さん、ぼく、ヘリコプターより飛行機に乗りたい」
 すると父と母が同時にきっとした目で私を見た。しかられたような気がして、私は妹のほうに目をそらした。妹も私をきっとした目つきでにらんでいる。
 私は言い訳するようにつけくわえた。
「でもいまはヘリコプターでいいな。ヘリコプターに乗りたい」
 父がこたえた。
「おまえは飛行機のほうがいいのか」
「ううん、ヘリコプターでいいよ」
 私は急に膀胱がぱんぱんに張っていることに気づいた。
「飛行機のほうがいいんだな」
「別にどっちでもいいけど、いまはヘリコプターでいい」
 父の目は私の心のうちをするどく見すかすようだった。
「わかった。ヘリコプターはやめにして、飛行機に乗ることにする」
「え、いいよ、ヘリコプターで」
「いや、飛行機だ」
 父がそういった瞬間、私たちの前にならんでいた人々の姿がかき消え、目の前に巨大なジャンボジェット機がどすんと現れた。
 いったいどこから現れたんだ、といぶかる間もなく、タラップを父と母と妹がのぼりはじめたので、私もあわてておしっこをがまんしながらタラップをのぼった。
 飛行機のなかはがらんとしていて、座席がひとつもなく、窓もなく、まるでトンネルのようだった。窓はなかったけれど、壁全体が光っていて、まぶしいくらい明るかった。しかし、窓がないとせっかくの景色が見られないと思って、残念な気持ちになった。そもそも、どこに座ればいいんだろう。便所はあるんだろうか。おしっこがしたくてたまらない。
 がらんとした飛行機のなかに、ぱたぱたという物音が響いていた。音のするほうを見ると、なにやら空中に浮かんでいる。ふわふわと不安定に上下しながら移動している。
 よく見ると、それはミニチュアのヘリコプターで、迷彩色に塗られていた。模型のヘリコプターをだれかが操っているのだろう。それにしてもなぜ飛行機のなかにヘリコプターが?
 ぱたぱたと不安定にホバリングするヘリコプターを前に立ちすくんでいる父と母を押しのけ、私はもっとよく見ようと近づいた。ヘリコプターのほうも私に近づいてきた。不思議にこわくはなかった。
 ヘリコプターが私の目の前でとまったので、なかまでよく見ることができた。ヘルメットをつけたパイロットが小刻みに操縦桿を動かしているのが見えた。後部座席にいる乗客たちまでよく見えた。
 後部座席にひしめくように座っているのは、あの太った四人家族だった。私のほうを見てびっくりしたような顔をしている。
 それを見たとたん、私の膀胱がはちきれた。

2012年11月8日木曜日

舞踏病の女

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  「舞踏病の女」
                            作・水城ゆう


 飛んでいる象に人が乗っているプリント柄の服を着て、あなたは踊りつづけている。
 回遊魚が泳ぎつづけるように、息をするのも忘れてあなたは踊りつづける。
 もちろん息はしているのだけれど、その息すらも踊りの一部であるかのようにあなたは踊る。

 時間さえあればあなたは踊っている。
 仕事の合間の休み時間にも、通勤中にも、家に帰ってからも。
 だれもいない会議室で、プラットフォームで、トイレで、湯船のなかで。
 キッチンで洗い物をしながら、あなたはステップを踏む。

 調子がいいときも悪いときも、風邪ぎみのときも花粉症のときも。
 重い病気にかかって入院していたときも、あなたは横になったまま踊りを夢想しつづけていたし、実際に身体はわずかに動いていたかもしれない。
 医師や看護婦や見舞い人に気づかれないほどかすかにではあったけれど。

 わたしはあなたのようには踊れないけれど、あなたを見ているうちに私も踊っているのかもしれない、ということに気づいた。
 足が悪くてあなたのようにステップは踏めないけれど、わたしは踊っている。
 ありがとう、わたしに気づかせてくれて。
 ありがとう、あなたのおかげで私もダンサーになれた。

 あなたにとって歩くことは踊ること。
 わたしにとっても歩くことは踊ること。
 あなたにとって座るのは踊ること。
 わたしにとっても座るのは踊ること。
 傘をさしたり、バッグを肩にかけたり、眼鏡をずりあげたり、クラリネットを吹いたり、あなたのおかげでいつもわたしは踊れるようになった。

 ご飯を食べるとき、あなたの箸がおどる。
 ご飯を食べるとき、わたしの箸がおどる。
 茶碗が踊る。
 ナイフとフォークが踊る。
 顎と歯が踊る。
 あなたと話すとき、あなたの唇が踊る。
 あなたと話すとき、わたしの唇が踊る。
 舌が踊る。
 顔面が踊る。

 象が空を飛ぶことを夢見るように、わたしもあなたも華麗なステップの時間を夢想している。
 わたしたちは踊ることに取りつかれた女。
 あなたもわたしも舞踏病の女。
 踊らずには生きていけない女。

2012年10月23日火曜日

The Woman of Tea

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  「The Woman of Tea」
                       作・岡倉覚三/水城ゆう


 茶は薬用として始まり後飲料となる。シナにおいては八世紀に高雅な遊びの一つとして詩歌の域に達した。十五世紀に至り日本はこれを高めて一種の審美的宗教、すなわち茶道にまで進めた。茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々《じゅんじゅん》と教えるものである。茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。

 小さな箒で畳を小刻みに掃くような音をたてて茶を泡立てる。さっさっさっさっ。これまでに何度も繰り返してきた動作なのに、この音が彼に聞こえていると思うといつも緊張する。音の調子で彼は私のこころの乱れを聴きとっているのではないかと心配して、茶筅の動作が乱れないように注意しているのに、注意すればするほど手先に余分な力がはいってしまって動作が乱れるような気がする。ささっさっさっ。この音を彼は聴いているのだろうか。私の勝手な憶測なのだろう、彼はそんなことを気にもとめずに仕事に没頭しているにちがいない。そうは思うのだけれど、彼のことが気になってこれほどまでに緊張してしまうのは、私が彼にたいしていまだに、結婚していらいずっと、二十年以上にもなるというのにひけめを感じつづけているせいにちがいない。

 茶の原理は普通の意味でいう単なる審美主義ではない。というのは、倫理、宗教と合して、天人《てんじん》に関するわれわれのいっさいの見解を表わしているものであるから。それは衛生学である、清潔をきびしく説くから。それは経済学である、というのは、複雑なぜいたくというよりもむしろ単純のうちに慰安を教えるから。それは精神幾何学である、なんとなれば、宇宙に対するわれわれの比例感を定義するから。それはあらゆるこの道の信者を趣味上の貴族にして、東洋民主主義の真精神を表わしている。

彼は書斎の座卓に向かって正座し、黙々と仕事をつづけている。彼が仕事に使っているのは西洋ペンで、インキ壷にペン先をひたしては書きつづけている。ときおりペンを休め、肩肘をついて庭先をながめるが、その間もしきりになにかをかんがえているようだ。そうやってまたペンを動かしはじめる。ペン先からつむがれていく文字は私には読めない英国語で、彼は英国語をも流暢に話す。その巧みさはだれもおよぶ者がないほどだということを、私はいろいろな人から聞いている。無学な私が彼にひけめを覚えつづけていることのひとつの理由ともなっている。私が彼と結婚したのは、まだ十四歳のことだった。どうして学を身につけることができたろうか。

 日本が長い間世界から孤立していたのは、自省をする一助となって茶道の発達に非常に好都合であった。われらの住居、習慣、衣食、陶漆器、絵画等――文学でさえも――すべてその影響をこうむっている。いやしくも日本の文化を研究せんとする者は、この影響の存在を無視することはできない。茶道の影響は貴人の優雅な閨房《けいぼう》にも、下賤《げせん》の者の住み家にも行き渡ってきた。わが田夫は花を生けることを知り、わが野人も山水を愛《め》でるに至った。俗に「あの男は茶気《ちゃき》がない」という。もし人が、わが身の上におこるまじめながらの滑稽《こっけい》を知らないならば。また浮世の悲劇にとんじゃくもなく、浮かれ気分で騒ぐ半可通《はんかつう》を「あまり茶気があり過ぎる」と言って非難する。

茶筅を小刻みに動かし、充分に茶を泡立てる。先端からしずくが落ちないように茶筅をゆっくりと回しながら碗からはなし、脇に立てる。いまの音の乱れは夫に聴かれただろうか。さっさっささっ。茶柱虫という昆虫はこの茶をたてるようなかすかな声で鳴くという。しかし私は茶柱虫の鳴き声をいまだ聴いたことはない。夫は聴いたことがあるだろうか。聴いてみようか。大事な仕事をしている彼にそんなつまらない質問をするのはためらわれる。彼はまた来週にも横浜から出港する。今度はアメリカのボストンという街に行くのだそうだ。彼の頭のなかには茶柱虫のことなど想いうかぶすきまはないだろう。小さな盆に茶菓子と茶をのせ、私はおそるおそる書斎へと入っていく。

 よその目には、つまらぬことをこのように騒ぎ立てるのが、実に不思議に思われるかもしれぬ。一杯のお茶でなんという騒ぎだろうというであろうが、考えてみれば、煎《せん》ずるところ人間享楽の茶碗《ちゃわん》は、いかにも狭いものではないか、いかにも早く涙であふれるではないか、無辺を求むる渇《かわき》のとまらぬあまり、一息に飲みほされるではないか。してみれば、茶碗をいくらもてはやしたとてとがめだてには及ぶまい。人間はこれよりもまだまだ悪いことをした。酒の神バッカスを崇拝するのあまり、惜しげもなく奉納をし過ぎた。軍神マーズの血なまぐさい姿をさえも理想化した。してみれば、カメリヤの女皇に身をささげ、その祭壇から流れ出る暖かい同情の流れを、心ゆくばかり楽しんでもよいではないか。象牙色《ぞうげいろ》の磁器にもられた液体琥珀《こはく》の中に、その道の心得ある人は、孔子《こうし》の心よき沈黙、老子《ろうし》の奇警、釈迦牟尼《しゃかむに》の天上の香にさえ触れることができる。

 私が盆を畳の上に置くと、彼はすぐに気づいて身体をこちらに向け、ありがとうという。茶菓子を取って口にいれ、ゆっくりと味わう。菓子は練り菓子で、彼は歯を使わずに唇と上あごのあいだでつぶすようにしながら味わっている。その口の動きを私はしばらく見てから、あわてて目をそらす。濃い髭の間から見える唾液に濡れた唇の動きが、なにか見てはならない生々しいもののような気がしてしまう。その唇は私のものといってもいいというのに。その唇は私の夫のものなのに。

 おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖《そで》の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮《さつりく》を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。

菓子を味わってから彼は無造作に茶碗をつかみ、茶をすする。彼がいま書いているのは『茶の本』なのだという。英国語で書いて、日本の茶の文化のすばらしさを世界に知らしめるという大切な仕事に取りかかっているのだ、と彼はいう。その本はニューヨークというところにある出版社から出版されるのだという。私の知らない世界。彼の世界。私の夫の私が知らない世界。さっさっさっ。

 いつになったら西洋が東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう。われわれアジア人はわれわれに関して織り出された事実や想像の妙な話にしばしば胆《きも》を冷やすことがある。われわれは、ねずみや油虫を食べて生きているのでないとしても、蓮《はす》の香を吸って生きていると思われている。これは、つまらない狂信か、さもなければ見さげ果てた逸楽である。インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心をば宿命論の結果といってあざけられていた。はなはだしきは、われわれは神経組織が無感覚なるため、傷や痛みに対して感じが薄いとまで言われていた。

 私にも私の世界がある。私のなかにも彼の知らない世界がある。彼はそのことを想像したことがあるだろうか。机に向かい、むずかしい本を読んだり書いたりしている彼。日本の美術教育のために日々奔走している彼。日本と外国を行ったり来たり、外国人と流暢な英国語で議論を戦わしたりしている彼。そのいかめしい顔の奥に、十四歳で結婚し、子どもを産み育て、家をまもり、ささいな日々のことをすみずみまで気にし、気にやんで生きているちっぽけな女の世界について、想像が浮かんだことはあるだろうか。いけない、こんなふうにかんがえては。彼はきっと無学でちっぽけで私のことも全部わかりかんがえていてくれるにちがいないのだから。このようにかんがえるいやしい私のことも、彼は全部つつみこんでかんがえているにちがいない。さっさっさっ。すべてをみすかされているのかもしれないと思うと、私は彼の前にいる身が縮んでいってしまうような気がする。

 西洋の諸君、われわれを種にどんなことでも言ってお楽しみなさい。アジアは返礼いたします。まだまだおもしろい種になることはいくらでもあろう、もしわれわれ諸君についてこれまで、想像したり書いたりしたことがすっかりおわかりになれば。すべて遠きものをば美しと見、不思議に対して知らず知らず感服し、新しい不分明なものに対しては、口には出さねど憤るということがそこに含まれている。諸君はこれまで、うらやましく思うこともできないほど立派な徳を負わされて、あまり美しくて、とがめることのできないような罪をきせられている。わが国の昔の文人は――その当時の物知りであった――まあこんなことを言っている。諸君には着物のどこか見えないところに、毛深いしっぽがあり、そしてしばしば赤ん坊の細切《こまぎ》り料理を食べていると! 否、われわれは諸君に対してもっと悪いことを考えていた。すなわち諸君は、地球上で最も実行不可能な人種と思っていた。というわけは、諸君は決して実行しないことを口では説いているといわれていたから。

 私がたてた茶を飲みおえると、彼は身体の向きを変え、ふたたび座卓に向かって仕事をはじめる。彼の頭のなかでどれほどかむずかしく、私には理解のできない言葉やかんがえがうずまいているのか、私には知ることができない。しかし、私の眼にいま彼の姿が映っているように、彼の眼にも私の姿が映ることはあるだろう。彼がどれだけ私の知らない世界に行き、私の見ないものを見たとしても、彼はやはりここにもどってきて私の姿を眼に映し、私がたてた茶を味わうだろう。私はただそのことを思い、茶柱虫のようにかすかな存在であってもここにいて、この家にいつづけて、さやけき物音を立てながら生きつづけるだろう。さっさっさっ。さっさっさっ。

2012年10月11日木曜日

朗読者

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  「朗読者」
                            作・水城ゆう


 つづける。つづける。読みつづける。彼は読みつづける。彼は読みつづける。
 彼は読みつづける。老人に向かって。若者に向かって。少女に向かって。会社員に向かって。学生に向かって。浪人生に向かって。美大生に向かって。音楽家に向かって。小説家に向かって。プログラマーに向かって。デザイナーに向かって。クラリネット奏者に向かって。陶芸家に向かって。パティシエに向かって。女に向かって。あなたに向かって。
 彼は読みつづける。学校の校庭で。ギャラリーで。飲み屋の一角で。ホールで。講堂で。集会所で。アトリエで。往来で。商店街で。森のなかで。海辺で。多くの人々の前で。少しの人の前で。被災地で。戦火のなかで。あそこで。ここで。
 彼は読みつづける。日にあたりながら。ライトに照らされながら。雑踏に声をかき消されながら。子どもにからかわれながら。着信音にさえぎられながら。オルガンを聴きながら。エンヤに包まれながら。居眠りする老人を気にしながら。あなたを見ながら。
 来る日も来る日も彼は読みつづける。
 あなたは彼が読みつづけていることで世界がありつづけることを知る。彼が読みやめるときが来ることなどあなたは想像することができない。世界がありつづけるかぎり彼は読みつづけるだろう。彼が読みやめるその瞬間をあなたは知ることはない。
 しかしそのときはたしかに来る。
 彼は読みつづける。それが過去形になるときがたしかにある。しかしいま、彼は読みつづける。あなたに向かって。

2012年8月22日水曜日

ギターを弾く少年

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  「ギターを弾く少年」
                            作・水城ゆう



  ギター演奏から。
  ゆったりと静かだが、メジャーキーの曲想で。
  しばらくギター演奏。のあと、朗読が演奏にかぶさってはいる。

 風が吹いていました。
 もう夕方に近くなっていましたが、まだ日がさしていました。
 まだ春は来ていなかったけれど、今日は暖かい一日だったのです。
 やわらかな風が木々を歌わせていました。おだやかなリズムと暖かなハーモニーをかなでていました。森が音楽をかなでていたのです。
 その森のなかから、男の子はやってきました。

  ギター演奏がゆっくりと終わる。
  演奏が終わるのを待ってから。

 男の子はストラップを肩から斜めにかけて、ギターを背負っていました。身体の割にいかにもギターは大きく見えましたが、よく見るとギターは普通の大人用のものよりひとまわり小さいのです。それでも男の子には大きすぎるほどでした。
 ほかには男の子はつばのある帽子を目深にかぶっていて、そのせいでどんな表情なのかよく見えませんでした。そして大きな革靴を履いていました。革靴は靴ひもが締まっていましたが、長すぎるせいで蝶結びの部分は大きくなって地面に少しこすれていました。
 着ているものは質素なズボンとセーターだけ。セーターは首と肘のところにほころびがありました。
 森のなかから出てきた男の子は、森のはずれに切り株を見つけると、そちらに近づいていきました。その様子をさっきからずっと、ひとりのおじいさんが見ていました。おじいさんは天気がいいと、毎日この森のはずれの広っぱにやってきて、小川のへりにある古い柳の切り株に腰をおろしてひなたぼっこをするのが習慣なのです。
 少年が切り株を吟味し、身体をかがめてフッとほこりを吹きはらってから、そこに座るようすを、おじいさんは全部見ていました。少年はおじいさんに気がついているのかいないのか、こちらには目を向けません。でも、そう遠くはないのです。小川のへりに何本かはえているクルミの木を二本ばかり渡せば届きそうな距離なのです。
 少年は切り株に座ると、背負っていたギターをぐるっと身体の前に回し、抱えました。そしてしずかにギターを弾きはじめました。

  静かなアルペジオだけの演奏、しばらく。
  その演奏にかぶせて。

 少年の指には大きすぎるように見えるギターから、静かな音が聴こえてきました。その音は風が歌わせている森のざわめきに溶けこみ、ひとつの曲をかなでているみたいでした。
 森のなかからは鳥のさえずりも聴こえてきました。鳥はまるで森と少年のギターの伴奏にあわせてメロディを歌っているみたいでした。
 別の種類の鳥もさえずりはじめました。メロディが重なり、ハーモニーのように聴こえます。おじいさんは思わず耳をそばだたせました。
 そういえば、しばらく音楽を聴いていなかったことを思い出しました。しばらくどころか、この以前にいつ音楽を聴いたのか、思い出せないほどです。若いころはあんなに夢中になっていろいろな音楽を聴いていたというのに。しかしこのごろは森の音や鳥のさえずり、小川のせせらぎがあるので、音楽を聴く必要がなくなっていたのです。

  アルペジオの演奏、続く。
  コードとアルペジオパターンはゆっくりと変化していく。
  しばらくの間を置いて。
  朗読が始まったら徐々にギターは抜けていく。

 いつのまにか、ひろっぱに女の子の手を引いたお母さんらしき人と、おばあちゃんらしき人がやってきていました。街のほうから来たようです。おじいさんも見覚えのある人たちでした。時々おかあさんと女の子、あるいはおばあちゃんと女の子、そしてたいていは三人でこの広っぱに来て、しばらく遊んで帰るのです。
 三人はすぐに男の子に気づき、しばらく見ていましたが、女の子がお母さんの手を振りほどいて男の子のほうに駆けていきました。お母さんは「待って」と口を開きかけましたが、間に合いませんでした。そこでお母さんも女の子を追って少年に近づいていきました。
 女の子が男の子の前に立つと、男の子は演奏をやめました。そして女の子を見ました。ふたりは同じくらいの年に見えました。女の子のほうが少し小さいかもしれません。
 追いついてきたお母さんが少年を見下ろすと、いいました。
「こんにちは。ギター、上手なのね」
 少年はお母さんのほうを見上げましたが、なにもいいません。挨拶もしません。
 お母さんはちょっと困った顔になりましたが、またいいました。
「どこから来たの? あなた、ひとり? お母さんかお父さんはいないの?」
 男の子はなにも答えません。
 おばあちゃんが横からいいました。
「ぼく、お話はできる?」
 なにもいいません。お母さんがいいました。
「どこか悪いのかしら。見たところ病気でもなさそうだし。迷子かしら」
「警察に届けたほうがいいかねえ」

  ギター、コードストロークでリズミカルに入る。
  マイナーキーのコード進行。
  徐々に激しく。
  ギターにかぶせて。

 急に風が強まってきました。
 冷たい風が森をざわつかせながらやってきて、広っぱのみんなに吹きつけてきました。鳥のさえずりはいつのまにか聴こえなくなっていきました。
 みんなは思わず首をすくめて、襟をかきあわせました。
 そのとき、女の子が男の子にいいました。
「寒くない?」

  ギターのコードストロークが、にわかに静かになり、コード進行も変化する。

「あたしの上着、貸したげようか」
 男の子は首を横に振りました。それを見て、みんなは初めて、男の子が話を聞いて理解していたことがわかりました。
 それまでこちらでだまって見ていたおじいさんがゆっくりと立ちあがると、みんなのところへ歩いていきました。

  ギター演奏、とまる。

 おじいさんに気づいた三人が振り返りました。おじいさんは三人に黙ってうなずくと、少年の前に立ち、いいました。
「この風は天気が変わる前兆だ。日が暮れるし、これから急に冷えてくるよ。もうお家にお帰り」
 それを聞いたお母さんがいいました。
「この子のこと、知っておられるんですか?」
「いや、知らない子だ」
「どこに住んでるのかしら」
「わからない。しかし、帰るところはあるんだろう。私たちが詮索する必要はないだろうさ」

  ギター演奏。今度は曲。できればメロディをともなった曲。
  すぐに朗読はいる。

「お腹、すいてない?」
 女の子がききました。男の子が答える前に、女の子は背中にせおっていた小さな鞄をおろすと、中からリンゴをひとつ取りました。
「これ、あげる」
 リンゴが少年に手渡されました。
「ありがとう」
 少年がそういうのを聞いて、みんなちょっとびっくりしました。
 少年は立ちあがり、リンゴをズポンのポケットに入れると、ギターをぐるっと背中のほうに回しました。
 少年はやってきたときとおなじように、また森のなかへと帰っていきました。ズボンのポケットが大きくふくらんでいるのが、みんなにも見えました。
 風がすこしおさまり、森のざわめきのなかにまた鳥の声がもどってきていました。
「また会える?」
 女の子がそうたずねましたが、男の子の答える声は聞き取れないまま、森の中へと消えていきました。
「きっとまた会えるさ」
 おじいさんがそういうと、女の子はおじいさんを見上げ、ニコッと笑ってから、お母さんとおばあちゃんの手を求めてつなぎました。

2012年6月19日火曜日

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   「蛍」

 日が暮れるのを待ちわびて、ぼくらは夜の道に出た。
 ぼくらというのは、小学校にあがったばかりの四歳下の妹とぼく、そして父と母の四人のことだ。
 夕方にさっと通りすぎた通り雨のにおいが夏の強い日射しの名残を残した地面から立ちのぼり、それがこれから行こうとしている水場のことを予感させて、ぼくと妹は興奮ぎみだった。
 ぼくは竹箒、妹はうちわを持っている。これで蛍をとろうというのだ。
 父が数年前、市街地の一番はずれに新築した家は、国道を越えると繊維工場と田んぼしかなかった。しかし、そろそろ国道の向こう側にも田んぼを造成して家が建ちはじめていた。
 ぼくが小学校にあがったばかりのころは、まだ田んぼに「肥《こやし》」をまいている光景が見られたものだったが、このごろは太いホースのような長い袋を田んぼの上にわたして、ふたりがかりで白い農薬をまいている光景に変わっていた。それにともなって、学校帰りによく用水路にはいりこんでカワニナを採っていた遊びも、カワニナそのものがいなくなってしまってやらなくなっていた。もっとも、高学年になるとそんな子どもっぽい遊びはやらなくてもいいと思っていた。
 家の庭に面した縁側にすわっていると、蛍が池の上をちょくちょく横切ったものだが、最近ではそんな光景も見られなくなってしまった。市街地やその近くにはもう蛍は来なくなってしまったのだった。
 でも、山際の、山間部の水門から直接引いてきている用水路のあたりには、蛍がたくさんいることをぼくは知っていた。
 国道を渡って、まだ家もまばらな田んぼ道を歩いて、山際のほうに向かう。明かりがだんだん少なくなってきて、山裾の用水路に近づいたころにはほとんど真っ暗で、道路と田んぼの境界すらわかりにくいほどだ。
「田んぼに落ちないように気をつけろよ」
 父が注意をうながす。
 夜空を見上げると、満天の星。目をこらすと白鳥座のあたりに天の川が見えた。
 流れ星が見られるといいのに、とぼくは思ったけれど、それはかなえられなかった。ペルセウス座流星群の時期にはまだ早かった。
 目的地である山際の用水路のところまでやってきた。
 待つまでもなく、ぼくたちはすでに蛍の光のまっただなかにいた。たくさんの青白い光が点滅をくりかえしながら、不規則な航跡を描いてぼくらを取りかこんでいる。
 そばにある用水路から水の音が聞こえている。そちらのほうから無数の光が沸きあがってくる。羽化したばかりの蛍が乱舞しているのだ。
 ぼくは竹箒をふるって光をからめとり、つかまえた蛍を虫かごにそっと入れた。何匹も入れた。妹もうちわで払い落とした蛍をつかまえて、虫かごに入れた。
 そうやって十数匹の蛍をつかまえたぼくたちは、また真っ暗な道を引き返して家にもどった。
 その夜、ぼくと妹は、蛍を入れた虫かごを枕元に置いて寝た。虫かごにはススキの葉っぱもいっしょに入れてあり、池の水に虫かごごとつけて水滴をつけてあった。
 布団にもぐりこんで虫かごを見ると、虫かごの中で蛍が音もなく点滅を繰り返している。ぼくはそれを飽きることなく見つめていた。
 蛍の虫かごからは、すこしツンと鼻をつく、独特のにおいが流れてきた。それが蛍のにおいなのだとぼくは思った。
 光を見ているといつまでも眠れないような気がしたけれど、もちろんそんなことはなく、ぼくはいつの間にか眠ってしまっていた。
 朝、目覚めると、明るい日差しのなかで、蛍は黒い炭のかけらのように、ススキの葉っぱのあいだにわずかに確認できるくらいだった。
 その虫かごをそのあとどうしたのかは、結局思いだすことはできない。