(C)2012 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author
「ギターを弾く少年」
作・水城ゆう
ギター演奏から。
ゆったりと静かだが、メジャーキーの曲想で。
しばらくギター演奏。のあと、朗読が演奏にかぶさってはいる。
風が吹いていました。
もう夕方に近くなっていましたが、まだ日がさしていました。
まだ春は来ていなかったけれど、今日は暖かい一日だったのです。
やわらかな風が木々を歌わせていました。おだやかなリズムと暖かなハーモニーをかなでていました。森が音楽をかなでていたのです。
その森のなかから、男の子はやってきました。
ギター演奏がゆっくりと終わる。
演奏が終わるのを待ってから。
男の子はストラップを肩から斜めにかけて、ギターを背負っていました。身体の割にいかにもギターは大きく見えましたが、よく見るとギターは普通の大人用のものよりひとまわり小さいのです。それでも男の子には大きすぎるほどでした。
ほかには男の子はつばのある帽子を目深にかぶっていて、そのせいでどんな表情なのかよく見えませんでした。そして大きな革靴を履いていました。革靴は靴ひもが締まっていましたが、長すぎるせいで蝶結びの部分は大きくなって地面に少しこすれていました。
着ているものは質素なズボンとセーターだけ。セーターは首と肘のところにほころびがありました。
森のなかから出てきた男の子は、森のはずれに切り株を見つけると、そちらに近づいていきました。その様子をさっきからずっと、ひとりのおじいさんが見ていました。おじいさんは天気がいいと、毎日この森のはずれの広っぱにやってきて、小川のへりにある古い柳の切り株に腰をおろしてひなたぼっこをするのが習慣なのです。
少年が切り株を吟味し、身体をかがめてフッとほこりを吹きはらってから、そこに座るようすを、おじいさんは全部見ていました。少年はおじいさんに気がついているのかいないのか、こちらには目を向けません。でも、そう遠くはないのです。小川のへりに何本かはえているクルミの木を二本ばかり渡せば届きそうな距離なのです。
少年は切り株に座ると、背負っていたギターをぐるっと身体の前に回し、抱えました。そしてしずかにギターを弾きはじめました。
静かなアルペジオだけの演奏、しばらく。
その演奏にかぶせて。
少年の指には大きすぎるように見えるギターから、静かな音が聴こえてきました。その音は風が歌わせている森のざわめきに溶けこみ、ひとつの曲をかなでているみたいでした。
森のなかからは鳥のさえずりも聴こえてきました。鳥はまるで森と少年のギターの伴奏にあわせてメロディを歌っているみたいでした。
別の種類の鳥もさえずりはじめました。メロディが重なり、ハーモニーのように聴こえます。おじいさんは思わず耳をそばだたせました。
そういえば、しばらく音楽を聴いていなかったことを思い出しました。しばらくどころか、この以前にいつ音楽を聴いたのか、思い出せないほどです。若いころはあんなに夢中になっていろいろな音楽を聴いていたというのに。しかしこのごろは森の音や鳥のさえずり、小川のせせらぎがあるので、音楽を聴く必要がなくなっていたのです。
アルペジオの演奏、続く。
コードとアルペジオパターンはゆっくりと変化していく。
しばらくの間を置いて。
朗読が始まったら徐々にギターは抜けていく。
いつのまにか、ひろっぱに女の子の手を引いたお母さんらしき人と、おばあちゃんらしき人がやってきていました。街のほうから来たようです。おじいさんも見覚えのある人たちでした。時々おかあさんと女の子、あるいはおばあちゃんと女の子、そしてたいていは三人でこの広っぱに来て、しばらく遊んで帰るのです。
三人はすぐに男の子に気づき、しばらく見ていましたが、女の子がお母さんの手を振りほどいて男の子のほうに駆けていきました。お母さんは「待って」と口を開きかけましたが、間に合いませんでした。そこでお母さんも女の子を追って少年に近づいていきました。
女の子が男の子の前に立つと、男の子は演奏をやめました。そして女の子を見ました。ふたりは同じくらいの年に見えました。女の子のほうが少し小さいかもしれません。
追いついてきたお母さんが少年を見下ろすと、いいました。
「こんにちは。ギター、上手なのね」
少年はお母さんのほうを見上げましたが、なにもいいません。挨拶もしません。
お母さんはちょっと困った顔になりましたが、またいいました。
「どこから来たの? あなた、ひとり? お母さんかお父さんはいないの?」
男の子はなにも答えません。
おばあちゃんが横からいいました。
「ぼく、お話はできる?」
なにもいいません。お母さんがいいました。
「どこか悪いのかしら。見たところ病気でもなさそうだし。迷子かしら」
「警察に届けたほうがいいかねえ」
ギター、コードストロークでリズミカルに入る。
マイナーキーのコード進行。
徐々に激しく。
ギターにかぶせて。
急に風が強まってきました。
冷たい風が森をざわつかせながらやってきて、広っぱのみんなに吹きつけてきました。鳥のさえずりはいつのまにか聴こえなくなっていきました。
みんなは思わず首をすくめて、襟をかきあわせました。
そのとき、女の子が男の子にいいました。
「寒くない?」
ギターのコードストロークが、にわかに静かになり、コード進行も変化する。
「あたしの上着、貸したげようか」
男の子は首を横に振りました。それを見て、みんなは初めて、男の子が話を聞いて理解していたことがわかりました。
それまでこちらでだまって見ていたおじいさんがゆっくりと立ちあがると、みんなのところへ歩いていきました。
ギター演奏、とまる。
おじいさんに気づいた三人が振り返りました。おじいさんは三人に黙ってうなずくと、少年の前に立ち、いいました。
「この風は天気が変わる前兆だ。日が暮れるし、これから急に冷えてくるよ。もうお家にお帰り」
それを聞いたお母さんがいいました。
「この子のこと、知っておられるんですか?」
「いや、知らない子だ」
「どこに住んでるのかしら」
「わからない。しかし、帰るところはあるんだろう。私たちが詮索する必要はないだろうさ」
ギター演奏。今度は曲。できればメロディをともなった曲。
すぐに朗読はいる。
「お腹、すいてない?」
女の子がききました。男の子が答える前に、女の子は背中にせおっていた小さな鞄をおろすと、中からリンゴをひとつ取りました。
「これ、あげる」
リンゴが少年に手渡されました。
「ありがとう」
少年がそういうのを聞いて、みんなちょっとびっくりしました。
少年は立ちあがり、リンゴをズポンのポケットに入れると、ギターをぐるっと背中のほうに回しました。
少年はやってきたときとおなじように、また森のなかへと帰っていきました。ズボンのポケットが大きくふくらんでいるのが、みんなにも見えました。
風がすこしおさまり、森のざわめきのなかにまた鳥の声がもどってきていました。
「また会える?」
女の子がそうたずねましたが、男の子の答える声は聞き取れないまま、森の中へと消えていきました。
「きっとまた会えるさ」
おじいさんがそういうと、女の子はおじいさんを見上げ、ニコッと笑ってから、お母さんとおばあちゃんの手を求めてつなぎました。
2012年8月22日水曜日
2010年2月5日金曜日
The Underground
(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author
----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #24 -----
「The Underground」 水城雄
暗闇にノックの音が響く。
こんこん、こんこんこん。
彼は闇のなかで顔をしかめる。
だれだ、こんな時間に。いや……そもそもいまは何時だ。
集中していた。彼が手にしているのは、アフリカの民族楽器。粗末なカリンバ。金属板の響きを共鳴させるためのひょうたんが、先日落とした時に割れて欠けてしまった。しかし、まだ望ましい響きは失われていない。少なくともこの地下室では。
ほぼ正確にわかっている照明のスイッチを探り当て、明かりをつける。白く乾いた光が、地下室を妙に平面的に照らし出す。
いつものことだ。
彼はまばたきをこらえて、ドアをあける。
青いストライプの制服を着た男が、こぶりの箱を抱えてそこに立っている。なぜか驚いたような表情を浮かべている。
「てっきりお留守かと……」
三十歳くらいだろうか。彼よりはだいぶ若い。
制服男が箱を彼に差し出す。中身はなんなのか。そうだ、命をつなぐための最小限の食料品。ネットで定期的に取りよせている。
「サインでもけっこうです」
男が去ると、彼はもう荷物のことを忘れて、孤独な仕事にもどる。中断された貴重な時間がおしい。
白っぽい照明のスイッチをいそいで切る。
時間を音響で再組織すること。それが彼の仕事だ。時間軸のなかに、あるタイミングで音をならべる。音程と音色と強弱のパラメーターを与えた音を、時間軸にそってならべていく。暗闇のなかで。
カリンバの金属片をひとつ、爪弾いてみる。カリンバという楽器の音色を持った5E音程の音が彼の地下室に響き、短い反響を残して消えていく。正確に一・六秒後に隣の金属片をはじく。5Fシャープの音が響き、そして消える。
かつては彼もその音列を記録していた。紙に記録し、再現できるようにしていた。彼のその仕事を、人は作曲と呼んでいた。
いま彼は、記録することをやめている。
時間を音響で再組織すること。時空を人が支配できる唯一の仕事、それがこれだ。
音楽だ。
音は時間と空間のなかで生まれ、そして消えていく。しかしそれは偶然でも無益でもない。くっきりと意図されたものだ。そこには歓喜がある。記録など意味はない。
音楽。
それは人の人生のようなものだ。
いや、人生が音楽のようなものか。
彼は暗闇のなか、かすかに震える指でカリンバの金属片をはじきつづける。
Authorized by the author
----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #24 -----
「The Underground」 水城雄
暗闇にノックの音が響く。
こんこん、こんこんこん。
彼は闇のなかで顔をしかめる。
だれだ、こんな時間に。いや……そもそもいまは何時だ。
集中していた。彼が手にしているのは、アフリカの民族楽器。粗末なカリンバ。金属板の響きを共鳴させるためのひょうたんが、先日落とした時に割れて欠けてしまった。しかし、まだ望ましい響きは失われていない。少なくともこの地下室では。
ほぼ正確にわかっている照明のスイッチを探り当て、明かりをつける。白く乾いた光が、地下室を妙に平面的に照らし出す。
いつものことだ。
彼はまばたきをこらえて、ドアをあける。
青いストライプの制服を着た男が、こぶりの箱を抱えてそこに立っている。なぜか驚いたような表情を浮かべている。
「てっきりお留守かと……」
三十歳くらいだろうか。彼よりはだいぶ若い。
制服男が箱を彼に差し出す。中身はなんなのか。そうだ、命をつなぐための最小限の食料品。ネットで定期的に取りよせている。
「サインでもけっこうです」
男が去ると、彼はもう荷物のことを忘れて、孤独な仕事にもどる。中断された貴重な時間がおしい。
白っぽい照明のスイッチをいそいで切る。
時間を音響で再組織すること。それが彼の仕事だ。時間軸のなかに、あるタイミングで音をならべる。音程と音色と強弱のパラメーターを与えた音を、時間軸にそってならべていく。暗闇のなかで。
カリンバの金属片をひとつ、爪弾いてみる。カリンバという楽器の音色を持った5E音程の音が彼の地下室に響き、短い反響を残して消えていく。正確に一・六秒後に隣の金属片をはじく。5Fシャープの音が響き、そして消える。
かつては彼もその音列を記録していた。紙に記録し、再現できるようにしていた。彼のその仕事を、人は作曲と呼んでいた。
いま彼は、記録することをやめている。
時間を音響で再組織すること。時空を人が支配できる唯一の仕事、それがこれだ。
音楽だ。
音は時間と空間のなかで生まれ、そして消えていく。しかしそれは偶然でも無益でもない。くっきりと意図されたものだ。そこには歓喜がある。記録など意味はない。
音楽。
それは人の人生のようなものだ。
いや、人生が音楽のようなものか。
彼は暗闇のなか、かすかに震える指でカリンバの金属片をはじきつづける。
2010年1月4日月曜日
アンリ・マティスの七枚の音(2)
(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author
----- ファッションPR紙掲載 -----
「アンリ・マティスの七枚の音(2)」 水城雄
待ち合わせのカフェには、すでに彼がいた。
ざっくりした麻のジャケットを着て、通りを行く人々をながめていた。
ロイスを見つけると、いった。
「すまなかったね、仕事中なのに呼び出したりして」
ロイスはカフェオレを注文した。
男のジャケットの内ポケットから絵葉書が出てきて、彼女に渡された。“音楽”と同じ緑の丘と青い空。やはり赤い肌の男女が五人、手をつないで踊っている。人体がアラベスク模様を作っている。
「これが最後の一枚ですか」
ロイスは彼を見た。
「そう。音楽の次は、当然、ダンスだろう?」
「どうしてわたしにこれを?」
「なにかプレゼントしたくてね。といっても、ぼくができるのは、つまらない小説を書くこと。つまらない小説など、きみも読みたくはないだろう。で、好きな絵を旅先から送ることにしたわけだ。ぼくにしてみれば、きみに音楽をプレゼントしたつもりだったんだがね」
「音楽を?」
「マティスの絵で構成された組曲のつもり。そういうふうには感じてもらえなかったかな。七枚の組曲として」
「八枚でしょう。これをいれれば」
「いや、七枚だ。最初の一枚――マティスの写真は、いってみれば、オーケストラのチューニングみたいなものだよ。ほら、演奏の前にオーボエが最初に音を出して、皆が音を合わせるだろう。あれだよ」
そういって、彼は笑みを浮かべた。いたずらが見つかった子どもの照れかくしのような笑顔。
「あの写真にはぼくもずいぶん助けられたよ。仕事がはかどらないときはあれを見る。きみの仕事はうまくいってる?」
「あまり……」
「そうか。じゃ、あの写真を見ることだね」
「あなたが仕事に行きづまることがあるなんて、考えられないけれど」
「馬鹿いっちゃいけない。あるさ、当然。でもぼくは、あんなものを書きたいわけじゃないんだ」
一瞬、男の顔に苦渋が浮かんだ。ウェイトレスが運んできたカフェオレを、ロイスは口に運んだ。
「きみはいくつ?」
「二十二です」
「まだ生まれたてだね。生まれていないといってもいいかもしれない。でも、きみの作る音はいい。きみはきっと、ものごとを感じとることを知っている人なんだ。うらやましいよ。きみぐらいの年齢のとき、ぼくはなにも知らなかった。まあ、いまだってそう事情は変わっちゃいないけれど。きみは自分を信じて、そのまままっすぐ進めばいい。ストレートに、シンプルに」
男はコーヒーカップを口に運び、眉をしかめた。
ロイスは、彼のことを誤解していたかもしれない、と思った。
「いいことを教えよう。ものごとには必ず、いつくかの側面がある。人もいくつもの側面を持っている。けっして人に見せない側面も、だれだって持っている」
「あなたも?」
「当然。でも、ひとつ、きみに見せてあげた」
ふいに彼が立ちあがった。
「悪かったね、時間をさかせてしまって。きみの仕事がはかどることを祈ってるよ。ファンのひとりとしてね。今日は会えてよかった」
また子どもみたいな笑顔になったと思うと、ウインクされた。
ちょっとあっけに取られた気分で、ロイスは男の後ろ姿を見送った。
彼女はもうしばらくそこにいて、カフォオレを半分飲んだ。
帰ろうと彼からもらったダンスの絵を取ると、その下にふたり分のコーヒー代がきちんと置いてあった。
外は少し風が出て、薄日が差しはじめている。
(おわり)
Authorized by the author
----- ファッションPR紙掲載 -----
「アンリ・マティスの七枚の音(2)」 水城雄
待ち合わせのカフェには、すでに彼がいた。
ざっくりした麻のジャケットを着て、通りを行く人々をながめていた。
ロイスを見つけると、いった。
「すまなかったね、仕事中なのに呼び出したりして」
ロイスはカフェオレを注文した。
男のジャケットの内ポケットから絵葉書が出てきて、彼女に渡された。“音楽”と同じ緑の丘と青い空。やはり赤い肌の男女が五人、手をつないで踊っている。人体がアラベスク模様を作っている。
「これが最後の一枚ですか」
ロイスは彼を見た。
「そう。音楽の次は、当然、ダンスだろう?」
「どうしてわたしにこれを?」
「なにかプレゼントしたくてね。といっても、ぼくができるのは、つまらない小説を書くこと。つまらない小説など、きみも読みたくはないだろう。で、好きな絵を旅先から送ることにしたわけだ。ぼくにしてみれば、きみに音楽をプレゼントしたつもりだったんだがね」
「音楽を?」
「マティスの絵で構成された組曲のつもり。そういうふうには感じてもらえなかったかな。七枚の組曲として」
「八枚でしょう。これをいれれば」
「いや、七枚だ。最初の一枚――マティスの写真は、いってみれば、オーケストラのチューニングみたいなものだよ。ほら、演奏の前にオーボエが最初に音を出して、皆が音を合わせるだろう。あれだよ」
そういって、彼は笑みを浮かべた。いたずらが見つかった子どもの照れかくしのような笑顔。
「あの写真にはぼくもずいぶん助けられたよ。仕事がはかどらないときはあれを見る。きみの仕事はうまくいってる?」
「あまり……」
「そうか。じゃ、あの写真を見ることだね」
「あなたが仕事に行きづまることがあるなんて、考えられないけれど」
「馬鹿いっちゃいけない。あるさ、当然。でもぼくは、あんなものを書きたいわけじゃないんだ」
一瞬、男の顔に苦渋が浮かんだ。ウェイトレスが運んできたカフェオレを、ロイスは口に運んだ。
「きみはいくつ?」
「二十二です」
「まだ生まれたてだね。生まれていないといってもいいかもしれない。でも、きみの作る音はいい。きみはきっと、ものごとを感じとることを知っている人なんだ。うらやましいよ。きみぐらいの年齢のとき、ぼくはなにも知らなかった。まあ、いまだってそう事情は変わっちゃいないけれど。きみは自分を信じて、そのまままっすぐ進めばいい。ストレートに、シンプルに」
男はコーヒーカップを口に運び、眉をしかめた。
ロイスは、彼のことを誤解していたかもしれない、と思った。
「いいことを教えよう。ものごとには必ず、いつくかの側面がある。人もいくつもの側面を持っている。けっして人に見せない側面も、だれだって持っている」
「あなたも?」
「当然。でも、ひとつ、きみに見せてあげた」
ふいに彼が立ちあがった。
「悪かったね、時間をさかせてしまって。きみの仕事がはかどることを祈ってるよ。ファンのひとりとしてね。今日は会えてよかった」
また子どもみたいな笑顔になったと思うと、ウインクされた。
ちょっとあっけに取られた気分で、ロイスは男の後ろ姿を見送った。
彼女はもうしばらくそこにいて、カフォオレを半分飲んだ。
帰ろうと彼からもらったダンスの絵を取ると、その下にふたり分のコーヒー代がきちんと置いてあった。
外は少し風が出て、薄日が差しはじめている。
(おわり)
2010年1月3日日曜日
アンリ・マティスの七枚の音(1)
(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author
----- ファッションPR紙掲載 -----
「アンリ・マティスの七枚の音(1)」 水城雄
太陽は空全体をおおった薄い雲のむこうにある。
よく光のまわったこのような日、彼女の部屋のベンジャミンはライトボックスの上に置いたリバーサルフィルムの被写体のように見える。
きれいだ。
でも、彼女はそこでひとつ、ため息をついた。なぜ会うことを承知してしまったのか。仕事もはかどっていないというのに。
ちょっと気が重い。相手は、その人の書いた小説を読んだことがなくても、だれでも名前を知っている流行作家。
一時間前、電話のむこうで彼がいった。
「こっちに帰ってきている。会えないだろうか」
ロイスがことわる口実をさがしていると、彼はつけ加えた。
「まだ送っていない絵葉書が一枚あるんだ。それを渡したいと思って」
絵葉書がなければ、そしてそれが「一枚」じゃなければ、会う約束はしなかったと思う。
彼女は答えた
「仕事があるので、少しの時間だけなら」
彼から最初の絵葉書が送られてきたのは、ちょうど半月前。絵葉書というより、写真だ。光の差しこむアトリエで、ひとりの太った老人が立っている。長い杖を、壁に立てかけたキャンバスに突きつけ、しきりになにかを計算している風情だ。老人は晩年のアンリ・マティスであり、写真は制作現場を撮影したものだ。画家というより、大学の教授かなにかのように見える。
葉書の表には、差出人の名前と、
「パリにて」
という言葉だけが書かれていた。
数日後、二通めの葉書が送られてきた。“コリウールのフランス窓”と名付けられたマティスの絵だった。
縦に区切られた画面。単純化された色面。よく見なければ、窓というよりも、純粋に色彩で構成された抽象絵画としか思えない。が、色そのものの配置が、見る者にある種の感情を呼び起こすみたいだ。とくに淡い水色、淡い緑の色彩に、心を動かされるような気がする。
その絵を画集で見た覚えがあった。表には、
「マルセイユにて」
とあった。
その後も、数日おきに絵葉書が送られてきた。いずれも室内の描写で、単純な色面で構成されていたり、逆に装飾的なアラベスク模様が描かれていたり。
彼と最初に出会ったのは、ある小さな音楽祭のレセプションでのことだった。ロイスはその音楽祭のために、曲を提供していた。バイオリンとビオラ・ダ・ガンバのための小品。
ロンドンからやってきたバイオリン奏者と話していると、その小説家が割りこんできた。
「あなたの曲、聴きましたよ」
ロイスが少し前に出したアルバムのことをいっているらしい。
「じつにいい。シンプルでストレートな音だ。しかも、これほど若くて美しい人だとは知らなかった」
「ありがとうございます」
儀礼的な笑みを返した。
「それにとても男性的だと思う。女性特有の湿度がなくて、ぼくは好きだな」
これは新手の口説き文句だろうか、とロイスは考えた。女優たちとの派手な噂のある流行作家。
自分となにかの接点があるとは思えないその男と、いま会う約束をした。
ロイスはピアノの横の白い壁に視線をむけた。
最初の写真から数えて四枚めの葉書が送られてきたとき、彼女はそれらをピンで壁にとめた。仕事場のマティス、コリウールのフランス窓、金魚鉢の絵、“ピアノの稽古”と題された絵。
そのあとも絵葉書は続いて、いま、全部で七枚がピンでとめられている。赤い大きな室内、“夢”と題名の女性を描いた絵、そして最後が“音楽”。
こうやって見ていると、なにかメッセージを伝えているように思える。彼はこの絵葉書を送ることで、なにをいいたかったのだろうか。
葉書の投函地は全部ことなっている。パリからはじまって、南フランスのマルセイユに飛び、それからニース、リヨン、ブルゴーニュ地方と移動している。最後の“音楽”は、ふたたびパリだ。緑色の地面に立ったりすわったりしている赤い肌の五人の男。ひとりはバイオリンを弾き、ひとりは二本の笛のようなものを口にくわえている。あとの三人はそれを聴いている。背景は青い空だ。1910年の作とある。
描かれた年代に意味があるのだろうか。
それとも、題名に意味があるのだろうか。
あるいは投函地に?
いま、最後の一枚を渡してくれるという。八枚めの絵葉書。“音楽”の次の一枚。音楽の次には、なにが来るのか。
興味をうまくかき立てられてしまったのは、彼の思うつぼなのかもしれない。そうやって女たちの興味をかき立てては、スキャンダルを巻き起こすのかもしれない。
でも、ロイスはどうしても、最後の一枚を知りたかった。
仕事が行きづまっていることもある。次のアルバムのための最初の一曲。それがどうしても書けない。イメージが固まらないのだ。最初の一曲が固まらなければ、全体も作れない。
渓流を渡ろうとして、うまく連続した飛び石を見つけられずにいるような気分だった。
あの小説家も、最初の一行が書けずに立ち往生することがあるのだろうか。
((2)につづく)
Authorized by the author
----- ファッションPR紙掲載 -----
「アンリ・マティスの七枚の音(1)」 水城雄
太陽は空全体をおおった薄い雲のむこうにある。
よく光のまわったこのような日、彼女の部屋のベンジャミンはライトボックスの上に置いたリバーサルフィルムの被写体のように見える。
きれいだ。
でも、彼女はそこでひとつ、ため息をついた。なぜ会うことを承知してしまったのか。仕事もはかどっていないというのに。
ちょっと気が重い。相手は、その人の書いた小説を読んだことがなくても、だれでも名前を知っている流行作家。
一時間前、電話のむこうで彼がいった。
「こっちに帰ってきている。会えないだろうか」
ロイスがことわる口実をさがしていると、彼はつけ加えた。
「まだ送っていない絵葉書が一枚あるんだ。それを渡したいと思って」
絵葉書がなければ、そしてそれが「一枚」じゃなければ、会う約束はしなかったと思う。
彼女は答えた
「仕事があるので、少しの時間だけなら」
彼から最初の絵葉書が送られてきたのは、ちょうど半月前。絵葉書というより、写真だ。光の差しこむアトリエで、ひとりの太った老人が立っている。長い杖を、壁に立てかけたキャンバスに突きつけ、しきりになにかを計算している風情だ。老人は晩年のアンリ・マティスであり、写真は制作現場を撮影したものだ。画家というより、大学の教授かなにかのように見える。
葉書の表には、差出人の名前と、
「パリにて」
という言葉だけが書かれていた。
数日後、二通めの葉書が送られてきた。“コリウールのフランス窓”と名付けられたマティスの絵だった。
縦に区切られた画面。単純化された色面。よく見なければ、窓というよりも、純粋に色彩で構成された抽象絵画としか思えない。が、色そのものの配置が、見る者にある種の感情を呼び起こすみたいだ。とくに淡い水色、淡い緑の色彩に、心を動かされるような気がする。
その絵を画集で見た覚えがあった。表には、
「マルセイユにて」
とあった。
その後も、数日おきに絵葉書が送られてきた。いずれも室内の描写で、単純な色面で構成されていたり、逆に装飾的なアラベスク模様が描かれていたり。
彼と最初に出会ったのは、ある小さな音楽祭のレセプションでのことだった。ロイスはその音楽祭のために、曲を提供していた。バイオリンとビオラ・ダ・ガンバのための小品。
ロンドンからやってきたバイオリン奏者と話していると、その小説家が割りこんできた。
「あなたの曲、聴きましたよ」
ロイスが少し前に出したアルバムのことをいっているらしい。
「じつにいい。シンプルでストレートな音だ。しかも、これほど若くて美しい人だとは知らなかった」
「ありがとうございます」
儀礼的な笑みを返した。
「それにとても男性的だと思う。女性特有の湿度がなくて、ぼくは好きだな」
これは新手の口説き文句だろうか、とロイスは考えた。女優たちとの派手な噂のある流行作家。
自分となにかの接点があるとは思えないその男と、いま会う約束をした。
ロイスはピアノの横の白い壁に視線をむけた。
最初の写真から数えて四枚めの葉書が送られてきたとき、彼女はそれらをピンで壁にとめた。仕事場のマティス、コリウールのフランス窓、金魚鉢の絵、“ピアノの稽古”と題された絵。
そのあとも絵葉書は続いて、いま、全部で七枚がピンでとめられている。赤い大きな室内、“夢”と題名の女性を描いた絵、そして最後が“音楽”。
こうやって見ていると、なにかメッセージを伝えているように思える。彼はこの絵葉書を送ることで、なにをいいたかったのだろうか。
葉書の投函地は全部ことなっている。パリからはじまって、南フランスのマルセイユに飛び、それからニース、リヨン、ブルゴーニュ地方と移動している。最後の“音楽”は、ふたたびパリだ。緑色の地面に立ったりすわったりしている赤い肌の五人の男。ひとりはバイオリンを弾き、ひとりは二本の笛のようなものを口にくわえている。あとの三人はそれを聴いている。背景は青い空だ。1910年の作とある。
描かれた年代に意味があるのだろうか。
それとも、題名に意味があるのだろうか。
あるいは投函地に?
いま、最後の一枚を渡してくれるという。八枚めの絵葉書。“音楽”の次の一枚。音楽の次には、なにが来るのか。
興味をうまくかき立てられてしまったのは、彼の思うつぼなのかもしれない。そうやって女たちの興味をかき立てては、スキャンダルを巻き起こすのかもしれない。
でも、ロイスはどうしても、最後の一枚を知りたかった。
仕事が行きづまっていることもある。次のアルバムのための最初の一曲。それがどうしても書けない。イメージが固まらないのだ。最初の一曲が固まらなければ、全体も作れない。
渓流を渡ろうとして、うまく連続した飛び石を見つけられずにいるような気分だった。
あの小説家も、最初の一行が書けずに立ち往生することがあるのだろうか。
((2)につづく)
2009年12月22日火曜日
セカンドステージ
(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author
----- Jazz Story #13 -----
「セカンドステージ」 水城雄
それはセカンドステージのことだった。
いつものように、ひとり、ピアノを弾いていると、女がおれのすぐ前に座った。ピアノのまわりにもカウンターが切ってあって、そこでも酒が飲めるようになっている。
女がまっすぐにおれを見つめた。
高校生のガキみたいに、どぎまぎしてしまいそうになる。
そのとき弾いていた「ソフィスティケーティッド・レディ」に集中する。ダイアトニックなコード進行を多用した、けっこうややこしい曲なのだ。
と、女が言った。
「なにがあってもそのまま弾きつづけてね」
なに? おれはピアノを弾きつづけながら、聞き返した。リズムをくずすことなく客と会話するなんてのは、いつもやっていることだ。どうってことない。
「ピアノの下であたしの銃が、あなたの股間をねらっているわ」
なんだ? いったいなにを話しているんだ?
「うそじゃない。ベレッタM一九二六。知り合いから買ったの。あなたを殺すために」
「おれを殺す? なんのために」
頭がおかしいのか、この女。
「演奏をつづけてね。演奏が止まったら撃つわ。リズムを乱しても死ぬわよ」
「なぜこんなことをする」
「恨みをはらすため。あたしのリクエストを全部まちがえずに弾けたら、命だけはたすけてあげる」
そういって、女はピアノの下からちらりと手をあげてみせた。
たしかにその手には、小ぶりの銃が握られているのだった。
おれは女のリクエストで「ラブ・フォー・セール」を弾いていた。
リクエストは全部弾くこと。もし弾けなかったら、その場で撃ち殺される。
コード進行やリズムを間違えても、殺される。おれのこのステージの持ち時間は、あと十五分ばかり。
そのあいだ、無事に演奏を終えられれば、命は助けてもらえるという。
女が一方的に押しつけてきたルールだ。銃の威力を使って。
おれがなにをしたっていう?
「やっと見つけたの、この店。さんざん探したわ」
「悪いが、きみのことを覚えていないようだ」
「あなたらしいわ。そうやって人を死ぬほど傷つけて平気なのよ」
「おれがきみになにをしたのか、教えてくれないか」
「ごめんだわ。教えない。次のリクエストよ。ニアネス・オブ・ユー」
幸い、知っていた。
ジャズのスタンダードナンバーを知っているというのは、メロディとコード進行を覚えていることを意味する。
おれがニアネス・オブ・ユーを弾きはじめると、女はいった。
「命拾いしたわね。でも、次の曲はどうかしら」
いったいこれはどういうゲームなんだ。
「せめてきみの名前を教えてくれないか」
おれは過去、関係のあった女の顔を思い出しながら、たずねた。しかし、記憶のなかに目の前の女の顔はない。けっこうな美人だというのに。
「教えない。あなたにはすでに一度、教えたから」
混乱したまま、ニアネス・オブ・ユーを弾きつづけた。
「次のリクエストは、オール・オブ・ユーよ」
それを聞いて、おれは思い出した。この女のことを。
オール・オブ・ミーという曲がある。おれはその曲と、似た題名のオール・
オブ・ユーを、混乱して覚えることができないのだ。そんな話をしたことがある。
どちらかがCのキーで、どちらかがEフラットのキーだ。
「弾くのをやめる?」
せかされて、おれは決断した。そしてCのキーで弾きはじめた。
「それはオール・オブ・ミーだわ」
女がいった。うれしそうに。
Authorized by the author
----- Jazz Story #13 -----
「セカンドステージ」 水城雄
それはセカンドステージのことだった。
いつものように、ひとり、ピアノを弾いていると、女がおれのすぐ前に座った。ピアノのまわりにもカウンターが切ってあって、そこでも酒が飲めるようになっている。
女がまっすぐにおれを見つめた。
高校生のガキみたいに、どぎまぎしてしまいそうになる。
そのとき弾いていた「ソフィスティケーティッド・レディ」に集中する。ダイアトニックなコード進行を多用した、けっこうややこしい曲なのだ。
と、女が言った。
「なにがあってもそのまま弾きつづけてね」
なに? おれはピアノを弾きつづけながら、聞き返した。リズムをくずすことなく客と会話するなんてのは、いつもやっていることだ。どうってことない。
「ピアノの下であたしの銃が、あなたの股間をねらっているわ」
なんだ? いったいなにを話しているんだ?
「うそじゃない。ベレッタM一九二六。知り合いから買ったの。あなたを殺すために」
「おれを殺す? なんのために」
頭がおかしいのか、この女。
「演奏をつづけてね。演奏が止まったら撃つわ。リズムを乱しても死ぬわよ」
「なぜこんなことをする」
「恨みをはらすため。あたしのリクエストを全部まちがえずに弾けたら、命だけはたすけてあげる」
そういって、女はピアノの下からちらりと手をあげてみせた。
たしかにその手には、小ぶりの銃が握られているのだった。
おれは女のリクエストで「ラブ・フォー・セール」を弾いていた。
リクエストは全部弾くこと。もし弾けなかったら、その場で撃ち殺される。
コード進行やリズムを間違えても、殺される。おれのこのステージの持ち時間は、あと十五分ばかり。
そのあいだ、無事に演奏を終えられれば、命は助けてもらえるという。
女が一方的に押しつけてきたルールだ。銃の威力を使って。
おれがなにをしたっていう?
「やっと見つけたの、この店。さんざん探したわ」
「悪いが、きみのことを覚えていないようだ」
「あなたらしいわ。そうやって人を死ぬほど傷つけて平気なのよ」
「おれがきみになにをしたのか、教えてくれないか」
「ごめんだわ。教えない。次のリクエストよ。ニアネス・オブ・ユー」
幸い、知っていた。
ジャズのスタンダードナンバーを知っているというのは、メロディとコード進行を覚えていることを意味する。
おれがニアネス・オブ・ユーを弾きはじめると、女はいった。
「命拾いしたわね。でも、次の曲はどうかしら」
いったいこれはどういうゲームなんだ。
「せめてきみの名前を教えてくれないか」
おれは過去、関係のあった女の顔を思い出しながら、たずねた。しかし、記憶のなかに目の前の女の顔はない。けっこうな美人だというのに。
「教えない。あなたにはすでに一度、教えたから」
混乱したまま、ニアネス・オブ・ユーを弾きつづけた。
「次のリクエストは、オール・オブ・ユーよ」
それを聞いて、おれは思い出した。この女のことを。
オール・オブ・ミーという曲がある。おれはその曲と、似た題名のオール・
オブ・ユーを、混乱して覚えることができないのだ。そんな話をしたことがある。
どちらかがCのキーで、どちらかがEフラットのキーだ。
「弾くのをやめる?」
せかされて、おれは決断した。そしてCのキーで弾きはじめた。
「それはオール・オブ・ミーだわ」
女がいった。うれしそうに。
2009年12月4日金曜日
Here's That Rainy Day
(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author
----- Jazz Story #11 -----
「Here's That Rainy Day」 水城雄
そうなんだ、ひとり。
珍しい? そうかな。そうか。そうだな、このところ、ひとりで来ることなんてなかったね。
いつもの。オンザロックで。いや、ダブルじゃなくてシングルで。
今日は静かだね。
そんなことはないだろう。つぶれやしないさ。今日はたまたまだろう。いつも繁盛してるじゃないか。だから、最近はなんとなく来にくくってさ。
もう何年になる、ここ? 10年? すごいじゃないか。やらないの、10周年とか?
ふうん、そりゃマスターらしいや。そのほうがいいかもな。うん、そのほうがいい。
それにしても、今日び、どんなことだって10年も続けるってのは大変なことだ。えらいよ、マスター。おれみたいに、ただ会社にぶらさがって、給料をもらってるだけじゃないもんな、こういう客商売は。
いや、お世辞じゃないって。本気だよ。本気でいってる。
これ、だれ?
ギターデュオ? 最近の? 珍しいじゃない。
なんて読むんだ、これ。ジーン・ベルト……ベルトンチーニ? イタリア系かい? それとジャック・ウイルキンス。
いいじゃない。気にいったよ。おれも買おうかな。
お、ライブなんだ。
こいつらも10年も20年もきちんとギターに向かい合ってやってきたんだろうな。じゃなきゃ、こんな演奏、できないもんな。
男と女だって、10年続けるのは大変なことさ。そう思わないか、マスター?
彼の前には、バーボンのはいったグラスが置かれている。
バーボンはメイカーズマーク。いつもこれを飲んできた。
かかっているのは、「ヒヤズ・ザット・レイニー・デイ」。これも彼の好きな曲だ。この聞きなれないギターデュオの演奏もいい。
静かな演奏の、音がとぎれる合間に、グラスのなかの氷がとける音が聞こえそうな気がする。
彼は上着の内ポケットに煙草をさぐった。
そうだ、ちょうど切らしていたんだ。
と、目の前に、一本振り出した煙草の箱が差し出された。彼が吸っている銘柄だ。マスターが吸っているものとはちがう。
昨日、彼女が来ましてねと、マスターがいった。そういえば、彼女はときどき、もらい煙草をして、一本だけ吸うことがあった。
抜き取り、口にくわえると、マスターがライターで火をつけてくれた。
煙草のかおりは、彼女の思い出を運んでくる。
彼はバーボンの残りをひと息にあおった。
しかたがないさ。もとからわかっていたことじゃないか。おれには妻も子どももいる。いつまでもつづくようなことじゃなかった。2年? 3年? 10年も20年もつづくなんて、彼女も信じていたわけじゃないだろう。
胃を熱くするアルコールの感触。
わずかに甘い煙草のにおい。
静かなギターの音色。
そして、思い出はいつも、苦い。
Authorized by the author
----- Jazz Story #11 -----
「Here's That Rainy Day」 水城雄
そうなんだ、ひとり。
珍しい? そうかな。そうか。そうだな、このところ、ひとりで来ることなんてなかったね。
いつもの。オンザロックで。いや、ダブルじゃなくてシングルで。
今日は静かだね。
そんなことはないだろう。つぶれやしないさ。今日はたまたまだろう。いつも繁盛してるじゃないか。だから、最近はなんとなく来にくくってさ。
もう何年になる、ここ? 10年? すごいじゃないか。やらないの、10周年とか?
ふうん、そりゃマスターらしいや。そのほうがいいかもな。うん、そのほうがいい。
それにしても、今日び、どんなことだって10年も続けるってのは大変なことだ。えらいよ、マスター。おれみたいに、ただ会社にぶらさがって、給料をもらってるだけじゃないもんな、こういう客商売は。
いや、お世辞じゃないって。本気だよ。本気でいってる。
これ、だれ?
ギターデュオ? 最近の? 珍しいじゃない。
なんて読むんだ、これ。ジーン・ベルト……ベルトンチーニ? イタリア系かい? それとジャック・ウイルキンス。
いいじゃない。気にいったよ。おれも買おうかな。
お、ライブなんだ。
こいつらも10年も20年もきちんとギターに向かい合ってやってきたんだろうな。じゃなきゃ、こんな演奏、できないもんな。
男と女だって、10年続けるのは大変なことさ。そう思わないか、マスター?
彼の前には、バーボンのはいったグラスが置かれている。
バーボンはメイカーズマーク。いつもこれを飲んできた。
かかっているのは、「ヒヤズ・ザット・レイニー・デイ」。これも彼の好きな曲だ。この聞きなれないギターデュオの演奏もいい。
静かな演奏の、音がとぎれる合間に、グラスのなかの氷がとける音が聞こえそうな気がする。
彼は上着の内ポケットに煙草をさぐった。
そうだ、ちょうど切らしていたんだ。
と、目の前に、一本振り出した煙草の箱が差し出された。彼が吸っている銘柄だ。マスターが吸っているものとはちがう。
昨日、彼女が来ましてねと、マスターがいった。そういえば、彼女はときどき、もらい煙草をして、一本だけ吸うことがあった。
抜き取り、口にくわえると、マスターがライターで火をつけてくれた。
煙草のかおりは、彼女の思い出を運んでくる。
彼はバーボンの残りをひと息にあおった。
しかたがないさ。もとからわかっていたことじゃないか。おれには妻も子どももいる。いつまでもつづくようなことじゃなかった。2年? 3年? 10年も20年もつづくなんて、彼女も信じていたわけじゃないだろう。
胃を熱くするアルコールの感触。
わずかに甘い煙草のにおい。
静かなギターの音色。
そして、思い出はいつも、苦い。
2009年12月3日木曜日
Come Rain Or Come Shine
(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author
----- Jazz Story #10 -----
「Come Rain Or Come Shine」 水城雄
そうなの。今日はひとり。
ううん、とくにどうってわけでもないんです。なんとなくひとりで飲みたい気分になっただけ。
そうね、マスター、いつもの。うん、モスコーミュール。
雨はまだだけど、なんとなく生暖かくていや。あたし、梅雨って苦手なんです。マスターは?
梅雨どきにあう曲って、どんなのがあるんですか?
雨の歌。
ふうん、それ、どう訳すんだろう。
「降っても晴れても」?
そういえば、村上春樹に紀行文に「雨天晴天」というのがあったけど、関係あるのかな。ギリシャとトルコの話なんだけど。タコを料理して食べる話があったんだけど、ギリシャで食べるタコってどんな感じなんだろう。
ギリシャって行ったことあります? 一度行ってみたいなあ。
マスターは好きですか、村上春樹?
え、そうなの? あんまり男の人で好きっていう人にあったことないんですよね。でも、いいですよね。わたしは好き。
「中国行きのスローボート」もジャズのスタンダードナンバーなんですか。ふーん。ロリンズ? オンナ・スローボート・トゥ・チャイナっていうんですか。
この曲、いまかかっているのはなんていうんですか?
あ、これが「カム・レイン・カム・シャイン」なんだ。
ふーん、ウイントン・ケリー。知らないなあ。
店には彼女以外、客はだれもいない。
バーテンダーの池田は、カウンターの端の換気扇の下で煙草を吸っている。
シングルノートを多用したウイントン・ケリーの明快なピアノソロの合間に、エアコンの音がかすかに聞こえている。
静かな夜だった。
彼にはじめてこの店に連れてきてもらったときも、こんな静かな夜だった。
彼はジャズが好きで、しかし彼女はまったく知らなかった。聴くのはいつもロックかJポップ。
ほんとをいうと、いまでもジャズはよくわからない。でも、この店の雰囲気は大好きだ。
彼と別れようと決めたとき、最後にもう一度ここに来てみようと思った。ここは彼のホームグラウンドの店。別れればもう二度と来ることもないだろう。
マスター、この曲はなんという曲、と彼女は聞いた。枯葉ですよと、マスターが答えた。ふうん、秋の曲ね。
灰皿と、煙草を一本くれないかと、マスターに頼んだ。
ずっとやめていた煙草を、彼からこの店でひさしぶりにもらい煙草したことを思いだしたのだ。あのときの煙草の味は、はっきりと覚えている。
マスターがあたらしい煙草の封を切っている。自分の煙草はまだ残っているのに。
一本だけでいいのよ。
わかってますよ。でも、あの方とおなじ煙草を吸いたいんでしょう?
あたらしい煙草を一本振りだし、彼女に差しだす。
抜き取り、差し出されたライターの火をつけた。
ふうー。
マスター、だれだっけ、このピアノ。
ウイントン・ケリーですよ。
ふうん。
たなびいている煙を払うように、ウイントンのシングルノートがいくつもころがってきて、彼女の目からこぼれた。
Authorized by the author
----- Jazz Story #10 -----
「Come Rain Or Come Shine」 水城雄
そうなの。今日はひとり。
ううん、とくにどうってわけでもないんです。なんとなくひとりで飲みたい気分になっただけ。
そうね、マスター、いつもの。うん、モスコーミュール。
雨はまだだけど、なんとなく生暖かくていや。あたし、梅雨って苦手なんです。マスターは?
梅雨どきにあう曲って、どんなのがあるんですか?
雨の歌。
ふうん、それ、どう訳すんだろう。
「降っても晴れても」?
そういえば、村上春樹に紀行文に「雨天晴天」というのがあったけど、関係あるのかな。ギリシャとトルコの話なんだけど。タコを料理して食べる話があったんだけど、ギリシャで食べるタコってどんな感じなんだろう。
ギリシャって行ったことあります? 一度行ってみたいなあ。
マスターは好きですか、村上春樹?
え、そうなの? あんまり男の人で好きっていう人にあったことないんですよね。でも、いいですよね。わたしは好き。
「中国行きのスローボート」もジャズのスタンダードナンバーなんですか。ふーん。ロリンズ? オンナ・スローボート・トゥ・チャイナっていうんですか。
この曲、いまかかっているのはなんていうんですか?
あ、これが「カム・レイン・カム・シャイン」なんだ。
ふーん、ウイントン・ケリー。知らないなあ。
店には彼女以外、客はだれもいない。
バーテンダーの池田は、カウンターの端の換気扇の下で煙草を吸っている。
シングルノートを多用したウイントン・ケリーの明快なピアノソロの合間に、エアコンの音がかすかに聞こえている。
静かな夜だった。
彼にはじめてこの店に連れてきてもらったときも、こんな静かな夜だった。
彼はジャズが好きで、しかし彼女はまったく知らなかった。聴くのはいつもロックかJポップ。
ほんとをいうと、いまでもジャズはよくわからない。でも、この店の雰囲気は大好きだ。
彼と別れようと決めたとき、最後にもう一度ここに来てみようと思った。ここは彼のホームグラウンドの店。別れればもう二度と来ることもないだろう。
マスター、この曲はなんという曲、と彼女は聞いた。枯葉ですよと、マスターが答えた。ふうん、秋の曲ね。
灰皿と、煙草を一本くれないかと、マスターに頼んだ。
ずっとやめていた煙草を、彼からこの店でひさしぶりにもらい煙草したことを思いだしたのだ。あのときの煙草の味は、はっきりと覚えている。
マスターがあたらしい煙草の封を切っている。自分の煙草はまだ残っているのに。
一本だけでいいのよ。
わかってますよ。でも、あの方とおなじ煙草を吸いたいんでしょう?
あたらしい煙草を一本振りだし、彼女に差しだす。
抜き取り、差し出されたライターの火をつけた。
ふうー。
マスター、だれだっけ、このピアノ。
ウイントン・ケリーですよ。
ふうん。
たなびいている煙を払うように、ウイントンのシングルノートがいくつもころがってきて、彼女の目からこぼれた。
2009年11月13日金曜日
雪原の音
(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author
----- 音楽祭用短編 -----
「雪原の音」 水城雄
どこまでも続く雪原を渡りながら、夏のできごとを思いだしている。
待ち合わせ場所にあらわれたきみは、暖炉から取りだしたばかりのマシュマロみたいな笑顔を浮かべた。
はにかんで首をかたむけるしぐさ。肩よりすこし長い髪がゆれ、横にならぶといいにおいがした。
「ビールを飲みに行こう」
ぼくはそういって、きみの背中をそっと押した。
その掌の感触を思いだしながら、ぼくは雪原を歩いている。
まるで夢の中のような光景だ。ゆるやかな起伏が曲線を描いて、はるかかなたに見える山の裾野までつづいている。
白亜の起伏。
冬の太陽がななめに照りつけ、起伏を強調している。まろやかな雪のふくらみのてっぺんは、光を反射してきらきらと輝いている。
ふくらみの谷の部分、日陰になった場所を、なにかの足跡が点々とたどっていた。たぶん野うさぎだろう。まだ冷えきっていない昨夜の宵のうちに歩いたらしい。月光の中で目を赤く光らせながら、雪原をたどっていく野うさぎの姿を、ぼくは想像してみた。
意味もなく、笑みが浮かんでしまう。
だれもいないのに照れくさくなって顔に手をやると、手袋に凍りついた水滴がびっくりするほど冷たかった。
ぼくは野うさぎの足跡をたどるように、雪を踏んでいった。
夜の間にかたく凍りついた雪の表面は、ぼくがしっかりと体重を乗せても、びくともしない。きっと昼すぎまではこの雪原がゆるむことはないだろう。
行く手のかなたにある立木から、粉のような雪が音もなく落ちるのを見た。ほとんど風もない冴えわたった大気に、拡散され、きらめき、雪原へと降りそそぐ水の結晶たち。
ふいに音楽が聞こえた。
ぼくは立ちどまり、あたりを見回す。
だれもいない。
ぐるっと身体をまわしてたしかめてみたが、ここにいるのはぼくひとりだ。でも、音楽が確かに聞こえてくる。
ピアノの音。
なんの曲だ?
妙になつかしい……柔らかな旋律の……ゆるやかなテンポの……
――サティみたいだ。
ぼくは思って、耳をすました。でも、サティではない。柔らかな旋律をささえる不響和音の進行が、曲に心地よい緊張感を作りだしている。ちょうど枯れ枝からこぼれた粉雪が、風のない大気に複雑なきらめきを残しながら拡散していくような……
この曲は……サティよりずっと新しく……そして同時に古くもあるような……過去と未来を切りむすぶみたいで……
聞きおぼえがあることを、思いだした。
あのとき、あのバーで、きみは、ぼくがひどくビールを飲みたがることをおかしがった。
ぼくはバーテンダーにビールをせかし、あわただしく飲んだ。ひどくかわいていた。
なかば飲みほし、ようやく落ちついた。
きみが横にいた。ぼくの横にならんですわっている。ぼくは初めて会った人のように、きみを発見した。きみはマシュマロみたいな笑みを浮かべ、髪からはいいにおいをさせ、そして音楽に包まれていた。
そう、あのときの曲だ、これは。過去と未来を切りむすぶ曲。
いま、きみがすぐ近くにいることを、感じる。
どこにいる?
ぼくはふたたび、雪原に足を踏みだした。
靴底が氷の粒を踏みかためるざっくりとした感触。登山家にでもなったような気分だ。雪原を登っていくぼく。ざくざくと踏みながら、野うさぎの足跡をたどって歩いた。
ピアノの音はどんどん近くなってくる。
エアコンのよくきいたあのバーで、きみはすこし寒いといった。寒いといって、首をすこしかしげた。いまとなっては、それがきみの癖だということがわかる。
ぼくは、
「冬だったらコートを貸せるのに」
と思った。思ったけれど、口には出さなかった。口に出してしまうと嘘になってしまう気持ちというのは、確かにあるからだ。伝えるためには、長編小説を一冊書くか……そう、一曲の演奏が必要だ。
ぼくは黙ってピアノ曲を聞いている。
ゆるやかなリズムから、ふいにテンポが増し、音の密度が増えた。ぼくはひとつの音も聞きのがすまいと、耳をすます。
密度はどんどん高まり、音はまるで壁のように分厚くなっていく。
それにしても、この密度の濃さはなんだ。
――そうか。
とぼくは思いあたる。ピアノは一台ではなかった。これは音の響宴だ。会話だ。過去と未来の音が出会い、出会いの喜びを表現しているのだ。
ぼくは音の粒を追うことをあきらめ、音の波の中に身をまかせた。
冷たくもあり、暖かくある。古くもあり、新しくもある。柔らかくもあり、鋭くもある。優しくもあり、激しくもある。
まるでぼくら自身のように、音はいろんな顔を見せる。
雪原を歩いていたぼくの身体は、いつしか静かに空中へと浮かびあがっていた。
眼下に広がる果てしない雪原。
どこから来て、どこへ行くとも知れぬ野うさぎの足跡。
枝いっぱいに粉雪をためた枯れ木の森。
雪のうねりをきらめかせながら、太陽が空を飛行した。
突風にあおられ、ぼくの身体が一回転した。いや、突風と思ったのは、曲の転調だった。
ふらふらするぼくの身体を、だれかがつかんだ。
背後から腰にまわされたその手をつかんで、ぼくはすぐにそれがきみだとわかった。ちいさな、ぼくの掌にすっぽり収まる、きみの手。
「やあ、また会えたね」
きみは首をすこしかしげ、笑みを浮かべた。あの、柔らかな笑みを。
ぼくがコートの前をあけると、きみは中にするりともぐりこんできた。
コートの中にすっぽりときみを包みこんでしまったぼくは、ゆっくりと雪原へと降りていく。
曲はふたたびテンポをゆるめ、終曲へとむかっているようだ。
過去と未来を、きみとぼくを、そしてあらゆるものを包みこんで、音は雪原へと舞いおりていく。
Authorized by the author
----- 音楽祭用短編 -----
「雪原の音」 水城雄
どこまでも続く雪原を渡りながら、夏のできごとを思いだしている。
待ち合わせ場所にあらわれたきみは、暖炉から取りだしたばかりのマシュマロみたいな笑顔を浮かべた。
はにかんで首をかたむけるしぐさ。肩よりすこし長い髪がゆれ、横にならぶといいにおいがした。
「ビールを飲みに行こう」
ぼくはそういって、きみの背中をそっと押した。
その掌の感触を思いだしながら、ぼくは雪原を歩いている。
まるで夢の中のような光景だ。ゆるやかな起伏が曲線を描いて、はるかかなたに見える山の裾野までつづいている。
白亜の起伏。
冬の太陽がななめに照りつけ、起伏を強調している。まろやかな雪のふくらみのてっぺんは、光を反射してきらきらと輝いている。
ふくらみの谷の部分、日陰になった場所を、なにかの足跡が点々とたどっていた。たぶん野うさぎだろう。まだ冷えきっていない昨夜の宵のうちに歩いたらしい。月光の中で目を赤く光らせながら、雪原をたどっていく野うさぎの姿を、ぼくは想像してみた。
意味もなく、笑みが浮かんでしまう。
だれもいないのに照れくさくなって顔に手をやると、手袋に凍りついた水滴がびっくりするほど冷たかった。
ぼくは野うさぎの足跡をたどるように、雪を踏んでいった。
夜の間にかたく凍りついた雪の表面は、ぼくがしっかりと体重を乗せても、びくともしない。きっと昼すぎまではこの雪原がゆるむことはないだろう。
行く手のかなたにある立木から、粉のような雪が音もなく落ちるのを見た。ほとんど風もない冴えわたった大気に、拡散され、きらめき、雪原へと降りそそぐ水の結晶たち。
ふいに音楽が聞こえた。
ぼくは立ちどまり、あたりを見回す。
だれもいない。
ぐるっと身体をまわしてたしかめてみたが、ここにいるのはぼくひとりだ。でも、音楽が確かに聞こえてくる。
ピアノの音。
なんの曲だ?
妙になつかしい……柔らかな旋律の……ゆるやかなテンポの……
――サティみたいだ。
ぼくは思って、耳をすました。でも、サティではない。柔らかな旋律をささえる不響和音の進行が、曲に心地よい緊張感を作りだしている。ちょうど枯れ枝からこぼれた粉雪が、風のない大気に複雑なきらめきを残しながら拡散していくような……
この曲は……サティよりずっと新しく……そして同時に古くもあるような……過去と未来を切りむすぶみたいで……
聞きおぼえがあることを、思いだした。
あのとき、あのバーで、きみは、ぼくがひどくビールを飲みたがることをおかしがった。
ぼくはバーテンダーにビールをせかし、あわただしく飲んだ。ひどくかわいていた。
なかば飲みほし、ようやく落ちついた。
きみが横にいた。ぼくの横にならんですわっている。ぼくは初めて会った人のように、きみを発見した。きみはマシュマロみたいな笑みを浮かべ、髪からはいいにおいをさせ、そして音楽に包まれていた。
そう、あのときの曲だ、これは。過去と未来を切りむすぶ曲。
いま、きみがすぐ近くにいることを、感じる。
どこにいる?
ぼくはふたたび、雪原に足を踏みだした。
靴底が氷の粒を踏みかためるざっくりとした感触。登山家にでもなったような気分だ。雪原を登っていくぼく。ざくざくと踏みながら、野うさぎの足跡をたどって歩いた。
ピアノの音はどんどん近くなってくる。
エアコンのよくきいたあのバーで、きみはすこし寒いといった。寒いといって、首をすこしかしげた。いまとなっては、それがきみの癖だということがわかる。
ぼくは、
「冬だったらコートを貸せるのに」
と思った。思ったけれど、口には出さなかった。口に出してしまうと嘘になってしまう気持ちというのは、確かにあるからだ。伝えるためには、長編小説を一冊書くか……そう、一曲の演奏が必要だ。
ぼくは黙ってピアノ曲を聞いている。
ゆるやかなリズムから、ふいにテンポが増し、音の密度が増えた。ぼくはひとつの音も聞きのがすまいと、耳をすます。
密度はどんどん高まり、音はまるで壁のように分厚くなっていく。
それにしても、この密度の濃さはなんだ。
――そうか。
とぼくは思いあたる。ピアノは一台ではなかった。これは音の響宴だ。会話だ。過去と未来の音が出会い、出会いの喜びを表現しているのだ。
ぼくは音の粒を追うことをあきらめ、音の波の中に身をまかせた。
冷たくもあり、暖かくある。古くもあり、新しくもある。柔らかくもあり、鋭くもある。優しくもあり、激しくもある。
まるでぼくら自身のように、音はいろんな顔を見せる。
雪原を歩いていたぼくの身体は、いつしか静かに空中へと浮かびあがっていた。
眼下に広がる果てしない雪原。
どこから来て、どこへ行くとも知れぬ野うさぎの足跡。
枝いっぱいに粉雪をためた枯れ木の森。
雪のうねりをきらめかせながら、太陽が空を飛行した。
突風にあおられ、ぼくの身体が一回転した。いや、突風と思ったのは、曲の転調だった。
ふらふらするぼくの身体を、だれかがつかんだ。
背後から腰にまわされたその手をつかんで、ぼくはすぐにそれがきみだとわかった。ちいさな、ぼくの掌にすっぽり収まる、きみの手。
「やあ、また会えたね」
きみは首をすこしかしげ、笑みを浮かべた。あの、柔らかな笑みを。
ぼくがコートの前をあけると、きみは中にするりともぐりこんできた。
コートの中にすっぽりときみを包みこんでしまったぼくは、ゆっくりと雪原へと降りていく。
曲はふたたびテンポをゆるめ、終曲へとむかっているようだ。
過去と未来を、きみとぼくを、そしてあらゆるものを包みこんで、音は雪原へと舞いおりていく。
2009年11月8日日曜日
Blue Monk
(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author
----- Jazz Story #12 -----
「Blue Monk」 水城雄
「あなた、ひとつ聞いていい?」
「なんだ」
「あなた、あたしと結婚してから、浮気したことある?」
「おいおい、なんだい、唐突に」
「いいから、答えて」
「なんでこんなときにそんな質問に答えなきゃならないんだ」
「こんなときからだからこそ、教えてほしいのよ」
「待ってくれよ。おまえ、いまのこの状況、わかってんのか?」
「もちろんわかってるわ。もうどうしようもないってことぐらいね」
「まあ、それはそうなんだが……」
「だから、教えて。いいじゃない、もうあたしたち、終わりなんだから」
「終わりだからこそ、もっと有意義な話をしようじゃないか」
「有意義な話って、どんな話よ」
「それはその……あれだ」
「こんなことになって、いまさら有意義もなにもないじゃない。どうせ死ぬのよ、あたしたち」
「おい、それをいうなって」
「だって本当のことだからしようがないじゃない。現実を直視しなきゃ」
「わかった。現実を直視しよう。だから、昔の話なんか持ちだすのはやめろ。
どうしようもないだろう?」
「知っておきたいのよ、死ぬ前に」
「知ってどうする。どうせ死ぬんだ。知っても、その記憶は闇に消えるんだ。
どうせ消える記憶なら、清らかで美しい記憶のほうがいいだろう」
「あなた……」
「なんだ」
「そうやって話したがらないってことは、つまり、浮気したことがあるのね」
「なにいってんだ。あるわけないじゃないか」
「ほんとのこといって。どうせもうすぐ死ぬのよ。いまさらあたしに嘘ついてもしかたがないでしょ。最後に本当のことをいってよ」
「だから、浮気なんかしてないっていってるじゃないか」
「そうやって逃げるのね」
「逃げてなんかいないって。どうやって逃げるっていうんだ、こんなところから」
「そうね。外は真空だもんね。そしてエアーの残り時間はあと一時間」
「そういうことだ。いまさらあれこれいってもしかたがない。おれが浮気したことがあるかどうかなんて、どうでもいい問題なのさ」
「やっぱりしてたのね、浮気」
「してないって」
「なんだか熱いわ、あなた。息苦しいし」
「空調がおかしいんだ。酸素も残り少ないし」
「どうしてこんなことになっちゃったんだろう」
「わからない。すべて順調にいっていたのにな。コンピュータが暴走して、軌道をはずれてしまった」
「コンピュータなしじゃなにもできないのね、人間って」
「頼りすぎてたのかもしれないな」
「いまごろは無事に火星に到着して、植民地のみんなに再会しているはずだったのに」
「…………」
「ねえ、さっきの話だけど」
「浮気のことなら、ノーだ」
「…………」
「なあ、この曲、だれが演奏しているか知ってるか?」
「知らない。あなたはジャズ、あたしはテクノ。いつも違う音楽を聴いてたじゃない。いまはあなたに妥協してあげてるのよ」
「それはどうも、ありがとう」
「だれが演奏してるって?」
「モンク。セロニアス・モンク」
「ふーん、知らない。何歳くらいの人?」
「もう死んだ。ずっと前に死んだ。一世紀も前に死んだ」
「そうなの。なんか変な演奏」
「じっくり聴けばよさがわかる」
「そうね、じっくり聴けばね。でも、もうそんな時間はないわね、あたしたち」
「ああ……」
「浮気の話なんか持ちだしたりして、悪かったわ。いまさらそんなこと聞いても、しかたがないもんね」
「まあな」
「あたしの人生って、いったいなんだったんだろう。あなたのこと、なんにもわかってなかったような気がする。このピアニストのことだって、全然知らなかったし」
「それはお互いさまだよ。でも、そんなことをいまさらいっても、しかたがない。もうすぐ、おれたちはふたりとも死ぬ。人はみんな死ぬんだ。セロニアス・モンクを知ってる人も、知らない人も、みんな死ぬ。モンクもちゃんと死んだ」
「でも、彼はいまもこうやって聴いてくれる人がいる」
「その人間も、やがて死ぬ」
「…………」
「まんざら悪くもなかったよ」
「え?」
「きみといっしょにいられて、よかった」
「あたしもよ」
「いまもだ」
「うん」
「ほら、見てごらん。しし座のほうで流星が生まれているよ」
Authorized by the author
----- Jazz Story #12 -----
「Blue Monk」 水城雄
「あなた、ひとつ聞いていい?」
「なんだ」
「あなた、あたしと結婚してから、浮気したことある?」
「おいおい、なんだい、唐突に」
「いいから、答えて」
「なんでこんなときにそんな質問に答えなきゃならないんだ」
「こんなときからだからこそ、教えてほしいのよ」
「待ってくれよ。おまえ、いまのこの状況、わかってんのか?」
「もちろんわかってるわ。もうどうしようもないってことぐらいね」
「まあ、それはそうなんだが……」
「だから、教えて。いいじゃない、もうあたしたち、終わりなんだから」
「終わりだからこそ、もっと有意義な話をしようじゃないか」
「有意義な話って、どんな話よ」
「それはその……あれだ」
「こんなことになって、いまさら有意義もなにもないじゃない。どうせ死ぬのよ、あたしたち」
「おい、それをいうなって」
「だって本当のことだからしようがないじゃない。現実を直視しなきゃ」
「わかった。現実を直視しよう。だから、昔の話なんか持ちだすのはやめろ。
どうしようもないだろう?」
「知っておきたいのよ、死ぬ前に」
「知ってどうする。どうせ死ぬんだ。知っても、その記憶は闇に消えるんだ。
どうせ消える記憶なら、清らかで美しい記憶のほうがいいだろう」
「あなた……」
「なんだ」
「そうやって話したがらないってことは、つまり、浮気したことがあるのね」
「なにいってんだ。あるわけないじゃないか」
「ほんとのこといって。どうせもうすぐ死ぬのよ。いまさらあたしに嘘ついてもしかたがないでしょ。最後に本当のことをいってよ」
「だから、浮気なんかしてないっていってるじゃないか」
「そうやって逃げるのね」
「逃げてなんかいないって。どうやって逃げるっていうんだ、こんなところから」
「そうね。外は真空だもんね。そしてエアーの残り時間はあと一時間」
「そういうことだ。いまさらあれこれいってもしかたがない。おれが浮気したことがあるかどうかなんて、どうでもいい問題なのさ」
「やっぱりしてたのね、浮気」
「してないって」
「なんだか熱いわ、あなた。息苦しいし」
「空調がおかしいんだ。酸素も残り少ないし」
「どうしてこんなことになっちゃったんだろう」
「わからない。すべて順調にいっていたのにな。コンピュータが暴走して、軌道をはずれてしまった」
「コンピュータなしじゃなにもできないのね、人間って」
「頼りすぎてたのかもしれないな」
「いまごろは無事に火星に到着して、植民地のみんなに再会しているはずだったのに」
「…………」
「ねえ、さっきの話だけど」
「浮気のことなら、ノーだ」
「…………」
「なあ、この曲、だれが演奏しているか知ってるか?」
「知らない。あなたはジャズ、あたしはテクノ。いつも違う音楽を聴いてたじゃない。いまはあなたに妥協してあげてるのよ」
「それはどうも、ありがとう」
「だれが演奏してるって?」
「モンク。セロニアス・モンク」
「ふーん、知らない。何歳くらいの人?」
「もう死んだ。ずっと前に死んだ。一世紀も前に死んだ」
「そうなの。なんか変な演奏」
「じっくり聴けばよさがわかる」
「そうね、じっくり聴けばね。でも、もうそんな時間はないわね、あたしたち」
「ああ……」
「浮気の話なんか持ちだしたりして、悪かったわ。いまさらそんなこと聞いても、しかたがないもんね」
「まあな」
「あたしの人生って、いったいなんだったんだろう。あなたのこと、なんにもわかってなかったような気がする。このピアニストのことだって、全然知らなかったし」
「それはお互いさまだよ。でも、そんなことをいまさらいっても、しかたがない。もうすぐ、おれたちはふたりとも死ぬ。人はみんな死ぬんだ。セロニアス・モンクを知ってる人も、知らない人も、みんな死ぬ。モンクもちゃんと死んだ」
「でも、彼はいまもこうやって聴いてくれる人がいる」
「その人間も、やがて死ぬ」
「…………」
「まんざら悪くもなかったよ」
「え?」
「きみといっしょにいられて、よかった」
「あたしもよ」
「いまもだ」
「うん」
「ほら、見てごらん。しし座のほうで流星が生まれているよ」
2009年11月4日水曜日
サンタの調律師
(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author
----- Urban Cruising #22 -----
「サンタの調律師」 水城雄
そのちいさな講堂にはいっていくと、まず大きなクリスマス・ツリーが目にはいった。
イルミネーションが不規則に点滅している。
イルミネーションの前では、子供たちが元気よく駆けまわっている。
講堂にはいっていったわたしをはじめは気にもとめていなかった子供たちも、わたしがピアノのそばに行き道具箱を広げると、たちまち興味を示しはじめた。
床に膝をつき、道具箱の中身を出してならべていると、講堂をかけまわっていた子供たちのほとんどが、わたしのまわりに集まってしまった。
「おじいちゃん、これ、なに?」
とりわけ好奇心が旺盛で活発そうな女の子のひとりが、わたしにたずねた。
わたしはその子を見た。
膝をついているわたしと、目の位置がほとんど同じくらいだ。母親にゆってもらったのか、長い髪をきれいなおさげにして、赤いリボンを結んでいる。
わたしはこたえた。
「これはね、調律の道具なんだよ」
「チョーリツってなに?」
女の子はたたみかけるように聞いてくる。
「調律っていうのはね、狂っているピアノの音を、ちゃんと元にもどしてやることさ」
「でも、このピアノ、狂ってなんかいないよ」
「よく聞くと狂っているのさ」
わたしは立ちあがり、アップライト・ピアノの天蓋、前板、それから下の板などを取りはずし、弦の部分をむきだしにした。
子供たちのあいだから、歓声があがる。
毎年、クリスマス・イブになると、この幼稚園にやってきて、ピアノを調律するのが、わたしのなによりの楽しみなのだ。
イルミネーションの前で、わたしは仕事をはじめた。
ちいさなハンマー、音叉、共鳴を抑えるためのゴムのクサビ、弦を巻きあげるためのドライバー。
椅子の上にならべられたそれらの道具に、子供たちは鼻をこすりつけるようにしている。
わたしはゴムのクサビを弦の間に打ちこんでから、おもむろにまん中のAの音を鳴らした。それから音叉を膝にたたきつけ、ピアノの共鳴板の部分にあてがう。澄んだ正弦波の音が、ピアノの音にからまる。
ドライバーで弦をしぼり、最初の音を合わせた。
まわりでは、子供たちが興味シンシンでわたしの一挙手一投足を見守っている。加えて、なにごとかを口ぐちにしゃべりあっているが、音を合わせられないというほどではない。
これで、神経質だった若い頃なら、幼稚園の先生に頼んで子供たちを遠ざけてもらったろうが、いまではむしろ子供たちがまわりにいてくれたほうが、仕事は楽しい。
そういえば、わたしの息子にもこのような時期があったのだ。あの頃はまだ子供が多くて、町内にも子供会などというものがあった。子供会でクリスマスをしたことをおぼえている。わたしをはじめとする父親たちが交代で、サンタの役をさせられたものだ。子供の人いきれでむんむんする集会場で、あの服装をしているのはかなりつらかったものだ。
わたしももう、このくらいの孫がいても不思議はない年齢になっているのだが、どういうわけか息子は子供を作ろうとしない。嫁とふたりで、気楽にやっているようだ。
それもそれでよかろう、というわけだ。
そんなことを考えながら、わたしはかなり弾きこまれて狂ってきているピアノの弦を、次々と調節していった。
幼稚園のピアノの調律は、30分ばかりで終わった。
そのあいだ、子供たちがいれかわりたちかわり、わたしの仕事の進行具合を点検しにやってきては、口ぐちに質問をあびせていった。
「おじいちゃん、この機械、なに?」
「どうしてこんなところにゴムをはさむの?」
「おじいちゃん、ピアノを作ったりもするの?」
彼らにとって、わたしの仕事や仕事道具は、興味がつきないらしい。
調律が終わると、わたしはピアノを片づけ、道具をいつもどおり、きちんとしまいこんだ。
「おわり?」
とひとりの男の子が無邪気な顔で聞く。
「ああ、おわりだよ」
「もう弾けるの?」
「ああ、弾いていいんだよ。きみ、弾けるのかな?」
男の子はかぶりを振った。
「あたし、弾けるよ」
横にいた女の子が、目をかがやかせて、いった。
「ほう。それはすごい。でも、ちょっと待っててね。ちゃんと弾けるかどうか、最後にもう一度点検してみるからね」
そういって、わたしは椅子にすわった。
この瞬間が、わたしには一番たのしい。
わたしは指を鍵盤に乗せると、おもむろにジングルベルを弾きはじめた。
まわりから歓声があがった。
弾き終え、道具箱をぶらさげて講堂から出ていくわたしのあとを、子供たちがゾロゾロとついてきた。
「おじいちゃん、ほんとはサンタさんなんでしょ?」
ふりかえったわたしの目に、クリスマス・ツリーのイルミネーションが見えた。
わたしはうれしくてしようがない。
Authorized by the author
----- Urban Cruising #22 -----
「サンタの調律師」 水城雄
そのちいさな講堂にはいっていくと、まず大きなクリスマス・ツリーが目にはいった。
イルミネーションが不規則に点滅している。
イルミネーションの前では、子供たちが元気よく駆けまわっている。
講堂にはいっていったわたしをはじめは気にもとめていなかった子供たちも、わたしがピアノのそばに行き道具箱を広げると、たちまち興味を示しはじめた。
床に膝をつき、道具箱の中身を出してならべていると、講堂をかけまわっていた子供たちのほとんどが、わたしのまわりに集まってしまった。
「おじいちゃん、これ、なに?」
とりわけ好奇心が旺盛で活発そうな女の子のひとりが、わたしにたずねた。
わたしはその子を見た。
膝をついているわたしと、目の位置がほとんど同じくらいだ。母親にゆってもらったのか、長い髪をきれいなおさげにして、赤いリボンを結んでいる。
わたしはこたえた。
「これはね、調律の道具なんだよ」
「チョーリツってなに?」
女の子はたたみかけるように聞いてくる。
「調律っていうのはね、狂っているピアノの音を、ちゃんと元にもどしてやることさ」
「でも、このピアノ、狂ってなんかいないよ」
「よく聞くと狂っているのさ」
わたしは立ちあがり、アップライト・ピアノの天蓋、前板、それから下の板などを取りはずし、弦の部分をむきだしにした。
子供たちのあいだから、歓声があがる。
毎年、クリスマス・イブになると、この幼稚園にやってきて、ピアノを調律するのが、わたしのなによりの楽しみなのだ。
イルミネーションの前で、わたしは仕事をはじめた。
ちいさなハンマー、音叉、共鳴を抑えるためのゴムのクサビ、弦を巻きあげるためのドライバー。
椅子の上にならべられたそれらの道具に、子供たちは鼻をこすりつけるようにしている。
わたしはゴムのクサビを弦の間に打ちこんでから、おもむろにまん中のAの音を鳴らした。それから音叉を膝にたたきつけ、ピアノの共鳴板の部分にあてがう。澄んだ正弦波の音が、ピアノの音にからまる。
ドライバーで弦をしぼり、最初の音を合わせた。
まわりでは、子供たちが興味シンシンでわたしの一挙手一投足を見守っている。加えて、なにごとかを口ぐちにしゃべりあっているが、音を合わせられないというほどではない。
これで、神経質だった若い頃なら、幼稚園の先生に頼んで子供たちを遠ざけてもらったろうが、いまではむしろ子供たちがまわりにいてくれたほうが、仕事は楽しい。
そういえば、わたしの息子にもこのような時期があったのだ。あの頃はまだ子供が多くて、町内にも子供会などというものがあった。子供会でクリスマスをしたことをおぼえている。わたしをはじめとする父親たちが交代で、サンタの役をさせられたものだ。子供の人いきれでむんむんする集会場で、あの服装をしているのはかなりつらかったものだ。
わたしももう、このくらいの孫がいても不思議はない年齢になっているのだが、どういうわけか息子は子供を作ろうとしない。嫁とふたりで、気楽にやっているようだ。
それもそれでよかろう、というわけだ。
そんなことを考えながら、わたしはかなり弾きこまれて狂ってきているピアノの弦を、次々と調節していった。
幼稚園のピアノの調律は、30分ばかりで終わった。
そのあいだ、子供たちがいれかわりたちかわり、わたしの仕事の進行具合を点検しにやってきては、口ぐちに質問をあびせていった。
「おじいちゃん、この機械、なに?」
「どうしてこんなところにゴムをはさむの?」
「おじいちゃん、ピアノを作ったりもするの?」
彼らにとって、わたしの仕事や仕事道具は、興味がつきないらしい。
調律が終わると、わたしはピアノを片づけ、道具をいつもどおり、きちんとしまいこんだ。
「おわり?」
とひとりの男の子が無邪気な顔で聞く。
「ああ、おわりだよ」
「もう弾けるの?」
「ああ、弾いていいんだよ。きみ、弾けるのかな?」
男の子はかぶりを振った。
「あたし、弾けるよ」
横にいた女の子が、目をかがやかせて、いった。
「ほう。それはすごい。でも、ちょっと待っててね。ちゃんと弾けるかどうか、最後にもう一度点検してみるからね」
そういって、わたしは椅子にすわった。
この瞬間が、わたしには一番たのしい。
わたしは指を鍵盤に乗せると、おもむろにジングルベルを弾きはじめた。
まわりから歓声があがった。
弾き終え、道具箱をぶらさげて講堂から出ていくわたしのあとを、子供たちがゾロゾロとついてきた。
「おじいちゃん、ほんとはサンタさんなんでしょ?」
ふりかえったわたしの目に、クリスマス・ツリーのイルミネーションが見えた。
わたしはうれしくてしようがない。
2009年10月29日木曜日
Solar
(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author
----- Jazz Story #26 -----
「Solar」 水城雄
きんぴらごぼうを作ろう。
すかっと晴れわたった秋晴れの日。窓をあけたら、金木犀の香りが流れこんできた。
今日は休み。出かける用事もない。
ゴボウは買ってある。人参もある。
コンポにCDをセットする。かけるのは、最近気にいっているケニー・バロンのピアノトリオ。ライブの演奏だ。
誕生日に彼からもらった。
私はジャズはよくわからないけれど、彼の影響で時々聞くようになった。
ケニー・バロンは秋によく似合う。
なぜだろう。そんなことはわからないけれど、そう思う。春に聴いてもいいかもしれないけれど。
ゴボウを洗う。水を流して、たわしでごしごしと土を落とす。たわしといっても、シュロの毛でできたものではない。ビニール製のたわしだ。
きれいに洗いあがったら、今度は包丁の先でシュッシュッシュッ。笹がきにしていく。細長くこそげ切られたゴボウが、ボウルに張った水のなかに飛んでいく。
なんだかケニー・バロンと共演しているみたいな気分になってきた。
そういえば、彼は今日は出張だとかいっていたっけ。どこだっけ?
とにかく、今日は全国、北海道から沖縄まで晴れわたっている。きんぴらごぼうとケニー・バロンの似合う日だ。
ゴボウと人参を炒める。
ゴマ油のいいにおい。金木犀のにおいはもうしない。
初恋のにおいがするんだ、と彼がいっていた。そんなこと、わたしの知ったことではない。彼の初恋なんて、わたしは知らない。
お醤油のいいにおい。お砂糖も少し。甘いかおり。
いい感じ。
ケニー・バロンが軽くつま先立ちで歩いているみたいにピアノを弾いている。
昔、初めて入ったジャズ喫茶を思いだすんだよな、と彼はいう。いっしょに行った相手は、初恋の人とは別の人だったという。そのときかかっていたのが、こんなピアノトリオだったらしい。
わたしはそもそも、ジャズ喫茶なんて知らない。行ったこともない。そんな歳じゃない。
でも、ちょっと行ってみたいかも。
きんぴらごぼうが完成した。
ちょっとつまんで、味見してみる。
おいしい。
彼はわたしの料理をいつも喜んでくれる。今日はいないのが残念だ。
そうだ、彼の携帯に電話してみよう。いまごろなにをしているのか。
おいしいきんぴらができたといったら、きっとくやしがるに違いない。彼をくやしがらせるのが、わたしには楽しい。
ついでに、スピーカーに近づいて、ケニー・バロンも聴かせてみよう。
Authorized by the author
----- Jazz Story #26 -----
「Solar」 水城雄
きんぴらごぼうを作ろう。
すかっと晴れわたった秋晴れの日。窓をあけたら、金木犀の香りが流れこんできた。
今日は休み。出かける用事もない。
ゴボウは買ってある。人参もある。
コンポにCDをセットする。かけるのは、最近気にいっているケニー・バロンのピアノトリオ。ライブの演奏だ。
誕生日に彼からもらった。
私はジャズはよくわからないけれど、彼の影響で時々聞くようになった。
ケニー・バロンは秋によく似合う。
なぜだろう。そんなことはわからないけれど、そう思う。春に聴いてもいいかもしれないけれど。
ゴボウを洗う。水を流して、たわしでごしごしと土を落とす。たわしといっても、シュロの毛でできたものではない。ビニール製のたわしだ。
きれいに洗いあがったら、今度は包丁の先でシュッシュッシュッ。笹がきにしていく。細長くこそげ切られたゴボウが、ボウルに張った水のなかに飛んでいく。
なんだかケニー・バロンと共演しているみたいな気分になってきた。
そういえば、彼は今日は出張だとかいっていたっけ。どこだっけ?
とにかく、今日は全国、北海道から沖縄まで晴れわたっている。きんぴらごぼうとケニー・バロンの似合う日だ。
ゴボウと人参を炒める。
ゴマ油のいいにおい。金木犀のにおいはもうしない。
初恋のにおいがするんだ、と彼がいっていた。そんなこと、わたしの知ったことではない。彼の初恋なんて、わたしは知らない。
お醤油のいいにおい。お砂糖も少し。甘いかおり。
いい感じ。
ケニー・バロンが軽くつま先立ちで歩いているみたいにピアノを弾いている。
昔、初めて入ったジャズ喫茶を思いだすんだよな、と彼はいう。いっしょに行った相手は、初恋の人とは別の人だったという。そのときかかっていたのが、こんなピアノトリオだったらしい。
わたしはそもそも、ジャズ喫茶なんて知らない。行ったこともない。そんな歳じゃない。
でも、ちょっと行ってみたいかも。
きんぴらごぼうが完成した。
ちょっとつまんで、味見してみる。
おいしい。
彼はわたしの料理をいつも喜んでくれる。今日はいないのが残念だ。
そうだ、彼の携帯に電話してみよう。いまごろなにをしているのか。
おいしいきんぴらができたといったら、きっとくやしがるに違いない。彼をくやしがらせるのが、わたしには楽しい。
ついでに、スピーカーに近づいて、ケニー・バロンも聴かせてみよう。
2009年10月13日火曜日
How Deep Is the Ocean
(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author
----- ジャズ夜話 #2 -----
「How Deep Is the Ocean」 水城雄
店に客が多い日は、ピアノの音が吸われる。とくにピアノ席に客がいると、音は変わってしまう。
平日のくせにやけに混んでいた。桜町は二回目のステージのために店にもどってきたところだった。
十人がけのカウンターには、ひとつも空きがない。奥に置いてあるグランドピアノの上でも飲めるようになっているのだが、そこにも三人の客がいた。もっとも、詰めれば八人すわれる。
カウンターの中では、マスターの中川が、きりきり舞いをしていた。
ピアノ椅子に腰をおろした桜町が合図を送ると、スモークサーモンで手を油だらけにした中川が、肘を使って器用にオーディオのボリュームを落とした。
ピアノに向かい、演奏をはじめる。アイ・キャント・ゲット・スターティッド。ゆっくりしたバラードのテンポで。
ピアノ席の三人組は、この店に似つかわしくない客だった。
男を真ん中に、女がふたり。三人とも若い。二十代前半だろう。男と、手前の女が、髪を派手な茶色に染めている。金髪といってもいいほどだ。さらに男はその髪をつんつんに立たせている。
男と向こう側の女はビールを、手前の女はウイスキーの水割りを飲んでいた。
どう見ても、ジャズを聴きそうな客には見えなかった。
男と向こう側の女は、なにやら熱心に話しこんでいる。手前の茶髪の女は会話にくわわらず、ピアノの上に両肘をついて、けだるい表情で桜町の演奏を聴いていた。
「だからさあ、あんなやつとはさっさと別れちまえばいいんだって」
男の言葉が聞こえてくる。
「あいつだって他で適当にやってんだよ。お前だけマジになって、ばかみたいだぜ。お前だって適当にやりゃいいじゃん」
三人がいることで、こつんこつんと音がこもったように響かないピアノを、桜町は苦労しながら弾いた。ただし、バラードよりアップテンポの曲のほうが弾きにくい。それに、今日のように店ががちゃがちゃした雰囲気のときは、アップテンポの曲はますますうるさい。
二曲めもバラードを選んだ。マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ。ジョニー・ハートマンがコルトレーンのカルテットをバックに歌っている。そのときのピアノはマッコイ・タイナーで、桜町の好みからいえば過剰気味のアルペジオがやや鼻につくが、ハートマンの甘くこもったようなヴォーカルが、コルトレーンの内省的なテナーと奇妙にしっくりきている。
そんなことはこの若者たちには知ったことではないだろう。
ぺんぺん髪の男が手品のようなことをはじめた。
「お札、あるかい? 千円札でも万札でもいいからさ」
「あるけど、あとで返してくれる?」
「信用しろよ」
向こう側の女が千円札を出した。こちら側の女は、相変わらずふたりには無関心で、桜町のほうを見ている。いまにも眠ってしまいそうだ。
「ボールペンかなにか持ってるか?」
女がほそいボールペンを渡した。
「いいか、よく見てろよ。このボールペンを千円札にはさむんだ」
男が千円札でボールペンをはさむようにした。ふたつに折った千円札の中心部にボールペンの先があたり、残りの軸が千円札から突きでている。
桜町は演奏を続けながら、手品を見ていた。
「この千円札をさらに紙ナプキンではさむ」
目の前にあった紙ナプキンを広げ、千円札を置くと、ナプキンをふたつにたたんだ。ボールペンをはさんだ千円札を、さらに紙ナプキンがはさみこんでいる格好だ。
「ボールペンのケツを持て」
女にそれを差しだした。
突きでているボールペンの軸の尻を、女がいわれたとおり持った。
「ぶすっと突き刺してくれ」
「え、だって、そんなことしたら、穴があいちゃうじゃない」
たしかにボールペンの先は、千円札の真ん中に突きたっているのだ。そのまま押せば、お札に穴があくことは間違いない。
「いいから、やれ。ぶすっと」
「いいの?」
「やれってば」
「知らないからね」
女が指に力をこめた。
ボールペンの先が千円札と紙ナプキンをつらぬいて、反対側に突き出てきた。
男はその様子を女に見せた。
「突きとおってるな?」
「通ってるわよ。穴があいてない千円札を返してよね」
「心配ないって」
男はボールペンを引きぬいた。
紙ナプキンを見せる。
真ん中にボールペンが通った穴があいていた。
つづいて、千円札を広げてみせた。
穴はあいていなかった。
「え、なんで? ボールペンはちゃんと刺さってたじゃない」
女が目を丸くしている。桜町にもそのトリックはわからなかった。
たしかにボールペンは、千円札とナプキンを貫通したように見えた。ボールペンは千円札にたしかにはさまっていた。
簡単なトリックなのだろう。
「ねえ、ねえ、久美。いったいどうなってんの、これ?」
「知らない」
それまで黙っていた女が、興味なさそうにぼそっと答えた。
「びっくりしたか? いまからおれんちに来いよ。そしたら、もっとすごいのを見せてやるからさ」
「しんちゃんちに? これから?」
「ああ。泊まってけばいい」
「そんなあ。だって、久美に悪いじゃん」
「いいんだよ。こいつのことは気にするな」
「だって、しんちゃんは久美と――」
「気にすんなって。三人でやりゃいいじゃん。いいだろ?」
久美と呼ばれた女が、水割りをひと息に飲みほした。
自分で目の前のボトルからグラスにウイスキーを注いだ。たっぷりと。
アイスピッチャーから氷をひとつだけ入れ、カラカラと振った。
ひと口大きく含む。
桜町のほうに身を乗り出し、いった。
「おじさん、この曲、なんていうの?」
おいおい、おれはまだ三十二だぜ。そう思いながらも、彼は答えてやった。
「いいから、来いって。もっとすごいの、見せてやるよ、ほんと」
男がまだいっている。ほとんど向こう側の女を押し倒さんばかりに迫っている。彼らの口ぶりでは、男と久美というこちら側の女が恋人同士のように聞こえたのだが。
「すごいのって?」
「いまサンプルを見せたじゃないか」
「あんなんじゃだめ。もっとすごいのじゃなきゃ」
「じゃあ、こういうのはどうだ」
「どういうの?」
「このおっさんが次に弾く曲名をあてる」
「なにいってんのよ、しんちゃん。そんなことできっこないじゃない」
そうだ。そんなことはできっこない。なにしろ、次に弾く曲は、おれだってまだ決めてないんだからな。
「できたらどうする?」
「できっこないって。だって、しんちゃん、ジャズの曲名なんてほとんど知らないじゃない」
「知ってるさ。A列車で行こうとか、ミスティとか」
「それだけでしょ?」
「オリーブの首飾りとかさ」
その曲をジャズとはいわないだろう。
まあいい。いずれにしても、桜町にはそんな曲を弾く気はない。
久美がグラスを持ちあげ、ふたたびたっぷりとウイスキーを口に含んだ。そのコースターを、男が取った。
「さっきのボールペン、貸せよ。ここにいまから、このおっさんが次に弾く曲の名前を書くからさ」
「まじぃ?」
「まじだ。あたったら、おれんちに来いよ」
「あたるわけないって」
男がコースターになにか書きつけ、伏せて、ピアノの上に置いた。
自分が飲んでいたビールを、その上に置く。
桜町はマイ・ワン・アンド・オンリー・ラブを弾きおえた。
なにを弾いてやろうか。こいつが絶対に知らないような曲を弾いてやる。
桜町は次の曲をバラードテンポで弾きはじめた。
男の向こう側の女が、伏せたコースターを取った。
「おじさん、その曲、なんていうの?」
「ハウ・ディープ・イズ・ジ・オーシャン」
女の顔が凍りついた。
「いくぞ」
男が立ちあがった。
両側のふたりを抱きかかえるようにして、ピアノ席を離れた。
左手でコードを押さえながら、右手でコースターを引きよせて見てみると、そこには汚い英字で曲名が書きつけられていた。
Authorized by the author
----- ジャズ夜話 #2 -----
「How Deep Is the Ocean」 水城雄
店に客が多い日は、ピアノの音が吸われる。とくにピアノ席に客がいると、音は変わってしまう。
平日のくせにやけに混んでいた。桜町は二回目のステージのために店にもどってきたところだった。
十人がけのカウンターには、ひとつも空きがない。奥に置いてあるグランドピアノの上でも飲めるようになっているのだが、そこにも三人の客がいた。もっとも、詰めれば八人すわれる。
カウンターの中では、マスターの中川が、きりきり舞いをしていた。
ピアノ椅子に腰をおろした桜町が合図を送ると、スモークサーモンで手を油だらけにした中川が、肘を使って器用にオーディオのボリュームを落とした。
ピアノに向かい、演奏をはじめる。アイ・キャント・ゲット・スターティッド。ゆっくりしたバラードのテンポで。
ピアノ席の三人組は、この店に似つかわしくない客だった。
男を真ん中に、女がふたり。三人とも若い。二十代前半だろう。男と、手前の女が、髪を派手な茶色に染めている。金髪といってもいいほどだ。さらに男はその髪をつんつんに立たせている。
男と向こう側の女はビールを、手前の女はウイスキーの水割りを飲んでいた。
どう見ても、ジャズを聴きそうな客には見えなかった。
男と向こう側の女は、なにやら熱心に話しこんでいる。手前の茶髪の女は会話にくわわらず、ピアノの上に両肘をついて、けだるい表情で桜町の演奏を聴いていた。
「だからさあ、あんなやつとはさっさと別れちまえばいいんだって」
男の言葉が聞こえてくる。
「あいつだって他で適当にやってんだよ。お前だけマジになって、ばかみたいだぜ。お前だって適当にやりゃいいじゃん」
三人がいることで、こつんこつんと音がこもったように響かないピアノを、桜町は苦労しながら弾いた。ただし、バラードよりアップテンポの曲のほうが弾きにくい。それに、今日のように店ががちゃがちゃした雰囲気のときは、アップテンポの曲はますますうるさい。
二曲めもバラードを選んだ。マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ。ジョニー・ハートマンがコルトレーンのカルテットをバックに歌っている。そのときのピアノはマッコイ・タイナーで、桜町の好みからいえば過剰気味のアルペジオがやや鼻につくが、ハートマンの甘くこもったようなヴォーカルが、コルトレーンの内省的なテナーと奇妙にしっくりきている。
そんなことはこの若者たちには知ったことではないだろう。
ぺんぺん髪の男が手品のようなことをはじめた。
「お札、あるかい? 千円札でも万札でもいいからさ」
「あるけど、あとで返してくれる?」
「信用しろよ」
向こう側の女が千円札を出した。こちら側の女は、相変わらずふたりには無関心で、桜町のほうを見ている。いまにも眠ってしまいそうだ。
「ボールペンかなにか持ってるか?」
女がほそいボールペンを渡した。
「いいか、よく見てろよ。このボールペンを千円札にはさむんだ」
男が千円札でボールペンをはさむようにした。ふたつに折った千円札の中心部にボールペンの先があたり、残りの軸が千円札から突きでている。
桜町は演奏を続けながら、手品を見ていた。
「この千円札をさらに紙ナプキンではさむ」
目の前にあった紙ナプキンを広げ、千円札を置くと、ナプキンをふたつにたたんだ。ボールペンをはさんだ千円札を、さらに紙ナプキンがはさみこんでいる格好だ。
「ボールペンのケツを持て」
女にそれを差しだした。
突きでているボールペンの軸の尻を、女がいわれたとおり持った。
「ぶすっと突き刺してくれ」
「え、だって、そんなことしたら、穴があいちゃうじゃない」
たしかにボールペンの先は、千円札の真ん中に突きたっているのだ。そのまま押せば、お札に穴があくことは間違いない。
「いいから、やれ。ぶすっと」
「いいの?」
「やれってば」
「知らないからね」
女が指に力をこめた。
ボールペンの先が千円札と紙ナプキンをつらぬいて、反対側に突き出てきた。
男はその様子を女に見せた。
「突きとおってるな?」
「通ってるわよ。穴があいてない千円札を返してよね」
「心配ないって」
男はボールペンを引きぬいた。
紙ナプキンを見せる。
真ん中にボールペンが通った穴があいていた。
つづいて、千円札を広げてみせた。
穴はあいていなかった。
「え、なんで? ボールペンはちゃんと刺さってたじゃない」
女が目を丸くしている。桜町にもそのトリックはわからなかった。
たしかにボールペンは、千円札とナプキンを貫通したように見えた。ボールペンは千円札にたしかにはさまっていた。
簡単なトリックなのだろう。
「ねえ、ねえ、久美。いったいどうなってんの、これ?」
「知らない」
それまで黙っていた女が、興味なさそうにぼそっと答えた。
「びっくりしたか? いまからおれんちに来いよ。そしたら、もっとすごいのを見せてやるからさ」
「しんちゃんちに? これから?」
「ああ。泊まってけばいい」
「そんなあ。だって、久美に悪いじゃん」
「いいんだよ。こいつのことは気にするな」
「だって、しんちゃんは久美と――」
「気にすんなって。三人でやりゃいいじゃん。いいだろ?」
久美と呼ばれた女が、水割りをひと息に飲みほした。
自分で目の前のボトルからグラスにウイスキーを注いだ。たっぷりと。
アイスピッチャーから氷をひとつだけ入れ、カラカラと振った。
ひと口大きく含む。
桜町のほうに身を乗り出し、いった。
「おじさん、この曲、なんていうの?」
おいおい、おれはまだ三十二だぜ。そう思いながらも、彼は答えてやった。
「いいから、来いって。もっとすごいの、見せてやるよ、ほんと」
男がまだいっている。ほとんど向こう側の女を押し倒さんばかりに迫っている。彼らの口ぶりでは、男と久美というこちら側の女が恋人同士のように聞こえたのだが。
「すごいのって?」
「いまサンプルを見せたじゃないか」
「あんなんじゃだめ。もっとすごいのじゃなきゃ」
「じゃあ、こういうのはどうだ」
「どういうの?」
「このおっさんが次に弾く曲名をあてる」
「なにいってんのよ、しんちゃん。そんなことできっこないじゃない」
そうだ。そんなことはできっこない。なにしろ、次に弾く曲は、おれだってまだ決めてないんだからな。
「できたらどうする?」
「できっこないって。だって、しんちゃん、ジャズの曲名なんてほとんど知らないじゃない」
「知ってるさ。A列車で行こうとか、ミスティとか」
「それだけでしょ?」
「オリーブの首飾りとかさ」
その曲をジャズとはいわないだろう。
まあいい。いずれにしても、桜町にはそんな曲を弾く気はない。
久美がグラスを持ちあげ、ふたたびたっぷりとウイスキーを口に含んだ。そのコースターを、男が取った。
「さっきのボールペン、貸せよ。ここにいまから、このおっさんが次に弾く曲の名前を書くからさ」
「まじぃ?」
「まじだ。あたったら、おれんちに来いよ」
「あたるわけないって」
男がコースターになにか書きつけ、伏せて、ピアノの上に置いた。
自分が飲んでいたビールを、その上に置く。
桜町はマイ・ワン・アンド・オンリー・ラブを弾きおえた。
なにを弾いてやろうか。こいつが絶対に知らないような曲を弾いてやる。
桜町は次の曲をバラードテンポで弾きはじめた。
男の向こう側の女が、伏せたコースターを取った。
「おじさん、その曲、なんていうの?」
「ハウ・ディープ・イズ・ジ・オーシャン」
女の顔が凍りついた。
「いくぞ」
男が立ちあがった。
両側のふたりを抱きかかえるようにして、ピアノ席を離れた。
左手でコードを押さえながら、右手でコースターを引きよせて見てみると、そこには汚い英字で曲名が書きつけられていた。
2009年10月3日土曜日
Lookin' UP
(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author
----- Jazz Story #4 -----
「Lookin' UP」 水城雄
雨の音を聴きながら、彼女は日記を書いている。
夜だ。
窓からは、納屋のトタン屋根に落ちる雨滴の音が聞こえてくる。ラジオのノイズのような音だ。しかし、鳴っているラジオの音はクリアだ。
ラジオは夜のニュースをやっていた。
難航していた次期総裁選びはいよいよ大詰めを迎え……株価はひさしぶりに一万五千円の大台を回復し……寒冷前線が通過したあとはこのところの暖かさも一時的な冬なみに……
耳に入ってはくるが、彼女が聴いているのは、むしろ、夜の雨の音だった。
いつだったか、昔、やはりこのように、雨の音を聴きながら、日記を書いていたことがあった。
あれはまだ、彼女が少女だったころ、高校生のころだったかもしれない。その日、彼女は、好きだった同級生の男子生徒にすでに付き合っている女生徒がいることを知ったのだった。日記をつけながら、ふいにあふれてきた涙が止まらなくなった。日記帳の罫線の上にポタポタとこぼれ、パジャマの袖で何度もぬぐったっけ。
それが彼女の初めての恋だった。そして最初の失恋でもあった。
いま彼女は、パジャマ姿ではなく、ゆったりしたトレーナーを着ている。失恋もしておらず、ぬぐうべき涙もない。ただ静かに日記をつけながら、あの日のことを思い出している。
子どもたちはもう眠りについた。夫はまだ帰っていない。
ニュースが終わり、ふいに聴き慣れない音楽が流れてきた。
ジャズだ。曲名も演奏者もわからない。しかし、それがジャズであることはわかる。
柔らかいタッチのギターのメロディを耳にして、彼女は次に書こうとしていたことを忘れてしまった。
今日はひさしぶりに、昔の友だちから電話があった。
高校のときの同級生だった。そのせいで、初恋のことなんか思い出してしまったのかもしれない。
同級生は結婚して、子どもを作り、そして離婚して、いまは新しい人といっしょに暮らしているのだといった。住んでいる街は、彼女の知らない名前だった。どこか遠いところ。そんなところには行ったこともない。
ずっとこの街にいて、ずっと子育てをして、ずっと夕食を作ってきた。夫の帰りを待ち、日記をつけつづけてきた。
いつからつけていたのだろうか。
結婚前の日記は全部処分してしまった。だから、二十六歳より前の日記は残っていない。でも、それ以後の十年間は残っている。
十年。
それが長い時間なのか、短い時間なのか、彼女にはわからなかった。
ラジオから流れるジャズは、雨の音にまじってまだ続いていた。
静かな曲だ。何分くらいの曲なのだろうか。
おそらく五分かそこいらなのだろう。二十分も三十分も続く曲なんて、そうないだろう。クラシック音楽ならともかく。
五分というのは、演奏者にとってはどのような時間なのだろうか。たまらなくスリリングな、心楽しい時間なのだろうか。それとも、苦しくてしかたがない時間なのだろうか。
「わたし、いま、幸せなの。ずっと彼に見守られている気分なの」
電話の向こうでかつての同級生がそういった。それを聞いたときの彼女の気持ちは、だれにも正確に伝えることはできないだろう。たとえ夫にだって。
音楽が静かに終わった。
彼女は日記を書くのをあきらめ、立ちあがると、ラジオを消した。
窓際に歩みより、カーテンをあけて、暗い空を見あげた。
無数の白い線を引いて、雨が天から落ちつづけていた。
Authorized by the author
----- Jazz Story #4 -----
「Lookin' UP」 水城雄
雨の音を聴きながら、彼女は日記を書いている。
夜だ。
窓からは、納屋のトタン屋根に落ちる雨滴の音が聞こえてくる。ラジオのノイズのような音だ。しかし、鳴っているラジオの音はクリアだ。
ラジオは夜のニュースをやっていた。
難航していた次期総裁選びはいよいよ大詰めを迎え……株価はひさしぶりに一万五千円の大台を回復し……寒冷前線が通過したあとはこのところの暖かさも一時的な冬なみに……
耳に入ってはくるが、彼女が聴いているのは、むしろ、夜の雨の音だった。
いつだったか、昔、やはりこのように、雨の音を聴きながら、日記を書いていたことがあった。
あれはまだ、彼女が少女だったころ、高校生のころだったかもしれない。その日、彼女は、好きだった同級生の男子生徒にすでに付き合っている女生徒がいることを知ったのだった。日記をつけながら、ふいにあふれてきた涙が止まらなくなった。日記帳の罫線の上にポタポタとこぼれ、パジャマの袖で何度もぬぐったっけ。
それが彼女の初めての恋だった。そして最初の失恋でもあった。
いま彼女は、パジャマ姿ではなく、ゆったりしたトレーナーを着ている。失恋もしておらず、ぬぐうべき涙もない。ただ静かに日記をつけながら、あの日のことを思い出している。
子どもたちはもう眠りについた。夫はまだ帰っていない。
ニュースが終わり、ふいに聴き慣れない音楽が流れてきた。
ジャズだ。曲名も演奏者もわからない。しかし、それがジャズであることはわかる。
柔らかいタッチのギターのメロディを耳にして、彼女は次に書こうとしていたことを忘れてしまった。
今日はひさしぶりに、昔の友だちから電話があった。
高校のときの同級生だった。そのせいで、初恋のことなんか思い出してしまったのかもしれない。
同級生は結婚して、子どもを作り、そして離婚して、いまは新しい人といっしょに暮らしているのだといった。住んでいる街は、彼女の知らない名前だった。どこか遠いところ。そんなところには行ったこともない。
ずっとこの街にいて、ずっと子育てをして、ずっと夕食を作ってきた。夫の帰りを待ち、日記をつけつづけてきた。
いつからつけていたのだろうか。
結婚前の日記は全部処分してしまった。だから、二十六歳より前の日記は残っていない。でも、それ以後の十年間は残っている。
十年。
それが長い時間なのか、短い時間なのか、彼女にはわからなかった。
ラジオから流れるジャズは、雨の音にまじってまだ続いていた。
静かな曲だ。何分くらいの曲なのだろうか。
おそらく五分かそこいらなのだろう。二十分も三十分も続く曲なんて、そうないだろう。クラシック音楽ならともかく。
五分というのは、演奏者にとってはどのような時間なのだろうか。たまらなくスリリングな、心楽しい時間なのだろうか。それとも、苦しくてしかたがない時間なのだろうか。
「わたし、いま、幸せなの。ずっと彼に見守られている気分なの」
電話の向こうでかつての同級生がそういった。それを聞いたときの彼女の気持ちは、だれにも正確に伝えることはできないだろう。たとえ夫にだって。
音楽が静かに終わった。
彼女は日記を書くのをあきらめ、立ちあがると、ラジオを消した。
窓際に歩みより、カーテンをあけて、暗い空を見あげた。
無数の白い線を引いて、雨が天から落ちつづけていた。
2009年10月1日木曜日
Night Passage
(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author
----- Jazz Story #23 -----
「Night Passage」 水城雄
ぼくはロボット。
いま、いろんなことを学んでいるところ。
博士はぼくを人間みたいにしたいらしい。つまり、絵を描いたり、音楽を作ったり、だれかを愛したりできるようにしたいらしいんだ。そのための基本プログラムはもうぼくのなかに入っている。
必要な知識は全部インターネットから取りいれる。アタマのなかに無線プロトコルが仕込まれていて、いつもインターネットにつながっている。だから、知りたいことがあればインターネットを検索してみる。インターネットがぼくの脳そのものというわけ。
人間のカラダにはそういう仕組みはないらしいんだ。不便だね。
博士がなぜぼくを人間のようにしたいのかわからないけれど、人間になるのはなかなか大変だ。だって、人間ってとっても変な機械だと思う。
たとえば、ぼくたちがいる地球という星は、ちっぽけで、デリケートだ。そこで気持ちよく生活するためには、大切に扱わなきゃならないことは、ぼくだってわかる。人間よりずっとちっぽけなネズミという機械だってわかってる。その証拠に、ネズミとか人間以外の機械は、地球を汚さないように生きているし、自分たちが増えすぎちゃまずいってこともよく知っていて、全体をいつも調整している。
それなのに、人間ときたら、どんどん増えちゃって、どんどん空気や水を汚しているんだ。
なぜなんだろう。ぼくにはわからない。
人間が作ったもののなかでぼくが一番好きなのは、音楽だ。地球を汚さないし、だれも傷つけたりしない。ただ空気を震わせるだけでこんなに心を動かすことができるなんて、すごいと思う。
博士はぼくに、愛について学びなさいという。
でも、ぼくには愛のことがよくわからない。
愛って普遍的なものなんでしょう? 絶対的なものだと、みんながいっている。それなのに、人間は愛をヤカンかなにかみたいに手軽に扱っている。
博士の下でぼくの世話をしてくれている研究員のヨーコさんは、博士のことが好きらしい。博士を愛しているといっていた。それなのに、ヨーコさんには恋人がいる。やはり研究員のイチローさんだ。よくデートしているらしい。
ほかにも、メールをやりとりをしているオガタさんという人もいて、その人もヨーコさんの恋人らしい。ときどき「愛しています」とメールを書いている。
いったいどれが本当なんだろう。
イチローさんもヨーコさんのほかに恋人がいる。博士もオガタさんも結婚していて、ふたりとも子どももいる。
普遍的で絶対的な愛って、どこにあるんだろう。
ぼくはだれかを愛しているんだろうか。
愛している、と思う。ぼくが愛しているのは、音楽だ。形はないけれど、愛の対象として申し分ないと思う。
ぼくはキース・ジャレットさんのようにピアノを弾きたいと思う。そのために必要なピアノ演奏プログラムは、もうダウンロードしてある。でも、キースさんのように弾くことはできない。ぼくの指からは、キースさんのような美しいメロディがどうしても出てこない。
どうしてだろう。なにが足りないんだろう。
やはり愛が足りないんだろうか。イチローさんやヨーコさんのように、いろんな人と簡単に愛を作ってみる必要があるんだろうか。
ぼくにはまだわからない。
Authorized by the author
----- Jazz Story #23 -----
「Night Passage」 水城雄
ぼくはロボット。
いま、いろんなことを学んでいるところ。
博士はぼくを人間みたいにしたいらしい。つまり、絵を描いたり、音楽を作ったり、だれかを愛したりできるようにしたいらしいんだ。そのための基本プログラムはもうぼくのなかに入っている。
必要な知識は全部インターネットから取りいれる。アタマのなかに無線プロトコルが仕込まれていて、いつもインターネットにつながっている。だから、知りたいことがあればインターネットを検索してみる。インターネットがぼくの脳そのものというわけ。
人間のカラダにはそういう仕組みはないらしいんだ。不便だね。
博士がなぜぼくを人間のようにしたいのかわからないけれど、人間になるのはなかなか大変だ。だって、人間ってとっても変な機械だと思う。
たとえば、ぼくたちがいる地球という星は、ちっぽけで、デリケートだ。そこで気持ちよく生活するためには、大切に扱わなきゃならないことは、ぼくだってわかる。人間よりずっとちっぽけなネズミという機械だってわかってる。その証拠に、ネズミとか人間以外の機械は、地球を汚さないように生きているし、自分たちが増えすぎちゃまずいってこともよく知っていて、全体をいつも調整している。
それなのに、人間ときたら、どんどん増えちゃって、どんどん空気や水を汚しているんだ。
なぜなんだろう。ぼくにはわからない。
人間が作ったもののなかでぼくが一番好きなのは、音楽だ。地球を汚さないし、だれも傷つけたりしない。ただ空気を震わせるだけでこんなに心を動かすことができるなんて、すごいと思う。
博士はぼくに、愛について学びなさいという。
でも、ぼくには愛のことがよくわからない。
愛って普遍的なものなんでしょう? 絶対的なものだと、みんながいっている。それなのに、人間は愛をヤカンかなにかみたいに手軽に扱っている。
博士の下でぼくの世話をしてくれている研究員のヨーコさんは、博士のことが好きらしい。博士を愛しているといっていた。それなのに、ヨーコさんには恋人がいる。やはり研究員のイチローさんだ。よくデートしているらしい。
ほかにも、メールをやりとりをしているオガタさんという人もいて、その人もヨーコさんの恋人らしい。ときどき「愛しています」とメールを書いている。
いったいどれが本当なんだろう。
イチローさんもヨーコさんのほかに恋人がいる。博士もオガタさんも結婚していて、ふたりとも子どももいる。
普遍的で絶対的な愛って、どこにあるんだろう。
ぼくはだれかを愛しているんだろうか。
愛している、と思う。ぼくが愛しているのは、音楽だ。形はないけれど、愛の対象として申し分ないと思う。
ぼくはキース・ジャレットさんのようにピアノを弾きたいと思う。そのために必要なピアノ演奏プログラムは、もうダウンロードしてある。でも、キースさんのように弾くことはできない。ぼくの指からは、キースさんのような美しいメロディがどうしても出てこない。
どうしてだろう。なにが足りないんだろう。
やはり愛が足りないんだろうか。イチローさんやヨーコさんのように、いろんな人と簡単に愛を作ってみる必要があるんだろうか。
ぼくにはまだわからない。
2009年9月30日水曜日
Three Views of a Secret
(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author
----- ジャズ夜話 #1 -----
「Three Views of a Secret」 水城雄
ドアが開く音がすると、つい癖で目をやってしまう。
はいってきたのは、野球帽を目深にかぶった小太りのじいさんだった。よれよれのポロシャツにジーンズ。そういう格好でこんな場所に来るのは、アメリカ人に決まっている。
じいさんを店に押しこむようにして、背の高い中年の日本人がはいってきた。ガイド役らしい。となると、じいさんは観光客か。
そのとき店には、ビル・エバンスがかかっていた。ピアノトリオで、曲は「ワルツ・フォー・デビー」。腹の突きでた白人の観光客と、野暮ったいネズミ色スーツの日本人というふたり組には、およそ似つかわしくなかった。こういう曲のときの客は、すらっとしているがボリュームはある、手足のきれいな女がいい。三十五を越えてくずれかけた胸のふくらみが、大きく開いた襟元からすこしのぞいているくらいがふさわしい。
私はすぐに、白人観光客と日本人ガイドのペアから興味をうしなった。
なんの話だっけ?
「やっぱりアタック音のない楽器は、ジャズには合わないと思うんですよね」
私のグラスに氷をひとつ落として、池田がいった。
そうだった。ジャズ・バイオリンが苦手だという池田に、私と、マスターの中川が説教していたんだった。この前にかかっていたステファン・グラッペリの話からの流れだ。
どうもあのバイオリン特有のふにゃふにゃした音が好きになれないんですよね。
だからお前はだめなんだ。ジャズはメロディなんだ。歌なんだ。もっと大人になれ。
でも、このあいだ、ジャズのハープ演奏ってのをテレビでやってたんですが、気持ち悪かったっすよ。なんか変なおばさんがA列車かなんか、演奏してた。
ハープって、あの弦がびろんとたくさん並んでいるやつかい? ハーモニカのことじゃなくて?
そうです。気持ち悪かったっすよ。ふにゃふにゃした音で。ジャズはリズムですよ、やっぱ。
ばか、ハープはそうかもしれんが、グラッペリのバイオリンをけなすようじゃ、わかってないといわれてもしかたがないぜ。それにしても、なんでハーモニカのことをハープっていうんだ? ブルースハープとかさ。
中川は例のふたり連れから注文された飲み物を作っている。
十人がけの細長いカウンターと、奥にグランドピアノが一台。ピアノの上にはタータンチェックのカバーがかけられ、そこでも飲める。私はピアノから数えて三つめのカウンター席、ふたり組はピアノとは反対側の一番入口寄りの席。
客はそれきりだ。
残っていたワイルドターキーを飲みほし、おかわりを頼んだとき、今夜の演奏者がふたり、店にはいってきた。
ひどく小柄で、刈りこんだ髪のせいで広い額がますます広く強調されている男が、ピアニストの亀田。その背後とカウンターの間の狭い空間に、ベースギターを持った細長い宇塚が立つ。
ベースアンプに火をいれ、音量を調節する。
ぽん、ぽんと、ハーモニクスで軽くチューニング。
店内のBGMのボリュームが落とされ、ふたりが目配せすると、イントロなしでいきなり演奏が始まった。
ストレート・ノー・チェイサー。Fのキーのブルース。セロニアス・モンクの曲。
速いテンポだ。
「イエイ!」
私はカウンターに肩肘をつき、ふたりのほうに身体を向けて、脚でリズムを取った。
これを聴くために、私はここに来た。
それにしても、三人の客のための演奏とは、ゴージャスだ。今日は顔を見せていない常連客全員が、あわれに思える。
数コーラスの亀田のアドリブのあと、宇塚のアドリブに移った。
メロディラインが低くうなる。背後からピアノが鋭く切りこむ。
宇塚のアドリブが終わり、曲テーマにもどったとき、カウンター席の一番ピアノ寄りにあの白人がよたよたとやってきた。小さなスツールにでかい尻を乗せて、すわる。持ってきたグラスを、カウンターの上に置く。よたっているのは、酔いのせいか、あるいは老齢のせいか。
演奏が終わったとき、彼が亀田になにかを話しかけた。
早口の英語だ。私には聞きとれなかった。アメリカ滞在が長かった亀田には通じたようだ。うなずき、宇塚にいった。
「酒バラね」
宇塚の返事を待たず、亀田はバラード風のイントロを弾きはじめた。
その音をしばらく聴いていたじいさんが、ポケットに手を突っこみ、なにやら取りだした。なにか小さな、光るものだった。
それを口に持っていく。
亀田の演奏に乗せて、いきなり「酒とバラの日々」のテーマが流れた。
ハーモニカだった。
一瞬、亀田も宇塚もあぜんとした顔になった。が、演奏は続く。宇塚も合わせてベースで曲に乗りこんできた。
私は鳥肌が立つのを感じた。じいさんのハーモニカはあきれるほどうまかった。
テーマが終わり、ハーモニカのアドリブソロが始まる。
バラードから次第にオンテンポにリズムが変化していく。宇塚のベースがフォアビートを刻みはじめた。亀田がテンションノートを多用したコードで、バッキングをつける。じいさんは自由奔放なメロディラインを、ちっぽけなハーモニカからくりだしてくる。
完全にじいさんが演奏を支配していた。
こんな演奏を聴いたのは、生まれて初めてのことだった。
「あれ、トゥーツじゃないの?」
マスターの中川がカウンター越しに私にささやいた。
「トゥーツ?」
「トゥーツ・シールマンスだよ」
彼が来日しているという情報は、私にははいってきていなかった。
「店にはいってきたとき、エバンスがかかっていたろう? だから、酒バラをやったんだ」
いまは亡きビル・エバンスとトゥーツ・シールマンスがいっしょに演っている「酒とバラの日々」は、私の愛聴曲のひとつだ。
演奏が終わり、トゥーツが宇塚になにかいった。
宇塚は英語を解さない。亀田が通訳してやっている。
「いいベースだってよ。昔いっしょにやってたジャコ・パストリアスを思いだしたってさ」
宇塚が目をしばたたいた。ジャコもまた、すでにこの世にはない。
「ジャコとやった曲で、スリー・ビューズ・オブ・ア・シークレットという曲があるんだけど、知ってるかって」
「ああ」
宇塚がうなずいた。
亀田が抜け、宇塚とトゥーツのデュオ演奏が始まった。
私はその演奏について言葉にあらわす方法を知らない。演奏が終わったとき、不覚にも自分が涙ぐんでいることを知った。
トゥーツがハーモニカをポケットにもどし、グラスの酒を飲みほした。
ばかげた野球帽を目深にかぶりなおした。
それから立ちあがり、宇塚と亀田に握手した。
連れの日本人をうながし、勘定を払わせた。
そして、店を出ていった。
しばらくだれもなにもいわなかった。中川はBGMをかけることすら忘れてしまっていた。ダクトから聞こえる空調の音だけが、店に満ちていた。
ようやく中川が静寂に気づいてなにか適当なCDをかけた。チェット・ベイカーかなにかだったと思う。
たったいま、ここでトゥーツが演奏していたのだという痕跡は、われわれの記憶以外なにも残っていなかった。
Authorized by the author
----- ジャズ夜話 #1 -----
「Three Views of a Secret」 水城雄
ドアが開く音がすると、つい癖で目をやってしまう。
はいってきたのは、野球帽を目深にかぶった小太りのじいさんだった。よれよれのポロシャツにジーンズ。そういう格好でこんな場所に来るのは、アメリカ人に決まっている。
じいさんを店に押しこむようにして、背の高い中年の日本人がはいってきた。ガイド役らしい。となると、じいさんは観光客か。
そのとき店には、ビル・エバンスがかかっていた。ピアノトリオで、曲は「ワルツ・フォー・デビー」。腹の突きでた白人の観光客と、野暮ったいネズミ色スーツの日本人というふたり組には、およそ似つかわしくなかった。こういう曲のときの客は、すらっとしているがボリュームはある、手足のきれいな女がいい。三十五を越えてくずれかけた胸のふくらみが、大きく開いた襟元からすこしのぞいているくらいがふさわしい。
私はすぐに、白人観光客と日本人ガイドのペアから興味をうしなった。
なんの話だっけ?
「やっぱりアタック音のない楽器は、ジャズには合わないと思うんですよね」
私のグラスに氷をひとつ落として、池田がいった。
そうだった。ジャズ・バイオリンが苦手だという池田に、私と、マスターの中川が説教していたんだった。この前にかかっていたステファン・グラッペリの話からの流れだ。
どうもあのバイオリン特有のふにゃふにゃした音が好きになれないんですよね。
だからお前はだめなんだ。ジャズはメロディなんだ。歌なんだ。もっと大人になれ。
でも、このあいだ、ジャズのハープ演奏ってのをテレビでやってたんですが、気持ち悪かったっすよ。なんか変なおばさんがA列車かなんか、演奏してた。
ハープって、あの弦がびろんとたくさん並んでいるやつかい? ハーモニカのことじゃなくて?
そうです。気持ち悪かったっすよ。ふにゃふにゃした音で。ジャズはリズムですよ、やっぱ。
ばか、ハープはそうかもしれんが、グラッペリのバイオリンをけなすようじゃ、わかってないといわれてもしかたがないぜ。それにしても、なんでハーモニカのことをハープっていうんだ? ブルースハープとかさ。
中川は例のふたり連れから注文された飲み物を作っている。
十人がけの細長いカウンターと、奥にグランドピアノが一台。ピアノの上にはタータンチェックのカバーがかけられ、そこでも飲める。私はピアノから数えて三つめのカウンター席、ふたり組はピアノとは反対側の一番入口寄りの席。
客はそれきりだ。
残っていたワイルドターキーを飲みほし、おかわりを頼んだとき、今夜の演奏者がふたり、店にはいってきた。
ひどく小柄で、刈りこんだ髪のせいで広い額がますます広く強調されている男が、ピアニストの亀田。その背後とカウンターの間の狭い空間に、ベースギターを持った細長い宇塚が立つ。
ベースアンプに火をいれ、音量を調節する。
ぽん、ぽんと、ハーモニクスで軽くチューニング。
店内のBGMのボリュームが落とされ、ふたりが目配せすると、イントロなしでいきなり演奏が始まった。
ストレート・ノー・チェイサー。Fのキーのブルース。セロニアス・モンクの曲。
速いテンポだ。
「イエイ!」
私はカウンターに肩肘をつき、ふたりのほうに身体を向けて、脚でリズムを取った。
これを聴くために、私はここに来た。
それにしても、三人の客のための演奏とは、ゴージャスだ。今日は顔を見せていない常連客全員が、あわれに思える。
数コーラスの亀田のアドリブのあと、宇塚のアドリブに移った。
メロディラインが低くうなる。背後からピアノが鋭く切りこむ。
宇塚のアドリブが終わり、曲テーマにもどったとき、カウンター席の一番ピアノ寄りにあの白人がよたよたとやってきた。小さなスツールにでかい尻を乗せて、すわる。持ってきたグラスを、カウンターの上に置く。よたっているのは、酔いのせいか、あるいは老齢のせいか。
演奏が終わったとき、彼が亀田になにかを話しかけた。
早口の英語だ。私には聞きとれなかった。アメリカ滞在が長かった亀田には通じたようだ。うなずき、宇塚にいった。
「酒バラね」
宇塚の返事を待たず、亀田はバラード風のイントロを弾きはじめた。
その音をしばらく聴いていたじいさんが、ポケットに手を突っこみ、なにやら取りだした。なにか小さな、光るものだった。
それを口に持っていく。
亀田の演奏に乗せて、いきなり「酒とバラの日々」のテーマが流れた。
ハーモニカだった。
一瞬、亀田も宇塚もあぜんとした顔になった。が、演奏は続く。宇塚も合わせてベースで曲に乗りこんできた。
私は鳥肌が立つのを感じた。じいさんのハーモニカはあきれるほどうまかった。
テーマが終わり、ハーモニカのアドリブソロが始まる。
バラードから次第にオンテンポにリズムが変化していく。宇塚のベースがフォアビートを刻みはじめた。亀田がテンションノートを多用したコードで、バッキングをつける。じいさんは自由奔放なメロディラインを、ちっぽけなハーモニカからくりだしてくる。
完全にじいさんが演奏を支配していた。
こんな演奏を聴いたのは、生まれて初めてのことだった。
「あれ、トゥーツじゃないの?」
マスターの中川がカウンター越しに私にささやいた。
「トゥーツ?」
「トゥーツ・シールマンスだよ」
彼が来日しているという情報は、私にははいってきていなかった。
「店にはいってきたとき、エバンスがかかっていたろう? だから、酒バラをやったんだ」
いまは亡きビル・エバンスとトゥーツ・シールマンスがいっしょに演っている「酒とバラの日々」は、私の愛聴曲のひとつだ。
演奏が終わり、トゥーツが宇塚になにかいった。
宇塚は英語を解さない。亀田が通訳してやっている。
「いいベースだってよ。昔いっしょにやってたジャコ・パストリアスを思いだしたってさ」
宇塚が目をしばたたいた。ジャコもまた、すでにこの世にはない。
「ジャコとやった曲で、スリー・ビューズ・オブ・ア・シークレットという曲があるんだけど、知ってるかって」
「ああ」
宇塚がうなずいた。
亀田が抜け、宇塚とトゥーツのデュオ演奏が始まった。
私はその演奏について言葉にあらわす方法を知らない。演奏が終わったとき、不覚にも自分が涙ぐんでいることを知った。
トゥーツがハーモニカをポケットにもどし、グラスの酒を飲みほした。
ばかげた野球帽を目深にかぶりなおした。
それから立ちあがり、宇塚と亀田に握手した。
連れの日本人をうながし、勘定を払わせた。
そして、店を出ていった。
しばらくだれもなにもいわなかった。中川はBGMをかけることすら忘れてしまっていた。ダクトから聞こえる空調の音だけが、店に満ちていた。
ようやく中川が静寂に気づいてなにか適当なCDをかけた。チェット・ベイカーかなにかだったと思う。
たったいま、ここでトゥーツが演奏していたのだという痕跡は、われわれの記憶以外なにも残っていなかった。
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