2009年10月3日土曜日

Lookin' UP

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----- Jazz Story #4 -----

  「Lookin' UP」 水城雄


 雨の音を聴きながら、彼女は日記を書いている。
 夜だ。
 窓からは、納屋のトタン屋根に落ちる雨滴の音が聞こえてくる。ラジオのノイズのような音だ。しかし、鳴っているラジオの音はクリアだ。
 ラジオは夜のニュースをやっていた。
 難航していた次期総裁選びはいよいよ大詰めを迎え……株価はひさしぶりに一万五千円の大台を回復し……寒冷前線が通過したあとはこのところの暖かさも一時的な冬なみに……
 耳に入ってはくるが、彼女が聴いているのは、むしろ、夜の雨の音だった。
 いつだったか、昔、やはりこのように、雨の音を聴きながら、日記を書いていたことがあった。
 あれはまだ、彼女が少女だったころ、高校生のころだったかもしれない。その日、彼女は、好きだった同級生の男子生徒にすでに付き合っている女生徒がいることを知ったのだった。日記をつけながら、ふいにあふれてきた涙が止まらなくなった。日記帳の罫線の上にポタポタとこぼれ、パジャマの袖で何度もぬぐったっけ。
 それが彼女の初めての恋だった。そして最初の失恋でもあった。
 いま彼女は、パジャマ姿ではなく、ゆったりしたトレーナーを着ている。失恋もしておらず、ぬぐうべき涙もない。ただ静かに日記をつけながら、あの日のことを思い出している。
 子どもたちはもう眠りについた。夫はまだ帰っていない。
 ニュースが終わり、ふいに聴き慣れない音楽が流れてきた。
 ジャズだ。曲名も演奏者もわからない。しかし、それがジャズであることはわかる。
 柔らかいタッチのギターのメロディを耳にして、彼女は次に書こうとしていたことを忘れてしまった。

 今日はひさしぶりに、昔の友だちから電話があった。
 高校のときの同級生だった。そのせいで、初恋のことなんか思い出してしまったのかもしれない。
 同級生は結婚して、子どもを作り、そして離婚して、いまは新しい人といっしょに暮らしているのだといった。住んでいる街は、彼女の知らない名前だった。どこか遠いところ。そんなところには行ったこともない。
 ずっとこの街にいて、ずっと子育てをして、ずっと夕食を作ってきた。夫の帰りを待ち、日記をつけつづけてきた。
 いつからつけていたのだろうか。
 結婚前の日記は全部処分してしまった。だから、二十六歳より前の日記は残っていない。でも、それ以後の十年間は残っている。
 十年。
 それが長い時間なのか、短い時間なのか、彼女にはわからなかった。
 ラジオから流れるジャズは、雨の音にまじってまだ続いていた。
 静かな曲だ。何分くらいの曲なのだろうか。
 おそらく五分かそこいらなのだろう。二十分も三十分も続く曲なんて、そうないだろう。クラシック音楽ならともかく。
 五分というのは、演奏者にとってはどのような時間なのだろうか。たまらなくスリリングな、心楽しい時間なのだろうか。それとも、苦しくてしかたがない時間なのだろうか。
「わたし、いま、幸せなの。ずっと彼に見守られている気分なの」
 電話の向こうでかつての同級生がそういった。それを聞いたときの彼女の気持ちは、だれにも正確に伝えることはできないだろう。たとえ夫にだって。
 音楽が静かに終わった。
 彼女は日記を書くのをあきらめ、立ちあがると、ラジオを消した。
 窓際に歩みより、カーテンをあけて、暗い空を見あげた。
 無数の白い線を引いて、雨が天から落ちつづけていた。

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