2009年10月5日月曜日

彼女が神様だった頃

----- Another Side of the View #6 -----

  「彼女が神様だった頃」 水城雄


「なにをそんなに怒ってんだい?」
 叔父さんにいわれ、彼女はあわてて口もとをこすった。
 自転車をとめ、髪をひたいの上にかきあげる。
「怒ってなんかいないわよ」
「なっちゃんは怒るとママそっくりになるな」
 叔父さんは彼女の言葉を無視して、いった。
「いい天気だね。どこに行くんだい?」
「べつに」
 自分でも、べつに、という返事はあんまりだと思いながら、そうこたえてしまう。たしかにもう夏を感じさせるほどのいい天気だ。半熟よりすこしかためにボイルドしたゆで玉子みたいな午前の日差し。空には雲ひとつない。いや、ずっと高いところ、天国にとどきそうな高いところにうっすらとした雲がひとすじ、見える。
「乗れば?」
 叔父さんは車の窓わくに肘を乗せている。
「おいでよ。これからアリスを出すんだ」
 彼女はちょっとためらった。
「自転車、どうしよう」
「そんなのほっとけよ。そんなボロ、だれも乗ってったりしないって」
 これでも高かったんだから、たしかにボロだけどさ。彼女はまた自分の顔が怒っているように見えないかどうか気にしながら、自転車を歩道の脇に寄せ、叔父さんの車に乗りこんだ。叔父さんが助手席に置いたスーパーマーケットの袋を後部シートにガサガサと移動させた。
 助手席に乗りこみ、スカートを引っぱりおろす。叔父さんみたいにひじを窓枠に乗せる。
 車が動きはじめると、窓から風がふきこんできて、髪をみだした。このあたりではまだ海の香りは感じられない。
 叔父さんがギアをローからセカンドをとばしてサードに突っこむのを見て、ついつい微笑してしまう。そして、自分も彼のように運転できたら、と思う。
「で、なにを怒ってたんだい?」
 叔父さんがもう一度たずねてきた。
「うん。ちょっとね」
 それから彼女はあわてて話題をそらした。
「アリスにはだれがいるの?」
「会社の女の子がひとり」
「ひとり?」
「アリスに乗るのはひさしぶりじゃないのか。ひょっとして進水式以来だな。ということは、五年ぶりってことになるぞ」
「かもね」
 車は街なかを走りぬけ、海岸通りに向かっていた。母親に手を引かれ信号待ちをしている子どもが持つ紙の鯉のぼりが、風にふかれてパタパタと泳いでいる。鯉のぼりのてっぺんのかざぐるまも勢いよく回りつづけていた。
「きみはまだ高校生になったばかりかなんかだったな。あのとき、同級生をゾロゾロ連れてきて……ひどくにぎやかでこまったよ」
「鼻の下のばして喜んでたのはだれ?」
「まさか」
 叔父さんは鼻の下を指でこすった。それを見て、彼女はもうすこし意地悪をいいたくなった。
「ママにいってもいいの?」
「なんのことだい」
「いうわよ、あたし」
「かまわないさ。たまたま他のメンバーが来れなくなっただけの話だ」
「玲子さんや稔くんたちは?」
「映画を観にいった。ふたりとも、最近はあまり乗りたがらない。おいおい、いい加減にしないか。なにもやましいことはないよ。じゃなきゃ、なっちゃんを誘ったりするもんか」
 それもそうだと彼女は思った。でも叔父さんだって男なんだ。男には、女が自分たちとはちがうということがわかってはいるけれど、どうちがうということになるとまるでわかっちゃいない。
 忘れかけていた怒りを思いだしそうになり、彼女は窓から首を突きだすようにした。すると、かすかに潮の香りをかいだような気がした。この高層マンションの角をまわると、海が見えるはずだ。
「お昼はなに?」
 髪を押えながら肩越しにスーパーの袋を指さし、彼女はたずねた。
「スパゲティ。アサリをたくさん買ってきた」
「ボンゴレね。会社の女の人が作ってくれるの?」
「彼女は料理が苦手なんだ。とくに揺れるキャビンではね」
「じゃ、叔父さんが作るの?」
「きみが作るといっても、おれはこばまない」
 海岸通りに出る交差点で、赤信号に引っかかった。ニュートラルにしたシフトレバーを、叔父さんが左右に持てあそぶ。車の前の横断歩道を、茶色い大きな犬がゆっくりと横ぎっていった。
「そういや」
 と彼がいった。
「きみが最初にアリスに乗ったとき、こんなことがあったな。あの小犬のこと、おぼえてるかな」
「小犬……どの小犬?」
「だれかがハーバーに連れてきて、どこかのガキがいたずらして海にほうりこんだ小犬」
 思いだした。なんていうのか知らないけれど、毛が長く、耳が垂れている種類の小犬だった。むこうのほうからくしゃみをしながら泳いできたのだ。進水したばかりのアリスの横まできて、いかにもあわれっぽい目つきで人々を見あげたものだ。水面まではかなりの落差があり、桟橋に腹ばいになっても小犬を助けあげられそうにはなかった。
「みんな、びっくりしたんだよな」
 と叔父さん。歩行者用信号が点滅しはじめた。
「いきなりきみが飛びこむんだもんな」
 そうなのだ。服を着たままザンブと桟橋から飛びこんだのだ。
「だって、ちゃんと着替えは持ってきてたもの」
「そんなこと、だれも知らなかったさ」
 しかし、小犬に泳ぎつき、かみつかれそうになりながら助けあげたのはいいが、今度は桟橋によじのぼれなくなって、アリスの縄梯子を投げてもらわなければならなかったのだった。
 信号が変わり、叔父さんはギアをローに突っこんだ。
 ウインカーをカチカチいわせながら車が右折すると、彼女の側に海が見えた。
「まあともかく」
 叔父さんがいう。
「今日はまだ泳げないぜ」
 海は陽光を受けてまぶしく光っている。それにむかって彼女は手を大きく差しのべた。

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