2009年10月26日月曜日

彼女の仕事

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----- Another Side of the View #1 -----

  「彼女の仕事」 水城雄


 フェンダーの位置が悪いらしく、右舷のハルが突堤にぶつかりそうだった。彼女は軽く舌打ちしてから、身体をかがめ、ライフライン越しにフェンダーの位置を調節した。
 ラグーンの中はまったくといっていいほど波がなかった。フェンダーを調節してから、身体を起こすと、ペリエのはいったグラスの口に耳をつけたときのような音がもどってきた。
 外海のほうを振りかえってみる。
 その動作で、腰から足へと続くきれいな腰のラインが、とりわけ引きたって見えた。いま彼女は、白いシンプルなビキニの水着を着ている。
 外海をはるばるやってきた波が、環礁にぶつかって白く泡だっていた。彼女は目を細め、しばらくその様子をながめた。
 やがて視線をはずし、ミズンのブームの先にぶらさげられた青いバナナの房を見ながら、昼食のしたくをしなくちゃ、とかんがえた。まさか、このバナナを昼食にはできない。ここに着けたとたんやってきた子供のバナナ売りから、とてもまだ食べられやしないバナナを夫が買ったことについて、ついいましがたふたりはやりあったばかりだ。もっとも喧嘩なら、この島に着く前から続けていたけれど。
 気をきかしたのか、安倍さんはどこかに姿を消してしまった。彼に昼食の準備を手伝ってもらおうと思っていたのに。
 と突然、桟橋のほうから夫のさけび声が聞こえた。「わぁお」というような声。
 むこう側の木の桟橋には、へっぴり腰になって両手で釣竿を支えている夫の姿があった。竿の先端は、ぐにゃりと曲がり、ほとんど海に引きこまれそうになっている。
「逃がさないで!」
 彼女は夫にむかってさけんだ。
「それ、お昼ごはんよ」
「釣りあげられたらな!」
 夫がさけびかえす。
「大物だぞ、これ」
「待ってて。いま行く!」
 裸足のまま自分のケッチから突堤に飛びおりると、桟橋にむかって駆けた。安倍さんはどこに行っちゃったんだろう。彼なら釣りの名人なのに。
 獲物は本当に大物のようだった。竿を支える夫の腕に、力コブが盛りあがっている。夫は竿の端を、すこし突きだしはじめたおなかに押しあて、両足をふんばってリールを巻きこもうとしている。
「だめ! 無理に巻いちゃ!」
「もう先がないんだよ! ほとんど出ちゃってんだ」
「走らせて、疲れさせるのよ。安倍さんがそういってた」
「やってるさ!」
 獲物がいきなり、横に走った。桟橋の先端をぐるっと回って、反対側に走る。糸が海面を切る音が聞こえた。
「手を出すなよ」
「わかってます」
「そこのボート、じゃまだ!」
 桟橋の反対側には、住民のものだろう、木製の手こぎボートが二艘、つながれていた。彼女は勝手にそのもやいを解くと、桟橋のつけ根のところまで引っぱっていった。
 夫のところにもどろうとしたとき、やじ馬がやってきた。男たちがなにごとかを口ぐちにわめきながら、桟橋に集まってくる。みんなまっ黒の顔をして、派手な柄のシャツを着ている。まるで制服みたいに、そろって白いショートパンツをはいている。
 彼らがなにをしゃべっているのか、さっぱりわからなかった。何語なの、これ? で、彼女も日本語でいった。
「手を出さないで! 彼にやらせるのよ」
 男たちのうしろから、子どもがワラワラとやってくるのも見えた。
 だめ、だめよ、うちのおかずなんだから、これは。
 彼女は両手を広げ、やじ馬を桟橋の中ほどで阻止した。どうやら男たちは、竿の動かし方やリールの巻き方について、文句をいっているらしい。
「手がしびれてきた」
 と夫がいう。
「がんばって」
「リールが巻けない」
「手伝いましょうか?」
「ばかいえ」
 竿がわずかに立ちあがった。
「ほら、いまよ! 巻くのよ!」
「やってる」
 もうやじ馬のことなんか気にしていられなかった。それに男たちも、耳がつぶれるほどの大声で、てんでにわめきちらしてはいるが、手を出そうとはしない。
 夫はここぞとリールを巻きこんでいる。獲物が疲れたのか。
 そのとき「おうッ」とうなり、竿を抱えこんだ。
 糸がピーンと張り、すごいいきおいでリールがもどされた。
「だめだ!」
 夫がずるずると桟橋のヘリまで引きずられた。彼女はとっさに、夫の腰にしがみついた。
 そのとき、夫の身体がガクンとのけぞり、その勢いでふたりはもつれあったまま、桟橋の反対側に転落していた。
 ふたり同時に、水面に顔を出す。
「切れたんだ」
「なにが?」
「糸がだよ。切れちゃったんだ、プッツンとね」
 桟橋を見上げると、やじ馬たちがふたりを指さし、ゲラゲラと笑いころげているではないか。
「やだー」
 それから夫と顔を見合わせ、同時にプッと吹きだした。
 それから首っ玉にしがみついて、キスした。ブクブクと身体が沈む。
 浮かびあがると、桟橋から日本語が聞こえた。
「なにしてんだ、そんなとこで?」
 住民にまじって、安倍が桟橋に立っていた。夫の友人、ハンサムな釣りの名人の安倍さん。
「それ、どうしたの?」
 彼女はたずねた。
「市場で買ってきたんだ。昼食にちょうどいいと思ってね」
 そういって安倍は、手にぶらさげた魚を持ちあげて見せた。
 ふたりは抱きあったまま、もう一度笑いはじめる。

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