2009年10月24日土曜日

水族館

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----- Urban Cruising #10 -----

  「水族館」 水城雄


 試算表を提出してしまうと、なんとはなしにけだるさを感じる。今日は仕事を早めにきりあげ、車を駐車場から出した。
 行くあてはない。
 ただなんとはなしに、彼女は海に向かった。

 細く、ねじくれた松の林の間を通って、車を走らせる。
 ツタのからんだ松の間から、海が見える。雨あがりの静かな海には、午後の太陽が反射して、キラキラと光っている。
 勤めはじめて四年、いまの部署に変わって、半年。ようやく上司の助けを借りずに、試算表を作れるようになった。パソコンに向かい、数字を打ち込む毎日。
 同僚たちとの昼食。
 内線電話でのデートの約束。
 上司との行きちがい。
 終業後のショッピング。
 海に反射する太陽の光が、とてもまぶしい。
 車の前後を大型バスにはさまれながら走っていると、松林の中のキャンプ場を通りすぎた。すぐに断崖絶壁で有名な観光地が現れる。大型バスは相次いで左折していき、見えなくなった。
 ふと思いだした。この先に、たしか、水族館があったんだ。子どものころ、秋の遠足で出かけたそこの風景が、切れ切れに思い浮かぶ。
 そうだわ。ひさしぶりに、水族館にでものぞいてみよう。
 そう思っていると、道ばたに、「イルカショー」という文字が見えた。
 ふいに、彼のことを思いだす。ここではないけれど、いつかいっしょに行ったっけ、水族館に。妙に水族館の好きな人だった。
 いつのまにか、運転席からは、海が見えなくなっている。

 ここに来るのは何年ぶりだろうか。
 入場券を買い、ゲートをくぐると芝生にはさまれた道がまっすぐ海へと続いている。左手には、クジャクの囲い。右手にはイルカのプール。
 柵にもたれかかり、プールを見おろした。水の中ではイルカたちが、ゆっくりと泳ぎ回っている。台風の大雨のあとの、ぶりかえしのような暑い天気だった。
「イルカショーは四時半からはじまります」
 と場内アナウンスが告げた。イルカたちが活躍するには、まだすこし時間があるようだ。
 彼女はプールの奥に見える水族館の建物に歩いていった。
 館内は冷房がきき、ひんやりしている。はいったところにある大きな水槽には、巨大な海水魚が群れをなして泳いでいる。クエ、イシダイ、アカエイ、ウミガメ。気のせいか、みな疲れたような顔に見える。
 わたしと同じだわ、と彼女は思った。
 数年前、彼と行った水族館では、どうだったろうか、と考える。思いだせない。
 水槽にはさまれた薄暗い通路を、奥に向かって歩いていく。なにかの団体がおとずれているらしく、年輩の男性ばかりが何人も、水槽のガラスに顔をこすりつけるようにして、子どもみたいにはしゃぎあっている。
 彼女は水槽の上に貼りつけられた魚の名前を読んでいく。
 ホンソメワケベラ。
 ネズミフグ。
 マツカサウオ。
 メバル。
 エビスダイ。
 ゾウリエビの水槽の前で、ひとりの初老の男性が、手をひらひらさせて踊っている。懸命にエビの注意を引こうとしているのだ。さかんに笑い声があがる。彼女もつりこまれて、つい笑ってしまう。
 このおじさん、家ではどのようなお父さんなんだろう

 場内アナウンスがあり、イルカショーがはじまるらしい。
 平日にもかかわらず、スタンドはかなりの人で埋まっている。ほとんどが家族連れだ。彼女は、スタンドではなく、プールの横手の柵にもたれかかって立っている。
 アイスクリームを落として泣いている幼児がいる。肩を寄せあい、楽しそうに笑っている男女のカップルがいる。
 彼女はスタンドから目をそらし、プールに視線をもどした。ショーがはじまることを知っているのだろうか、イルカたちの動きがこころもち、活発になったように思える。
 大きな水槽で泳いでいた魚たちとは、大違いだ。あるいは、なんとはなしに仕事に疲れている自分とは大違い、か。
 決まりきった日常。
 やがてわたしも結婚することになるのだろう。そうなっても、なんの未練もなくやめられる仕事。
 結婚し、子供を産み、育て、気がついたらおばさんになっているのか。
 イルカショーがはじまった。イルカたちがジャンプするたびに、水しぶきがあがり、歓声があがる。
 イルカたち。
 観客たち。
 子供たち。
 ひときわ高いジャンプを、一頭のイルカが見事に決めた。しぶきが彼女のところまで飛んできて、手を濡らした。
 まあ、あしたもがんばって仕事をしてみよう。
 水しぶきでしょっぱくなった指をなめながら、彼女は思った。
 短くなった日は、もうすっかり落ちようとしている。

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