2009年10月17日土曜日

Thank You So Much

----- Another Side of the View #12 -----

  「Thank You So Much」 水城雄


 酒場でちょっかいをかけた女のことで女房から責めたてられていると、沖をセクシーな光景が通りすぎていくのが見えた。
 ありゃいったい、何杯出てる? 生まれてこのかた、あんなにたくさんのヨットがいっせいに走ってる様なんざ、見たことねえ。
 ピカピカにみがかれたハル。
 誇り高くクンと反りかえったマスト。
 真新しいセール。
 100杯もの大型セーリングヨットが、ステイを風でびゅんびゅん鳴らせているのが、ここまで聞こえてくる。
 彼は作業の手を休め、うっとりとその光景をながめた。
「おまえさん、聞いてるのかい?」
 女房が耳もとでどなった。
「聞いてるさ。でけえ声出さなくても、ちゃんと聞こえてる」
「聞こえてるなら、返事したらどうなんだい?」
 いつからマリアとできてるんだ、と追求されていたのだった。
 ヨットの群は、真っ青な空の下を突きすすんでいく。大西洋をわたってくる風を帆に受け、船体を大きくかたむけながら、波の上をすべっていく。
 クルーたちが船べりにずらっとならんですわっているのが見えた。オイルスキンを着こみ、顔をまっ黒に日焼けさせている。
 あいつら、いってえ、いまなにを考えてやがんのかな。
「おまえさん、聞いてるのかい?」
 女房がまたもやいった。
 ふたりは自分たちのちっぽけな漁船の上にいるのだった。
 手入れはいいが、古い漁船だ。エンジンを停めていると、波にあおられ、木の葉のようにクルクルもてあそばれる。
「ああ」
「返事をおしよ。マリアとはいつからできてるんだい?」
「だから、マリアなんかとはできてやしねえって。あの女にはちゃんと男がいやがんだよ」
「だれだい?」
「そんなこと、おれが知るもんかい」
 彼は吐きすてるようにいうと、魚網をつくろう作業にもどった。
 そうさ。そんなこと、おれが知るもんかい。マリアの男なんか、おれの知ったこっちゃねえ。くそ、はやいとここれを直しちまって……
「やっぱりいないんじゃないか。マリアの男は、おまえさんなんだろ?」
「馬鹿いっちゃいけねえ」
「いつからあの女とできてんだい? いいかげんに白状おし」
「白状もなにも、マリアとなんかできてやしねえってば。おれはただ、あの酒場が好きなだけなんだ」
「じゃあ、なんでみんな、あたいが酒場にはいってくと、クスクス笑いやがんだい?」
「そんなこと、おれの知ったことか」
「やっぱりなんかあるんだ」
「なんにもねえってば。いいかげんにしろよ、おめえ。仕事、しろ。魚がみんな、逃げちまわあな」
「魚なんかどうだっていいよ」
 ふいに悲しみにとらわれたような女房の口調に、彼は顔をそむけた。
 先頭を走っていたヨットが、きゅうに向きを変えた。
 巨大なブイがすぐそばに浮かんでいるのが見えた。
 クルーたちのどなり声が、海面を伝わって聞こえてくる。
 セールがバタバタいう音。
 キリキリキリ……
 ウインチが回っている。
 バシッとセールが風をはたいた。
 ヨットは向こうむきになり、さらに沖へと向かったようだ。大きくかしいでいる姿が、たまらなくセクシーだ。
 いっぺん、ああいう船に乗ってみてえもんだ。そりゃあ、おれのこの船だってまんざらじゃねえ。丁寧に手入れしてるさ、毎日。かわいい娘みてえなもんだ。しかし、あんなでっけえ船に、いっぺんでもいい、乗ってみてえもんだ。魚をとることなんかかんがえずにな。
 こうるせえ女房もなしで。
「なあ、おまえさん」
 網針を持つ彼の腕を、女房が押さえた。
「いいかげん、白状しておくれな。おこらないからさ」
「おこらねえ? おめえはいつだってそういうじゃねえか。そういっときながら、おれが正直にいうと、ひでえことしやがる。ほれ、ここ見てみな」
 彼は潮風にさらされて真っ白になった髪をかきあげてみせた。
「わかってるって。あれはあたいが悪かったよ。ついカッとしちまったんだよ」
「6針も縫ったんだぞ」
「だから、あたいが悪かったっていってるじゃないか。おこらないって約束するから、白状しておくれな。そうすりゃ、あたいの気がすむんだよ」
 なにが気がすむもんか、と彼は思った。おれはこんりんざい、女房に白状なんかしねえ。
 大きなブイを回ったヨットが、次々と方向転換して、沖へと向かっている。
 あいつら、いってえ、どこに行きやがる? もっと沖にもうひとつブイでもあるんだろうか。それとも、どこか遠くの国に行っちまうんだろうか。
 あいつら、なにをかんがえてやがんだろう。
 きっと、頭ん中、真っ白にして、勝負のことしかかんがえてねえんだろうな。
 それなのに、このおれときたら……
「ねえ、おまえさんってば。お願いだからあたいに……」
 彼はとうとう癇癪玉を破裂させた。
「うるせえ! できてねえったらできてねえんだ。いつまでもウダウダいってねえで、仕事しろ。いいかげんにしねえと、海にほっぽり出すぞ!」
「なんだって、おまえさん?」
 彼は女房の目が吊りあがるのを見た。
 やれやれ。
 壮大なヨットの群れは、どんどん沖へと遠ざかって行く。
 それを追ってか追わずか、やはり沖へと向かうカモメの群れが、彼の目にはいってきた。

0 件のコメント:

コメントを投稿