2009年10月31日土曜日

失われし街

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----- Urban Cruising #15 -----

  「失われし街」 水城雄


 栂野(つがの)の存在を示す文献は、県内にもそう多く存在しない。宝永年間に著されたとされる橘家の所有になる『栂野記』によれば、現在の河野(こうの)村浦白(うらじろ)にあったとされるが、さだかではない。
 われわれはただ、おぼろげなる伝承と文献により、その幻の地を想像するしかないのだ。

 松岡町の郷土史家杉本浩三郎氏によれば、栂野の存在は橘家所有の『栂野記』より、『越前奥越開拓史』につまびらかにされているという。
 杉本氏は、この明治23年に大日本帝国陸軍調査部島田忠次大尉によって書かれた報告書の写しを一部所有しているが、これには栂野が越前奥越地方、現在の大野郡三井原(みついがはら)に存在していたことを示す重要な証拠が記されていると主張する。実際われわれは、次のような一文を目にすることができる。

三井原発掘調査団ハ地中四尺ノ位置ヨリ栂野ニテ使用サレテイタト云ハレル
鱗粉掻キ棒ヲ掘リ出スコトニ成功セリ。

 この鱗粉掻き棒というのは、あくまで伝承によるものだが、栂野において飼育が盛んだったとされるいまでいうムラサキコトブキチョウの鱗粉を加工するためのものである。
 しかし、この掻き棒が発掘されたことは、すなわち栂野がこの地にあったことの直接的な証拠とはならないし、また掻き棒の存在も今日ではさだかではないのである。
 これほどまでに名の通った村が、その存在した位置すらもわからずに今日まで語りつがれているという例を、われわれは他に知ることができない。
 あるいは栂野は、中世の人々の純粋な想像の産物だったとでもいうのだろうか。

『栂野記』では海辺の町であったといい、『越前奥越開拓史』では山村であったという。が、文献に頼らないとすれば、じつに多彩な栂野に関する伝説が、民間で伝承されていることは、周知である。
 栂野が長く人に語りつがれ、記憶の奥底で愛しつづけられていたことは、次のわらべ歌にひそむ言葉によっても明かである。

ちょうちょ たべては ひゃくひとつ
かわず ねぶては ひゃくふたつ
 つがの いきたや てきねえと

 杉本氏とは対象的に地方マスコミには決してあらわれない、知られざる民間伝承の研究家竹内洋三氏によると、栂野の立地はさだかではないが、語りつがれている栂野伝説はあながち虚構ばかりではないと信じるという。いわく、老人はムラサキコトブキチョウの変種から取った鱗粉を食べることによって200 歳近くまで生きていた。いわく、ヒキガエル、アオダイショウをはじめとする主にハ虫類より抽出した特殊な薬物によって疫病の治癒をおこない、近隣地域に絶大なる益をもたらしていた。いわく、決して村人以外は村にいれず、また村から出るものもいなかった。
 竹内洋三氏によれば、栂野の末えいがおそらく、この北陸にもまだ多く生きているはずだということだが、その証拠を得ることはおそらくできないだろう。われわれはただ、わずかに残るわらべ歌や民話から伝説の地栂野の姿を想像するしかないのである。

 栂野の存在を、物的証拠から証明しようと試みる者もいる。
 元京都大学文学部教授、現在は福井市内で93歳の老骨に鞭打って『栂野民話考』の執筆を精力的につづけている徳永栄一郎先生である。先生は、各地に残されている民話やわらべ歌から推理して、微細な証拠を次々と数えあげるというすばらしい仕事をつづけている。
 われわれはまれに、足羽山のふもとあたりを杖にすがってゆっくりと歩いているひとりの老人の姿を見ることができる。そのとき、老人の視線が、道路わきの石垣のあたりを飢えた野犬が野ネズミを追うように鋭く探索しているのに気づくかもしれない。
 わたしは何度か徳永先生の探索行に同行する好運を許された、数少ない人間のひとりである。ゆっくりと歩く先生が、杖の先である場所を指ししめすたびに、わたしは驚愕し、わが身の不明を恥じたものである。それほど、栂野の存在を示す物的証拠は、われわれの身のまわりに豊富にあるということである。
 わたしは、花堂(はなんどう)駅前の敷石にきざまれた栂野特有の方位記号を見た。清水町の古い民家の玄関に、栂野彫りの置物を見た。幾久公園の雪囲いに、栂野でしか育たなかったと伝えられる春ツゲの枝が使われているのを見た。そして、鯖江の織物工場の倉庫に打ちすてられた手織機の下から、ムラサキコトブキチョウの羽の一枚が、ほぼ完全な形で出てくるのを見た。
 先生に勇気づけられ、われわれもまた微細な観察者となって街を歩きつづけなければならないのではないだろうか。

2009年10月30日金曜日

農夫

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #33 -----

  「農夫」 水城雄


 まだ日も出ない早朝、荷車いっぱいのネギと白菜をロバに引かせて、街まで15キロの道のりをゆく。
 ロバはうんと年寄りだ。道中何度も苦しそうに立ち止まって、鞭を入れるのもかわいそうなほどだ。今年いっぱい……いや、この夏ごろにはもう使い物に
ならないかもしれない。といって、若いロバを買うほどの金は、偉(ウェイ)にはない。
 年々、街には高層ビルが建築され、ピカピカのアパートが立ちならんでいくというのに、偉一家の生活はますます苦しくなるばかりだ。経済は驚異的な発展を遂げているといっているが、その金は偉のところにはいっこうに回ってこない。
 かといって、偉のまわりにないわけではない。その証拠に、向かいの王(ワン)の息子は、まだ二25だというのに、BMWだかいう車を乗り回している。親にもヤンマーのトラクターを買ってやった。なんでも、つてを頼って日本から古新聞を買付いつける仕事を始めたらしい。日本人はたくさんの古新聞を出し、中国人はたくさんのトイレットペーパーを使う。昔はケツなんて汲み置きの水で洗ってたもんだが。
 ほかにも村には何人か、車やトラックを買ったものがいる。皆、なにかの商売を始めた連中だ。偉のところのように畑仕事だけでやっている者は、生活が苦しくなるばかりなのだ。ものの値段はあがるばかりなのに、作物の値段はいっこうにあがらない。
 ――これじゃわしら百姓に飢え死にしろといってるようなもんじゃないか。
 偉の声はだれに向けられたものか。彼自身にもわかりはしない。
 ――この先、わしらはどうすればいいのか。
 ひとり息子は今年、大連の大学に入った。賢くて勤勉な息子だ。ひとりっ子政策で、子どもは息子がひとりきりだ。一家の自慢の息子だ。学費は安いが、それでもいくらか仕送りをしなければならない。息子への仕送りをすると、偉の手元にはいくらも残らない。あたらしい服も買えなければ、ストーブの石炭すら事欠くこともある。むろん、若いロバなど望むべくもない。
 年老いたロバが、懸命に荷車を引いている。吐く息が白い。偉の息も真っ白だ。
 ネギは売れるだろうか。白菜は売れるだろうか。
 偉の作る野菜は、形は悪いけれど、泥だらけだけれど、味はとびきりだ。しかし、町の道端で店を広げても、最近は思うようには売れなくなった。大型のショッピングセンターや、コンビニとかいう店が街にたくさんできて、みんなそこで、きれいに泥を洗い落とされ形のととのった野菜を買うようになった。だから、道端で売っている泥だらけで形の悪い偉の野菜は、このところ売れ残るばかりだ。
 ――いっそ飢え死にするか。
 偉は大きくため息をつく。四十七にもなって、自分の生きていく道が見えなくなった。これまで迷いもなく生きてきたのに。懸命に生きてきたのに。安らかな老いの時間が待っていると信じてやってきたのに。
 明日の糧すら手のなかにない。
 ――わしらのせいか? わしらが悪いのか? わしらがまちがっていたのか?
 たぶんそうなんだろう。
 ロバが立ちどまった。
「えいや、歩けよ、ほい!」
 鞭をかまえて、偉は思いとどまった。この年老いたロバもまた、自分の歩く道が見えなくなってしまったのかもしれない。
 見上げると、えもいえぬ色合いに染めあがった暁の空が見えた。
 この宇宙のなかで、自分のようなものがひとり、人知れず消えていってしまうのはさほど意味ないことだろう。王がBMWを乗りまわしていることも、さほど意味ないことだろう。
 身が軽くなった。
「えいや、歩けよ、ほい!」
 偉は渾身の力を振りしぼって、ロバの尻に鞭を振るった。
 ロバが歩きだした。

2009年10月29日木曜日

Solar

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----- Jazz Story #26 -----

  「Solar」 水城雄


 きんぴらごぼうを作ろう。
 すかっと晴れわたった秋晴れの日。窓をあけたら、金木犀の香りが流れこんできた。
 今日は休み。出かける用事もない。
 ゴボウは買ってある。人参もある。
 コンポにCDをセットする。かけるのは、最近気にいっているケニー・バロンのピアノトリオ。ライブの演奏だ。
 誕生日に彼からもらった。
 私はジャズはよくわからないけれど、彼の影響で時々聞くようになった。
 ケニー・バロンは秋によく似合う。
 なぜだろう。そんなことはわからないけれど、そう思う。春に聴いてもいいかもしれないけれど。
 ゴボウを洗う。水を流して、たわしでごしごしと土を落とす。たわしといっても、シュロの毛でできたものではない。ビニール製のたわしだ。
 きれいに洗いあがったら、今度は包丁の先でシュッシュッシュッ。笹がきにしていく。細長くこそげ切られたゴボウが、ボウルに張った水のなかに飛んでいく。
 なんだかケニー・バロンと共演しているみたいな気分になってきた。
 そういえば、彼は今日は出張だとかいっていたっけ。どこだっけ?
 とにかく、今日は全国、北海道から沖縄まで晴れわたっている。きんぴらごぼうとケニー・バロンの似合う日だ。

 ゴボウと人参を炒める。
 ゴマ油のいいにおい。金木犀のにおいはもうしない。
 初恋のにおいがするんだ、と彼がいっていた。そんなこと、わたしの知ったことではない。彼の初恋なんて、わたしは知らない。
 お醤油のいいにおい。お砂糖も少し。甘いかおり。
 いい感じ。
 ケニー・バロンが軽くつま先立ちで歩いているみたいにピアノを弾いている。
 昔、初めて入ったジャズ喫茶を思いだすんだよな、と彼はいう。いっしょに行った相手は、初恋の人とは別の人だったという。そのときかかっていたのが、こんなピアノトリオだったらしい。
 わたしはそもそも、ジャズ喫茶なんて知らない。行ったこともない。そんな歳じゃない。
 でも、ちょっと行ってみたいかも。
 きんぴらごぼうが完成した。
 ちょっとつまんで、味見してみる。
 おいしい。
 彼はわたしの料理をいつも喜んでくれる。今日はいないのが残念だ。
 そうだ、彼の携帯に電話してみよう。いまごろなにをしているのか。
 おいしいきんぴらができたといったら、きっとくやしがるに違いない。彼をくやしがらせるのが、わたしには楽しい。
 ついでに、スピーカーに近づいて、ケニー・バロンも聴かせてみよう。

2009年10月28日水曜日

眠らない男(ひと)

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----- Urban Cruising #14 -----

  「眠らない男(ひと)」 水城雄


 わたしが眠りにつくとき、彼は目をさましている。
 わたしが目をさましたときも、彼は目をさましている。
 彼はけっして眠らない人なのだ。

 どうして彼はわたしを選んだのだろう、とよく考える。
 あるいは、どうしてわたしは彼に選ばれたのだろう、と。
 わたしは、ドジでわがままな女だ。とりたてて美人でもなければ、スタイルもよくない。背も高くないし、顔はソバカスだらけだ。
 わたしの毎日は、失敗の連続だ。
 ヤカンを火にかけていたことを忘れて、黒コゲにしてしまう。
 ホットケーキを引っくりかえそうとして、床に落としてしまう。
 トーストはかならず、バターのついたほうを下にして落としてしまう。
 洗い物ではかならず、コップを割ってしまう。
 ご飯は、硬すぎるか、柔らかすぎるようにしか炊けない。
 掃除機を振りまわしては、花瓶を割ってしまう。
 読んでいる本にはソースをこぼし、新聞にはコーヒーをぶちまけてしまう。
 買ってきた卵はかならず割ってしまうし、豆腐はきっとくずしてしまう。
 階段ではつまずく。
 キーをつけたまま、車のドアをロックしてしまう。
 キャッシュカードはどこかに置き忘れる。
 財布は電話ボックスに忘れてきてしまう。
 セーターを洗えば、ツーサイズも縮めてしまう。
 こんなわたしを、どうして彼は選んでくれたのだろう。
 彼はいう。そんなことを気にすることはないよ。そんなつまらないことを。きみにはもっと大切な、すばらしいことがあるんだから、と。
 そんなことって本当だろうか。
 うたがうわたしの顔を、彼はじっと見つめているばかりだ。

 彼に会っていなかったら、わたしはどうなっていただろうか、とよく考える。
 わたしのような女をつかまえていてくれる人は、彼のほかにいただろうか。
 幼いころからわたしは、まぬけな女だった。おまけに神経質で、すぐに興奮する。
 せっかく旅行に連れていってもらっても、つまらなそうにだまりこくっているかと思えば、急におうちに帰りたいとぐずりだす。
 話しかけられても返事はしないし、近所の人にも挨拶はできない。
 毎日のようにいじめられて帰ってくるし、そのくせ熱があってもかくして学校に行こうとする。
 好き嫌いははげしいし、気にいらない服は絶対に着ようとしない。
 宿題は忘れる。
 せっかくおみやげに人形をもらっても、気にいらなければ押入の奥に隠してしまう。
 彼に会っていなかったら、わたしはどうなっていたのだろう。わたしが日々しでかすことの後始末を、彼はきちんとやっていってくれる。彼がいなければ、わたしはいったいどうしていいのかわからない。
 わたしが眠りにつくとき、彼はいつも起きている。起きてわたしの顔を見つめている。
 そして彼はいうのだ。
 なにも心配することはない。なにも気にしなくてもいいんだ。
 と。

 わたしが眠りにつくとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない。
 わたしが眠りにつくとき、彼はいつも目をさましている。
 わたしが目をさますとき、彼はもう目をさましている。わたしが目をさましたとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない。
 わたしがふと夜中に目をさましたとき、彼はきっと起きている。わたしが夜中に目をさましたとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない。
 そんなとき、わたしは彼にたずねる。
 あなたは眠らないの? と。
 彼はこたえる。ああ、ぼくは眠らないのだ、と。
 わたしは彼にたずねる。
 あなたはどうして眠らないの? と。
 すると彼はこたえる。きみを見ているのだ、と。きみを見ていなければならないから、ぼくは眠らないのだ。ぼくはきみを見ていなければならないから、けっして眠らないのだ。
 きみはなにも心配することはない。なにも気にしなくてもいいんだ。
 ぼくはけっして眠らずに、ここにこうやっているから。
 わたしは彼のその言葉を信じることができる。
 彼はけっして眠らない。
 彼はけっして眠らない。

2009年10月27日火曜日

Nearness of You

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #5 -----

  「Nearness of You」 水城雄


 朝方、バイト先からもどってくると、女は床の上で眠っていた。
 服を着たまま。ゲーム機のコントローラーを握りしめたまま。
 汚れたスニーカーを脱ぎすて、ドアロックをガチャンとかけても、彼女は目をさまさなかった。ゲームの画面がつきっぱなしになっている。
 おい、風邪ひくぞ、と声をかけて、手からコントローラーを取りあげた。わずかに身じろぎしたが、まだ起きない。何時まで起きて待っていたのか。先に寝ていろといつもいっているのに。
 疲れているはずなのに無理をする。夢を追いかけて全力疾走する。それなのに、ひとりで突っ走ればいいのに、こちらを振り返ったりする。気を使うなっての。おれにかまうな。ガンガンやってくれ。
 彼はいま、立ちどまっていた。それはわかっている。あせっちゃいない。いや、嘘だ。ひとり走っている彼女を見ていると、あせりを感じる。彼女の背中がどんどん遠くなるような気がして、あせりが深まる。だからといって、なにをどうすればいいのか、彼にはわからなかった。むやみに過激なヘアスタイルにしてみたりするばかりだ。
 バイトして、日々の生活費を稼いで、たまの記念日に安物のプレゼントをして、それでかつかつせいいっぱい。仕事も、夢も、ふたりの将来のことも、なにもわからない。なにもできない。
 どうにかなるわよ。彼女がいう。そのあとにつづけて、あたしがどうにかするという言葉をのみこんでいる。彼の顔を見て、それから視線をそらす。
 しかし、これだけは確かだ。おれはおまえといっしょにいたい。不幸のどん底に落ちようが、しびれるような栄光をつかもうが、おまえといっしょに味わいたい。おれの勝手な希望だけど。
 彼はゲームをリロードすると、コントローラーを握りなおした。
 かたわらの女は肩をむきだしにして寒そうだが、布団なんかかけてやらない。そのうち起きてきて、彼にうしろから抱きつく。抱きついて甘える。いつもそうだ。それがおれたちだ。

2009年10月26日月曜日

彼女の仕事

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----- Another Side of the View #1 -----

  「彼女の仕事」 水城雄


 フェンダーの位置が悪いらしく、右舷のハルが突堤にぶつかりそうだった。彼女は軽く舌打ちしてから、身体をかがめ、ライフライン越しにフェンダーの位置を調節した。
 ラグーンの中はまったくといっていいほど波がなかった。フェンダーを調節してから、身体を起こすと、ペリエのはいったグラスの口に耳をつけたときのような音がもどってきた。
 外海のほうを振りかえってみる。
 その動作で、腰から足へと続くきれいな腰のラインが、とりわけ引きたって見えた。いま彼女は、白いシンプルなビキニの水着を着ている。
 外海をはるばるやってきた波が、環礁にぶつかって白く泡だっていた。彼女は目を細め、しばらくその様子をながめた。
 やがて視線をはずし、ミズンのブームの先にぶらさげられた青いバナナの房を見ながら、昼食のしたくをしなくちゃ、とかんがえた。まさか、このバナナを昼食にはできない。ここに着けたとたんやってきた子供のバナナ売りから、とてもまだ食べられやしないバナナを夫が買ったことについて、ついいましがたふたりはやりあったばかりだ。もっとも喧嘩なら、この島に着く前から続けていたけれど。
 気をきかしたのか、安倍さんはどこかに姿を消してしまった。彼に昼食の準備を手伝ってもらおうと思っていたのに。
 と突然、桟橋のほうから夫のさけび声が聞こえた。「わぁお」というような声。
 むこう側の木の桟橋には、へっぴり腰になって両手で釣竿を支えている夫の姿があった。竿の先端は、ぐにゃりと曲がり、ほとんど海に引きこまれそうになっている。
「逃がさないで!」
 彼女は夫にむかってさけんだ。
「それ、お昼ごはんよ」
「釣りあげられたらな!」
 夫がさけびかえす。
「大物だぞ、これ」
「待ってて。いま行く!」
 裸足のまま自分のケッチから突堤に飛びおりると、桟橋にむかって駆けた。安倍さんはどこに行っちゃったんだろう。彼なら釣りの名人なのに。
 獲物は本当に大物のようだった。竿を支える夫の腕に、力コブが盛りあがっている。夫は竿の端を、すこし突きだしはじめたおなかに押しあて、両足をふんばってリールを巻きこもうとしている。
「だめ! 無理に巻いちゃ!」
「もう先がないんだよ! ほとんど出ちゃってんだ」
「走らせて、疲れさせるのよ。安倍さんがそういってた」
「やってるさ!」
 獲物がいきなり、横に走った。桟橋の先端をぐるっと回って、反対側に走る。糸が海面を切る音が聞こえた。
「手を出すなよ」
「わかってます」
「そこのボート、じゃまだ!」
 桟橋の反対側には、住民のものだろう、木製の手こぎボートが二艘、つながれていた。彼女は勝手にそのもやいを解くと、桟橋のつけ根のところまで引っぱっていった。
 夫のところにもどろうとしたとき、やじ馬がやってきた。男たちがなにごとかを口ぐちにわめきながら、桟橋に集まってくる。みんなまっ黒の顔をして、派手な柄のシャツを着ている。まるで制服みたいに、そろって白いショートパンツをはいている。
 彼らがなにをしゃべっているのか、さっぱりわからなかった。何語なの、これ? で、彼女も日本語でいった。
「手を出さないで! 彼にやらせるのよ」
 男たちのうしろから、子どもがワラワラとやってくるのも見えた。
 だめ、だめよ、うちのおかずなんだから、これは。
 彼女は両手を広げ、やじ馬を桟橋の中ほどで阻止した。どうやら男たちは、竿の動かし方やリールの巻き方について、文句をいっているらしい。
「手がしびれてきた」
 と夫がいう。
「がんばって」
「リールが巻けない」
「手伝いましょうか?」
「ばかいえ」
 竿がわずかに立ちあがった。
「ほら、いまよ! 巻くのよ!」
「やってる」
 もうやじ馬のことなんか気にしていられなかった。それに男たちも、耳がつぶれるほどの大声で、てんでにわめきちらしてはいるが、手を出そうとはしない。
 夫はここぞとリールを巻きこんでいる。獲物が疲れたのか。
 そのとき「おうッ」とうなり、竿を抱えこんだ。
 糸がピーンと張り、すごいいきおいでリールがもどされた。
「だめだ!」
 夫がずるずると桟橋のヘリまで引きずられた。彼女はとっさに、夫の腰にしがみついた。
 そのとき、夫の身体がガクンとのけぞり、その勢いでふたりはもつれあったまま、桟橋の反対側に転落していた。
 ふたり同時に、水面に顔を出す。
「切れたんだ」
「なにが?」
「糸がだよ。切れちゃったんだ、プッツンとね」
 桟橋を見上げると、やじ馬たちがふたりを指さし、ゲラゲラと笑いころげているではないか。
「やだー」
 それから夫と顔を見合わせ、同時にプッと吹きだした。
 それから首っ玉にしがみついて、キスした。ブクブクと身体が沈む。
 浮かびあがると、桟橋から日本語が聞こえた。
「なにしてんだ、そんなとこで?」
 住民にまじって、安倍が桟橋に立っていた。夫の友人、ハンサムな釣りの名人の安倍さん。
「それ、どうしたの?」
 彼女はたずねた。
「市場で買ってきたんだ。昼食にちょうどいいと思ってね」
 そういって安倍は、手にぶらさげた魚を持ちあげて見せた。
 ふたりは抱きあったまま、もう一度笑いはじめる。

2009年10月25日日曜日

ある夏の日のレポーター

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----- Jazz Story #18 -----

  「ある夏の日のレポーター」 水城雄


 いやだ、日焼け止めを塗るのを忘れたわ。
 加奈子は空を見上げ、顔をしかめた。
 ぎらつく太陽が照りつけている。
 もう何日雨が降っていないんだっけ。首都圏の水がめのダムは、ほとんど干上がりかけているという。
 そんななか、殺人事件現場のレポートだなんて、最悪だ。
 でも、文句はいえない。いわない。だって、やっとありついたレポーターの仕事なんだから。
 スタジオではキャスターと局アナが番組を進行している。もうすぐこちらに中継がまわされるはずだった。
 初めての生中継だ。口のなかが緊張でからからだ。日焼け止めどころじゃない。
 汗でべとつく手に、マイクを握りなおす。クリップボードをもう一度チェックする。口のなかで小さくつぶやいてみる。
「現場からお送りします。昨夜発生した一家惨殺事件は、警察の懸命の捜査にも関わらず、いまだに手がかりをつかめておりません。犯人が残したとされるTシャツには……」
「おねえちゃん、なにしてんの?」
 見ると、かたわらに五歳くらいの男の子が立っている。
「ちょっと、ボク、どうやってここに……だめよ、ここに来ちゃ。いま、おねえちゃん、仕事してるんだから、あっち行っててね」
 見回したが、ついいましがたまでそこにいたスタッフが、だれもいない。カメラマンまでカメラをその場に残したまま、いなくなっているのだった。
 子どもがまたいった。
「ねえ、おねえちゃん。これ、テレビ?」
 子どもは無邪気な顔で加奈子を見上げていた。
 さらさらした髪が、風に揺れている。髪が風にふわりと舞って、ひたいに傷跡が見えた。転んだかなにかしたのだろう、そう古い傷ではないそうだ。
 それにしても、暑さにうだっているこちらとは違って、別世界の住人のように涼しげな顔をしている。汗ひとつかいていないのだ。こちらはベタつく汗に化粧が落ちないか気になってしかたがないというのに。
「ぼくもテレビに映る?」
「だめよ、ボク。ボクがここにいたら、おねえちゃん、仕事できないの。わかる? お願いだから、向こうに行っててくれないかなあ」
 加奈子は子どもが苦手だった。好きとか嫌いということではなく、どう扱っていいのかわからないのだ。身近に子どもがいないせいもあるだろう。もちろん彼女自身、結婚もしておらず、子どももいない。
「ボクがここにいると、おねえちゃん、困る?」
「そうなの。ごめんね。お仕事だから。ちょっとだけあっちに行っててくれない? ママはいないの?」
「ママ、いない」
 ぽつんという。
「パパもいない。みんないなくなったんだ」
 そういい残すと、くるりと背を向けて、行ってしまった。
 カメラマンが戻ってきた。
「だれと話してたんだい?」
「子ども。知らない子。五歳くらいの小さな子。そういえば、ここで殺された一家の子どもも、五歳だったわね」
「そうなんだ。かわいそうに、なんの罪もないのにな。ひたいを割られてね」

2009年10月24日土曜日

水族館

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----- Urban Cruising #10 -----

  「水族館」 水城雄


 試算表を提出してしまうと、なんとはなしにけだるさを感じる。今日は仕事を早めにきりあげ、車を駐車場から出した。
 行くあてはない。
 ただなんとはなしに、彼女は海に向かった。

 細く、ねじくれた松の林の間を通って、車を走らせる。
 ツタのからんだ松の間から、海が見える。雨あがりの静かな海には、午後の太陽が反射して、キラキラと光っている。
 勤めはじめて四年、いまの部署に変わって、半年。ようやく上司の助けを借りずに、試算表を作れるようになった。パソコンに向かい、数字を打ち込む毎日。
 同僚たちとの昼食。
 内線電話でのデートの約束。
 上司との行きちがい。
 終業後のショッピング。
 海に反射する太陽の光が、とてもまぶしい。
 車の前後を大型バスにはさまれながら走っていると、松林の中のキャンプ場を通りすぎた。すぐに断崖絶壁で有名な観光地が現れる。大型バスは相次いで左折していき、見えなくなった。
 ふと思いだした。この先に、たしか、水族館があったんだ。子どものころ、秋の遠足で出かけたそこの風景が、切れ切れに思い浮かぶ。
 そうだわ。ひさしぶりに、水族館にでものぞいてみよう。
 そう思っていると、道ばたに、「イルカショー」という文字が見えた。
 ふいに、彼のことを思いだす。ここではないけれど、いつかいっしょに行ったっけ、水族館に。妙に水族館の好きな人だった。
 いつのまにか、運転席からは、海が見えなくなっている。

 ここに来るのは何年ぶりだろうか。
 入場券を買い、ゲートをくぐると芝生にはさまれた道がまっすぐ海へと続いている。左手には、クジャクの囲い。右手にはイルカのプール。
 柵にもたれかかり、プールを見おろした。水の中ではイルカたちが、ゆっくりと泳ぎ回っている。台風の大雨のあとの、ぶりかえしのような暑い天気だった。
「イルカショーは四時半からはじまります」
 と場内アナウンスが告げた。イルカたちが活躍するには、まだすこし時間があるようだ。
 彼女はプールの奥に見える水族館の建物に歩いていった。
 館内は冷房がきき、ひんやりしている。はいったところにある大きな水槽には、巨大な海水魚が群れをなして泳いでいる。クエ、イシダイ、アカエイ、ウミガメ。気のせいか、みな疲れたような顔に見える。
 わたしと同じだわ、と彼女は思った。
 数年前、彼と行った水族館では、どうだったろうか、と考える。思いだせない。
 水槽にはさまれた薄暗い通路を、奥に向かって歩いていく。なにかの団体がおとずれているらしく、年輩の男性ばかりが何人も、水槽のガラスに顔をこすりつけるようにして、子どもみたいにはしゃぎあっている。
 彼女は水槽の上に貼りつけられた魚の名前を読んでいく。
 ホンソメワケベラ。
 ネズミフグ。
 マツカサウオ。
 メバル。
 エビスダイ。
 ゾウリエビの水槽の前で、ひとりの初老の男性が、手をひらひらさせて踊っている。懸命にエビの注意を引こうとしているのだ。さかんに笑い声があがる。彼女もつりこまれて、つい笑ってしまう。
 このおじさん、家ではどのようなお父さんなんだろう

 場内アナウンスがあり、イルカショーがはじまるらしい。
 平日にもかかわらず、スタンドはかなりの人で埋まっている。ほとんどが家族連れだ。彼女は、スタンドではなく、プールの横手の柵にもたれかかって立っている。
 アイスクリームを落として泣いている幼児がいる。肩を寄せあい、楽しそうに笑っている男女のカップルがいる。
 彼女はスタンドから目をそらし、プールに視線をもどした。ショーがはじまることを知っているのだろうか、イルカたちの動きがこころもち、活発になったように思える。
 大きな水槽で泳いでいた魚たちとは、大違いだ。あるいは、なんとはなしに仕事に疲れている自分とは大違い、か。
 決まりきった日常。
 やがてわたしも結婚することになるのだろう。そうなっても、なんの未練もなくやめられる仕事。
 結婚し、子供を産み、育て、気がついたらおばさんになっているのか。
 イルカショーがはじまった。イルカたちがジャンプするたびに、水しぶきがあがり、歓声があがる。
 イルカたち。
 観客たち。
 子供たち。
 ひときわ高いジャンプを、一頭のイルカが見事に決めた。しぶきが彼女のところまで飛んできて、手を濡らした。
 まあ、あしたもがんばって仕事をしてみよう。
 水しぶきでしょっぱくなった指をなめながら、彼女は思った。
 短くなった日は、もうすっかり落ちようとしている。

2009年10月23日金曜日

A Red Flower

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #47 -----

  「A Red Flower」 水城雄


 あなたはいま、一輪の花を見ています。
 あなたはその花の名前を知りません。わかるのは、その花がやや紫がかった赤い色で、五枚の薄い花弁を持っているということです。
 花はややしおれ、茎も少し弓なりにうなだれています。
 茎は水のはいったコップに挿してありますが、花がしおれているのは水が古いせいではなさそうです。なぜなら水は替えられたばかりだからです。
 花がしおれているのは、花が咲いてからもうかなりの日数がたっているからです。
 あなたはその花が咲いたところを見ていません。だれかが、咲いた花を切ってコップに挿し、ここに置いたのです。そのときからあなたはこの花を見ています。
 まだ蕾から開いたばかりのみずみずしい花を、あなたは見ました。それ以来、毎日水を替え、できるだけ長く花がしおれないようにしてきました。
 でも、いま、花はしおれかかっています。
 もうすぐ花は完全にしおれ、花びらを落として枯れてしまうでしょう。それが花であることの定めだからです。
 花はそのことをすこしも悲しがってはいません。悲しがるどころか、こうやってあなたに会えたことを喜んですらいます。あなたに会え、あなたに見つめられ、あなたに水を替えてもらった。そして、枯れてしまうことをあなたに残念がってもらえている。
 花が枯れたら、あなたはこの花のことを忘れてしまうのでしょうか。
 いえ、あなたはたしか、この花をスケッチしていましたね。あなたの手帳のすみに、ペンでこの花をちいさくスケッチしていました。それだけではなく、色鉛筆で赤い色を塗りました。あなたはきっと、手帳のそのページをひらくたびに、この花のことを思いだすことでしょうね。本当はスケッチなどしなくても、あなたはこの花のことをおぼえていてくれるのかもしれません。でも、花はあなたにスケッチしてもらったことで、いくらかのやすらぎを覚えます。あなたが思いだせるということは、枯れてしまってもまだあなたのなかで命を持っていると想像できるからです。
 わたしは、あなたの知らないところで生まれ、咲きました。でも、こうやってあなたとおなじ時間をすごし、あなたに見守られながら枯れていきます。
 わたしの存在はやがて消えます。でも、どうぞわたしのことはおぼえていてください。あなたもまた、わたしとおなじように、いずれは消えていく運命です。でも、あなたのことをだれかがおぼえているように、あなたもわたしのことをおぼえていてください。
 あなたがおぼえているかぎり、花は花であり、わたしはわたしなのです。

2009年10月22日木曜日

ぼくらは悲しみを取りかえる

----- Another Side of the View #4 -----

  「ぼくらは悲しみを取りかえる」 水城雄


 男が妻に、すこしは歩きまわってみたらどうだい、と提案すると、彼女はこうこたえた。
「もうすこし灼きたいの。それに、どうしてこんなところに来てまでセカセカ歩きまわらなくちゃならないわけ?」
 抜けるような青い空。
 抜けるような青い海。
 プールの水も、空がもうひとつそこにあるみたいに、青く澄んでいる。風がすこし吹いていて、水面にさざ波が立っていなければ映っている椰子の葉がそこに浮いているのかと錯覚するほどだった。
 プールの向こう側には、三層になったまっ白いホテルの建物が見えた。
 たしかに妻の言葉にも一理ある。が、彼はなにも、セカセカ歩きまわろうと思ってそんなことを提案したわけではないのだ。第一、これまで寄港してきた多くの街々でいそがしく歩きまわっては土産ものやブランド商品を買いあさっていたのは、彼女のほうではなかったか。
 男はもう一度、妻に悲しげな視線を向けた。
 デッキチェアに寝そべり、顔に帽子を乗せて日ざしを避けている。若く美しく、知的な彼の妻。
 男は妻のそばを離れると、プールサイドをぐるりとまわって桟橋に向かった。今朝がたから一隻のヨットがつながれていて、何人かがデッキで作業しているのが気になっていたのだ。
 いまはデッキの上には、ひとりしか見えなかった。
 近づいていくと、それがかなり若い男であることがわかった。茶色の髪だが、東洋人らしい。ひょっとすると日本人なのかもしれない。船尾にはフランスの国旗がプリントされていた。
 若者は船尾に近い船べりにかがみこみ、ドライバーを使ってなにかをはずそうとしている。
 男が船の横に立ちどまると、ちらっと顔をあげたが、すぐに作業にもどった。
 しばらくドライバーを持ってなにかの金具と格闘していたが、やがて顔をあげ、ひたいの汗をぬぐい、かたわらに置いてあった缶ビールを口に運んだ。
 男のほうを見て、日本語でたずねた。
「なんか用ですか?」
「いや……」
 男は言葉をさがした。べつに用はないのだ。
「どこから来たのかな、と思って」
「シドニー」
 口調はぶっきらぼうだったが、悪意は感じられなかった。
「でも、フランスの国旗が貼ってあるよね」
「フランス人の船だったんですよ、シドニーに住んでる」
 若者は作業にもどった。
「だった?」
「日本人が買ったんです」
「でも……」
「その日本人はホノルルに住んでるってわけ。ぼくらはシドニーからホノルルまで回航するだけ。いい金になるんですよ」
「そういうのがきみの仕事?」
「まさか。アルバイトですよ。でも、まあ、仕事といえば仕事かな。年中こんなことやってるから」
 たしかに若者の身体はまっ黒に日灼けしていた。
「定職というのはないの?」
「ありませんね。気楽なのが好きなんです」
「ふうん」
 自分がこの年齢のころはどうだったろう、と男はかんがえた。
 こんなふうではなかったな、たしか。高校を出てすぐに就職し、しゃにむに働いて金をため、自分で商売をはじめたのがちょうどこの若者ぐらいの歳のことだった。浮き沈みがあるにはあったが、基本的に商売はうまくいき、いまでも思ってもいなかったほど成功をおさめたといえる。すくなくとも、相当な資産を持つ身分になった。
 目の前の若者は、財産といってもたぶん、ラジカセがひとつとかそういう感じなんだろうな。
「あなたは観光ですか?」
 若者が訊いてきた。
「そうなんだ。妻とね、客船で旅してる」
「いいですね」
 ちっともよくなさそうに、若者がいった。
「いい……のかな。うん、いいんだろうな。こう見えてもぼくはけっこう大きな会社の社長でね、いままでしゃにむに働いてきたおかげで、はじめてこんな一か月もの休暇を取ることができるようになった。もっとも、悲しいかな、こんなところに来てまで会社のことが気になってね。ついセカセカしちまうんだ。いまも女房にしかられたばっかりさ」
「あそこで日光浴してる方かな」
「そう」
「きれいな方ですね。さっきチラッと見たけど」
「ぼくにはもったいないくらいなのさ。ぼくがまったくの貧乏人だったら、結婚してくれなかったかもしれないな」
「そんなことはないでしょうよ」
「なぐさめてくれなくていいさ。自分が女たちからどのように見えるのかってことは、よくわかってるつもりだ。きみ、結婚は?」
「まさか」
「彼女ぐらいいるんだろう?」
「いませんね」
「きみのお仲間はどこに行っちまったんだい?」
「買いだしですよ」
「ところで、きみはそこでなにをやってるの?」
「見たとおり。スタンションの修理です。明日には出るから」
「あまり邪魔しちゃ悪いな」
「べつに……」
 男は汗で光る若者の腕を見た。力をいれてドライバーをこじるたびに、筋肉がぐりっと動く。
「よかったら、遊びにおいでよ。ビールぐらいおごるよ」
「どうも」
 男は船のそばを離れた。
 桟橋の根元のところで振りかえると、ちょうど若者が立ちあがったのが見えた。腰をのばし、ひたいの汗をてのひらでぬぐい、缶ビールをあおった。男はいそいで視線をそらした。
 プールサイドにもどってみると、妻はさきほどとまったく同じかっこうで日光浴をしていた。
 男は彼女の顔に乗っていた帽子をつまみあげた。
 ほそく目をあけ、妻がいった。
「まぶしいじゃない……なにか収獲はあった?」
「収獲?」
「ビキニ姿の若い女の子とか……」
「ああ」
 妻を見下ろしながら、男はゆっくりとうなずいた。
「海の景色がすばらしかったよ」

2009年10月21日水曜日

Cat's Christmas

----- Jazz Story #19 -----

  「Cat's Christmas」 水城雄


 ご主人さまがあたしのためにリボンの耳飾りを作ってくれている。どうやらそれが今年のクリスマスプレゼントらしい。
 赤と金色のリボンを器用に編んで、糸を通して形を整える。
 きれい。そしてかわいい。
 好き、ご主人さま。
 でも、あたしのプレゼントはあっという間に完成してしまった。
「これはまだあげないのよ、リリ。明日まで待ってね」
 ご主人さまはあたしの新しい首輪を小箱にしまってしまう。そして、横に置いてあった編みかけのマフラーをそっと取りあげる。
 いとおしそうになでてから、編み棒を動かして続きを編みはじめる。
 ご主人さまのいとしい彼へのプレゼント。でも、そのプレゼントはきっと渡されずじまいになることをあたしは知ってるんだ。だって彼には大切な奥さんとお子さんがいらして、手編みのマフラーなんかもらったら困ってしまわれるってことは、ご主人さまもよくわかっているからね。
 あたしはちょっと悲しくなって、ドアのところに行く。
「にゃあ」
 ご主人さまがすぐにやってきて、あたしのためにドアをあけてくれた。
 ふー、寒い。でも、いい天気。ちょっとお出かけしましょう。
 お隣の一家は猫嫌いで、垣根の下にはペットボトルがズラリ。そんなことしても全然猫よけにはならないのにね。ペットボトルなんか猫は苦手でもなんでもないもん。でもあたしもそういう一家が嫌いだから、ペットボトルには関係なくそんなうちに入っていったりしないもん。
 もう少し行くと、角の住田のお兄さんがあたしをめざとく見つけた。
「やあ、リリ。お散歩かい?」
「にゃあ」
 しっぽを立てて膝の下にお尻をこすりつける。マーキング、マーキング。
「きみのご主人さまはなにしてる? ぼくと遊んだりしたくないかな」
 そんなわけない。住田のお兄さんがご主人さまに気があるのは知っているけれど、ご主人さまのほうは相手にしていない。世の中、うまくいかないものよね。
「わかってるって。きみのご主人さまは人の道にはずれた恋に夢中なんだろう? ぼくなんかメじゃないってね。だからぼくも、きみのご主人さまにはプレゼントはあげない。そのかわり、きみにあげる。きみはいつもかわいくていいコだからね」
 そういって住田のお兄さんはあたしの首になにかをパッとはめた。
 チリン。鈴の音。
「よく似合ってる。あたらしい首輪だよ」
 どんな首輪なのか、あたしには見えないよ。でも、チリンチリンという鈴の音がいい感じ。
「リリという名前によく似合ってるだろ? 帰ってご主人に見せてあげなよ。そして、かなわぬ恋はいいかげんあきらめて、きみのほんとのサンタを見つけなさいっていってあげな」
 ご主人さまのほんとのサンタってだれだろう。まさか住田のお兄さんじゃないよね。そんなことをかんがえながら、家にもどった。
「あら、どうしたの、その首輪」
 ご主人さまがびっくりしてあたしを見る。
「鈴がついてるのね。かわいいじゃない。だれかにつけてもらったの? ちょっと早いクリスマスプレゼントかしら。だれかリリのこと、思ってくれている人でもいるの?」
 あたしはご主人さまの顔を見あげた。そうじゃないって。
 そして、いろんな思いをこめてこたえる。
「にゃあ」

2009年10月20日火曜日

リサ

----- Jazz Story #19 -----

  「リサ」 水城雄


 直線に出て見通しがよくなったのを見計らって、リサはギアをひとつシフトダウンした。
 踏みこむと、アクセルは軽く吹きあがっていく。
 ハンドルを切り、のろのろ走りのピックアップトラックを右にかわしながら、さらにアクセルを踏みこむ。
 シートに背中が食いこむ加速感が、心地いい。
 トラックの荷台には魚網が山のように積んであった。さっきからそのにおいにちょっとへきえきしていたのだ。
 追い抜くとき、運転席を見ると、40がらみの浅黒く日に焼けた男がこちらに視線を向けた。怒ったように唇をへの字に結んでいる。いかにも漁師らしくがっちりしている。
 これから仕事だろうか。
 リサは一瞬、ケビンのことを思い出した。いまごろ、あたしを探しているだろうか。化粧台にリップで書きつけた伝言は、読んだだろうか。
 トラックを追いこすと、風が気持ちよくなった。
 ギアをトップに入れなおす。コトリとギアが気持ちよくおさまった。車の調子がいい証拠だ。
 70年代製のこのオープンカーは、色が気に入って買ったのに、機嫌を取るのが難しくて、ときどきリサの手には負えなくなるのが困りものだ。
 しかし、今日は違う。
 右手には海。左手も海。前はキーウェスト。
 そして、上は空。貿易風に乗った真っ白なコットンクラウズが、ぽんぽんと横切っていく。
 いい気持ち。あごをあげ、髪をなびかせてそう思ったとき、ボン!
 不快な音が車の後ろから聞こえて、ハンドルが取られた。
 パンクだ。
 点検したばかりなのに、なんてことだろう。

 追いこしたばかりのピックアップトラックは、無表情な顔つきのまま、通りすぎてしまった。
 リサはため息をつきながら車を降り、パンクしたタイヤを点検してみた。
 右の後輪。前輪でなくてよかった。
 ともかく、事故にはならずにすんだ。そしてスペアタイヤはトランクルームに入っている。
 しかし、問題がひとつ。リサはタイヤ交換が自分でできないのだ。何度かやってみようとしたことはある。しかし、8角形の内角の和を求められないのと同様、彼女の手には負えない問題なのだ。
 彼女は車の横に立ち、手をあげた。
 通っている車の数はそう多くない。多くないが、まったくないわけではない。
 手をあげている彼女を、ことごとく無視して、車はすべて通りすぎていった。
 リサは足を組みかえ、腰をすこしひねって立ってみた。
 胸をそらして、あごをあげてみる。
 手をあげる。
 大型のトレーラーがクラクションを鳴らしながら、轟音とともに通りすぎていった。
 彼女は運転手たちの気を引くことをあきらめた。
 スタンドまでどのくらいあったっけ? 2キロ、3キロ? たいした距離ではなかったと思う。いや、そう思いたい。
 でも、歩く前に一服しよう。一服くらいつけても、ばちはあたらないだろう。
 ボンネットに寄りかかり、セーラムに火をつける。
 カモメがほとんど目の高さをゆっくりと横切っていった。
 海の声が急に耳に入ってきた。

2009年10月19日月曜日

古い友人への手紙

(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- Urban Cruising #12 -----

  「古い友人への手紙」 水城雄


 そういえば、あいつはどうしているんだろう。高校のときは、ふたりでよく、裏山にのぼって、とりとめもない話をしていたもんだ。
 秋になると、なぜか古い友人のことを思いだすことが多い。

 拝啓。
 ひと雨ごとに秋の深まりを感じさせる今日ころごろですが、きみはいま、どうしていますか。
 きみがいま、どこにどうしているのか、ぼくは知りません。こちらにいるぼくの友人に聞いても、きみがいまどこでどうしているのか、はっきりした答えは帰ってきません。
 高校のときは、ぼくもそうでしたが、きみもあまり普通の生徒とはいえないようなところがありましたね。倫理社会科の先生にふたりがかりで立てついて困らせてみたり、みんなが机にかじりついて試験勉強をしているというのに、教室のうしろでコマ回しをしていたり、できもしない試験問題をさっさと提出して、時間なかばで教室を出ていったり、気にいった女の子の背中にカエルをいれてみたり。
 文化祭のオープニングでは、ふたりで示し合わせて、裏山の上からみんながフォークダンスをしているのをながめていたっけ。
 あのあと、ぼくは京都の大学に進み、きみは神戸の大学に進みました。そのあとのきみのことを、ぼくはちっとも聞きません。京都と神戸なんてその気になれば近いというのに、一度も会うことはありませんでしたね。噂によれば、きみは大学を中退したということですが、本当でしょうか。もし本当だとしたら、いまごろなにをしているのでしょうか。
 やはり、金子光晴の詩に出てくるオットセイのような態度で、社会に背を向けて暮らしているのでしょうか。
 秋になると、なぜだか、無性にきみに会いたくなることがあります。

 きみはいま、どんな仕事を持っているのですか?
 もう結婚しましたか? 子どもはいますか?
 ぼくは、きみの噂と同じように、大学を中退して、自分の好きな道を選びました。いろいろと大変なこともありますが、なんとかやっています。自分の好きなことを仕事に持つというのは、しあわせなことではありますが、なにもかもが満たされるというわけではありません。わかるでしょう? きみならぼくのいいたいことがわかると思います。
 ぼくもこの世界では、ようやく安定して仕事をもらえるようになり、いまでは締切に追われる毎日です。なんとか結婚もしました。子どもも、ひとりですが、います。
 きみはどうなんでしょう。
 あのきみなら、いったいどんな仕事につくことなんだろう。いつもひとりでいることを好み、ときには激しく感情をむきだしにし、ときにはみんなを愉快な気分にさせてくれたきみ。あのとき、ぼくたちのほとんどがそうだったように、きみも理工系の大学に進んだけれど、きみがいま技術系の仕事をしているとは、ぼくには信じられません。もっとも、そういうこともあるのが、世の中なのかもしれませんが。
 案外きみも、大きな企業の研究所かなにかに勤め、かわいい奥さんと子どもの二、三人も持って、平和な日々をすごしているのかもしれませんね。
 そうそう、あの子のことをおぼえていますか? ぼくときみとがふたりで争ったあの子のことを。
 じつをいえば、ぼくが結婚した相手は、あの子ではありません。そのことで、きみにはなんだかすまないような気になることがあります。もちろん、そんな必要はないのだろうけど。
 あれは三年のときだったろうか。受験勉強もいそがしくなるいまごろの季節でしたね。一年のときからずっとクラスメートだったあの子のことを、なぜだかぼくたちふたりは、急に好きになっちゃったんだ。おかしなことに、ほとんど同時に。
 結局、あの子はたまたま、ぼくのほうを選んだ。きみはそれからしばらく、ぼくと口をきいてくれなかった。
 ぼくは好きな女の子と付き合うことができて、幸せいっぱいでした。きみのことまで考える余裕はありませんでした。でも、ときおり、ふたりで歩いていてきみとすれちがったりすると、なにか心の奥底のほうが、ちくちくしました。信じないかもしれないけど、ほんとうのことです。
 いまごろの季節になると、きまってこのことを思いだします、ぼくは。
 文化祭の前夜祭をエスケープしてきみとのぼった学校の裏山に、ぼくはあの子とのぼったことがあります。まだ紅葉ははじまっていなかったけれど、とても寒い夕刻で、ぼくたちは肩を寄せあってすわっていました。
 あの子もいまでは三人の母親です。
 いや、直接会ったわけではなくて、ぼくの友だちがそれを教えてくれたのです。でも彼も、きみのことは教えてくれなかった。
 きみはいま、どこでどうしているのでしょうか。

2009年10月18日日曜日

The Night Has a Thousand Eyes

(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #34 -----

  「The Night Has a Thousand Eyes」 水城雄


「夜は千の目を持つ」
 降るような星。
 あのときぼくが見ていたもの。

 死ぬのがこわい、ときみはいう。
 せっかく生まれてきたのに、またこの世に存在しなくなってしまうの。死ぬってどんな気分? 死ぬのは苦しい? 死んだらどこへ行くの? 死にたくないよ。死んだらわたしも、あなたの記憶も消えてしまう、と。
 生まれる前のことを覚えている? とぼくは聞く。
 覚えていないわ。
 同じだよ。死ぬというのは、生まれる前のところに戻っていくだけ。なにもない。静かで、おだやかなところに帰るだけ。
 でもこわい。なにもなくなるのがこわいよ。あなたのこともなくしたくない。そういってきみは泣く。

 あのときぼくが見ていたものの話をしよう。
 ぼくは小学校二年生だったと思う。
 親に怒られたぼくは、かけっぱなしの梯子を伝って、家の大屋根に登った。雪国で、冬になると屋根雪を降ろさなきゃならない。そのための梯子が、春になってもかけっぱなしになっていた。
 屋根に寝っ転がって星を見ていると、自分がどこにいるのかわからなくなる。そんな経験はないかい? 自分が丸い地球に張り付いて、寝ているのか、地球にぶらさがっているのか、わからなくなってしまう。
 ちっぽけな地球の表面に張り付いているぼく。宇宙のまんなかにぽっかりと浮かんでいる地球に張り付いているぼく。
 地球、太陽系、銀河、銀河団、泡構造、超新星、膨張する宇宙、ブラックホール、ビッグバン、百数十億年のかなた。それが目の前に広がっている。永遠のかなた。
 永遠ってなんだろう。宇宙のはてにはなにがある?
 そんなことを考えていると、なにが原因で父にしかられたのかすっかり忘れてしまう。
 でも、屋根から降りると、まだ怒っている父がいたし、父に気を使っている母もいたし、自分は怒られまいとこっちをうかがっている妹がいた。
 そうやって地表の現実のなかで、今日まで生きてきた。
 宇宙のなかのちっぽけな現実。喜んだり、悲しんだり、疲れたり、発奮したり、裏切られたり、愛したり、お金の心配をしたり。
 この命も、いずれ消えていくよ。
 死なない人はただのひとりもいない。偉大な人もちっぽけな人も、金持ちも貧乏人も、ひとしく皆、死を迎えるよ。
 無に戻るんだよ。

 そうだ。星を見に行こう。
 小学生のぼくのように、無垢に星を見つめて、きみといっしょに永遠について考えよう。残り時間を使って。
「夜は千の目を持つ」
 に続く言葉は、
「昼はただひとつ」
 だって知ってた?
 ぼくの昼の目。それはきみ。それがぼくの永遠。

2009年10月17日土曜日

Thank You So Much

----- Another Side of the View #12 -----

  「Thank You So Much」 水城雄


 酒場でちょっかいをかけた女のことで女房から責めたてられていると、沖をセクシーな光景が通りすぎていくのが見えた。
 ありゃいったい、何杯出てる? 生まれてこのかた、あんなにたくさんのヨットがいっせいに走ってる様なんざ、見たことねえ。
 ピカピカにみがかれたハル。
 誇り高くクンと反りかえったマスト。
 真新しいセール。
 100杯もの大型セーリングヨットが、ステイを風でびゅんびゅん鳴らせているのが、ここまで聞こえてくる。
 彼は作業の手を休め、うっとりとその光景をながめた。
「おまえさん、聞いてるのかい?」
 女房が耳もとでどなった。
「聞いてるさ。でけえ声出さなくても、ちゃんと聞こえてる」
「聞こえてるなら、返事したらどうなんだい?」
 いつからマリアとできてるんだ、と追求されていたのだった。
 ヨットの群は、真っ青な空の下を突きすすんでいく。大西洋をわたってくる風を帆に受け、船体を大きくかたむけながら、波の上をすべっていく。
 クルーたちが船べりにずらっとならんですわっているのが見えた。オイルスキンを着こみ、顔をまっ黒に日焼けさせている。
 あいつら、いってえ、いまなにを考えてやがんのかな。
「おまえさん、聞いてるのかい?」
 女房がまたもやいった。
 ふたりは自分たちのちっぽけな漁船の上にいるのだった。
 手入れはいいが、古い漁船だ。エンジンを停めていると、波にあおられ、木の葉のようにクルクルもてあそばれる。
「ああ」
「返事をおしよ。マリアとはいつからできてるんだい?」
「だから、マリアなんかとはできてやしねえって。あの女にはちゃんと男がいやがんだよ」
「だれだい?」
「そんなこと、おれが知るもんかい」
 彼は吐きすてるようにいうと、魚網をつくろう作業にもどった。
 そうさ。そんなこと、おれが知るもんかい。マリアの男なんか、おれの知ったこっちゃねえ。くそ、はやいとここれを直しちまって……
「やっぱりいないんじゃないか。マリアの男は、おまえさんなんだろ?」
「馬鹿いっちゃいけねえ」
「いつからあの女とできてんだい? いいかげんに白状おし」
「白状もなにも、マリアとなんかできてやしねえってば。おれはただ、あの酒場が好きなだけなんだ」
「じゃあ、なんでみんな、あたいが酒場にはいってくと、クスクス笑いやがんだい?」
「そんなこと、おれの知ったことか」
「やっぱりなんかあるんだ」
「なんにもねえってば。いいかげんにしろよ、おめえ。仕事、しろ。魚がみんな、逃げちまわあな」
「魚なんかどうだっていいよ」
 ふいに悲しみにとらわれたような女房の口調に、彼は顔をそむけた。
 先頭を走っていたヨットが、きゅうに向きを変えた。
 巨大なブイがすぐそばに浮かんでいるのが見えた。
 クルーたちのどなり声が、海面を伝わって聞こえてくる。
 セールがバタバタいう音。
 キリキリキリ……
 ウインチが回っている。
 バシッとセールが風をはたいた。
 ヨットは向こうむきになり、さらに沖へと向かったようだ。大きくかしいでいる姿が、たまらなくセクシーだ。
 いっぺん、ああいう船に乗ってみてえもんだ。そりゃあ、おれのこの船だってまんざらじゃねえ。丁寧に手入れしてるさ、毎日。かわいい娘みてえなもんだ。しかし、あんなでっけえ船に、いっぺんでもいい、乗ってみてえもんだ。魚をとることなんかかんがえずにな。
 こうるせえ女房もなしで。
「なあ、おまえさん」
 網針を持つ彼の腕を、女房が押さえた。
「いいかげん、白状しておくれな。おこらないからさ」
「おこらねえ? おめえはいつだってそういうじゃねえか。そういっときながら、おれが正直にいうと、ひでえことしやがる。ほれ、ここ見てみな」
 彼は潮風にさらされて真っ白になった髪をかきあげてみせた。
「わかってるって。あれはあたいが悪かったよ。ついカッとしちまったんだよ」
「6針も縫ったんだぞ」
「だから、あたいが悪かったっていってるじゃないか。おこらないって約束するから、白状しておくれな。そうすりゃ、あたいの気がすむんだよ」
 なにが気がすむもんか、と彼は思った。おれはこんりんざい、女房に白状なんかしねえ。
 大きなブイを回ったヨットが、次々と方向転換して、沖へと向かっている。
 あいつら、いってえ、どこに行きやがる? もっと沖にもうひとつブイでもあるんだろうか。それとも、どこか遠くの国に行っちまうんだろうか。
 あいつら、なにをかんがえてやがんだろう。
 きっと、頭ん中、真っ白にして、勝負のことしかかんがえてねえんだろうな。
 それなのに、このおれときたら……
「ねえ、おまえさんってば。お願いだからあたいに……」
 彼はとうとう癇癪玉を破裂させた。
「うるせえ! できてねえったらできてねえんだ。いつまでもウダウダいってねえで、仕事しろ。いいかげんにしねえと、海にほっぽり出すぞ!」
「なんだって、おまえさん?」
 彼は女房の目が吊りあがるのを見た。
 やれやれ。
 壮大なヨットの群れは、どんどん沖へと遠ざかって行く。
 それを追ってか追わずか、やはり沖へと向かうカモメの群れが、彼の目にはいってきた。

2009年10月16日金曜日

Time After Time

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----- Jazz Story #21 -----

  「Time After Time」 水城雄


 女は赤ん坊の泣き声で目覚める。
 向かいのアパートの赤ん坊だ。最近生まれた。
 自分が失った娘のことを、女は思いだす。勢いをつけて身体を起こし、一瞬とらえられかけた悲しみのイメージを、身体の奥底まで押しこむ。
 夫はまだ眠っている。
 女はパジャマを脱ぎ、椅子の背にかけ、部屋着に着替える。また一日が始まったと思う。
 またおなじような一日が始まった。繰り返し、繰り返しやってくる、おなじような一日。トーストを焼き、スープを作り、夫を送りだし、洗濯ものを干し、掃除機を回す。しおれた花を捨て、新聞をたたみ、アイロンをかける。
 テレビでは政治家の街頭演説のようすが映っている。話題の女性政治家だ。大きな口をひらき、群集に向かってシャウトしている。群集から大きな笑い声があがる。
 彼女の一日は、どんな一日なのだろうかと、女はかんがえる。彼女もトーストを焼いたり、アイロンをかけたりするのだろうか、と。
 いつしか赤ん坊の泣き声は聞こえなくなっている。

 夫は出かけた。
 洗濯も終わった。掃除もすませた。
 女は新聞のチラシを広げ、スーパーの特売をチェックする。豚肩ロース切り落とし、350グラム250円。とても安い。
 ティッシュペーパー5箱入り100円、ただしおひとり様一個に限らせていただきます。
 女は出かけるしたくをする。
 なにを着ていこうか。なにを着ていこうとおなじような気もする。女がなにを着ていようと、だれも気にしないだろう。たとえパンダのぬいぐるみを着ていようが、だれもなにもいわないだろう。
 いや、きっとスーパーの店員はおどろくだろう。
 ふと、最近よく見かけるレジの男の子の顔が浮かぶ。たぶん、学生のアルバイトだ。ひどくレジ打ちが下手で、よく渋滞を作ってしまっている。ときおり先輩のパート女性からしかられたり、いやみをいわれているのを見かける。
 パンダのぬいぐるみを着てレジにならんだ女を見て、彼はなんていうだろうか。あるいはなにもいわないだろうか。
 女はひとり、くすくすと笑った。そして耳に残っているテレビコマーシャルの歌を、口のなかでくりかえす。
 おなじような一日が、そうやってすぎていく。

2009年10月15日木曜日

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----- Urban Cruising #9 -----

  「猫」 水城雄

 ひとけのないはずの空き家の中で、かすかに空気が動いた。
 彼は部屋に足を踏みいれたところで、立ちどまった。
 だれかがこの部屋にいる。
 もの音は聞こえないのだが。

 仕事場に、と彼がこの空き家を借りたのは、夏のはじめのことだった。
 古い古い民家。いや、農家だろうか。そういう言葉が使えるとしての話だが、築後、ゆうに百年はたっているにちがいなかった。
 山奥の村のはずれの、百坪ほどの敷地に建てられた、二階建ての木造建築。外壁はススでよごれ、ところどころくずれおちている。はがれた板張りの部分には、ベニヤ板を打ちつけてしのいである。庭に面した障子は、もちろん風雨にさらされてボロボロになっている。
 彼がその空き家を借りたとき、家のまわりにはまだ、雪囲いがしてあった。名にしおう豪雪地帯である。
「三年前までおやじがひとりで住んでいたんですが、入院しちまいましてね」
 近くでイワナの養殖をやっているという男が、案内してくれたとき、そう説明してくれた。
 では、この家に年老いた男が、たったひとりで住んでいたというのか?
 家の中には囲炉裏がみっつ。かつて蚕の養殖をしていたという二階は、たっぷり50畳はあろうかという広さである。
 こんなに古く、こんなに広い家を借りて、仕事などできるだろうか。彼は借りると決めるまで、ずいぶんそうやって迷った。
 もちろん、家の玄関には鍵などかかっていないし、もし鍵をかけたところで、その気になればどこからでもはいりこむことはできるだろう。
 もの音こそしなかったが、空気がわずかに動くのを感じた。
 そこにだれかがいるのは、まちがいなかった。

 ひっきりなしにかかってくる電話。
 増えつづける雑用。
 突然たずねてくる知人。
 押しかけてくる物売り。
 そういったものから逃げだしたくて、彼は山奥に仕事場を借りることにしたのだった。
 ボロボロの空き家を、ろくに手入れもせずに、彼は使いはじめた。やったのは、ひとつの部屋だけの床掃除。そこに、ちいさな机、仕事用のパソコン、キャンプ用品のコンロ、寝袋、その他わずかなものだけを持ちこんだ。電話を引き、限られた知人だけに番号を教えた。
 朝早く、妻に用意してもらった弁当を持って、車でその家に向かう。長く差しこんでくる日差しの中で、ちいさなコンロを使ってコーヒーをわかす。谷川の上流から引いてくる村の簡易水道は、冷たく、澄んでいる。
 戸を開けはなった縁側から、山と雲をながめながら、その日最初のコーヒーをゆっくりとすする。崖の下の清流からは、ゆうべの雨で増水した水の音が、立ちのぼってくる。
 コーヒーを飲みおえ、ゆっくりと仕事にとりかかる。
 そうやって一日、ひとりですごしていると、彼は自分が野性にもどっていくのを感じることができる。本来、そうあるべき姿に、自分が立ちもどっていく。
 が、今日は最初から様子がおかしい。だれかがあきらかに部屋の中にいる。
「だれだ? だれかいるのか?」
 全身を緊張させて、彼はそうたずねた。
「ミァア」
 というかぼそい返事が、部屋の奥から帰ってきた。

 なんだ、猫、か……
 肩の力を抜き、彼は部屋の奥をのぞき見る。
 そういえば、この空き家の玄関の戸には、猫が出入りできるように、ちいさく四角い穴があけられていた。三年前までここに住んでいたという老人が飼っていた猫だろうか。
 暗闇から彼女がゆっくり姿をあらわした。
 淡い茶色の猫だった。猫独特のしなやかな肩の動きから、まだそれほど年老いているようには見えなかった。が、ほこりだらけの空き家暮らしのせいか、身体は全体に薄汚れている。
 おい、おまえ。
 彼は猫にそっと語りかけた。
 ずっとここにいたのか? 三年間、ずっとご主人さまを待っていたわけじゃないだろうな。
 猫はそんな彼に、鋭くまっすぐな視線をむけ、しばらく立ちどまっていたが、やがて玄関のほうにゆっくりと歩いていった。
 この村のだれかが、彼女に餌をあたえているに違いない。そうでなければ、こんな山中で生きのびていられるはずはない。それとも、だれにも頼らずにひとり、生きのびているのだろうか。
 山に囲まれたこの静かな家の暗がりで、彼女はこの三年間、いったいなにを見つめてきたのだろうか。彼と同じように、ひたすら自分の野性と向かいあっていたのだろうか。
 先住者である彼女に敬意を表して、明日はみやげに、煮干でも持ってきてやるか。そんなことでこちらの存在を認めてくれるものでもなかろうが。
 猫が出ていった玄関に向かって、彼はひとり、苦笑いをかみしめた。

2009年10月13日火曜日

How Deep Is the Ocean

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----- ジャズ夜話 #2 -----

  「How Deep Is the Ocean」 水城雄


 店に客が多い日は、ピアノの音が吸われる。とくにピアノ席に客がいると、音は変わってしまう。
 平日のくせにやけに混んでいた。桜町は二回目のステージのために店にもどってきたところだった。
 十人がけのカウンターには、ひとつも空きがない。奥に置いてあるグランドピアノの上でも飲めるようになっているのだが、そこにも三人の客がいた。もっとも、詰めれば八人すわれる。
 カウンターの中では、マスターの中川が、きりきり舞いをしていた。
 ピアノ椅子に腰をおろした桜町が合図を送ると、スモークサーモンで手を油だらけにした中川が、肘を使って器用にオーディオのボリュームを落とした。
 ピアノに向かい、演奏をはじめる。アイ・キャント・ゲット・スターティッド。ゆっくりしたバラードのテンポで。
 ピアノ席の三人組は、この店に似つかわしくない客だった。
 男を真ん中に、女がふたり。三人とも若い。二十代前半だろう。男と、手前の女が、髪を派手な茶色に染めている。金髪といってもいいほどだ。さらに男はその髪をつんつんに立たせている。
 男と向こう側の女はビールを、手前の女はウイスキーの水割りを飲んでいた。
 どう見ても、ジャズを聴きそうな客には見えなかった。
 男と向こう側の女は、なにやら熱心に話しこんでいる。手前の茶髪の女は会話にくわわらず、ピアノの上に両肘をついて、けだるい表情で桜町の演奏を聴いていた。
「だからさあ、あんなやつとはさっさと別れちまえばいいんだって」
 男の言葉が聞こえてくる。
「あいつだって他で適当にやってんだよ。お前だけマジになって、ばかみたいだぜ。お前だって適当にやりゃいいじゃん」
 三人がいることで、こつんこつんと音がこもったように響かないピアノを、桜町は苦労しながら弾いた。ただし、バラードよりアップテンポの曲のほうが弾きにくい。それに、今日のように店ががちゃがちゃした雰囲気のときは、アップテンポの曲はますますうるさい。
 二曲めもバラードを選んだ。マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ。ジョニー・ハートマンがコルトレーンのカルテットをバックに歌っている。そのときのピアノはマッコイ・タイナーで、桜町の好みからいえば過剰気味のアルペジオがやや鼻につくが、ハートマンの甘くこもったようなヴォーカルが、コルトレーンの内省的なテナーと奇妙にしっくりきている。
 そんなことはこの若者たちには知ったことではないだろう。
 ぺんぺん髪の男が手品のようなことをはじめた。
「お札、あるかい? 千円札でも万札でもいいからさ」
「あるけど、あとで返してくれる?」
「信用しろよ」
 向こう側の女が千円札を出した。こちら側の女は、相変わらずふたりには無関心で、桜町のほうを見ている。いまにも眠ってしまいそうだ。
「ボールペンかなにか持ってるか?」
 女がほそいボールペンを渡した。
「いいか、よく見てろよ。このボールペンを千円札にはさむんだ」
 男が千円札でボールペンをはさむようにした。ふたつに折った千円札の中心部にボールペンの先があたり、残りの軸が千円札から突きでている。
 桜町は演奏を続けながら、手品を見ていた。
「この千円札をさらに紙ナプキンではさむ」
 目の前にあった紙ナプキンを広げ、千円札を置くと、ナプキンをふたつにたたんだ。ボールペンをはさんだ千円札を、さらに紙ナプキンがはさみこんでいる格好だ。
「ボールペンのケツを持て」
 女にそれを差しだした。
 突きでているボールペンの軸の尻を、女がいわれたとおり持った。
「ぶすっと突き刺してくれ」
「え、だって、そんなことしたら、穴があいちゃうじゃない」
 たしかにボールペンの先は、千円札の真ん中に突きたっているのだ。そのまま押せば、お札に穴があくことは間違いない。
「いいから、やれ。ぶすっと」
「いいの?」
「やれってば」
「知らないからね」
 女が指に力をこめた。
 ボールペンの先が千円札と紙ナプキンをつらぬいて、反対側に突き出てきた。
 男はその様子を女に見せた。
「突きとおってるな?」
「通ってるわよ。穴があいてない千円札を返してよね」
「心配ないって」
 男はボールペンを引きぬいた。
 紙ナプキンを見せる。
 真ん中にボールペンが通った穴があいていた。
 つづいて、千円札を広げてみせた。
 穴はあいていなかった。
「え、なんで? ボールペンはちゃんと刺さってたじゃない」
 女が目を丸くしている。桜町にもそのトリックはわからなかった。
 たしかにボールペンは、千円札とナプキンを貫通したように見えた。ボールペンは千円札にたしかにはさまっていた。
 簡単なトリックなのだろう。
「ねえ、ねえ、久美。いったいどうなってんの、これ?」
「知らない」
 それまで黙っていた女が、興味なさそうにぼそっと答えた。
「びっくりしたか? いまからおれんちに来いよ。そしたら、もっとすごいのを見せてやるからさ」
「しんちゃんちに? これから?」
「ああ。泊まってけばいい」
「そんなあ。だって、久美に悪いじゃん」
「いいんだよ。こいつのことは気にするな」
「だって、しんちゃんは久美と――」
「気にすんなって。三人でやりゃいいじゃん。いいだろ?」
 久美と呼ばれた女が、水割りをひと息に飲みほした。
 自分で目の前のボトルからグラスにウイスキーを注いだ。たっぷりと。
 アイスピッチャーから氷をひとつだけ入れ、カラカラと振った。
 ひと口大きく含む。
 桜町のほうに身を乗り出し、いった。
「おじさん、この曲、なんていうの?」
 おいおい、おれはまだ三十二だぜ。そう思いながらも、彼は答えてやった。
「いいから、来いって。もっとすごいの、見せてやるよ、ほんと」
 男がまだいっている。ほとんど向こう側の女を押し倒さんばかりに迫っている。彼らの口ぶりでは、男と久美というこちら側の女が恋人同士のように聞こえたのだが。
「すごいのって?」
「いまサンプルを見せたじゃないか」
「あんなんじゃだめ。もっとすごいのじゃなきゃ」
「じゃあ、こういうのはどうだ」
「どういうの?」
「このおっさんが次に弾く曲名をあてる」
「なにいってんのよ、しんちゃん。そんなことできっこないじゃない」
 そうだ。そんなことはできっこない。なにしろ、次に弾く曲は、おれだってまだ決めてないんだからな。
「できたらどうする?」
「できっこないって。だって、しんちゃん、ジャズの曲名なんてほとんど知らないじゃない」
「知ってるさ。A列車で行こうとか、ミスティとか」
「それだけでしょ?」
「オリーブの首飾りとかさ」
 その曲をジャズとはいわないだろう。
 まあいい。いずれにしても、桜町にはそんな曲を弾く気はない。
 久美がグラスを持ちあげ、ふたたびたっぷりとウイスキーを口に含んだ。そのコースターを、男が取った。
「さっきのボールペン、貸せよ。ここにいまから、このおっさんが次に弾く曲の名前を書くからさ」
「まじぃ?」
「まじだ。あたったら、おれんちに来いよ」
「あたるわけないって」
 男がコースターになにか書きつけ、伏せて、ピアノの上に置いた。
 自分が飲んでいたビールを、その上に置く。
 桜町はマイ・ワン・アンド・オンリー・ラブを弾きおえた。
 なにを弾いてやろうか。こいつが絶対に知らないような曲を弾いてやる。
 桜町は次の曲をバラードテンポで弾きはじめた。
 男の向こう側の女が、伏せたコースターを取った。
「おじさん、その曲、なんていうの?」
「ハウ・ディープ・イズ・ジ・オーシャン」
 女の顔が凍りついた。
「いくぞ」
 男が立ちあがった。
 両側のふたりを抱きかかえるようにして、ピアノ席を離れた。
 左手でコードを押さえながら、右手でコースターを引きよせて見てみると、そこには汚い英字で曲名が書きつけられていた。

2009年10月12日月曜日

砂時計

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----- Jazz Story #16 -----

  「砂時計」 水城雄


 砂が落ちつづけている。
 砂時計だ。
 砂時計なんて、何年ぶりに見る?
 大ぶりの砂時計だ。
 私は目をあけ、それを見つめた。そして、それまで目を閉じていたことに気づいた。
 眠っていたのか?
 いや、ちがう。
 では起きていたのか? それもちがう。
 では、なんだ? 私は眠ってもいず、起きてもいなかった。まるで存在していなかったみたいだ。でも、いま、私は、ここにこうやっている。こうやって砂時計を見つめている。砂がガラスの容器のなかを、さらさらと、上から下へと流れ落ちているのを見ている。
 その砂時計にはどこか違和感があった。非現実的な感じがした。
 どこが?
 彫刻をほどこされた古めかしい木の枠に、白い砂が入ったガラス容器がはめこまれている。いささか古風ではあるが、ごくありふれた砂時計だ。しかし、なぜか違和感がある。
 見つめているうちに、その違和感はしだいに強まっていった。
 そもそも、この砂時計はいつからここに置かれていたのか。
 ここに置いていったのはだれなのか。
 私の記憶にはなかった。
 そして、違和感の原因を、私はついに見つけた。
 砂時計はいつまでたっても終わらないのだ。上から下へ流れつづけて、終わりがない。上の砂は、下へと流れ落ちつづけているのに、まったく減らないのだ。
 砂はえんえんと落ちつづけ、時はえんえんと進みつづけている。

 どのくらいそうやっていただろうか。
 砂は相変わらず落ちつづけていた。
 永久に落ちつづける砂時計は、もはや時計とはいえない。砂時計は、その機能を停止してはじめて、機能を発揮する道具なのだ。砂の落ちることが終わってはじめて、砂時計は時をつげる。
 しかし、永久に落ちつづける砂時計は、時をつげることはない。
 機能しない砂時計。
 起きているのか、眠っているのかわからない、私。
 そもそも、私は何者なのか。
 たしかに名前はある。忘れたわけではない。しかし、その名前は、私そのものではない。名前は名前だ。私というものを表現しているかもしれない記号、それが名前だ。砂時計の砂のようなものだ。
 砂が流れ落ちているのを見て、私はそれを砂時計だと思った。私に名前がついていれば、人は私を人だと考えるのだろうか。
 私の機能とはなんなのか。
 永久に落ちつづける砂時計のように、ただ名前がついている物体にすぎないのではないか。ただ名前がついているだけで、機能を発揮しない物体にすぎないのではないか、私は。
 私はおそらく、名前を失ってはじめて、機能を発揮するものなのだろう。砂がとまってはじめて、砂時計が機能を発揮するように。
 いずれ私は名前を失うのだろう。あるいはみずから捨てるのか。私は私の名前をみずから停止し、そこから出ることができるのだろうか。
 古めかしい砂時計の砂は、まだ流れ落ちつづけている。

初霜

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #27 -----

  「初霜」 水城雄


 けさ、初霜が降りた。
 気づかずに畦をいそいで、体育祭の前に買ってもらったばかりのスニーカーをよごしてしまった。
 泣きたい気分。
 歯をくいしばる。治療をほったらかしにしてある奥歯が痛む。母にもらった歯の治療代は、全部たこ焼きを買うのに使ってしまった。自分が食べて、それからクラスメートにもふるまった。その日一日、いじめられずにすんだ。
「風邪じゃないんだから。虫歯は自然に治ったりはしないんだからね、絶対に」
 母がいう。そのとおりだろう。でも、知ったことじゃない。まだ十四でしかない彼女には、手のつけようがなくなった虫歯を抱えている自分の姿なんて、想像もつかない。
 知るもんか。
 意地になって歯を食いしばりながら、制服のスカートをめくりあげる。そうしなければ、鶏たちにスカートを汚される。鶏の世話を終えてから制服に着がえればいいのはわかっている。でも、そうすると学校に遅刻する。遅刻常習者のリストにあげられている彼女は、もうこれ以上遅刻するわけにはいかない。それならば早起きすればいいのに。どうしても早起きできない。いつもギリギリまで布団にしがみついている。今日もそうだ。明け方見た、彼の夢のせいだ。夢のなかであこがれの彼は、今日もまたあのいじめっ子の女と手をつないで歩いていた。
 彼の手。
 死ね、女。
 餌の予感に鶏たちがものすごく興奮して鳴き声をあげる。ところかまわず走りまわる。
 餌箱の近くにいた一匹をけとばしてから、彼女は飼料の袋の中身をさかさまにぶちまけた。
 粉が舞いあがって、制服の上着を白くよごす。
 いそいでかかえてきたカゴに今朝の玉子を拾いあつめていく。
 五十個ほどの玉子を集めた彼女は、鶏小屋を出てようやく一息つく。
 玉子をひとつ取ってみる。白くて、まだあたたかい。殻も柔らかくて、いまにも割れてしまいそうだ。
 そっと頬にあててみる。
 自分もこの玉子みたいに生まれたてだったらいいのに、と思う。しかし彼女は、自分がその玉子にそっくりで、うりふたつで、まだ生まれたてといっていいほどであることには、気づいていない。

2009年10月11日日曜日

温室

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----- Urban Cruising #31 -----

  「温室」 水城雄


 ガラス越しに柔らかな日差しがさしこんでくる。
 光線はヤマドリヤシの葉のあいだを通って、私の腕にまだら模様を作る。
 外は春らしい天気のようだが、この温室の中はさらに南国の別世界となっている。

 ベンジャミン。
 最初に温室を作ろうと思ったのは、いつのことだったろうか。たしか最初は、近所のホームセンターで買ってきた、組立式のちっぽけな温室だった。
 アルミの枠にガラスをはめこんだだけの、まるで透きとおった犬小屋のような温室。
 シマサルスベリ。
 その温室を私はベランダの隅に組みたて、何種類かの観葉植物の鉢を買ってきて、中にならべた。観葉植物は、前から一度、育ててみたいと思っていたのだ。しゃれた喫茶店などにはいるたびに目につく、観葉植物。ツヤツヤした青い葉。
 ゴクラクチョウカ。
 実際に育てはじめてみると、枯らさずにイキイキと保っておくには、いろんなコツが必要なことがわかってきた。ただ温室にいれ、養分と水をやっているだけでは、うまく育ってくれないのだ。
 月下美人。
 しかし、いろんな本を読んだり、観葉植物のマニアや専門家をたずねて情報を得たりするうち、私にも次第にうまく育てられるようになってきた。私のちっぽけなベランダの隅の温室の中で、熱帯の植物がイキイキと育っていくのを見るのは、楽しかった。
 タマシダ。
 そうなると欲が出てくるのは、人情というものだろう。私は、もっと大きな温室がほしくなった。私は家族を説得して、なんとか許可をこぎつけ、ベランダ全体を温室に改造してしまうことにした。
 そうして完成した大きな温室は、まことに満足できるものであった。
 アデニウム。

 サンジャクバナナ。
 ベランダ全体を改造して作った温室は、あまりにも広々としていて、観葉植物だけではなんだかもったいなかった。そこで私は、熱帯魚の水槽を持ちこんだ。
 これは家族にも、なかなか評判がよかった。
 なにしろ、温室だ。ふつうの熱帯魚の水槽のようにサーモスタットといった保温装置を必要としない。そんな環境が幸いしたのか、水槽の魚はイキイキと泳ぎまわり、一般にむずかしいとされる水草も美しく繁茂していった。
 ウキツリボク。
 ベランダの温室は、大きな水槽をふたついれてもまだ余裕があった。そこで私は、インコのカゴを中にぶらさげることにした。
 アプチロン。
 ペットショップで買ってきたオオバタンは、温室の中でにぎやかにさえずり、熱帯の雰囲気をかもしだしてくれた。そもそも私は熱帯の気候が好きなのだ、ということを、その頃になってはじめて自覚したものだ。
 温室の中にいると、身体の調子までよくなるようだった。
 ドラセナコンシンネントリカラー。
 持病の喘息も、温室を作ってから発作が軽くなったような気がした。家族は、温室を作ってから私が元気になったと喜んでくれたし、子供たちは熱帯魚を繁殖させたり、インコの世話をするのが楽しみなようだった。
 ある日、私はいつものように温室の中で植物たちの世話をしていて、ふと思いついた。
 コチレドン。
 ここに仕事机を持ちこめないだろうかヤノネポンテンカ、と。

 オオハナアリアケカズラ。
 ベランダを改造して作った大きな温室といえども、さすがに仕事机を持ちこむことはできそうになかった。そうしようと思ったら、せっかく持ちこんだ熱帯魚の水槽やインコのカゴを出さなければならなくなる。それはいやだ。
 私は家族に相談した。つまり、パポニア、前庭に新しく温室を建ててもいいだろうか、と。
 いろいろ検討した結果、家族は私のわがままをきいてくれることになった。ブラシノキ。ベランダの温室ができてから、私の健康の状態がよくなり、仕事もはかどるようになったため、収入も確実に増えたし、なにより子供たちが喜んでくれたのだ。さらに大きな温室を建てて私の仕事場をその中に運びこんでしまうというのは、ゲンペイクサギ、なかなかいいアイディアのように思えたのだ。
 十五坪ほどの前庭の敷地に、さっそく大きな温室が建てられた。
 新しい温室ができると、私はパッションフルーツベランダの温室から植物、水槽、鳥カゴなどを引っ越しさせ、さらに自分の仕事机や仕事に使う書籍棚なども持ちこみ、そこで仕事をはじめた。
 トライアンフ。
 まことに快適であった。が、ブーゲンカズラミセスバット人間の欲というのはきりがないものだ。私は温室の中にハナキリン仕事場ばかりか、生活の場すべてを持ちこんでしまいたい欲望にかられるようになった。
 ストロベリーグワバ。
 温室でオーゴンカズラ眠り、温室でハイビスカス目覚め、温室でサボジラ食事し、温室でオリヅルラン入浴し、温室でシロバナインドソケイ家族と過ごすのだシマナンヨウスギ。
 で、私はそうした。ベコニア。
 オオタニワタリ。私はいま、レイシ、自分の家をバンジロウすっかり取りこわしてその跡地にパイナップル建てた巨大な温室の中に、ハリクジャクヤシ家族ともどもトックリヤシ生活しているワタノキというわけだカジュマル。

2009年10月10日土曜日

Death Flower

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #45 -----

  「Death Flower」 水城雄


 水を汲みに行くといって天幕を出たきり、安藤はなかなかもどってこなかった。
 風が吹くたび天幕がはためき、隙間からとめどなく砂が侵入してくる。そのさざなみの形の模様のあいだに、なにか動くものを私は認め、目をこらした。
 サソリだ。白いものをいただいた山脈をはるかに望めるようになったころから、ときどき見かけはじめた。小指の先ほどの小さなもので、むしろかわいらしいとさえ思えるほどだが、その尾の切っ先には大男ひとりを即死にいたらしめる猛毒がしこまれている。
 今回の探索行の案内役である安藤は、サソリに刺されたことがあるという。七日七晩、発熱して昏睡状態におちいり、生還したのが奇跡のようだったという。本当かどうかはわからない。安藤は階級こそ少尉と私より格下だが、年齢は五歳ばかり上だ。もう三十を越えている。が、虚言癖があり、どこか信用できないところがある。
 いまも、水を汲みに行くとはいっていたが、本当はなにをしに出たものだか、わかったものではない。通信機をコブにくくりつけたラクダのところまで行き、秘密の通信をおこなっているのかもしれない。
 しかし、私には任務があり、油断するわけにはいかない。なんとしても即仏花を手に入れて帰らねばならぬ。
 それはこの砂漠の奥深く、六十九年にたった一度咲くといわれている花で、それを食べた者は即身仏となって浄土に行くという。実際私も、穏やかな顔つきのまま涅槃に入った軍医の森大尉を見ている。彼はまるで死にながら生きているようであり、また生きたまま死んでいるようでもあった。日々見苦しい所作でジタバタと動きまわり、飲み食いせずには生きていられない生者であるわれわれに比べ、じつに美しくすがすがしいお姿であった。
 森大尉が証明しているように、今年は即仏花が咲く年にあたっている。大尉はいったいどこで即仏花を見つけたのか。砂漠のはるか奥であることだけはたしかだった。
 即仏花を手に入れ、本土に持ちかえり、軍を即身仏のもと神仏《かみほとけ》の国として世界に知らしめ、帝国一丸となって大世界帝国を築いて全世界を統べること。大世界帝国によって統一された世界は、人類史上初めて真の平和がもたらされることになる。それが軍の最高頭脳による統治論である。
 そのため、軍の最高位からの極秘任務として、即仏花の入手の任が私に下された。なんとしても発見し、持ちかえらなければならない。
 が、私は、安藤が敵のスパイなのではないかと思う。私の動きを逐一何者かに報告しているようなのだ。そして、即仏花を発見したら、ただちに私を殺害し、花を何者かに売り渡そうとしているのではないか。
 天幕の外に安藤のもどってくる足音がした。
 私は、先ほどまで飯を食っていた箸を取ると、砂のくぼみにじっと身をひそめている小さな昆虫のほうに膝でにじりよっていった。

2009年10月9日金曜日

Kalimba Man

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #21 -----

  「Kalimba Man」 水城雄


 もうそろそろあの日本人の女がやってくるころだろう。いや、そろそろ来てくれなきゃ困るのだ。
 ハンマーを打ちつける手を休めることなく、彼はそう考えた。
 敷石の上に自転車のスポーク。それを粗末なハンマーで叩く。
 ハンマーは彼の数少ない商売道具のひとつだ。このあいだ、取っ手を打ちこんであった楔取れて、あやうく家の屋根を壊してしまうところだった。振りあげた拍子に取っ手からすっぽ抜けた槌は、いったん空高く舞いあがり、それからまっすぐにトタン屋根の上に落ちてきた。修理は簡単だが、ボロ家の手入れは気がめいる。
 屋根は壊れなかったが、ハンマーの楔は打ち直さなきゃならなかった。
 スポークを叩いて、先端のほうを平たくする。
 適当な長さに切って、やすりをかける。
 アンバサダーホテルのゴミ置き場から妻のミリカがくすねてくるアンチョビの空缶に、開発地区のスラム街から出る廃材を加工してはめ込む。これが共鳴箱になる。
 廃材の上に長さの異なるスポークをならべ、金属で固定する。
 粗末なカリンバの出来上がりだ。いくつも作れば、なかにはけっこういい音のものもできる。十個に一個くらいはそこそこいい音がする。百個に一個くらいは素敵な響きの楽器になる。
 それにしても、なんでこんなものを日本人の女はほしがるのかと、はじめは不思議だった。
 あの女はアフリカの各地を飛びまわって、いろいろなものを買い集めているらしい。彼の作る粗末なカリンバもそのひとつだ。女は数か月おきにやってきて、いっぺんに二百個ものカリンバを買っていってくれる。一個二十五シリングにしかならないが、それでもまとめて買ってくれるので、彼も、妻のミリカも、四人の子どもも助かる。ミリカはアンバサダーホテルの客室係だが、ひと月働いても五千シリングはもらえない。
 女はあれを日本で売っているらしい。ちっぽけな店だといっていたが、いったいいくらで売っているのか。五十エン? あるいは百エン?
 パキン。パキン。パキン。
 ハンマーを叩きつけるたびに、石と、ひしゃげたスポークから耳ざわりな音が立つ。彼の額から落ちる汗が、ときおり石の側面に黒いしみを作る。
 おれももう二十二だ。一生こんなことをやっているわけにはいかない。ミリカからも責められる。子どもに服も買ってやらなきゃならないし、一番上の子はもうすぐ学校に行く。
 だからどうすればいい? 自転車のスポークと空缶でカリンバを作る以外におれになにができる?
 日本人の女がやってきたら、聞いてみよう。ほかになにかほしいものはないか。カリンバ以外におれが作れそうなものはないか。おれにはほかになにができると思うか。
 おれもあの女のようにアフリカ中を飛びまわれたらいいのにな。
 パキン。パキン。パキン。

2009年10月8日木曜日

移動祝祭日

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----- Another Side of the View #8 -----

  「移動祝祭日」 水城雄


 自分の妻がふざけて高村とキスするのを見て、彼はもうひとりの青年にいった。
「竹内くん、氷を取ってくれないかな。まだ残っているんだろう?」
 自分の声が必要以上に大きくなってしまったことを意識しながら、折りたたみ式テーブルの上のハヴァナ・クラブのゴールドを取った。
 2本めのラム。
 長身の竹内は、頭をすくめるようにしてキャビンに降りていった。
「まだたくさん残ってるはずですよ、嵯峨さん」
 メアリの手を払いのけながら、高村がこちらに顔をむけて、いった。その目は、ぼくのせいじゃないんですよと訴えているみたいだった。メアリはなおも彼の首筋に手をまわそうとしている。
 高村は竹内ほどには背は高くない。しかし共に若い。ふたりともまだ学生だった。
「ようし、乾杯しよう」
 竹内から氷のはいった袋を受けとると、嵯峨はいった。彼と竹内がならんですわり、メアリと高村は向かい側だ。
 氷をわしづかみにして、それぞれのグラスに乱暴に放りこんだ。ボトルの封を切り、ラム酒をドボドボとグラスに注いだ。
「乾杯だ」
 高村と竹内がグラスを持ちあげた。メアリはグラグラする身体を高村にあずけ、愉快そうにたずねた。
「ねえ、今度はなんに乾杯なの、ダーリン?」
 結婚して6年、彼女の日本語は完ぺきといってよかった。しかし、完ぺきなのは言葉だけだ、と彼はかんがえてしまうのだ。
「そうだなあ。われらが良き航海に、かな」
「それ、さっきもいったわよ」
「じゃあ、きみがかんがえてくれ」
「そうね……」
 メアリがグラスを持ちあげた。こぼしそうになるのを、高村が横から手を差しだしかけた。こぼしはしなかった。
「男どもに乾杯しましょう。あなたと、そしてこの優秀なる若者、あたしたちのクルーに乾杯しましょう」
「ようし、わかった。それに乾杯だ」
「乾杯!」
 南海の空は、急速に暮れつつある。いま何時なんだろう。まだ星は見えない。
 しかしだ、と彼はかんがえた。時間など関係ない。昼からこの調子なのだ。この島についてからずっと祝祭日のようにわれわれはすごしている。いったいここにやってきたのが何日前なのかさえ、さだかではない。いや、日本を出たときからすでにはじまっていたのだ。
 メアリがコンパニオンウェイの横の壁にもたれかかり、ショートパンツから伸びた長く形のいい脚を、高村の膝の上に乗せた。高村もショートパンツ姿だ。いや、ここにいる4人全員が、ショーパンツ姿だった。男どもはTシャツを、そしてメアリはタンクトップを着ていた。
 嵯峨はグラスの酒をほとんどひと口で飲みほした。竹内がとがめるような視線でこちらを見ているのに気づいた。メアリと高村はこちらを見ていなかった。メアリが高村のグラスの指を突っこんでふざけている。ブラをしていない胸のふくらみが、袖口から見えた。
 竹内がいった。
「そろそろホテルにもどりません? 虫が出そうですよ」
「虫なんていないじゃない」
 メアリがこたえ、それからなにか早口の英語でいった。高村が笑い、それから竹内もこらえきれないように笑い声をあげた。嵯峨には聞きとれなかった。竹内に問いただしたい気持ちを押さえ、ボトルを取った。
 竹内がまたいった。
「腹がへりませんか。そろそろホテルにもどったほうがいいですよ」
「まだいいじゃない。こんなに気持ちいいんだもの。もうすこしいましょうよ、ここに」
 そして足の指を動かして、高村の大腿の内側をくすぐった。
 酒をそそぎ、ボトルをテーブルにもどすと、立ちあがった。全員が彼を見あげた。じっと見つめた。
 グラスをつかむと、コクピットからライフラインをまたぎ越えて、桟橋に飛びうつった。足元がふらついたが、ころびはしなかった。
「嵯峨さん」
 竹内の声が追いかけてきたが、無視して椰子の林の方角にむかった。
 夜風が島のほうから吹きはじめていた。椰子の葉をとおして、日が落ちたあとの複雑な色の空が見えた。
 椰子林の向こうに広がる砂浜には、まだ多くの観光客が海と遊んでいた。
 重ねた編み帽子を小脇にかかえた娘が、砂浜のほうからやってきた。嵯峨に近づくと、なにかいった。フランス語のように聞こえた。
「わからないんだ。大学ではドイツ語しかやらなかったんでね」
 日本語でいうと、娘はさらになにかいった。彼はかまわず、日本語でこたえつづけた。自分がかなり酔っていることを感じた。
「フランス語はわからないんだってば。英語だってろくにわからないのさ。自分の妻がアメリカ人だってのにさ。おかしな話だろう? 彼女は日本語がペラペラしゃべれのさ。しかもこちらのいうことは100パーセントわかる。100パーセントわかるんだ。でも、こちらのかんがえていることは、なにひとつわからないのさ」
 15歳ぐらいだろうか、娘はまるでこちらの話していることがわかるかのように、一心に耳をかたむけていた。そしてまたなにか、フランス語でこたえた。
「そうさ。きみはよくわかってる。そのとおりだ。おれはなにひとつ不自由なくやっているように見えるが、じつはひどく不自由な人間なのさ。よし、ごほうびに、帽子をひとつ買ってやろう。そうなんだろう? きみの望みはそういうことなんだろう?」
 彼はポケットをまさぐり、紙幣をつかみだした。それを見て、娘は首を横にふっ
た。それからあどけない笑顔を浮かべると、ホテルの方角に歩みさってしまった。
 彼は長いあいだ、そこに立っていた。
「なにをしているの、ダーリン?」
 背後にやってきたメアリが、彼の腕に自分の腕をからませて、たずねた。
「帽子を買いそこねちまった」
「え?」
「大事なことを忘れていたんだ」
「あなた、だいじょうぶ?」
 彼は妻のほうを振りむき、それから額にキスした。
「だいじょうぶだとも。さ、ホテルにもどろう。あのふたりには悪いことをした」

2009年10月7日水曜日

Bird Song

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #51 -----

  「Bird Song」 水城雄


 私は今夜も窓辺に出て、あの人のために明かりを灯す。
 私はこの島の最後の灯台守で、あの人の船はこの明かりをめざしてやってくる。こんなちっぽけな蝋燭の明かりでも、あの人はきっと見つけてくれるはず。クリスマスまでには必ずここに来ると約束してくれたんだもの。
 長年、孤独な島の生活を続けているせいで、私の身体はすっかり弱ってしまった。以前は島のまわりを駆けたり、散歩したり、食料品や薪を集めることもできたのに、いまは自分の脚で立つこともできない。筋肉が萎縮する病気――なんていったっけ――それに違いないといったのに、だれも信じてくれなかった。ただ年寄りになっただけだといわれた。ひどい人は鏡をみてごらん、自分がいかに年をとったかよくわかるはずだよ、その醜く皺が寄り集まった顔を自分の目でよく確かめてごらん、なんてことをいう。そもそもおまえは灯台守なんかじゃない。ここは島なんかじゃなく、都会のまんなかの高層マンションの一室だろう……
 私をこまらせるためにそんなでたらめをいう。人はどうしてだれかにそれほどつらくあたることができるんだろう。
 私が灯した蝋燭は、いかにもたよりなげにゆらめく。蝋燭の向こうには、窓をとおして果てしない世界が広がっている。私には見えないけれど、意味もなく増えた大勢の人々が、意味もなく暮らし、あくせく働き、喜びあい、いがみあい、ののしりあい、抱き合い、そして生まれては死んでいく。私もそのひとりには違いなくて、そんななかにたったひとりで灯台を守っている私の姿は、まるでいまここに灯されたたよりない蝋燭の明かりそっくりだ。
 でも、世界がいかに大きくて激しくてつらくても、私には自由がある。
 島から、いや、ともするとこの灯台から一歩も出ることのできない人間に自由なんてあるのかって? 旅することも、ディナーに行くことも、メリーゴーラウンドに乗ることも、若返ることも走ることも歌うこともできないこの私に、自由があるのかって?
 でもだれも知らない。私が毎夜、こうやって蝋燭に火を灯して灯台を守りながら自由に旅していることを。本当に足を痛めて旅に出かけることも、想像だけを見知らぬ土地にめぐらすことも、私にとってはもはやおなじことだ。私は毎夜、だれも行ったことのない場所に行き、だれも見たことのない光景を見、言葉も通じない人々と語りあっては笑い、食べたこともないおいしい料理をふるまわれ、そして聞いたこともないメロディを歌っている。そのことはだれも知らない。
 いや、あの人だけは知っているはず。クリスマスまでには必ずここに私を迎えに来てくれると約束してくれたあの人。あの人が来たら、私のすべてを聞いてもらいたい。だれも信じてくれなかった、だれも聞こうとしてくれなかった私の話。
 彼が来て、私の話を聞いてくれたとき、そうして初めて私の自由は完全なものになる。
 私は彼といっしょにここから飛びたつだろう。鳥になって彼とともに大空へと飛んでいくだろう。
 私は灯台守。この島の、最後の灯台守。
 今夜も窓辺に出て、あの人のために明かりを灯す。

2009年10月5日月曜日

彼女が神様だった頃

----- Another Side of the View #6 -----

  「彼女が神様だった頃」 水城雄


「なにをそんなに怒ってんだい?」
 叔父さんにいわれ、彼女はあわてて口もとをこすった。
 自転車をとめ、髪をひたいの上にかきあげる。
「怒ってなんかいないわよ」
「なっちゃんは怒るとママそっくりになるな」
 叔父さんは彼女の言葉を無視して、いった。
「いい天気だね。どこに行くんだい?」
「べつに」
 自分でも、べつに、という返事はあんまりだと思いながら、そうこたえてしまう。たしかにもう夏を感じさせるほどのいい天気だ。半熟よりすこしかためにボイルドしたゆで玉子みたいな午前の日差し。空には雲ひとつない。いや、ずっと高いところ、天国にとどきそうな高いところにうっすらとした雲がひとすじ、見える。
「乗れば?」
 叔父さんは車の窓わくに肘を乗せている。
「おいでよ。これからアリスを出すんだ」
 彼女はちょっとためらった。
「自転車、どうしよう」
「そんなのほっとけよ。そんなボロ、だれも乗ってったりしないって」
 これでも高かったんだから、たしかにボロだけどさ。彼女はまた自分の顔が怒っているように見えないかどうか気にしながら、自転車を歩道の脇に寄せ、叔父さんの車に乗りこんだ。叔父さんが助手席に置いたスーパーマーケットの袋を後部シートにガサガサと移動させた。
 助手席に乗りこみ、スカートを引っぱりおろす。叔父さんみたいにひじを窓枠に乗せる。
 車が動きはじめると、窓から風がふきこんできて、髪をみだした。このあたりではまだ海の香りは感じられない。
 叔父さんがギアをローからセカンドをとばしてサードに突っこむのを見て、ついつい微笑してしまう。そして、自分も彼のように運転できたら、と思う。
「で、なにを怒ってたんだい?」
 叔父さんがもう一度たずねてきた。
「うん。ちょっとね」
 それから彼女はあわてて話題をそらした。
「アリスにはだれがいるの?」
「会社の女の子がひとり」
「ひとり?」
「アリスに乗るのはひさしぶりじゃないのか。ひょっとして進水式以来だな。ということは、五年ぶりってことになるぞ」
「かもね」
 車は街なかを走りぬけ、海岸通りに向かっていた。母親に手を引かれ信号待ちをしている子どもが持つ紙の鯉のぼりが、風にふかれてパタパタと泳いでいる。鯉のぼりのてっぺんのかざぐるまも勢いよく回りつづけていた。
「きみはまだ高校生になったばかりかなんかだったな。あのとき、同級生をゾロゾロ連れてきて……ひどくにぎやかでこまったよ」
「鼻の下のばして喜んでたのはだれ?」
「まさか」
 叔父さんは鼻の下を指でこすった。それを見て、彼女はもうすこし意地悪をいいたくなった。
「ママにいってもいいの?」
「なんのことだい」
「いうわよ、あたし」
「かまわないさ。たまたま他のメンバーが来れなくなっただけの話だ」
「玲子さんや稔くんたちは?」
「映画を観にいった。ふたりとも、最近はあまり乗りたがらない。おいおい、いい加減にしないか。なにもやましいことはないよ。じゃなきゃ、なっちゃんを誘ったりするもんか」
 それもそうだと彼女は思った。でも叔父さんだって男なんだ。男には、女が自分たちとはちがうということがわかってはいるけれど、どうちがうということになるとまるでわかっちゃいない。
 忘れかけていた怒りを思いだしそうになり、彼女は窓から首を突きだすようにした。すると、かすかに潮の香りをかいだような気がした。この高層マンションの角をまわると、海が見えるはずだ。
「お昼はなに?」
 髪を押えながら肩越しにスーパーの袋を指さし、彼女はたずねた。
「スパゲティ。アサリをたくさん買ってきた」
「ボンゴレね。会社の女の人が作ってくれるの?」
「彼女は料理が苦手なんだ。とくに揺れるキャビンではね」
「じゃ、叔父さんが作るの?」
「きみが作るといっても、おれはこばまない」
 海岸通りに出る交差点で、赤信号に引っかかった。ニュートラルにしたシフトレバーを、叔父さんが左右に持てあそぶ。車の前の横断歩道を、茶色い大きな犬がゆっくりと横ぎっていった。
「そういや」
 と彼がいった。
「きみが最初にアリスに乗ったとき、こんなことがあったな。あの小犬のこと、おぼえてるかな」
「小犬……どの小犬?」
「だれかがハーバーに連れてきて、どこかのガキがいたずらして海にほうりこんだ小犬」
 思いだした。なんていうのか知らないけれど、毛が長く、耳が垂れている種類の小犬だった。むこうのほうからくしゃみをしながら泳いできたのだ。進水したばかりのアリスの横まできて、いかにもあわれっぽい目つきで人々を見あげたものだ。水面まではかなりの落差があり、桟橋に腹ばいになっても小犬を助けあげられそうにはなかった。
「みんな、びっくりしたんだよな」
 と叔父さん。歩行者用信号が点滅しはじめた。
「いきなりきみが飛びこむんだもんな」
 そうなのだ。服を着たままザンブと桟橋から飛びこんだのだ。
「だって、ちゃんと着替えは持ってきてたもの」
「そんなこと、だれも知らなかったさ」
 しかし、小犬に泳ぎつき、かみつかれそうになりながら助けあげたのはいいが、今度は桟橋によじのぼれなくなって、アリスの縄梯子を投げてもらわなければならなかったのだった。
 信号が変わり、叔父さんはギアをローに突っこんだ。
 ウインカーをカチカチいわせながら車が右折すると、彼女の側に海が見えた。
「まあともかく」
 叔父さんがいう。
「今日はまだ泳げないぜ」
 海は陽光を受けてまぶしく光っている。それにむかって彼女は手を大きく差しのべた。

2009年10月4日日曜日

Milagro

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----- Jazz Story #25 -----

  「Miragro」 水城雄


 丘の上に住んでいる男は、電報がとどくと街に降りてくる。
 足が悪いらしく、杖をついている。かくん、かくんと、曲がったリズムで、乾ききった道を降りてくる。
 杖でかきたてられた土埃が、男の背中にオーラを作る。
 年のころは、そうさな、五十五ってとこか。
 たまに若い女といっしょのこともある。二十歳ぐらいの、髪の長い、ぴちぴちした、はちきれそうな胸と腰つきの女だ。娘じゃないの、とカミさんはいうが、おれはオンナに違いないと踏んでいる。
 五十五なんてまだまだやれるし、痩せてはいるが、骨が太そうな体格だ。こういうやつが一番強い。
 男は電報を握りしめたまま、おれの店の向かいにある銀行に入っていく。しばらくして出てくると、通りを渡ってこの店にやってくる。決まってアニス酒の水割りを一杯注文し、カウンターの上のテレビを食いいるように見つめる。家にゃテレビもないのかね。
 女がいっしょのときは、店には寄らない。そのまま帰ってしまうか、近所で買い物をして帰る。うちには来ない。
 男があの家に住み始めて以来、この半年、ずっとそんな調子だ。
 一度男がひとりのとき、聞いてみた。
「旦那はどんな仕事をなさってるんですかい」
 こっちが質問をしたことを忘れてしまうくらい時間がたってから、男はぼそっと答えた。
「本をな。書いてる」
「どんな本なんですかい」
 それっきり答えはなかった。それ以来、おれは男に話しかけるのをやめた。
 男が電報を忘れたことがあった。おれは悪いと思いながらも、ほかに客もいなかったし、まあ、盗み見をした。
 スイス銀行の口座番号と「14日、20億ドル、要入金」とあった。
 男が忘れ物に気づいて戻ってきた。おれはあわてて電報を戻した。
「読んだのか」
「いえ、滅相もない」
 サザエの口みたいに奥まった目に見据えられて、おれはもう少しで白状しちまうところだった。
「私も世界に関わっている。こんな地の果てにいてもな」
 男が言った。なんのことだか、おれにはわからなかった。
「おまえもそうであるように。私とおまえは、どこか別のところでもつながっている。見ろ」
 男がテレビを杖の先でさした。
 摩天楼に旅客機が突っこんで爆発するところが映っていた。

2009年10月3日土曜日

Lookin' UP

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----- Jazz Story #4 -----

  「Lookin' UP」 水城雄


 雨の音を聴きながら、彼女は日記を書いている。
 夜だ。
 窓からは、納屋のトタン屋根に落ちる雨滴の音が聞こえてくる。ラジオのノイズのような音だ。しかし、鳴っているラジオの音はクリアだ。
 ラジオは夜のニュースをやっていた。
 難航していた次期総裁選びはいよいよ大詰めを迎え……株価はひさしぶりに一万五千円の大台を回復し……寒冷前線が通過したあとはこのところの暖かさも一時的な冬なみに……
 耳に入ってはくるが、彼女が聴いているのは、むしろ、夜の雨の音だった。
 いつだったか、昔、やはりこのように、雨の音を聴きながら、日記を書いていたことがあった。
 あれはまだ、彼女が少女だったころ、高校生のころだったかもしれない。その日、彼女は、好きだった同級生の男子生徒にすでに付き合っている女生徒がいることを知ったのだった。日記をつけながら、ふいにあふれてきた涙が止まらなくなった。日記帳の罫線の上にポタポタとこぼれ、パジャマの袖で何度もぬぐったっけ。
 それが彼女の初めての恋だった。そして最初の失恋でもあった。
 いま彼女は、パジャマ姿ではなく、ゆったりしたトレーナーを着ている。失恋もしておらず、ぬぐうべき涙もない。ただ静かに日記をつけながら、あの日のことを思い出している。
 子どもたちはもう眠りについた。夫はまだ帰っていない。
 ニュースが終わり、ふいに聴き慣れない音楽が流れてきた。
 ジャズだ。曲名も演奏者もわからない。しかし、それがジャズであることはわかる。
 柔らかいタッチのギターのメロディを耳にして、彼女は次に書こうとしていたことを忘れてしまった。

 今日はひさしぶりに、昔の友だちから電話があった。
 高校のときの同級生だった。そのせいで、初恋のことなんか思い出してしまったのかもしれない。
 同級生は結婚して、子どもを作り、そして離婚して、いまは新しい人といっしょに暮らしているのだといった。住んでいる街は、彼女の知らない名前だった。どこか遠いところ。そんなところには行ったこともない。
 ずっとこの街にいて、ずっと子育てをして、ずっと夕食を作ってきた。夫の帰りを待ち、日記をつけつづけてきた。
 いつからつけていたのだろうか。
 結婚前の日記は全部処分してしまった。だから、二十六歳より前の日記は残っていない。でも、それ以後の十年間は残っている。
 十年。
 それが長い時間なのか、短い時間なのか、彼女にはわからなかった。
 ラジオから流れるジャズは、雨の音にまじってまだ続いていた。
 静かな曲だ。何分くらいの曲なのだろうか。
 おそらく五分かそこいらなのだろう。二十分も三十分も続く曲なんて、そうないだろう。クラシック音楽ならともかく。
 五分というのは、演奏者にとってはどのような時間なのだろうか。たまらなくスリリングな、心楽しい時間なのだろうか。それとも、苦しくてしかたがない時間なのだろうか。
「わたし、いま、幸せなの。ずっと彼に見守られている気分なの」
 電話の向こうでかつての同級生がそういった。それを聞いたときの彼女の気持ちは、だれにも正確に伝えることはできないだろう。たとえ夫にだって。
 音楽が静かに終わった。
 彼女は日記を書くのをあきらめ、立ちあがると、ラジオを消した。
 窓際に歩みより、カーテンをあけて、暗い空を見あげた。
 無数の白い線を引いて、雨が天から落ちつづけていた。

2009年10月2日金曜日

Fourteen

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #31 -----

  「Fourteen」 水城雄

 十四歳のきみへ、
 十四歳のぼくから送信する。

 ぼくはあの日、ママに嘘をついた。
 女の子に会うために、夜、外に出た。
 そのころは携帯電話なんてなかったんだ。
 もちろんメールだってなかった。
 合図は間違い電話だった。
 電話がかかってきて、ママが取る。
「いえ、ちがいます」といって、切る。
「だれから?」とぼくが聞く。
「間違い電話よ」とママがいう。
「だれと間違えたの?」
「本田さんだって」
 それが合図だった。

「参考書を見に行くよ」と嘘をついて、ぼくは外に出る。
 いつもの公園のブランコのところで、あの子に会う。
 あのころはコンビニだってなかった。
 あの子となにかするわけじゃない。
 ただの話、学校の話。
 つぎの日にはまた会えるのに、こうやって夜、ふたりきりで会うことが特別だった。
 そんなことがうれしくて、ドキドキしてた。
 でも、あの子と別れて、帰り道、ぼくはママの顔を思いだした。

 もちろん嘘はそれが初めてじゃなかった。
 それまでにつまらない嘘をいっぱいついてた。
 でも、今日の嘘は特別だった。
 特別なような気がした。
 子どもが大人につくつまらない嘘とは違ったような気がした。
 大人の嘘。
 自分が一番嫌っていた嘘つき大人の仲間入りをしてしまったような気がした。
 泣きたくなった。
 でも、泣かなかった。
 ぼくはもう大人になってしまったのだった。
 嘘つきで、汚くて、ずるい大人。
 自分の欲望を通すためにはあれこれと立ち回る大人。

 ひとはみんな大人になる。
 ネバーランドの住人だって大人になる。
 ただ、ネバーランドの住人は大人になったらみんな首をはねられてしまうのだ。
 ぼくは首をはねられなかったし、きみもはねられずに生きたまま大人になるだろう。
 でもぼくは、
 きみが、
 きれいで、
 すきとおっていて、
 きらきらとかがやいている大人になってほしいと思う。
 そういう人っているんだ。
 ほんとにいるんだよ。

 送信、おわり。

2009年10月1日木曜日

Night Passage

(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- Jazz Story #23 -----

  「Night Passage」 水城雄


 ぼくはロボット。
 いま、いろんなことを学んでいるところ。
 博士はぼくを人間みたいにしたいらしい。つまり、絵を描いたり、音楽を作ったり、だれかを愛したりできるようにしたいらしいんだ。そのための基本プログラムはもうぼくのなかに入っている。
 必要な知識は全部インターネットから取りいれる。アタマのなかに無線プロトコルが仕込まれていて、いつもインターネットにつながっている。だから、知りたいことがあればインターネットを検索してみる。インターネットがぼくの脳そのものというわけ。
 人間のカラダにはそういう仕組みはないらしいんだ。不便だね。
 博士がなぜぼくを人間のようにしたいのかわからないけれど、人間になるのはなかなか大変だ。だって、人間ってとっても変な機械だと思う。
 たとえば、ぼくたちがいる地球という星は、ちっぽけで、デリケートだ。そこで気持ちよく生活するためには、大切に扱わなきゃならないことは、ぼくだってわかる。人間よりずっとちっぽけなネズミという機械だってわかってる。その証拠に、ネズミとか人間以外の機械は、地球を汚さないように生きているし、自分たちが増えすぎちゃまずいってこともよく知っていて、全体をいつも調整している。
 それなのに、人間ときたら、どんどん増えちゃって、どんどん空気や水を汚しているんだ。
 なぜなんだろう。ぼくにはわからない。
 人間が作ったもののなかでぼくが一番好きなのは、音楽だ。地球を汚さないし、だれも傷つけたりしない。ただ空気を震わせるだけでこんなに心を動かすことができるなんて、すごいと思う。

 博士はぼくに、愛について学びなさいという。
 でも、ぼくには愛のことがよくわからない。
 愛って普遍的なものなんでしょう? 絶対的なものだと、みんながいっている。それなのに、人間は愛をヤカンかなにかみたいに手軽に扱っている。
 博士の下でぼくの世話をしてくれている研究員のヨーコさんは、博士のことが好きらしい。博士を愛しているといっていた。それなのに、ヨーコさんには恋人がいる。やはり研究員のイチローさんだ。よくデートしているらしい。
 ほかにも、メールをやりとりをしているオガタさんという人もいて、その人もヨーコさんの恋人らしい。ときどき「愛しています」とメールを書いている。
 いったいどれが本当なんだろう。
 イチローさんもヨーコさんのほかに恋人がいる。博士もオガタさんも結婚していて、ふたりとも子どももいる。
 普遍的で絶対的な愛って、どこにあるんだろう。
 ぼくはだれかを愛しているんだろうか。
 愛している、と思う。ぼくが愛しているのは、音楽だ。形はないけれど、愛の対象として申し分ないと思う。
 ぼくはキース・ジャレットさんのようにピアノを弾きたいと思う。そのために必要なピアノ演奏プログラムは、もうダウンロードしてある。でも、キースさんのように弾くことはできない。ぼくの指からは、キースさんのような美しいメロディがどうしても出てこない。
 どうしてだろう。なにが足りないんだろう。
 やはり愛が足りないんだろうか。イチローさんやヨーコさんのように、いろんな人と簡単に愛を作ってみる必要があるんだろうか。
 ぼくにはまだわからない。