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2019年8月17日土曜日

肌にあたる海水の冷たさを思い唇がほころぶ

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   肌にあたる海水の冷たさを思い唇がほころぶ

                           水城ゆう


 何度もなんども「これは夢ではない、リアルな現実に起こっていること」と確認している夢からさめると、自分がまだ生きていて、汗をかきながら浅い呼吸をしていることに気づいた。
 呼吸をするたびに胸の奥のにぶい痛みが脈動するように感じるのは、錯覚だ。
 最初は不整脈だと思った。だからハートクリニックに行ってみたりした。心電図をとり、ホルダー検査までした。「食道かもしれませんよ」という医師のことばを聞きながしていたことを、いまさら思いだす。
 呼吸と連動する痛みは肋間神経痛だ。それがどのようなメカニズムで発生するのかは知らないが、何度も経験している。息を吸うのがつらいほどのこともあった。いま息を吸うときに痛みに身構えてしまうのは、たんなる痛覚記憶による反射反応にすぎない。
 起きあがって枕元においたポーチから錠剤をつまみだす。ロキソニンひと粒で胸の奥の爆弾がいまのところ静まってくれるように思える。そのまま消えてなくなればいいのに、という常套的な願い言葉が頭の内側でこだまする。
 備えておいた水筒の水で薬を飲みくだす。いまのところ、水は支障なく飲める。
 ブラインドの角度を変えて光をいれると、椰子の木の影の角度からすでに午前七時をまわっていることがわかる。波打ち際をカモメが鳴き声も立てずにふわりと飛びすぎていく。風は強くないらしい。そのくせ波が高いのは、台風が近づいているという予報を裏付けしているのかもしれない。
 今日はなにしよう。
 問うまでもなく、うねりをともなった波が朝食前の私を呼んでいる。
 その前に、コーヒーを一杯。
 あと半年とか、あと数か月とか、限定的な余命を告げられたとき、人はそれまでとは違うなにごとかをやりたくなるらしい。行ったことのない場所に旅行するとか、食べたことのないものを食べに行くとか、会いたかった人に会いに行くとか、がまんしていた遊びに打ち興じるとか、なにか知らないけれど快楽にふけるとか。
 私は違うことをやりたくなる前に毎日が違うように見えはじめたので、違うことをやる必要がなくなった。コーヒーをいれることだって、昨日と今日とでは感じが全然違う。コーヒーが変わるのではなく、自分が変わるのだ。昨日の自分と今日の自分は全然違う人間だし、違う現象だ。
 そんなことは前から知っていたはずなのに、ちゃんとわかってはいなかった。限定的な余命を告げられなければそれが身体に落ちてこなかったなんて、どれほどおろかだったんだ、自分、と私は思う。
 もっといえば、限定的な余命だって、すべての人がそうだし、私だって生まれて以来ずっとそうだったはずで、なにも医者から余命を告げられたいまにかぎったことではない。
 ほんとにばか。
 パジャマを脱ぎ、生理用ナプキンを引きだしから出そうとして、生理はすでに終わっていたことを思いだす。
 ほんとにばか。かわいくすらある。
 あと何日、波に乗れる? ウェットスーツのすきまにはいりこんでくる最初の海水の冷たさを予想しながら、私の唇はほころびている。

2018年9月3日月曜日

ビッグウェーブ・サーファー

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   ビッグウェーブ・サーファー

                           水城ゆう

 足首からぽっきりと折れて壊れてしまったマリア像と十字架のある丘のてっぺんに仁王立ちになって、カルロスは街と岬と海を見渡す。
 ナザレの白っぽい街は丘の中腹から浜に向かって所狭しとなだれ寄せている。数年前に作られた岬の展望台には、ヨーロッパ中からやってきた観光客が集っている。ヨーロッパどころか、アメリカやアジアから来た客もいるにちがいない。あのカメラを構えた男は、どう見ても日本人だろう。驚異的な視力で、カルロスはひとりひとりを見分ける。
 それから、岬の沖へと目を転じる。
 観光客たちには残念なことだろう、今日の波は六メートルにも満たない。だから彼だって海に出ないのだ。朝からボードに触ってすらいない。それでも波頭は派手に崩れ落ちて、下腹にひびく音を立てている。
 このまま十月が終わってしまうつもりだろうか。このシーズン、まだ一度もビッグウェーブには乗っていない。天気予報では、しかし、明後日の引き潮の時間に、かなりの波が期待できそうだとか。
 もう少し待つか。
 丘から街へと、足場の悪い岩場の道を、カルロスは軽やかに駆けおりた。もうすぐ五十に手が届くとはいえ、今シーズン絶好調で、身体は軽い。
 ねぐらに借りているガレージのロフトにもどる。借り賃はゼロ。その代わり、オーナーの庭の手入れと子どもたち——それがまた六人もいるときている——の世話をたまにすることになっている。家族をバルセロナに置いてひとり、二か月も波乗りに集中するためにここに来ている。そのくらいどうってことない。
 去年はでかいのに乗りそこねて、肋骨を四本も折った。むち打ちにもしばらく苦しめられた。今年、復帰すると宣言したとき、さすがに家族にもいやな顔をされた。知り合いからは、いい歳してなんで波乗りなんてのに金をつぎこむ、もっと家族を大事にしろといわれた。
 しかし彼は今年ももどってきた。
 仲間のなかには世界記録が目標のやつもいる。スポンサーを獲得してプロになるのが目的のやつもいる。女にもてたいだけのやつもいる。
 カルロスも聞かれたことがある。なんでビッグウェーブに乗るんだ、と。
 死と隣り合わせのときが一番生を感じるからだ、と答えたが、本心じゃない。そのことばはだれかの受け売りだ。彼がでかい波に乗るのは、波が彼の一部だから。いや、逆だ。彼が波の一部だからだ。
 二〇メートルを超えるばかでかい波に乗り、七階建てのビルの高さからまっさかさまにすべり落ちるとき、頭のなかは真っ白になり、自分が生きているのか、死んでいるのかすらわからなくなる。おれはまちがいなくこの瞬間のために存在しているんだと感じる。
 どんな形であれ、人はかならず死ぬ。そのときに、ある瞬間の感覚に輝かしく包まれて、笑いながら息を引きとれるかどうかってことだ。
 まったくおれって自分のことしか考えちゃいねえよな。カルロスはひとり、薄暗いガレージのロフトで低い笑い声を漏らした。

2018年7月7日土曜日

落雷

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   落雷

                           水城 雄


 中継地の桟橋沖を通過したとき、二、三の人影がこちらに向かって手を振り、なにかいっているのが見えたが、僕もジョエルもそれを無視して下手《しもて》のマークへと直進した。
 風はアビームからややのぼりぎみ。ときおりやってくるブローに合わせてハイクアウトし、艇のバランスをたもつ。つま先をフットベルトに引っかけ、尻はほとんどデッキの外にはみだすほど身体をそらす。船首が立てる波しぶきと、二十分ほど前から降りしきっている雨つぶが、眼をあけていられないほど顔面をたたく。
 ヨットはいま右舷開き《ポートタック》で走っている。風が左へと振れていく。これ以上振れると、マークまでのぼりきれなくなって、方向転換《タック》が必要になる。舵棒《ティラー》を握っているジョエルはぎりぎりまでのぼらせようと、メインセールを引きこみ、自分もハイクアウトして艇を起こしにかかる。
 まだ五時前なのに、日暮れすぎのように暗い。湖の四方を囲んでいる山の稜線が、雨のせいもあってほとんど見えなくなってきた。たまに稲光がそちらの方角の稜線だけをくっきりと浮かびあがらせる。
 雨のせいで雷鳴の輪郭もぼやけている。
 下手のマークをノータックでかわした。レースは桟橋沖をスタートラインに、時計回りに下手マーク、中島、上手マーク、そして桟橋に戻る。これで一周。順風なら一時間弱の一周を二十四時間で何周できるか、あるいは二十四時間以内に二十四周回を先に終えたチームがフィニッシュというルール。
 午前十時にスタートして、この周回が十周めとなる。今日は風がある。とくに前線が近づいてきて風が強まり、強風のなか雨になった。
 ストームウェアをふたりともあわてて着こんだ。風がくるくる回って気を許せない。
 気がついたら並走しているレース艇はいなくなっている。そういえば、桟橋にセールを下ろしてつないでいる二艇があった。ほかにもすでに何艇かリタイアしたチームがありそうだ。
 桟橋で叫んでいたのは、レース中断を告げる声だったのかもしれない。
 ジョエルはまだ戻るつもりはないらしい。下手のマークをかわし、中島へと向かうコースは、風が真追っ手になった。急に波切り音が静かになる。それでもスピードはかなりのはずで、真横に広げたメインセールは後ろからの風をいっぱいに受け、ヨットを前のめりに押しだしていく。
 左手の稜線が鋭く光った。
 二、三、四……
 僕は数える。
 五と数えかけたところで雷鳴が聞こえた。
 まだ遠いな、と思ったとき、また光った。だいぶ明るく光った。
 一、二……雷鳴。
 雨が小降りになったようだが、追い風のせいでそう感じるだけかもしれない。引き波を見れば、艇がかなりスピードをあげていることがわかる。
 薄眼で見上げると、マストのてっぺんにはぐしょ濡れになった風見がへばりついている。マストはいかにもなにかを誘っているかのように、前後に揺れている。
 ジョエルは心配しているようすもない。ただまっすぐ中島をにらんでティラーをあやつっている。桟橋のほうをうかがったが、暗い雨のむこうになにも確認できなかった。
 また光った、と思った瞬間、衝撃と同時に目の前数百メートルの水面に電撃の柱が立った。ほんのわずかにとがった波頭に落ちたのだ。これくらい近いと、なにか乾いたものが耳元で破裂したような衝撃だった。
 ジョエルが僕を振りかえって、腹の底から笑いはじめた。僕も笑った。
「これにオチなくてヨカッタねー」
 ふたりで笑いころげる。
 あとで知ることになるが、僕らがレース中止、緊急避難の警告を無視して走りつづけたことで、本部の運営はかんかんになっていた。

2018年3月11日日曜日

遠くからやってきた波に乗るということ

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   遠くからやってきた波に乗るということ

                           水城ゆう


 向かい風でびゅんびゅん飛んでくる砂粒《すなつぶ》を頰に感じながら、浜を横切り波打際《なみうちぎわ》に降りていくと、白く泡立った波が最後まで白いまま足元に打ち寄せる。
 リーフブーツに染みこんだ海水が今日の水温の低さを伝えてくる。
 半分白くなった髪が強風にあおられる。もう砂粒は飛んでこないかわりに、冷たい飛沫が唇に塩気《しおけ》を運んでくる。
 風と、いったん高くそびえ立った波がくだけて海面をうつ音が、耳を聾《ろう》さんばかりだ。かまわずざぶざぶと、サーフボードを水にさらわれないように高くかかえあげながら、沖へと進んでいく。
 浜には人っこひとりいない。
 日はすでにのぼっているが、雲にさえぎられている。雲は速い動きで全天をおおったまま沖から陸の方角へと流れている。
 ウェットスーツのすきまにはいりこんでくる海水は、ちぢみあがりそうに冷たい。が、それも一瞬のことだとわかっている。体温が水をあたため、そこにとどまり、身体をつつむ。
 海面の位置が腰のあたりまで来たとき、彼はサーフボードを水面に寝かせ、その上に上半身を乗せた。沖に向かって両手でパドリングをはじめる。

 校庭の水飲み場で手を洗っていると、クラスメートのありすがやってきた。
 横にならんで、蛇口をひねり、手を洗いはじめる。
「あやちゃん、もう帰り?」
 手を洗わなきゃならないことなんてなにもしてないはずだけどな、ありすは、と思いながら、あやかはうなずく。
「うん」
「昨日、風間くんに告《こく》られたんだって?」
 唐突に聞かれる。だれから聞いたんだろう、まさか風間くん、みんなに宣伝してまわってるわけじゃないよね。
 逃げられないと思ったので、正直に答える。
「うん」
「付き合うの?」
 ありすも風間くんのことが好きなんだろうか。蛇口を閉めながら彼女を横目で見てみる。ありすは前を向いたまま、流れおちる水に両手を突っこんでいる。
 なるほど、好きなんだな。
「付き合わないよ。興味ないもん」
「風間くんに?」
「男に」
「やっぱ慶応めざしてんの?」
「なんで?」
「だって、あやちゃんち、パパもお兄さんも慶応でしょ?」
 人んちの事情、よく知ってるなー。でも、わかんないよ、進学のことなんて、まだ。進学どころか、いまこの瞬間だって自分がどうしたいのかわからないというのに。
「落ちこぼれのわたしが慶応なんか無理むり」
「またご冗談を」
「じゃ、お先に。また明日ね。ばいばい」
 ついでにいうなら、おじいちゃんも慶応だ。

 波高は三メートル弱というところか。風が強いわりには波はちいさい。しかも海風だ。
 日本海側に低気圧が通過中で、南風はまだしばらくつづくだろうから、午後から明日にかけてもうすこし波は高くなるかもしれない。
 明日も来るか? 今日は体力を温存して、あがるか。
 彼はひとり、苦笑する。まだ一本も乗っていないのに、もう帰る算段か。
 ひとつ、ふたつ、みっつと波をやりすごし、沖へ、沖へと出る。
 沖に向かって右側、湾の西側に、嘴《くちばし》のように張り出した岬があり、そこから目には見えないけれど海中に長く張り出した砂州《さす》がある。沖からやってきた波はそこで大きく持ちあげられる。うまくつかまえれば、浜の浅瀬にぶつかって崩れるところまで持ってこれる。
 今日は海風で乗りにくいが、何本かはうまくつかまえられそうだ。
 パドリングでポイントまで来ると、ボードにまたがって、いったん息をととのえる。
 還暦をすぎたら、あらたにチャレンジするスポーツはサーフィンと決めていた。いまさらぬるいスポーツはごめんだ。おとろえゆく身体こそ使いきってみたい。若いころ、マリンスポーツはいくつか経験があった。とくにヨットは学生時代に小型のディンギーをかなりやりこんだ。レースにも何度も出た。ウインドサーフィンもすこしだけ経験があった。が、サーフィンは機会にめぐまれなかった。いまこそそのときだと、還暦をむかえた年の秋、浜から海水浴客の姿がなくなるころを見計らって、サーフショップをたずねた。
 最初はレンタルで、そして孫のような年頃のコーチについて、基礎を教わった。いまはウェアもボードも自前で、そしてひとりで通っている。それが気にいっている。
 よさそうな海水の盛り上がりがゆっくりとこちらに近づいてくるのを確認して、彼はボードの上に身体を横にすると、波に背をむけてパドリングをはじめる。

 帰宅するとパパがエプロンをつけて夕飯の支度《したく》をしている。めずらしい光景じゃない。いうとびっくりする人がいるけれど、あやかにとっては小学生のころから見慣れている。
 ママが死んだのは小学二年の冬。
「今日はなに?」
 聞くと、ぶっきらぼうに返ってくる。
「さよりの天ぷら。豪華具沢山のミソスープもあるぞ。食うだろ?」
「にいちゃんは?」
「五時半もどり。だから、仕上がり予定もそのへん」
「置いといて。ちょっと遅くなるかも」
「出かけるのか?」
「気分転換」
「いつもの、な。また煮詰まったか」
「休みなの?」
「早退。風邪気味かもって嘘ついて帰ってきた」
 小学生ですか、とあやかは思う。そして、見抜かれてるな、とも思う。たしかに煮詰まってる。
 制服から着替えると、出かける支度をする。
「行ってくるね。帰りはたぶん六時すぎ」
 どこへ、とは聞かれない。しかし、
「今日は海風だぞ」
 背中にいわれてまた、見抜かれてる、と思う。

 四本めくらいだったか、いい感じに乗れた。足裏――といってもリーフブーツの底だが――がぴたっとボードに吸いつき、腰が低く安定する。右の肘と右の膝、左の肘と左の膝が、まるでゴムバンドでつながっているように連動する。ほんのわずかな体重移動でサーフボードが大きく弧を描いて転換する。最後は波頭を突っ切って、ボードごと自分を空中に放りだす。
 宙を舞いながら頰に波しぶきを受け、雲間からのぞいた日の光を目撃し、迫りくる泡だった海面に手をのばす。
 着水の瞬間、砂浜に人影があるような気がしたが、そんなことはもうどうでもいい。水面に顔をだし、ボードを抱えこむと、ふたたび沖にむかって漕ぎ出す。
 波に乗りたいというより、そのまま水平線の向こうまで、命のかぎり漕ぎ続けたい衝動にかられる。

 だれかに会うといろいろ聞かれそうなのが嫌なので、直接ボードロッカーに向かった。水着にはもう家で着替えてある。
 ひとけはなく、サーフボードを引っ張りだしてもだれからも声をかけられなかった。そりゃそうだろう、シーズンにはほど遠いまだ冬といってもいい時期の、午後の遅い時間。だれが波乗りに来るというのだ。
 ところが、浜に出てくると、沖に人影があった。
 ひとめでわかった。
 おじいちゃん。
 力強いストロークで、沖に向かっている。
 そうそう、そっちにいいポイントがあるよね。知ってるよ。
 ところがポイントをすぎても、彼はいっこうにパドリングをやめようとしない。どんどん沖へと向かっていく。
 あやかは小走りに海にはいると、ボードに身体を投げ出すようにして、彼のあとを追う。
 学校? 進学?
 どうだっていい。
 おじいちゃん、あんなに遠くに漕ぎ出してる。
 追いつこう。

2015年9月19日土曜日

コンテナ

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   コンテナ

                         水城ゆう

 なかを泳げるほどの濃霧の朝、ぼくらは出発する。
 ぼくらを岸壁から引きはなしたタグボートがはなれていくと、フォグフォーンを一発。ながく尾を引く警告音が港内にひびきわたり、ぼくらは白灯台を右に見ながら外海《そとうみ》へと乗りだす。
 波はない。波高ゼロ。油を流したように凪《な》いだ海面を、濃い霧がなめている。その霧と海面の境界を分けて、ぼくらのコンテナ船五万トンがゆっくりと進んでいく。五万トンの海水が右と左と下へと分けられ、巨大なスクリューによって後方に押しやられる。巨大な質量の移動だが、それは静かにおこなわれる。聞こえるのは低くくぐもったディーゼルエンジンの音と、ひたひたと船腹をなでる水音だ。
 カモメが何匹かついてきて、船のまわりをせわしなく調べる。自分たちに餌を投げあたえる人影がないかどうか、調べているのだ。が、出港時のいそがしい時間に、そんなことをする乗組員はいない。すくなくともぼくらのコンテナ船にはいない。もしいるとしたら、暇を持てあますか、酔いざましにデッキに出てきた客船かフェリーの乗客くらいだろう。
 コンテナ船が沖へ出て、エンジン音が変化すると、カモメたちもあきらめて霧のなかへと去っていく。
 霧もまた、急速に薄れていくようだ。
 陽が射しはじめると、濡れていたコンテナもあっというまに乾いていく。陸地近くでは凪いでいた海面も、沖合に出るとわずかなうねりを見せはじめる。ほとんど揺れはしないが、わずかに平行が傾くと、老朽化したドライコンテナの継ぎ目からノイズミュージックが聞こえはじめる。
 ぎしっ、ぎしっ、かちゃん。
 ぎゅっ、ぎしっ、かちん。
 それぞれのコンテナはセル・ガイドにそって固定されていて、船が揺れても荷崩れの心配はない。積荷も船体そのものも、巨大ハリケーンにも耐えるように作られている。ぼくらは海に出てすでに十五年を経たベテランだけれど、まだまだやれる。現役まっさかりといっていい。
 ぼくら大型コンテナ船は、各地のハブ港に集結したコンテナ貨物をさらに積みかえ、世界をまわる。香港、シンガポール、ドバイ、ハンブルグ、ロッテルダム、ブレーメン、ニューヨーク、ロサンゼルス。地球を何周したことだろう。人々が見たこともないような光景をたくさん見てきた。
 フォークランド諸島の沖合で無数のクジラの群に遭遇したことがある。吹きあげる潮と壮大な合唱で、海がだれのものなのか思い知らされた気がした。
 ペルシャ湾では巨大な空母とそれから発着する戦闘機を見た。彼らは昼となく夜となく働いて、思想信条のことなる人々を殺戮するのに余念がなかった。ぼくらのすぐ上をミサイルが飛びすぎたこともあった。
 冬のノルウェー沖では満天に踊り舞うオーロラに怖れおののいた。それらはときに天使の舞のように、ときには悪魔の牙のように、ぼくらの身体のなかにまではいりこんでくるような気がして、生きたここちがしなかった。
 夏の日本海ではイカ釣り漁船団のまっただ中を通過したこともあった。無数のまばゆい集光灯が、まるでそこに一機の巨大な宇宙船でも着水しているような錯覚を見せていた。
 いま、ぼくらは、霧が晴れ、まばゆい陽光を受けながら、おだやかな南シナ海をすすんでいる。高雄、香港を経由し、いまはシンガポールに航路を取っている。この航路では何度か台風に見舞われた。でもぼくらはそのつど、台風の目が頭上を通過するなかを、五万トンの水を分けながら進んでいった。十二メートルに達しようという波もものともせず乗りこえてきた。五〇メートルを超えるほどの風速でも、きっちりと積みあがったコンテナの位置は一ミリも狂わなかった。
 ぼくらの右のほうからかなりの速度で、おそらく中国籍の漁船がちかづいてくる。大きな漁船でも、何人かの男が船べりで立ち働いているのが見える。これから遠洋に出かけるのだろう。彼らはぼくらの後方をすり抜け、左後方へと遠ざかっていく。漁船がけたてる白い波が静かな海にくっきりと航跡を残す。ぼくらの航跡もまた、黒々とした海面の色をうすくかきまぜて、まっすぐ後ろへと、速力24ノットでのびている。
 コンテナ船の仕事は、入港前と接岸時、そして入港後がピークだ。よく、遠洋航路の船員はいろいろな土地を訪れることができることをうらやましがられることがあるが、実際には入港してものんびり上陸して観光しているような時間はほとんどない。ガントリークレーンによる荷揚げ、荷積み、積み込みのプログラム、コンテナの計数、マニフェストとの付きあわせといった山のような仕事がある。接岸するとほぼ一日がかりで荷揚げと荷積みがおこなわれるが、それでも何百個というコンテナの入れ替えが一日しかかからない。そして乗組員はのんびり上陸を楽しむ時間はほとんどない。
 港を出てしばらくし、点検、データ確認などの作業が終わると、ようやくひと息つける。しばらくは退屈との戦いの日々となる。
 香港を出て半日、ちょうど秋分に差しかかろうという秋の太陽が、いま、西の水平線へと落ちかかっていく。ぼくらはそれを、朝がたに中国の漁船が去っていった方角、左舷後方に見ている。
 左舷後方の水平線近くには、いつの間にか薄い雲がかかっている。たっぷりバターを使ったパイ生地のように層状になっていて、太陽はまさにその層のあいだをくぐり抜けて沈もうとしている。大気圏で光がゆがみ、倍の大きさになった太陽。空中の塵で青色が拡散し、オレンジの火球と化した太陽。オレンジ色は雲と空と、それを映す海面をもそめあげる。
 一瞬たりともとどまらない変化のなかで太陽は水平線へと急速に落ちていき、やがて溶けこむように海に呑みこまれて消える。
 赤の光は空にとどまり、やがて紫から青みを帯び、暗く沈んでいく。光量が急速に減衰し、宇宙の背景があらわれるとともに、星々が姿を見せる。
 ぼくらの船は星空にブリッジを高々と突きあげ、左舷の緑色灯と右舷の赤色灯をほこらしげに輝かせて進みつづける。
 夜がふけると、船員たちは当直と眠れない者を残してほとんどが、それぞれの寝台で寝静まる。当直の航海士は操舵室に立っているが、ぼくらはオートパイロットで航海しているし、なにか障害物があればレーダーが知らせてくれる。当直も四時間の辛抱で、真夜中が来れば交代して自室にもどれる。あるいはしばらく星でも見ようか。今夜はミルキーウェイが見られそうだ。
 と、レーダーに右舷からなにか接近してくるものが映る。船ではない。低く飛ぶ航空機のようだ。旅客機ではない。軍用機、速度からして戦闘機かもしれない。南シナ海は 東シナ海ほどではないにせよ、さまざまな軍事的緊張がある海域で、ぼくらもいろいろな軍事的事象を見てきた。空母や護衛艦、駆逐艦などの艦船はもとより、いまのように航空機も軍用のものを頻繁に見る。浮上した潜水艦が休んでいるのを見たこともある。あれはひょっとしてエンジントラブルで停止していただけだったのかもしれない。
 ぼくら民間船が港と港をつないで人々に物資をとどけているあいだにも、軍用船はあっちへいったりこっちへいったりと、ぼくらみたいに忙しそうにしている。ぼくらコンテナ船が車の部品や、衣服や、コーヒー豆や、缶詰や、パスタや、ワインや、果物や、材木や、冷凍肉や、スパイスや、本や、電気製品を運んでいるあいだにも、彼らはダミーの的になっている廃船に向かって大砲を撃ったり、戦隊を組んで演習したりしている。
 レーダーの機影は、やがて左舷方向に消えていった。
 夜中がちかづいてくる。
 このあたりの緯度だと、この季節でもさそり座がくっきりと前方に視認できる。アンタレスの目玉がひときわ赤い。
 そしてミルキーウェイ。
 それを斜めに横切っていく人工衛星。
 すこし波が出てきている。といっても、一メートルかそこいら。二メートルはない。
 波を切る音が立つ。暗闇でほとんど見えないけれど、航跡はさらにくっきりと白いことだろう。
 ぼくらは闇と黒い海面を切りわけて、力強く進む。
 ぼくらが運ぶのは、さまざまな国の、さまざまな人種の、さまざまな階層の、さまざまな立場の、さまざまな人々のいとなみのための物資。ぼくらを待っている人が、世界中にいる。

2009年12月9日水曜日

梅雨の合間に聴くマーチ

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----- Another Side of the View #7 -----

  「梅雨の合間に聴くマーチ」 水城雄


 もどってこようとしていたスナイプが、タックに失敗してひっくりかえるのが見えた。
 乗っているのは20代のカップルだ。ベアしすぎた艇はセールから風を逃がしきれず、ゆっくりと左舷から倒れていった。ふたりとも慣れていないらしく、センターボードに乗りうつるひまもなく、湖に落っこちてしまった。
 まあ、今日の天気なら寒くはないだろう。ライフジャケットも着ていることだし。
 そう思いながら、次の客のためにセッティングしかけていた別のスナイプのシートブロックを桟橋に放りだし、彼はモーターボートのほうに行きかけた。どうやらあの様子では、自力で起こせそうになかったからだ。
 梅雨にはいったばかりだというのに、からりと晴れていた。しかし空はこの天気を長くつづけるつもりはないらしく、西風が強く吹きはじめていた。このあたりではこの風を三井寺風と呼んでいる。この風が吹きはじめると、だいたい天候は悪い方向にむかう。貸しヨット屋にはあまりうれしい風ではなかった。
 小型のモーターボートが艇庫と桟橋にはさまれた狭い水路につながれている。そのもやいをときかけたとき、エンジン音が聞こえた。大きいほうのモーターボートが桟橋の下からゆっくりと走ってきた。ついいましがた、水上スキーの客をおろしたところだった。
 ハンドルを握っているおじさんがいった。
「高橋くん、わしが行くからええわ。あっちの準備、先にしたってや。お客さんが待ってるさかい」
 小柄だががっしりした体格。浅黒い顔。白いスポーツシャツ。頭には船長帽をのっけている。
「わかりました」
 こたえると、おじさんはエンジン音をあげて沖にむかった。モーターボートに取りつけてあるカーステレオから、威勢のいい行進曲が聞こえてきた。星条旗よ永遠なれ。
 見送り、スナイプの準備にもどった。
 朝からやけにいそがしかった。梅雨入り宣言がされたくせに天気がいいので、いまのうちに乗っておこうと客が殺到したのかもしれない。時給いくらの学生アルバイトの身としては、いささかつらい。もっとも平日は楽をさせてもらっているのだが。
 それに風が悪く、やたら沈(ちん)が多かった。たまに来る客の中には、沖からの順調な風しか知らない者もいる。桟橋のある水路から湖へいつものように間切って出ようとして、とまどったりしている。そういう客たちの面倒を見てやらねばならないばかりか、アルバイトは出艇、着艇をひとりで切りまわさなければならなかった。おじさんはおじさんで、水上スキーの客の応対に追われている。
 ひっくりかえっていたスナイプが、おじさんのモーターボートに引かれ、セールをバタバタいわせながらもどってきた。若いカップルは頭からずぶ濡れになっている。それを気の毒がっているひまはない。準備ができたスナイプに次の客を乗せ、送りだしてから、もどってきた艇の後始末に取りかかった。

 四時をすぎてから風がさらに強まった。
 これから出ていこうという客はいなかったが、いても出せないほどに強い西風が吹きはじめていた。
 彼はおじさんとふたりで、帰ってきた艇の始末をしていた。もどってきたディンギーは、シート類をはずし、センターボードとラダーを抜く。メインセールはブームに巻き、ジブはたたんで、それぞれ倉庫にしまう。そうして船はおじさんとふたりがかりで、船台にひっぱりあげ、ウエスで丁寧にふき、カバーをかけて艇庫にしまう。
 艇の始末をほとんど終えかけたとき、まだ1杯、帰っていないことに気づいた。
「おじさん、シカーラが1杯、もどってません」
 船台にあげた艇にカバーをかける作業の手をとめ、おじさんは顔をあげた。
 沖を見る。もう帆影はほとんど見えない。はるか沖に見える数枚の白いセールは、おそらくクルーザーのものだろう。
「いつ出たやつや?」
「2時間以上前ですよ」
「村山さんやな。奥さんとふたりで出たやつやろ?」
「そうだと思います」
 風を見る。水路の対岸の柳が、びゅうびゅうと風になびいている。セールをおろしてまだ桟橋につないである艇のリギンが、カチャカチャと激しく音を立てていた。
「無理やな、この風やと。高橋くん、いっしょに来てくれへんか」
 彼もコクピットのビルジの掃除を中断し、おじさんの後についていった。
 大きなほうのモーターボートに乗りこむ。
 おじさんがイグニション・キーを回すと、ボートは低く震動をはじめ、同時にいれっぱなしになっていたカセットテープから音楽が流れはじめた。行進曲〈士官候補生〉だった。
 おじさんがグイとレバーを倒すと、モーターボートは船首をもたげ、沖にむかっ
て勢いよく走りだした。
「どっちに行ったのかわかるんですか?」
「唐崎(からさき)やな。村山さんはいつも、あっちのほうに行くんや。奥さんを乗せるときには特にな。あのへんのどこかに避難してるんとちゃうか」
「だといいですね」
「村山さんはしっかりした人や。ヨットはまだ下手やけどな」
「おじさん、マーチが好きなんですね」
「ああ。船に乗るときはこれが一番や。調子ええやろ?」
「そうですね」
「このテープは特に豪華やで。なにしろニューヨーク・フィルやからな。指揮はバーンスタインやで。気分がシャキッとする」
 おじさんのいったとおり、唐崎の手前のちいさなマリーナの桟橋に避難しているシカーラが、見つかった。
「高橋くん、わしがシカーラを引っぱる、あっちで舵持っててくれんか」
 曲は〈士官校補生〉から〈双頭の鷲のもとに〉に変わった。
 モーターボートが近づいていくと、ふたりの人影が桟橋で大きく手を振った。

2009年11月29日日曜日

夜に聞くデッキの雨の音

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----- Another Side of the View #3 -----

  「夜に聞くデッキの雨の音」 水城雄


「雪になるんじゃないのか、この雨」
 ハッチを閉めながら樋口がいった。
「そんなにひどく降ってるのか?」
「いや、ひどくはないが、冷たい」
 なるほど、彼のオーバーコートはぐしょ濡れというほどでもない。
「寒いな」
「いまつけたばかりだからな。おれもついさっき、来たばかりなんだ」
 私はストーヴの調子をうかがった。古めかしいデザインの真鍮製のキャビンストーヴ。シューシューという音を立てて快調に燃えている。
 樋口が差しだした紙袋を受けとるために、それまで読んでいた本をテーブルに置いて私は立ちあがった。樋口はコートを脱ぎ、私の本を手に取ってから、すわった。
 ギャレーに立ち、樋口が持ってきた袋の中身を点検した。
 レタス、ブロッコリ、トマト、アボカド、ソーセージ、生ハム、フランスパンが一本。袋から取りだし、さっそく調理に取りかかった。
「これ、おもしろいのか?」
 私の本を目の前まで持ちあげ、樋口がたずねた。
「まだわからん。読みはじめたばかりなんだ」
 ブロッコリのためのお湯をわかす。
「たぶんおもしろくないな」
「なら、なぜ読んでる?」
「書店に山のように積んであると、気になってつい買っちまうんだ。読みはじめたら、最後まで読まないと損したみたいな気分になる」
「おまえらしいよ」
 レタスを軽く水洗いし、指でちぎってサラダボウルに投げこんだ。
 樋口はそのまま本を読みはじめたようだった。私は調理を続けた。
 彼が船に来るのはひさしぶりだ。雨が降らなければ午後からやってきて、軽くセーリングするつもりだった。が、昼すぎから雨が降りだした。雪に変わりそうなほど冷たい雨だ。風はさほどないが、船はゆったりと揺れ、マストにリギンの触れ合う音が聞こえてくる。ときおりスプレッダーからまとまって落ちてくる水滴が、デッキをにぎやかに叩いた。外はもうすっかり暗くなったようだ。
 ギャレーとキャビンストーブの火で、だいぶ暖かくなってきた。できあがった料理を、私はテーブルへ運んだ。レタスとブロッコリとトマトのサラダ、アボカドの生ハム添え、フライパンで焼いたソーセージ。
 氷を落としたグラスをふたつ用意してから樋口と向かいあわせにすわると、彼が酒をボトルラックから取りだした。バランタインの 17 年だった。ボトルの中身は半分ほど残っている。
 樋口がそれぞれのグラスにスコッチを満たした。
 私はグラスを持ちあげ、なみなみと注がれた酒をながめた。
「おまえの考えていることはわかるよ」
 樋口がいう。
「なにが?」
「めんどくさがらずに、少しずつ注げばいいのにと思ってるのが、顔に書いてある」
 私は苦笑いした。
「すこしずつ注いでまめに氷をかえたほうが、うまいんだよ」
「厨房長のいってることだから、まちがいはないだろうさ」
「でもまあ、きみの気持ちもわかるよ。おれも面倒なのは苦手だ」
「よくいうよ」
「本当だ。その証拠に、食料の買いだしはきみに押しつけてる」
 彼は笑った。その笑い声が、私は好きだ。この三週間というもの、彼はまるでその笑いかたを忘れていたみたいだった。
「もうひとつの考えていることもわかるぜ」
「もうひとつとは?」
「女房からまだ連絡がないのかどうか、気にしてるんだろう?」
 私はかたい皮のパンをバリバリと手でちぎり、バターを塗りつけた。彼は酒を口に含んだ。
「まあな。で、どうなんだ? まだ連絡はないのか?」
「あったさ」
「へえ。それはよかった」
「内容にもよるさ。うまいな、このソーセージ」
「それで?」
「もうもどる気はないとさ」
「なるほど」
 どういう言葉を彼に返せばいいのか、私にはわからなかった。ハーバーにもどってきた船でもあるのか、揺れが急に大きくなった。耳をすますと、雨の音にまじってエンジン音が聞こえた。
 ウイスキーのおかわりを彼が自分でグラスに注ぎ、私も自分の分を飲んだ。
 しばらくして、彼がいった。
「何年たつのかな」
「4年じゃないかな。おれがいまの仕事に変わってからすぐにきみは結婚したんだ
から」
「結婚の話じゃない。船の話だ」
「ああ……7年ぐらいたつんじゃないかな、きみとおれがいっしょに船を持つようになったのは。この船はまだ2年だが」
「そんなになるかな」
「なる」
「もう34だもんな、お互いに」
「今年は5だ」
「ああ」
 揺れはもうおさまり、近くの桟橋から人の声が聞こえてきた。こんな寒い雨の日にセーリングとは、まったくご苦労なことだ。
「皮肉なもんだな」
「なにが?」
「どう考えてもおまえのほうが結婚に向いてる」
「結婚に向き不向きもあるもんか」
「あるよ、そりゃあ。げんにおれは失敗した。おまえだったらどんな女とだってうまくやっていけるだろうさ。つまらん本を最後まできちんと読みとおすみたいにな。おれの女房とだってうまくやっていける。うちの女房なら亭主が料理なんか作ったりした日には泣いて喜ぶだろうな」
「まだ終わったと決まったわけじゃないだろう」
「気休めはいい。おまえらしくない」
「すまん」
 そのとき、まるで急に食欲がわいてきたかのように、樋口がガツガツと料理を食べはじめた。
 手づかみで押しこんだレタスをほおばったまま、彼がいった。
「明日はどうする?」
「雨はどうなんだろう」
「明日いっぱい降るそうだ。それにもっと冷えこむそうだ。が、風はたいしたことないらしい」
 キャビンストーヴは快調に燃えつづけてはいるが。
 私は答えた。
「スキッパーはきみだ。きみが決めてくれ」
 彼はしばらく考えていたが、やがてきっぱりといった。
「出航だ。雨が降ろうと、たとえ雪が降ろうとな」
 私はうなずいた。彼に決めろといったのは、私だ。
 ご苦労なことではあるが。

2009年11月23日月曜日

夜の音

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----- Another Side of the View #10 -----

  「夜の音」 水城雄


 スタート直後から雨が降りだした。
 いつもそうなのだが、雨が降りはじめると、すべての音が消えてしまったように感じる。船首が水を切る音、ハルに打ちあたる波の音、セールを流れる風の音、ステイが空気を切る音。人の声までがラジオのボリュームをしぼるようにスウッと遠くなり、消えてしまうように思える。クルーも雨とともに、口数が少なくなってしまう。
 闇もまた、雨とともに深まったように思えた。
 岸辺の明かりは、かすんでボウッとしか見えない。ひしめきあうようにして進んでいるレース参加艇のマスト灯も、薄暗くなり、しかしひとまわり大きく見えはじめる。
 やがて、ゆっくりと音がもどってきた。
 隣の艇のコクピットから、ひそひそという人の声が聞こえてくる。どうやら、スピネーカーをあげるかどうかの相談をしているらしい。
 風はきわめて弱い。スタート時、クローズホールドだった風向が、クローズ・リーチぐらいに落ちている。
「スピン、あげるか」
 スキッパーの木野はボソリとつぶやいた。
「いや……」
 森山がためらいがちにいった。
「この風ですからね。それに雨もある」
 若いクルーふたり――星と小木曽――はなにもいわない。いつも作戦は、木野と森山が決める。
「ジブ、もうすこし、出せ」
 木野はジブシートを握っている小木曽に、短く命じた。小木曽がすぐにシートを繰りだす。
「出しすぎ。引いて」
 小木曽があわててウインチを巻く。今度は巻きすぎだ。しかし、まあ、いいだろう。なにもかも自分の思いどおりにはいかない。小木曽もそのうち、おぼえてくれるだろう。
 星のほうは自分でかんがえて、ヒールを作るためにポートサイドのデッキ上にしゃがんでいる。
「隣、あげてますね」
 星にいわれ、首をねじって隣の艇を見た。なるほど、スピンをあげはじめている。ポールをあげるウインチの音が、水面を伝わってきた。さらに向こうの艇も、あげているようだ。こちら側にブローでもあるのだろうか。反対側の船団は、まだ一艇もあげていない。
 午後10時スタート、翌朝午前8時前後のゴール予定というナイトレースだった。参加艇はさすがに少なく、艇長会議では31杯と発表された。
 この風だと、しかし、午前8時にゴールすることなど不可能だ。
 できれば、午前10時には後片づけを終え、家にもどりたかったのだが。種子島宇宙センターの単身赴任から、ひさしぶりに帰宅したのだ。昨夜、出てくる前、小学校2年になる息子に、ラジコンのヘリコプターの組立てを手伝ってやる約束をしてきた。
 隣艇のスピンが、闇の中に白く浮かびあがった。デッキからの懐中電燈の光に照らされて、なまめかしく揺れている。風が弱く、不安定だ。ともすれば、タック側に裏風がはいりこみ、つぶれそうになっている。
 あげるか……その言葉を口の中にため、木野は森山のほうを見た。森山も隣艇の動きを注視している。
 並走していた隣艇が、スウッと前に出た。
 風が出てきたか?
「あげるぞ!」
 木野が全員に命令した。
 森山と星がフォアデッキに走った。小木曽がハッチをあけ、キャビンにもぐりこんだ。
 いうべき言葉を、いまは胸にためこみ、木野はフォアデッキのふたりの動きを注視した。
 森山がスピンポールをセットしている。
 小木曽がスピネーカーのセールバッグを持って、キャビンから出てきた。フォアデッキに走る。
 小木曽の動きはよかったが、ハッチを閉め忘れている。この雨なのだ。閉めなければキャビンがびしょ濡れになるのだ。
 わかってるってば……不意に声が聞こえ、木野はあたりを見まわした。いや、もちろん、頭の中から聞こえてきた声だ。小木曽の声であるはずがなかった。
 わかってるってば、あとでやろうと思ってたんだよ……息子の声だった。
 うるさいなあ、おとうさん。
 ティラー・エクステンションを持つ手のこぶしが、力をいれすぎて白くなっている。これでなぐられたとき、幼ない息子はどんな気分だったのか。
「ぐずぐずするな!」
 スピンがなかなかあがらない。
「なにをやってる?」
「アフター・ガイが……」
 星が言葉を途中でとめた。
「オーケイ! いいです!」
「あげるぞ!」
「はい!」
「よし、あげろ!」
 森山がスピン・ハリヤードを力まかせに引いた。
 スピネーカーがまっすぐにあがり、それからたよりなげに風をはらみはじめた。
「ガイ、引け! シート、引け!」
 つぶれる。
 ぐずぐずするな。レースなんだぞ。なんのためにやってんだ。
 木野は言葉を腹の中に押えこんだ。
 艇速が増した手応えがあった。やはりあげるべきだったのだ。できれば、他の艇の様子などうかがう前に、決断したかった。
 おれという男は……
 木野は奥歯をかみしめた。
 フォアデッキでは、小木曽がジブシートの取りこみを終えたところだった。
 コクピットにもどってきた小木曽に、いった。
「ハッチをあけっぱなしにするな。雨が降ってるのがわからんのか。中がびしょ濡れになっちまうだろう。雨のときは、出入りするたびにハッチを閉めるんだ。わかったか」
「はい、すんません」
 小木曽がこたえ、身体をちぢめるようにしてコクピットにしゃがみこんだ。ちゃんとしたオイルスキンを持っていない彼は、ぐしょ濡れになっている。
 この調子で風が強まってくれれば、明朝は早めにゴールできるかもしれない。
 木野はさらに、なにかいおうと口を開きかけた。が、結局は口をむすんでしまった。
 この気持ちを伝えられる言葉など、彼には持ちあわせがなかったのだ。

2009年11月17日火曜日

沖へ

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----- Another Side of the View #5 -----

  「沖へ」 水城雄


 ひろい湖面にほとんど帆影が見えないのは、平日の午後だという理由だけではなかった。
 開店休業といった感じの貸しヨット屋の待合室から水路に張りだしているバルコニーに立って見ると、一面に白波が見えた。灰色の雲がかなりの速度で北からこちらに向かって流れている。が、雨が降りだすまでにはまだ時間がありそうだった。
 少年はいつものようにカゴのすきまから指をつっこんで緑色のオウムをからかってから、桟橋に降りていった。桟橋にも人影はなかった。怒ったオウムの鳴き声が、ここまで聞こえた。
 バルコニーの下のヨット置き場からレーザーをおろし、桟橋の先端までもやい綱を引いてまわしてきた。湖へと続いているこの水路のほうにも、波がたえず寄せてきていた。水路の向かい側にある大学のヨット部の艇庫も、今日は静まりかえっている。
 不安定に揺れ動くディンギーにマストを立てながら、これほどの風の中に出ていったことはあったっけ、と彼はかんがえた。
 父親にレーザーを買ってもらったのは、中学校にはいったとき。その前は、10歳の誕生日に買ってもらったOPディンギーに乗っていた。父親はこの貸しヨット屋で学生アルバイトからセーリングを教わった。ふたりだけで模擬レースをしても、どうしても父親に勝つことができなかった。しかし、レーザー乗りになったいま、おやじに勝つ自信はある。おやじがまだ生きていれば。
 マストを立てると、クリューが固定されていないセールがバタバタとさわいだ。
 ふいに少年は、今日の昼のできごとを思いだした。昼食を終え、体育館に行こうと教室を出ると、渡り廊下のところで彼女に呼びとめられた。
「渡辺くんが手紙をくれたの」
 と、彼女がいった。空にはまだ晴れ間が見えていたが、すでに風が出はじめていた。
「それで?」
 彼はわざとそっけなく訊いた。
「どうしようかと思って」
「なにを?」
「好きだって書いてあった」
 渡り廊下を風が吹きぬけ、彼女のスカートがバタバタとあおられた。それを押える彼女の手を見ながら、彼はいった。
「どうしてぼくにそんなこと、いうのさ」
「だって……」
 そういったきり、彼女はうつむいてしまった。
 少年はどうしていいかわからなかった。下級生のだれかがふたりを冷やかすような視線を向けながら、横をとおっていった。
「学校が終わったら、ヨットに乗りに行くんだ」
 まったく関係のないことをいい残し、彼女に背を向けた。そのときの彼女のびっくりしたような顔が、少年の目に焼きついている。
 それを脳裏から追いはらうように、彼はセールのクリューを引っつかむと、ブームエンドのロープをアウトホールに通した。
 ロープのテンションを調節し、セールをピンと張る。メインシートをブロックにとおす。ラダーを落としこむ。
 カイツブリが一匹、水路の向こう側をかなりの速度で泳ぎ、下手の橋の下に消えた。ホオズキを口の中で鳴らすような音が聞こえるのは、あいつの声だろうか。上手の崖の上では、柳の木がざわざわと身をゆすっている。
 センターボードをたたきこみ、ラダーにエクステンション・ティラーをとおす。
 すべての艤装を終え、彼はもやいを解いた。
 バウラインをコクピットに放りこみ、身体を中にいれながら、残った足で桟橋を強くけりつけた。メインシートを引きこみ、ティラーを引いて風下に向けると、すぐに、充分な風がメインをつかまえた。ハイキング・ストラップに爪先をひっかけ、思いきり身体をデッキの外に出した。
 水路の向こう岸がすぐに迫ってくる。タック。
 タック三回で柳の木の下をクリアして、ひろい湖面に出た。
 ヨットの上で機敏に身体を動かしていると、いつも担任の体育教師がいった言葉を思いだしてしまう。
「協調性がないんだよ、おまえには」
 バスケットボールの試合をしていたのだ、あのときは。
「ただやたらめったら、ひとりで動きゃあいいってもんじゃない」
 そうしてその言葉を思いだすと、母親のいったことまで自動的に思いだしてしまう。
「ちょっとは親のこともかんがえてよね。あんたには思いやりってものがないの?」
 水路の入口のすこし先にある防波堤が迫ってきた。いつごろできたものなのか、大きな岩を積みかさねたかなり古い防波堤だ。
 父親が教えてくれた。
「できれば右側を通過したほうがいい。右側は深くえぐれていて、かなり接近してもだいじょうぶなんだ。左側は水面下に隠れた岩があって、注意しなけりゃいかん」
 タックして右側にかわすことをかんがえた。が、やめた。すこしベアして、左側を通過することにした。シートをすこしゆるめ、接近する。隠れた岩の場所は、波がそこだけ乱れているので、よくわかった。曇っていて、山のほうから風が吹きおろしてくるような日には、本当にそこは危険なのだが。
「あたしの気持ちなんか、なんにもわかってくれない」
 放課後、玄関で上ばきを脱いでいた彼に近づいてきて、彼女は突然そういった。顔をあげると、もう去っていく彼女の背中しか見えなかった。背中に垂らした髪が、いきおいよく左右に振れていた。
 思いきりシートを引きこみ、艇を風上にむけた。親指にからませたシートが食いこんだ。ヒールが強まり、それをつぶすために思いきり身体を外にのけぞらせた。
 頭がほとんど水面につきそうになり、彼に見えるのは、ハルとマストとセールと、そして波しぶきだけになった。
 波しぶきが髪と顔を濡らした。
 そんなふうにして沖まで出ていかなくても、すでに自分が決心してしまっていることを、少年は知らないのだった。

2009年11月9日月曜日

航跡

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----- Another Side of the View #2 -----

  「航跡」 水城雄


 バーテンは反対側の女性客と話しこんでいて、こちらに気づいてくれそうにない。
 まあいい。あわてることはない。こんなに風が気持ちいいんだ。
 椰子(やし)の葉を葺(ふ)いた桟橋の上のバーは、海からの風の通り道になっていた。彼は身体をなかばねじまげ、ビーチホテルのほうをながめやった。低い造(つく)りの白いホテルの前を、水着の上からTシャツをかぶっただけの女がひとり、ゆっくりと歩いているのが見えた。ほとんど銀色といっていい髪が、風に散っている。女はそれを押さえようともしない。
 カタマランのディンギーが湾内をかなりの速度で間切っていく。主人のいない犬が一匹、波打ちぎわの砂をしきりに掘っている。
 バーテンが話しているのは、大きな白い帽子をかぶった初老の女性だった。初老とはいえ、女性であることを放棄していない毅然とした美しさが、彼女にはそなわっていた。
 それはともかく、おれを干上がらせるつもりかい、ここのバーテンは? あわてることないとはいってみたものの。
 編んだ篭の中にオレンジといっしょに突っ込んであるラジオからは、陽気な調子のボレロが小さく聞こえていた。
 彼はふたたびビーチホテルのほうに視線をむけた。Tシャツの女はゆっくりこちらに向かってくる。
 トントンという音に振りかえってみると、バーテンが彼の前に立ち、カウンターを指先で叩いていた。
「あそこにお泊まりですかい?」
 唇のはしにかすかな笑みを浮かべ、そうたずねてきた。中年……といっても、彼よりは若そうだったが。二度ばかり沸かしなおしたコーヒーのような顔。
「いや、違う。長くいるつもりはないんだ」
「ご注文は?」
「キューバリブレ」
「ラムはカリオカでいいですかい?」
「それでいい。ちょいとラムを抑えぎみで」
「まだ日は高いってやつですかい。旦那はこちらへはやっぱり船で?」
「そう」
 彼は首をまわし、自分の船を見た。
 ビーチホテルとは反対側のハーバーに、41フィートのスループがつながれている。
 トン、と彼の前にグラスが置かれた。
「こちらへは休暇かなにかで?」
「そんなところかな」
「日本人ってのは休暇なんか取らねえってんじゃなかったんですか? あたしら、そんなことを聞いてますけどねえ」
「日本人だってわかるかい?」
「チャイニーズには見えませんや。40フィートにオートヘルムくっつけてる中国人なんて、いやしねえ」
 なんだ、こいつ。ちゃんと見てたんじゃないか、おれがはいってくるのを。
「40じゃない。41だ」
「似たようなもんでさ」
 バーテンは女性客のほうにもどっていった。
 キューバリブレ。ラム・アンド・コーク。
 濃い褐色の液体を、彼はひと口、飲んだ。
 Tシャツの女は桟橋の付け根を通り、ハーバーのほうへとむかっている。若い。十八、九といったところか。あいつの相手には若すぎるか。
 犬はまだ砂を掘っていたが、カタマランはもう見えなくなっていた。
 彼は半ズボンの尻ポケットから、一枚のすりきれた写真を取りだした。
 カウンターの上に置き、指先で押さえてゆがみを直し、じっと見入る。
 それから、おもむろにラム・コークを飲みほした。
 グラスをトン、とカウンターに置く。バーテンは振りかえろうともしない。
 で、指先で二度、トントンとカウンターをたたいてみた。バーテンがやってきた。
「もう一杯たのむ。それから……」
 こんなことはこれまでしたことはなかったのだが……。ここのバーテンの顔を見ていたら、なぜかその気になっちまった。なにかを確認したい気分に……
「こいつを見たことがあるかい? ちょうど一年前、このあたりにも立ちよってるはずなんだが」
「ちょいと待ってくださいよ」
 バーテンはまず酒を作ってから、慎重に写真に顔を近づけた。
「いや……」
 彼はいった。
「いや、見たことないでさあ。このバーへは寄らなかったんでしょう」
「たしかかい?」
「たしかでさあ。この人をお探しで?」
「いや……」
 探しているといえば、そうもいえる。が、ふつう、もうこの世にいない人間を、探すとはいわない。あいつが一年前たどった航路を、あいつの船で、これといった理由もなく追っている。ことによると、あいつが死んだことで失ったなにかを、探しているといえるのかもしれない。
 彼は写真をポケットにもどし、ビールを飲んだ。
 ハーバーに視線を向けると、Tシャツの女が自分の船に近づいていくのが見えた。女は船の横に立ちどまると、しばらくながめていたが、やがてライフラインをまたいで船に乗りこんだ。そう、まるで自分の船に乗りこむかのように。
 バーテンがアゴの先で示した。
「行ったほうがいいですぜ」
 いわれるまでもなく、彼は立ちあがっていた。
「ちょい待ち。これを持っていくといい」
 バーテンがいい、ビールの小壜を二本、すばやく抜いて彼に渡してくれた。
「あたしからのおごりでさ」
 おせっかいめ、と彼は思いながら、こたえた。
「いや、これはツケにしといてもらおう。すぐにもどってくるさ」
 バーテンがニヤッと笑う。
「あの子と?」

2009年11月2日月曜日

嵐が来る日、ぼくたちはつどう

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----- Another Side of the View #11 -----

  「嵐が来る日、ぼくたちはつどう」 水城雄


 レースの中止が決定したのは、9時をまわってからだった。
 でも、結局、中止になることはみんなわかっていたのだ。もちろん、ぼくにもわかっていた。天気予報を注意して聞いていたものには、皆、わかっていた。
 ぼくがハーバーにやってきたわけは、ほかでもない、船が心配だったからだ。いま、ハーバーに集まってきているのも、船を気づかってやってきた者ばかりだった。
「よお。磯崎さん、来てるぜ」
 スタンのもやいの具合をたしかめていると、うしろから肩をたたかれた。〈フリーキー・ディーキー〉のオーナーの樋口さんだった。いつもながら、不精髭だらけの顔だ。フリーキー・ディーキーのバースは、ぼくたちの〈ノー・ウーマン〉の隣だった。
「知ってますよ」
 と、ぼくはこたえた。
「きみも電話でかりだされたクチかい?」
「ちがいますよ」
 すでに磯崎さんが来ていることは、船のもやいを見ればわかる。台風にそなえて、いつもの倍くらい、もやいを増強してある。あとぼくに残された仕事があるとすれば、まだ揺れの来ないキャビンでコーヒーでもわかし、オーナーの労をねぎらうくらいだ。
「きみも来いよ」
 樋口さんが手まねきした。
「なんです?」
「コーヒーがはいってる。〈デコイ〉ではじめてる」
 ぼくに残された最後の仕事も、べつのだれかに取られてしまったというわけだ。
「すぐに行きますよ」
 樋口さんに返事しておいてから、ぼくはノー・ウーマンのデッキに飛び乗った。
 なにも女っ気がないから、ノー・ウーマンという名前になったわけじゃない。オーナーの樋口さんがボブ・マーレイを大好きだから、という理由からだ。ノー・ウーマンには、「ノー・ウーマン・ノー・クライ」と続く歌詞がついている。おまえさん、泣くんじゃねえよ。
 備えが完全に終わっていることはわかっていたけど、ぼくはひとわたり、デッキ上を点検した。まだほとんど感じるほどではないけれど、ハーバーの中にはわずかなうねりがはいってきているみたいだった。マストが左右に振れ、そのたびにリギンがカチャカチャ鳴る音が聞こえた。
 泣くんじゃねえよ、おまえさん。
 そういえば、フリーキー・ディーキーというのも変わった名前だ。なんでも、60年代の後半、アメリカではやったイカレたダンスのことなんだそうだ。その頃、アメリカ中を放浪したあげく、デトロイトで自動車修理工をやって食いしのいだことのある樋口さんの思い出にちなんで、そう名付けられたのだという。
 いやはや。いろいろあるもんだ。
 デコイも、命名にはちょっと変わったいきさつを持っている。デコイのオーナーは武部さんという建築資材の会社の社長だけど、三年ばかり前、離婚した。武部さんの奥さんは、女性にしては風変わりな趣味だと思うけれど、デコイを作るのが好きだった。デコイってのは、つまりあの木でできた鴨のことだ。子どもも大きくなって、手を離れてしまうと、それこそ朝から晩までデコイ作りに熱中しちゃうんだそうだ。
 ある日、たまたま虫の居所の悪かった武部さんは、作りかけのデコイで足の踏み場もないほど散らかった部屋を見て、つい大声を出してしまった。このロクでもないデコイを片付けるか、おまえが出ていくか、どちらかにしてくれ。
 翌日、武部さんは、部屋いっぱいのデコイを抱えて、独身生活にもどった。教訓を忘れないように、武部さんは自分の船にデコイという名前をつけた。
 教訓というのは、こうだ。
「女から理不仁なことをいわれても、男から理不仁なことをいってはならない。たとえ相手が妻であろうと」
 最後にブームカバーを点検してから、ぼくはノー・ウーマンを降りた。
 ぼくがデコイのキャビンにはいっていったとき、全員がいっせいにはじけるように笑ったところだった。
「いや、きみのことじゃないよ」
 独身の武部さんが、ぼくにコーヒーをいれてくれながら、説明した。
「ある人の噂をしていたもんでね」
「だれの噂ですか?」
 ぼくはたずねた。
「だれのって……ここにいないやつに決まってるだろうが」
 みんな、ニヤニヤ笑っている。
 ぼくはコーヒーカップを受けとって、あいている席に割りこんだ。
 総勢七人。いつもの顔。いつもの笑い声。
「ああ、またあの人の噂ですね」
「そう、あの人の、な」
 磯崎さんがいった。彼の目は、おまえ、おれが点検したあとのデッキでなにしてたんだ、といっている。おれが全部やっといた。完ぺきだったろうが、え?
 ぼくはいった。
「よくないですよ、いない人の悪口をいうのは」
 背をもたれてくつろぐと、まだ揺れはほとんど感じられなかった。

2009年10月26日月曜日

彼女の仕事

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----- Another Side of the View #1 -----

  「彼女の仕事」 水城雄


 フェンダーの位置が悪いらしく、右舷のハルが突堤にぶつかりそうだった。彼女は軽く舌打ちしてから、身体をかがめ、ライフライン越しにフェンダーの位置を調節した。
 ラグーンの中はまったくといっていいほど波がなかった。フェンダーを調節してから、身体を起こすと、ペリエのはいったグラスの口に耳をつけたときのような音がもどってきた。
 外海のほうを振りかえってみる。
 その動作で、腰から足へと続くきれいな腰のラインが、とりわけ引きたって見えた。いま彼女は、白いシンプルなビキニの水着を着ている。
 外海をはるばるやってきた波が、環礁にぶつかって白く泡だっていた。彼女は目を細め、しばらくその様子をながめた。
 やがて視線をはずし、ミズンのブームの先にぶらさげられた青いバナナの房を見ながら、昼食のしたくをしなくちゃ、とかんがえた。まさか、このバナナを昼食にはできない。ここに着けたとたんやってきた子供のバナナ売りから、とてもまだ食べられやしないバナナを夫が買ったことについて、ついいましがたふたりはやりあったばかりだ。もっとも喧嘩なら、この島に着く前から続けていたけれど。
 気をきかしたのか、安倍さんはどこかに姿を消してしまった。彼に昼食の準備を手伝ってもらおうと思っていたのに。
 と突然、桟橋のほうから夫のさけび声が聞こえた。「わぁお」というような声。
 むこう側の木の桟橋には、へっぴり腰になって両手で釣竿を支えている夫の姿があった。竿の先端は、ぐにゃりと曲がり、ほとんど海に引きこまれそうになっている。
「逃がさないで!」
 彼女は夫にむかってさけんだ。
「それ、お昼ごはんよ」
「釣りあげられたらな!」
 夫がさけびかえす。
「大物だぞ、これ」
「待ってて。いま行く!」
 裸足のまま自分のケッチから突堤に飛びおりると、桟橋にむかって駆けた。安倍さんはどこに行っちゃったんだろう。彼なら釣りの名人なのに。
 獲物は本当に大物のようだった。竿を支える夫の腕に、力コブが盛りあがっている。夫は竿の端を、すこし突きだしはじめたおなかに押しあて、両足をふんばってリールを巻きこもうとしている。
「だめ! 無理に巻いちゃ!」
「もう先がないんだよ! ほとんど出ちゃってんだ」
「走らせて、疲れさせるのよ。安倍さんがそういってた」
「やってるさ!」
 獲物がいきなり、横に走った。桟橋の先端をぐるっと回って、反対側に走る。糸が海面を切る音が聞こえた。
「手を出すなよ」
「わかってます」
「そこのボート、じゃまだ!」
 桟橋の反対側には、住民のものだろう、木製の手こぎボートが二艘、つながれていた。彼女は勝手にそのもやいを解くと、桟橋のつけ根のところまで引っぱっていった。
 夫のところにもどろうとしたとき、やじ馬がやってきた。男たちがなにごとかを口ぐちにわめきながら、桟橋に集まってくる。みんなまっ黒の顔をして、派手な柄のシャツを着ている。まるで制服みたいに、そろって白いショートパンツをはいている。
 彼らがなにをしゃべっているのか、さっぱりわからなかった。何語なの、これ? で、彼女も日本語でいった。
「手を出さないで! 彼にやらせるのよ」
 男たちのうしろから、子どもがワラワラとやってくるのも見えた。
 だめ、だめよ、うちのおかずなんだから、これは。
 彼女は両手を広げ、やじ馬を桟橋の中ほどで阻止した。どうやら男たちは、竿の動かし方やリールの巻き方について、文句をいっているらしい。
「手がしびれてきた」
 と夫がいう。
「がんばって」
「リールが巻けない」
「手伝いましょうか?」
「ばかいえ」
 竿がわずかに立ちあがった。
「ほら、いまよ! 巻くのよ!」
「やってる」
 もうやじ馬のことなんか気にしていられなかった。それに男たちも、耳がつぶれるほどの大声で、てんでにわめきちらしてはいるが、手を出そうとはしない。
 夫はここぞとリールを巻きこんでいる。獲物が疲れたのか。
 そのとき「おうッ」とうなり、竿を抱えこんだ。
 糸がピーンと張り、すごいいきおいでリールがもどされた。
「だめだ!」
 夫がずるずると桟橋のヘリまで引きずられた。彼女はとっさに、夫の腰にしがみついた。
 そのとき、夫の身体がガクンとのけぞり、その勢いでふたりはもつれあったまま、桟橋の反対側に転落していた。
 ふたり同時に、水面に顔を出す。
「切れたんだ」
「なにが?」
「糸がだよ。切れちゃったんだ、プッツンとね」
 桟橋を見上げると、やじ馬たちがふたりを指さし、ゲラゲラと笑いころげているではないか。
「やだー」
 それから夫と顔を見合わせ、同時にプッと吹きだした。
 それから首っ玉にしがみついて、キスした。ブクブクと身体が沈む。
 浮かびあがると、桟橋から日本語が聞こえた。
「なにしてんだ、そんなとこで?」
 住民にまじって、安倍が桟橋に立っていた。夫の友人、ハンサムな釣りの名人の安倍さん。
「それ、どうしたの?」
 彼女はたずねた。
「市場で買ってきたんだ。昼食にちょうどいいと思ってね」
 そういって安倍は、手にぶらさげた魚を持ちあげて見せた。
 ふたりは抱きあったまま、もう一度笑いはじめる。

2009年10月22日木曜日

ぼくらは悲しみを取りかえる

----- Another Side of the View #4 -----

  「ぼくらは悲しみを取りかえる」 水城雄


 男が妻に、すこしは歩きまわってみたらどうだい、と提案すると、彼女はこうこたえた。
「もうすこし灼きたいの。それに、どうしてこんなところに来てまでセカセカ歩きまわらなくちゃならないわけ?」
 抜けるような青い空。
 抜けるような青い海。
 プールの水も、空がもうひとつそこにあるみたいに、青く澄んでいる。風がすこし吹いていて、水面にさざ波が立っていなければ映っている椰子の葉がそこに浮いているのかと錯覚するほどだった。
 プールの向こう側には、三層になったまっ白いホテルの建物が見えた。
 たしかに妻の言葉にも一理ある。が、彼はなにも、セカセカ歩きまわろうと思ってそんなことを提案したわけではないのだ。第一、これまで寄港してきた多くの街々でいそがしく歩きまわっては土産ものやブランド商品を買いあさっていたのは、彼女のほうではなかったか。
 男はもう一度、妻に悲しげな視線を向けた。
 デッキチェアに寝そべり、顔に帽子を乗せて日ざしを避けている。若く美しく、知的な彼の妻。
 男は妻のそばを離れると、プールサイドをぐるりとまわって桟橋に向かった。今朝がたから一隻のヨットがつながれていて、何人かがデッキで作業しているのが気になっていたのだ。
 いまはデッキの上には、ひとりしか見えなかった。
 近づいていくと、それがかなり若い男であることがわかった。茶色の髪だが、東洋人らしい。ひょっとすると日本人なのかもしれない。船尾にはフランスの国旗がプリントされていた。
 若者は船尾に近い船べりにかがみこみ、ドライバーを使ってなにかをはずそうとしている。
 男が船の横に立ちどまると、ちらっと顔をあげたが、すぐに作業にもどった。
 しばらくドライバーを持ってなにかの金具と格闘していたが、やがて顔をあげ、ひたいの汗をぬぐい、かたわらに置いてあった缶ビールを口に運んだ。
 男のほうを見て、日本語でたずねた。
「なんか用ですか?」
「いや……」
 男は言葉をさがした。べつに用はないのだ。
「どこから来たのかな、と思って」
「シドニー」
 口調はぶっきらぼうだったが、悪意は感じられなかった。
「でも、フランスの国旗が貼ってあるよね」
「フランス人の船だったんですよ、シドニーに住んでる」
 若者は作業にもどった。
「だった?」
「日本人が買ったんです」
「でも……」
「その日本人はホノルルに住んでるってわけ。ぼくらはシドニーからホノルルまで回航するだけ。いい金になるんですよ」
「そういうのがきみの仕事?」
「まさか。アルバイトですよ。でも、まあ、仕事といえば仕事かな。年中こんなことやってるから」
 たしかに若者の身体はまっ黒に日灼けしていた。
「定職というのはないの?」
「ありませんね。気楽なのが好きなんです」
「ふうん」
 自分がこの年齢のころはどうだったろう、と男はかんがえた。
 こんなふうではなかったな、たしか。高校を出てすぐに就職し、しゃにむに働いて金をため、自分で商売をはじめたのがちょうどこの若者ぐらいの歳のことだった。浮き沈みがあるにはあったが、基本的に商売はうまくいき、いまでも思ってもいなかったほど成功をおさめたといえる。すくなくとも、相当な資産を持つ身分になった。
 目の前の若者は、財産といってもたぶん、ラジカセがひとつとかそういう感じなんだろうな。
「あなたは観光ですか?」
 若者が訊いてきた。
「そうなんだ。妻とね、客船で旅してる」
「いいですね」
 ちっともよくなさそうに、若者がいった。
「いい……のかな。うん、いいんだろうな。こう見えてもぼくはけっこう大きな会社の社長でね、いままでしゃにむに働いてきたおかげで、はじめてこんな一か月もの休暇を取ることができるようになった。もっとも、悲しいかな、こんなところに来てまで会社のことが気になってね。ついセカセカしちまうんだ。いまも女房にしかられたばっかりさ」
「あそこで日光浴してる方かな」
「そう」
「きれいな方ですね。さっきチラッと見たけど」
「ぼくにはもったいないくらいなのさ。ぼくがまったくの貧乏人だったら、結婚してくれなかったかもしれないな」
「そんなことはないでしょうよ」
「なぐさめてくれなくていいさ。自分が女たちからどのように見えるのかってことは、よくわかってるつもりだ。きみ、結婚は?」
「まさか」
「彼女ぐらいいるんだろう?」
「いませんね」
「きみのお仲間はどこに行っちまったんだい?」
「買いだしですよ」
「ところで、きみはそこでなにをやってるの?」
「見たとおり。スタンションの修理です。明日には出るから」
「あまり邪魔しちゃ悪いな」
「べつに……」
 男は汗で光る若者の腕を見た。力をいれてドライバーをこじるたびに、筋肉がぐりっと動く。
「よかったら、遊びにおいでよ。ビールぐらいおごるよ」
「どうも」
 男は船のそばを離れた。
 桟橋の根元のところで振りかえると、ちょうど若者が立ちあがったのが見えた。腰をのばし、ひたいの汗をてのひらでぬぐい、缶ビールをあおった。男はいそいで視線をそらした。
 プールサイドにもどってみると、妻はさきほどとまったく同じかっこうで日光浴をしていた。
 男は彼女の顔に乗っていた帽子をつまみあげた。
 ほそく目をあけ、妻がいった。
「まぶしいじゃない……なにか収獲はあった?」
「収獲?」
「ビキニ姿の若い女の子とか……」
「ああ」
 妻を見下ろしながら、男はゆっくりとうなずいた。
「海の景色がすばらしかったよ」

2009年10月17日土曜日

Thank You So Much

----- Another Side of the View #12 -----

  「Thank You So Much」 水城雄


 酒場でちょっかいをかけた女のことで女房から責めたてられていると、沖をセクシーな光景が通りすぎていくのが見えた。
 ありゃいったい、何杯出てる? 生まれてこのかた、あんなにたくさんのヨットがいっせいに走ってる様なんざ、見たことねえ。
 ピカピカにみがかれたハル。
 誇り高くクンと反りかえったマスト。
 真新しいセール。
 100杯もの大型セーリングヨットが、ステイを風でびゅんびゅん鳴らせているのが、ここまで聞こえてくる。
 彼は作業の手を休め、うっとりとその光景をながめた。
「おまえさん、聞いてるのかい?」
 女房が耳もとでどなった。
「聞いてるさ。でけえ声出さなくても、ちゃんと聞こえてる」
「聞こえてるなら、返事したらどうなんだい?」
 いつからマリアとできてるんだ、と追求されていたのだった。
 ヨットの群は、真っ青な空の下を突きすすんでいく。大西洋をわたってくる風を帆に受け、船体を大きくかたむけながら、波の上をすべっていく。
 クルーたちが船べりにずらっとならんですわっているのが見えた。オイルスキンを着こみ、顔をまっ黒に日焼けさせている。
 あいつら、いってえ、いまなにを考えてやがんのかな。
「おまえさん、聞いてるのかい?」
 女房がまたもやいった。
 ふたりは自分たちのちっぽけな漁船の上にいるのだった。
 手入れはいいが、古い漁船だ。エンジンを停めていると、波にあおられ、木の葉のようにクルクルもてあそばれる。
「ああ」
「返事をおしよ。マリアとはいつからできてるんだい?」
「だから、マリアなんかとはできてやしねえって。あの女にはちゃんと男がいやがんだよ」
「だれだい?」
「そんなこと、おれが知るもんかい」
 彼は吐きすてるようにいうと、魚網をつくろう作業にもどった。
 そうさ。そんなこと、おれが知るもんかい。マリアの男なんか、おれの知ったこっちゃねえ。くそ、はやいとここれを直しちまって……
「やっぱりいないんじゃないか。マリアの男は、おまえさんなんだろ?」
「馬鹿いっちゃいけねえ」
「いつからあの女とできてんだい? いいかげんに白状おし」
「白状もなにも、マリアとなんかできてやしねえってば。おれはただ、あの酒場が好きなだけなんだ」
「じゃあ、なんでみんな、あたいが酒場にはいってくと、クスクス笑いやがんだい?」
「そんなこと、おれの知ったことか」
「やっぱりなんかあるんだ」
「なんにもねえってば。いいかげんにしろよ、おめえ。仕事、しろ。魚がみんな、逃げちまわあな」
「魚なんかどうだっていいよ」
 ふいに悲しみにとらわれたような女房の口調に、彼は顔をそむけた。
 先頭を走っていたヨットが、きゅうに向きを変えた。
 巨大なブイがすぐそばに浮かんでいるのが見えた。
 クルーたちのどなり声が、海面を伝わって聞こえてくる。
 セールがバタバタいう音。
 キリキリキリ……
 ウインチが回っている。
 バシッとセールが風をはたいた。
 ヨットは向こうむきになり、さらに沖へと向かったようだ。大きくかしいでいる姿が、たまらなくセクシーだ。
 いっぺん、ああいう船に乗ってみてえもんだ。そりゃあ、おれのこの船だってまんざらじゃねえ。丁寧に手入れしてるさ、毎日。かわいい娘みてえなもんだ。しかし、あんなでっけえ船に、いっぺんでもいい、乗ってみてえもんだ。魚をとることなんかかんがえずにな。
 こうるせえ女房もなしで。
「なあ、おまえさん」
 網針を持つ彼の腕を、女房が押さえた。
「いいかげん、白状しておくれな。おこらないからさ」
「おこらねえ? おめえはいつだってそういうじゃねえか。そういっときながら、おれが正直にいうと、ひでえことしやがる。ほれ、ここ見てみな」
 彼は潮風にさらされて真っ白になった髪をかきあげてみせた。
「わかってるって。あれはあたいが悪かったよ。ついカッとしちまったんだよ」
「6針も縫ったんだぞ」
「だから、あたいが悪かったっていってるじゃないか。おこらないって約束するから、白状しておくれな。そうすりゃ、あたいの気がすむんだよ」
 なにが気がすむもんか、と彼は思った。おれはこんりんざい、女房に白状なんかしねえ。
 大きなブイを回ったヨットが、次々と方向転換して、沖へと向かっている。
 あいつら、いってえ、どこに行きやがる? もっと沖にもうひとつブイでもあるんだろうか。それとも、どこか遠くの国に行っちまうんだろうか。
 あいつら、なにをかんがえてやがんだろう。
 きっと、頭ん中、真っ白にして、勝負のことしかかんがえてねえんだろうな。
 それなのに、このおれときたら……
「ねえ、おまえさんってば。お願いだからあたいに……」
 彼はとうとう癇癪玉を破裂させた。
「うるせえ! できてねえったらできてねえんだ。いつまでもウダウダいってねえで、仕事しろ。いいかげんにしねえと、海にほっぽり出すぞ!」
「なんだって、おまえさん?」
 彼は女房の目が吊りあがるのを見た。
 やれやれ。
 壮大なヨットの群れは、どんどん沖へと遠ざかって行く。
 それを追ってか追わずか、やはり沖へと向かうカモメの群れが、彼の目にはいってきた。

2009年10月13日火曜日

How Deep Is the Ocean

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----- ジャズ夜話 #2 -----

  「How Deep Is the Ocean」 水城雄


 店に客が多い日は、ピアノの音が吸われる。とくにピアノ席に客がいると、音は変わってしまう。
 平日のくせにやけに混んでいた。桜町は二回目のステージのために店にもどってきたところだった。
 十人がけのカウンターには、ひとつも空きがない。奥に置いてあるグランドピアノの上でも飲めるようになっているのだが、そこにも三人の客がいた。もっとも、詰めれば八人すわれる。
 カウンターの中では、マスターの中川が、きりきり舞いをしていた。
 ピアノ椅子に腰をおろした桜町が合図を送ると、スモークサーモンで手を油だらけにした中川が、肘を使って器用にオーディオのボリュームを落とした。
 ピアノに向かい、演奏をはじめる。アイ・キャント・ゲット・スターティッド。ゆっくりしたバラードのテンポで。
 ピアノ席の三人組は、この店に似つかわしくない客だった。
 男を真ん中に、女がふたり。三人とも若い。二十代前半だろう。男と、手前の女が、髪を派手な茶色に染めている。金髪といってもいいほどだ。さらに男はその髪をつんつんに立たせている。
 男と向こう側の女はビールを、手前の女はウイスキーの水割りを飲んでいた。
 どう見ても、ジャズを聴きそうな客には見えなかった。
 男と向こう側の女は、なにやら熱心に話しこんでいる。手前の茶髪の女は会話にくわわらず、ピアノの上に両肘をついて、けだるい表情で桜町の演奏を聴いていた。
「だからさあ、あんなやつとはさっさと別れちまえばいいんだって」
 男の言葉が聞こえてくる。
「あいつだって他で適当にやってんだよ。お前だけマジになって、ばかみたいだぜ。お前だって適当にやりゃいいじゃん」
 三人がいることで、こつんこつんと音がこもったように響かないピアノを、桜町は苦労しながら弾いた。ただし、バラードよりアップテンポの曲のほうが弾きにくい。それに、今日のように店ががちゃがちゃした雰囲気のときは、アップテンポの曲はますますうるさい。
 二曲めもバラードを選んだ。マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ。ジョニー・ハートマンがコルトレーンのカルテットをバックに歌っている。そのときのピアノはマッコイ・タイナーで、桜町の好みからいえば過剰気味のアルペジオがやや鼻につくが、ハートマンの甘くこもったようなヴォーカルが、コルトレーンの内省的なテナーと奇妙にしっくりきている。
 そんなことはこの若者たちには知ったことではないだろう。
 ぺんぺん髪の男が手品のようなことをはじめた。
「お札、あるかい? 千円札でも万札でもいいからさ」
「あるけど、あとで返してくれる?」
「信用しろよ」
 向こう側の女が千円札を出した。こちら側の女は、相変わらずふたりには無関心で、桜町のほうを見ている。いまにも眠ってしまいそうだ。
「ボールペンかなにか持ってるか?」
 女がほそいボールペンを渡した。
「いいか、よく見てろよ。このボールペンを千円札にはさむんだ」
 男が千円札でボールペンをはさむようにした。ふたつに折った千円札の中心部にボールペンの先があたり、残りの軸が千円札から突きでている。
 桜町は演奏を続けながら、手品を見ていた。
「この千円札をさらに紙ナプキンではさむ」
 目の前にあった紙ナプキンを広げ、千円札を置くと、ナプキンをふたつにたたんだ。ボールペンをはさんだ千円札を、さらに紙ナプキンがはさみこんでいる格好だ。
「ボールペンのケツを持て」
 女にそれを差しだした。
 突きでているボールペンの軸の尻を、女がいわれたとおり持った。
「ぶすっと突き刺してくれ」
「え、だって、そんなことしたら、穴があいちゃうじゃない」
 たしかにボールペンの先は、千円札の真ん中に突きたっているのだ。そのまま押せば、お札に穴があくことは間違いない。
「いいから、やれ。ぶすっと」
「いいの?」
「やれってば」
「知らないからね」
 女が指に力をこめた。
 ボールペンの先が千円札と紙ナプキンをつらぬいて、反対側に突き出てきた。
 男はその様子を女に見せた。
「突きとおってるな?」
「通ってるわよ。穴があいてない千円札を返してよね」
「心配ないって」
 男はボールペンを引きぬいた。
 紙ナプキンを見せる。
 真ん中にボールペンが通った穴があいていた。
 つづいて、千円札を広げてみせた。
 穴はあいていなかった。
「え、なんで? ボールペンはちゃんと刺さってたじゃない」
 女が目を丸くしている。桜町にもそのトリックはわからなかった。
 たしかにボールペンは、千円札とナプキンを貫通したように見えた。ボールペンは千円札にたしかにはさまっていた。
 簡単なトリックなのだろう。
「ねえ、ねえ、久美。いったいどうなってんの、これ?」
「知らない」
 それまで黙っていた女が、興味なさそうにぼそっと答えた。
「びっくりしたか? いまからおれんちに来いよ。そしたら、もっとすごいのを見せてやるからさ」
「しんちゃんちに? これから?」
「ああ。泊まってけばいい」
「そんなあ。だって、久美に悪いじゃん」
「いいんだよ。こいつのことは気にするな」
「だって、しんちゃんは久美と――」
「気にすんなって。三人でやりゃいいじゃん。いいだろ?」
 久美と呼ばれた女が、水割りをひと息に飲みほした。
 自分で目の前のボトルからグラスにウイスキーを注いだ。たっぷりと。
 アイスピッチャーから氷をひとつだけ入れ、カラカラと振った。
 ひと口大きく含む。
 桜町のほうに身を乗り出し、いった。
「おじさん、この曲、なんていうの?」
 おいおい、おれはまだ三十二だぜ。そう思いながらも、彼は答えてやった。
「いいから、来いって。もっとすごいの、見せてやるよ、ほんと」
 男がまだいっている。ほとんど向こう側の女を押し倒さんばかりに迫っている。彼らの口ぶりでは、男と久美というこちら側の女が恋人同士のように聞こえたのだが。
「すごいのって?」
「いまサンプルを見せたじゃないか」
「あんなんじゃだめ。もっとすごいのじゃなきゃ」
「じゃあ、こういうのはどうだ」
「どういうの?」
「このおっさんが次に弾く曲名をあてる」
「なにいってんのよ、しんちゃん。そんなことできっこないじゃない」
 そうだ。そんなことはできっこない。なにしろ、次に弾く曲は、おれだってまだ決めてないんだからな。
「できたらどうする?」
「できっこないって。だって、しんちゃん、ジャズの曲名なんてほとんど知らないじゃない」
「知ってるさ。A列車で行こうとか、ミスティとか」
「それだけでしょ?」
「オリーブの首飾りとかさ」
 その曲をジャズとはいわないだろう。
 まあいい。いずれにしても、桜町にはそんな曲を弾く気はない。
 久美がグラスを持ちあげ、ふたたびたっぷりとウイスキーを口に含んだ。そのコースターを、男が取った。
「さっきのボールペン、貸せよ。ここにいまから、このおっさんが次に弾く曲の名前を書くからさ」
「まじぃ?」
「まじだ。あたったら、おれんちに来いよ」
「あたるわけないって」
 男がコースターになにか書きつけ、伏せて、ピアノの上に置いた。
 自分が飲んでいたビールを、その上に置く。
 桜町はマイ・ワン・アンド・オンリー・ラブを弾きおえた。
 なにを弾いてやろうか。こいつが絶対に知らないような曲を弾いてやる。
 桜町は次の曲をバラードテンポで弾きはじめた。
 男の向こう側の女が、伏せたコースターを取った。
「おじさん、その曲、なんていうの?」
「ハウ・ディープ・イズ・ジ・オーシャン」
 女の顔が凍りついた。
「いくぞ」
 男が立ちあがった。
 両側のふたりを抱きかかえるようにして、ピアノ席を離れた。
 左手でコードを押さえながら、右手でコースターを引きよせて見てみると、そこには汚い英字で曲名が書きつけられていた。

2009年10月8日木曜日

移動祝祭日

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----- Another Side of the View #8 -----

  「移動祝祭日」 水城雄


 自分の妻がふざけて高村とキスするのを見て、彼はもうひとりの青年にいった。
「竹内くん、氷を取ってくれないかな。まだ残っているんだろう?」
 自分の声が必要以上に大きくなってしまったことを意識しながら、折りたたみ式テーブルの上のハヴァナ・クラブのゴールドを取った。
 2本めのラム。
 長身の竹内は、頭をすくめるようにしてキャビンに降りていった。
「まだたくさん残ってるはずですよ、嵯峨さん」
 メアリの手を払いのけながら、高村がこちらに顔をむけて、いった。その目は、ぼくのせいじゃないんですよと訴えているみたいだった。メアリはなおも彼の首筋に手をまわそうとしている。
 高村は竹内ほどには背は高くない。しかし共に若い。ふたりともまだ学生だった。
「ようし、乾杯しよう」
 竹内から氷のはいった袋を受けとると、嵯峨はいった。彼と竹内がならんですわり、メアリと高村は向かい側だ。
 氷をわしづかみにして、それぞれのグラスに乱暴に放りこんだ。ボトルの封を切り、ラム酒をドボドボとグラスに注いだ。
「乾杯だ」
 高村と竹内がグラスを持ちあげた。メアリはグラグラする身体を高村にあずけ、愉快そうにたずねた。
「ねえ、今度はなんに乾杯なの、ダーリン?」
 結婚して6年、彼女の日本語は完ぺきといってよかった。しかし、完ぺきなのは言葉だけだ、と彼はかんがえてしまうのだ。
「そうだなあ。われらが良き航海に、かな」
「それ、さっきもいったわよ」
「じゃあ、きみがかんがえてくれ」
「そうね……」
 メアリがグラスを持ちあげた。こぼしそうになるのを、高村が横から手を差しだしかけた。こぼしはしなかった。
「男どもに乾杯しましょう。あなたと、そしてこの優秀なる若者、あたしたちのクルーに乾杯しましょう」
「ようし、わかった。それに乾杯だ」
「乾杯!」
 南海の空は、急速に暮れつつある。いま何時なんだろう。まだ星は見えない。
 しかしだ、と彼はかんがえた。時間など関係ない。昼からこの調子なのだ。この島についてからずっと祝祭日のようにわれわれはすごしている。いったいここにやってきたのが何日前なのかさえ、さだかではない。いや、日本を出たときからすでにはじまっていたのだ。
 メアリがコンパニオンウェイの横の壁にもたれかかり、ショートパンツから伸びた長く形のいい脚を、高村の膝の上に乗せた。高村もショートパンツ姿だ。いや、ここにいる4人全員が、ショーパンツ姿だった。男どもはTシャツを、そしてメアリはタンクトップを着ていた。
 嵯峨はグラスの酒をほとんどひと口で飲みほした。竹内がとがめるような視線でこちらを見ているのに気づいた。メアリと高村はこちらを見ていなかった。メアリが高村のグラスの指を突っこんでふざけている。ブラをしていない胸のふくらみが、袖口から見えた。
 竹内がいった。
「そろそろホテルにもどりません? 虫が出そうですよ」
「虫なんていないじゃない」
 メアリがこたえ、それからなにか早口の英語でいった。高村が笑い、それから竹内もこらえきれないように笑い声をあげた。嵯峨には聞きとれなかった。竹内に問いただしたい気持ちを押さえ、ボトルを取った。
 竹内がまたいった。
「腹がへりませんか。そろそろホテルにもどったほうがいいですよ」
「まだいいじゃない。こんなに気持ちいいんだもの。もうすこしいましょうよ、ここに」
 そして足の指を動かして、高村の大腿の内側をくすぐった。
 酒をそそぎ、ボトルをテーブルにもどすと、立ちあがった。全員が彼を見あげた。じっと見つめた。
 グラスをつかむと、コクピットからライフラインをまたぎ越えて、桟橋に飛びうつった。足元がふらついたが、ころびはしなかった。
「嵯峨さん」
 竹内の声が追いかけてきたが、無視して椰子の林の方角にむかった。
 夜風が島のほうから吹きはじめていた。椰子の葉をとおして、日が落ちたあとの複雑な色の空が見えた。
 椰子林の向こうに広がる砂浜には、まだ多くの観光客が海と遊んでいた。
 重ねた編み帽子を小脇にかかえた娘が、砂浜のほうからやってきた。嵯峨に近づくと、なにかいった。フランス語のように聞こえた。
「わからないんだ。大学ではドイツ語しかやらなかったんでね」
 日本語でいうと、娘はさらになにかいった。彼はかまわず、日本語でこたえつづけた。自分がかなり酔っていることを感じた。
「フランス語はわからないんだってば。英語だってろくにわからないのさ。自分の妻がアメリカ人だってのにさ。おかしな話だろう? 彼女は日本語がペラペラしゃべれのさ。しかもこちらのいうことは100パーセントわかる。100パーセントわかるんだ。でも、こちらのかんがえていることは、なにひとつわからないのさ」
 15歳ぐらいだろうか、娘はまるでこちらの話していることがわかるかのように、一心に耳をかたむけていた。そしてまたなにか、フランス語でこたえた。
「そうさ。きみはよくわかってる。そのとおりだ。おれはなにひとつ不自由なくやっているように見えるが、じつはひどく不自由な人間なのさ。よし、ごほうびに、帽子をひとつ買ってやろう。そうなんだろう? きみの望みはそういうことなんだろう?」
 彼はポケットをまさぐり、紙幣をつかみだした。それを見て、娘は首を横にふっ
た。それからあどけない笑顔を浮かべると、ホテルの方角に歩みさってしまった。
 彼は長いあいだ、そこに立っていた。
「なにをしているの、ダーリン?」
 背後にやってきたメアリが、彼の腕に自分の腕をからませて、たずねた。
「帽子を買いそこねちまった」
「え?」
「大事なことを忘れていたんだ」
「あなた、だいじょうぶ?」
 彼は妻のほうを振りむき、それから額にキスした。
「だいじょうぶだとも。さ、ホテルにもどろう。あのふたりには悪いことをした」

2009年10月5日月曜日

彼女が神様だった頃

----- Another Side of the View #6 -----

  「彼女が神様だった頃」 水城雄


「なにをそんなに怒ってんだい?」
 叔父さんにいわれ、彼女はあわてて口もとをこすった。
 自転車をとめ、髪をひたいの上にかきあげる。
「怒ってなんかいないわよ」
「なっちゃんは怒るとママそっくりになるな」
 叔父さんは彼女の言葉を無視して、いった。
「いい天気だね。どこに行くんだい?」
「べつに」
 自分でも、べつに、という返事はあんまりだと思いながら、そうこたえてしまう。たしかにもう夏を感じさせるほどのいい天気だ。半熟よりすこしかためにボイルドしたゆで玉子みたいな午前の日差し。空には雲ひとつない。いや、ずっと高いところ、天国にとどきそうな高いところにうっすらとした雲がひとすじ、見える。
「乗れば?」
 叔父さんは車の窓わくに肘を乗せている。
「おいでよ。これからアリスを出すんだ」
 彼女はちょっとためらった。
「自転車、どうしよう」
「そんなのほっとけよ。そんなボロ、だれも乗ってったりしないって」
 これでも高かったんだから、たしかにボロだけどさ。彼女はまた自分の顔が怒っているように見えないかどうか気にしながら、自転車を歩道の脇に寄せ、叔父さんの車に乗りこんだ。叔父さんが助手席に置いたスーパーマーケットの袋を後部シートにガサガサと移動させた。
 助手席に乗りこみ、スカートを引っぱりおろす。叔父さんみたいにひじを窓枠に乗せる。
 車が動きはじめると、窓から風がふきこんできて、髪をみだした。このあたりではまだ海の香りは感じられない。
 叔父さんがギアをローからセカンドをとばしてサードに突っこむのを見て、ついつい微笑してしまう。そして、自分も彼のように運転できたら、と思う。
「で、なにを怒ってたんだい?」
 叔父さんがもう一度たずねてきた。
「うん。ちょっとね」
 それから彼女はあわてて話題をそらした。
「アリスにはだれがいるの?」
「会社の女の子がひとり」
「ひとり?」
「アリスに乗るのはひさしぶりじゃないのか。ひょっとして進水式以来だな。ということは、五年ぶりってことになるぞ」
「かもね」
 車は街なかを走りぬけ、海岸通りに向かっていた。母親に手を引かれ信号待ちをしている子どもが持つ紙の鯉のぼりが、風にふかれてパタパタと泳いでいる。鯉のぼりのてっぺんのかざぐるまも勢いよく回りつづけていた。
「きみはまだ高校生になったばかりかなんかだったな。あのとき、同級生をゾロゾロ連れてきて……ひどくにぎやかでこまったよ」
「鼻の下のばして喜んでたのはだれ?」
「まさか」
 叔父さんは鼻の下を指でこすった。それを見て、彼女はもうすこし意地悪をいいたくなった。
「ママにいってもいいの?」
「なんのことだい」
「いうわよ、あたし」
「かまわないさ。たまたま他のメンバーが来れなくなっただけの話だ」
「玲子さんや稔くんたちは?」
「映画を観にいった。ふたりとも、最近はあまり乗りたがらない。おいおい、いい加減にしないか。なにもやましいことはないよ。じゃなきゃ、なっちゃんを誘ったりするもんか」
 それもそうだと彼女は思った。でも叔父さんだって男なんだ。男には、女が自分たちとはちがうということがわかってはいるけれど、どうちがうということになるとまるでわかっちゃいない。
 忘れかけていた怒りを思いだしそうになり、彼女は窓から首を突きだすようにした。すると、かすかに潮の香りをかいだような気がした。この高層マンションの角をまわると、海が見えるはずだ。
「お昼はなに?」
 髪を押えながら肩越しにスーパーの袋を指さし、彼女はたずねた。
「スパゲティ。アサリをたくさん買ってきた」
「ボンゴレね。会社の女の人が作ってくれるの?」
「彼女は料理が苦手なんだ。とくに揺れるキャビンではね」
「じゃ、叔父さんが作るの?」
「きみが作るといっても、おれはこばまない」
 海岸通りに出る交差点で、赤信号に引っかかった。ニュートラルにしたシフトレバーを、叔父さんが左右に持てあそぶ。車の前の横断歩道を、茶色い大きな犬がゆっくりと横ぎっていった。
「そういや」
 と彼がいった。
「きみが最初にアリスに乗ったとき、こんなことがあったな。あの小犬のこと、おぼえてるかな」
「小犬……どの小犬?」
「だれかがハーバーに連れてきて、どこかのガキがいたずらして海にほうりこんだ小犬」
 思いだした。なんていうのか知らないけれど、毛が長く、耳が垂れている種類の小犬だった。むこうのほうからくしゃみをしながら泳いできたのだ。進水したばかりのアリスの横まできて、いかにもあわれっぽい目つきで人々を見あげたものだ。水面まではかなりの落差があり、桟橋に腹ばいになっても小犬を助けあげられそうにはなかった。
「みんな、びっくりしたんだよな」
 と叔父さん。歩行者用信号が点滅しはじめた。
「いきなりきみが飛びこむんだもんな」
 そうなのだ。服を着たままザンブと桟橋から飛びこんだのだ。
「だって、ちゃんと着替えは持ってきてたもの」
「そんなこと、だれも知らなかったさ」
 しかし、小犬に泳ぎつき、かみつかれそうになりながら助けあげたのはいいが、今度は桟橋によじのぼれなくなって、アリスの縄梯子を投げてもらわなければならなかったのだった。
 信号が変わり、叔父さんはギアをローに突っこんだ。
 ウインカーをカチカチいわせながら車が右折すると、彼女の側に海が見えた。
「まあともかく」
 叔父さんがいう。
「今日はまだ泳げないぜ」
 海は陽光を受けてまぶしく光っている。それにむかって彼女は手を大きく差しのべた。

2009年9月26日土曜日

迷信

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----- Another Side of the View #9 -----

  「迷信」 水城雄


 古びた桟橋をギシギシいわせながら、その男はやってきた。
 よれよれのシャツにすりきれた半ズボン、使い古されたゴムのサンダル。まっ黒に日焼けした顔。短く刈りこまれた頭は、ゴマ塩というよりほとんど白に近い。
 ヨタヨタと彼らの船に近づいてくると、老人は口をひらいた。
「ぶじに航海をつづけたいなら、すぐに船を動かすがいいな」
 思いがけず日本語を聞き、ふたりはキョトンと顔を見合わせた。
 夕刻からずっと飲みつづけていて、いいかげん酔っぱらっていたのだった。塚田の足元に置かれているジャマイカ・ラムのボトルは、もう半分ほども残っていない。
「じいさん、旅行者ってわけじゃないな?」
 ややもつれた口調で村上がぶっきらぼうにたずねた。
「飛行機乗りだったのさ。いっぺん内地に引きあげてから、また舞いもどってきた」
「そのまんま居ついちまったのか」
「ちょいとわけありでな」
「女か」
 大きな口をあけて、老人は豪快にわらった。
 彼の笑い声がおさまるのを待って、塚田はいった。
「よかったらいっしょに飲みませんか。それに、船を動かさなきゃならないわけを聞きたいな」
「なにを飲んどる?」
「ラムですよ」
「ま、よかろう」
 彼はよっこらしょと桟橋からヨットに乗りうつってきた。
 塚田はキャビンからグラスを取ってくると、酒を満たして老人に渡した。老人はそれをグッと一気に半分ほどもあおった。
 プーッと息を吐きだしてから、にらみつけるような視線をこちらにむけてきた。
「これからどこに行く?」
「日本にもどるだけだよ」
 と、村上。
「この船でか?」
「ああ」
 老人は値踏みするような視線でヨットをながめまわした。41フィートのスループ。先日のレースでいささか痛んではいるが、熟練者がふたりでのんびりと回航しようというのだ。
「とにかく、動かしたほうがいいな」
「なぜですか」
 塚田はふたたびたずねた。
「この場所は縁起がよくねえ」
「縁起?」
「ああ。ここにひと晩つけてた船で、ぶじに航海が終えられた船はねえ。この場所は縁起が悪いんだ」
「おいおい、よしてくれよ」
 村上が苦笑いしながら、手をひらひらさせた。
「おれたちに縁起の話なんかしないでくれ。おれたちほど縁起なんて言葉に無縁の人間はいないくらいなんだ。おれは土地屋、こいつは大学の物理屋さんなんだからな」
「なにも縁起の話をしてるんじゃない」
 老人がグラスを差しだしながら、いった。
「わしはほんとのことしかいわん」
 塚田は彼にラムを注いでやり、ついでに自分たちのグラスも満たした。
「先月のことだ。隣の島の若いやつが、わしのいうことも聞かないでここに一晩、船を泊めた。まだクチバシの黄色いような若いやつだ。カナダから来たダイバーふたりをガイドしていた。ナイトダイビングだとかいって夕方の凪の海に出ていったきり、いまだに帰ってこない」
「凪の海?」
「なにがあったのかは知らん。とにかく、若いやつもダイバーも帰ってこなかった。この桟橋のこの位置に一晩つけた船は、ロクなことがねえんだ」
 村上が塚田と顔を見合わせてから、グラスの酒を口にふくんだ。それから吐きだすようにいう。
「ふん、馬鹿ばかしい」
「馬鹿ばかしいと思うか?」
 老人が気にしたようすもなく、問いかえす。
「ああ、馬鹿ばかしいね。だいたい、縁起をかつぐとかいった迷信くさいことは、おれたち、大っきらいなんだ」
「そうか。迷信か。迷信だと思うか」
「思うね。迷信なんか信じてたら、命がいくつあっても足りないね」
「じゃあ、いってやろう。おまえさんはつい最近、カミさんに逃げられたね」
 村上がギクッとした顔になった。
「じいさん、なんでそれを……」
 いいかけて、あわてて首を横に振った。
「馬鹿ばかしい。あてずっぽうを……」
「あてずっぽうなんかじゃないぞ。わしにはわかる。この島に住んでいると、そういうことがいろいろいとわかるようになるもんでな」
「じゃあ、ほかになにがわかる?」
「おまえさんは最近、商売で大きな損をしたろう。その損を穴埋めするために、けっこうヤバいことをやっておるな。それをこのままつづけると、やがてお縄をちょうだいすることになる。それから……」
 唖然と口をあける村上から視線をそらし、老人は今度は塚田に指を突きつけた。
「あんたのほうだが、職場の人間関係に気をつけるがいい。なんの仕事か知らんが、近いうちに上の者の心証を悪くして左遷されるおそれがある」
 村上も塚田も、返す言葉がなかった。
 ふたりを得意そうな顔で交互にながめると、さらに老人は言葉をついだ。
「この船の船室に子どもの写真が置いてあるだろう。右側にあるそいつを左側に移したほうがいい。マストのウインチはもうすこしさげたほうがいいな。位置がよくない。あんたの着ているその服、色がよくない。この船に乗るときには、赤はご法度だ。よくおぼえておけ。それから……」
 とめどなくしゃべりつづける老人の前で、ふたりの男は顔を見合わせた。
 どちらからともなく肩をすくめ、うなずきあう。
 塚田が老人の手からグラスを取りあげた。立ちあがった村上は、老人の背後のデッキに足を踏みしめた。
 老人の両脇に腕を差しいれる。
「な、なにをする!」
 塚田は老人の両足首をつかんだ。足をバタつかせたが、力はない。酔っぱらっているとはいえ、こちらは壮年の男ふたりだ。
 そのまま身体を持ちあげた。
「足もとに気をつけろよ」
「わかってるって」
 老人の身体を揺すり、反動をつけた。悲鳴をあげながら、老人の身体はライフラインを越えて派手なしぶきをあげた。
 どちらからともなく、笑いはじめた。いったん笑いはじめると、とまらなくなった。
 水面から顔を出した老人が、ふたりにむかってわめいた。
「笑いごとじゃないぞ! わしのいうとおりにしないと、あんたらふたりとも、命はないぞ」
「おまえの知ったことか」
 村上が叫びかえした。
「なんのためにおれたちがこうやって船に乗ってると思ってるんだ?」
 それから笑いの発作がぶりかえし、村上は腹をかかえた。
 あっけにとられている老人の顔を指さしながら、ふたりはいつまでも笑いつづけた。