2009年11月29日日曜日

夜に聞くデッキの雨の音

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----- Another Side of the View #3 -----

  「夜に聞くデッキの雨の音」 水城雄


「雪になるんじゃないのか、この雨」
 ハッチを閉めながら樋口がいった。
「そんなにひどく降ってるのか?」
「いや、ひどくはないが、冷たい」
 なるほど、彼のオーバーコートはぐしょ濡れというほどでもない。
「寒いな」
「いまつけたばかりだからな。おれもついさっき、来たばかりなんだ」
 私はストーヴの調子をうかがった。古めかしいデザインの真鍮製のキャビンストーヴ。シューシューという音を立てて快調に燃えている。
 樋口が差しだした紙袋を受けとるために、それまで読んでいた本をテーブルに置いて私は立ちあがった。樋口はコートを脱ぎ、私の本を手に取ってから、すわった。
 ギャレーに立ち、樋口が持ってきた袋の中身を点検した。
 レタス、ブロッコリ、トマト、アボカド、ソーセージ、生ハム、フランスパンが一本。袋から取りだし、さっそく調理に取りかかった。
「これ、おもしろいのか?」
 私の本を目の前まで持ちあげ、樋口がたずねた。
「まだわからん。読みはじめたばかりなんだ」
 ブロッコリのためのお湯をわかす。
「たぶんおもしろくないな」
「なら、なぜ読んでる?」
「書店に山のように積んであると、気になってつい買っちまうんだ。読みはじめたら、最後まで読まないと損したみたいな気分になる」
「おまえらしいよ」
 レタスを軽く水洗いし、指でちぎってサラダボウルに投げこんだ。
 樋口はそのまま本を読みはじめたようだった。私は調理を続けた。
 彼が船に来るのはひさしぶりだ。雨が降らなければ午後からやってきて、軽くセーリングするつもりだった。が、昼すぎから雨が降りだした。雪に変わりそうなほど冷たい雨だ。風はさほどないが、船はゆったりと揺れ、マストにリギンの触れ合う音が聞こえてくる。ときおりスプレッダーからまとまって落ちてくる水滴が、デッキをにぎやかに叩いた。外はもうすっかり暗くなったようだ。
 ギャレーとキャビンストーブの火で、だいぶ暖かくなってきた。できあがった料理を、私はテーブルへ運んだ。レタスとブロッコリとトマトのサラダ、アボカドの生ハム添え、フライパンで焼いたソーセージ。
 氷を落としたグラスをふたつ用意してから樋口と向かいあわせにすわると、彼が酒をボトルラックから取りだした。バランタインの 17 年だった。ボトルの中身は半分ほど残っている。
 樋口がそれぞれのグラスにスコッチを満たした。
 私はグラスを持ちあげ、なみなみと注がれた酒をながめた。
「おまえの考えていることはわかるよ」
 樋口がいう。
「なにが?」
「めんどくさがらずに、少しずつ注げばいいのにと思ってるのが、顔に書いてある」
 私は苦笑いした。
「すこしずつ注いでまめに氷をかえたほうが、うまいんだよ」
「厨房長のいってることだから、まちがいはないだろうさ」
「でもまあ、きみの気持ちもわかるよ。おれも面倒なのは苦手だ」
「よくいうよ」
「本当だ。その証拠に、食料の買いだしはきみに押しつけてる」
 彼は笑った。その笑い声が、私は好きだ。この三週間というもの、彼はまるでその笑いかたを忘れていたみたいだった。
「もうひとつの考えていることもわかるぜ」
「もうひとつとは?」
「女房からまだ連絡がないのかどうか、気にしてるんだろう?」
 私はかたい皮のパンをバリバリと手でちぎり、バターを塗りつけた。彼は酒を口に含んだ。
「まあな。で、どうなんだ? まだ連絡はないのか?」
「あったさ」
「へえ。それはよかった」
「内容にもよるさ。うまいな、このソーセージ」
「それで?」
「もうもどる気はないとさ」
「なるほど」
 どういう言葉を彼に返せばいいのか、私にはわからなかった。ハーバーにもどってきた船でもあるのか、揺れが急に大きくなった。耳をすますと、雨の音にまじってエンジン音が聞こえた。
 ウイスキーのおかわりを彼が自分でグラスに注ぎ、私も自分の分を飲んだ。
 しばらくして、彼がいった。
「何年たつのかな」
「4年じゃないかな。おれがいまの仕事に変わってからすぐにきみは結婚したんだ
から」
「結婚の話じゃない。船の話だ」
「ああ……7年ぐらいたつんじゃないかな、きみとおれがいっしょに船を持つようになったのは。この船はまだ2年だが」
「そんなになるかな」
「なる」
「もう34だもんな、お互いに」
「今年は5だ」
「ああ」
 揺れはもうおさまり、近くの桟橋から人の声が聞こえてきた。こんな寒い雨の日にセーリングとは、まったくご苦労なことだ。
「皮肉なもんだな」
「なにが?」
「どう考えてもおまえのほうが結婚に向いてる」
「結婚に向き不向きもあるもんか」
「あるよ、そりゃあ。げんにおれは失敗した。おまえだったらどんな女とだってうまくやっていけるだろうさ。つまらん本を最後まできちんと読みとおすみたいにな。おれの女房とだってうまくやっていける。うちの女房なら亭主が料理なんか作ったりした日には泣いて喜ぶだろうな」
「まだ終わったと決まったわけじゃないだろう」
「気休めはいい。おまえらしくない」
「すまん」
 そのとき、まるで急に食欲がわいてきたかのように、樋口がガツガツと料理を食べはじめた。
 手づかみで押しこんだレタスをほおばったまま、彼がいった。
「明日はどうする?」
「雨はどうなんだろう」
「明日いっぱい降るそうだ。それにもっと冷えこむそうだ。が、風はたいしたことないらしい」
 キャビンストーヴは快調に燃えつづけてはいるが。
 私は答えた。
「スキッパーはきみだ。きみが決めてくれ」
 彼はしばらく考えていたが、やがてきっぱりといった。
「出航だ。雨が降ろうと、たとえ雪が降ろうとな」
 私はうなずいた。彼に決めろといったのは、私だ。
 ご苦労なことではあるが。

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