2009年11月25日水曜日

夏の終わり、遊覧船に乗る

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----- Urban Cruising #8 -----

  「夏の終わり、遊覧船に乗る」 水城雄


 電話のあとで車に乗ると、ダッシュボードにきみが置き忘れたはっか入りのガムを見つけた。
 紙をやぶり、ガムを口にいれる。
 かみしめると、きみの唇の味がした。
 遊覧船に乗ろう、とぼくは思った。

 夏の終わりだというのに、遊覧船の乗り場はけっこう混んでいて、どこからか聞こえるスピーカーの声に、まず切符売り場で切符を買うように、と指示された。
 大人一枚800円なり、の切符を買うと、断崖のつらなる海岸線の風景をバックに、白い船長の帽子をかぶった若い女性の写真が刷りこんであった。
 そういえば、この遊覧船は女船長による名調子が売りものだったのだ。
 しかし、この切符は、何年前の写真だろうか。
 切符売り場の横手には、年老いたアヒルが暑さにたえかねたようにうずくまっている。
 テントの下のベンチで待っていると、やがて乗船案内が流れてきた。テントの奥からは、炭火でイカを焼くにおいがただよってくる。
 20人ほどの乗客といっしょに、桟橋に向かった。
 家族連れが多い。中年の夫婦と小学生ぐらいの子供。子供たちはまっ黒に日に焼け、すこし型のくずれた麦わら帽子をひたいの上にずりあげている。夏休みの宿題はもう終わったのだろうか。
 おじいちゃんやおばあちゃんをまじえた家族もいる。足の悪い老人を、おばあさんが手を引いて、船に乗せている。
 頭上のスピーカーが鳴り、女性の声が告げた。
「前から順におつめください」
 他の乗客をやりすごし、いちばんうしろの席にすわった。
 板張りの甲板の感触が、スニーカーごしに心地いい。
 錆びた手すりに腕をあずけ、沖に目をやると、燈台をかすめるようにしてカモメが飛ぶ姿が見えた。
 ふいにぼくはきみからの電話のことを考え、悲しみをおぼえる。

 遊覧船はゆっくりと桟橋をはなれ、港の出口に向かった。
 頭上のスピーカーからは、流れていく風景を説明する女船長の声がとぎれなく聞こえている。
 きみはいった。
「あなたとはもう会わないわ」
 電話の声は、なんだかくぐもっていた。ひどく遠いところからかかってきた電話みたいだった。そして実際それは、ひどく遠いところからかかってきていたんだ。
「はなれているとだめなのよ、あたし」
 ときみはいう。そして、ごめんなさい、とつけ加えた。
 港を出ると、わずかなうねりが船をとらえた。つい数日前、通過したばかりの台風の名残りだろうか。
 ぼくはちょっとのあいだ目を閉じ、うねりに身をまかせてみる。
 目を閉じても、かすかにけむったような感じのする水平線が、まぶたの裏に残っている。
 ふたたび目をあけたとき、左手をご覧ください、とスピーカーがいった。
 左手には切り立った断崖がそびえている。断崖は水面から空に向かってほぼ垂直にのび、切り落としたような頂上には風でねじくれた松の木を乗せている。
 世界でもめずらしい断層がここでは見られるのだ、と女船長が説明している。学術的にもたいそう貴重なものなのです……
 受話器を持ったまま、ぼくはなにもいうことができなかった。ただきみの言葉を聞いているだけだった。
 最後にやっと、
「いつもの場所で待っているよ」
 それだけ伝えることができた。
 きみが帰ってくると、いつも待ち合わせる喫茶店。
「行かないわよ、あたし」
「いいんだ。待っているのはぼくの勝手だから」
 気持ちが悪い、とひとりの少女が泣き顔になっている。少女の背中を、母親がそっとさすってやっている。
 沖に出るほど、うねりは大きくなっているようだ。

 車の中には熱気が立ちこめていた。
 エンジンをかけ、エアコンを最強にする。
 夏も終わりだ。車内の空気の温度がさがるのに、思ったほど時間はかからなかった。
 エアコンを弱にもどすと、車内は静かになった。
 ダッシュボードのガムは、熱気で柔らかくなっていた。包み紙をとろうとしたが、ガムにくっついてしまっていた。無理にはがせば、紙がやぶれてしまうだろう。
 つい数日前も、きみをこの助手席に乗せていたんだった。やはり今日のように暑い日だったけど、あの日のほうが秋からは遠かった。
 仕事が軌道に乗り、きみは出かけることが多くなってきた。こちらですごすよりも、都会ですごす時間のほうが多くなってきたようだ。
 このままぼくたちははなれていってしまうのだろうか。
 車を走らせていくと、日に焼けた高校生が、夏服を着て歩いているのが見えた。彼女たちも一か月もたたないうちに、秋の服を身にまといはじめる。
 車を神社のわきの木陰に置き、喫茶店まで歩くことにした。
 境内をつっきる。敷石の上にはじけた爆竹が散らばっている。やしろの裏手にある栗の木は、小さな青い実をつけはじめている。
 ぼくはその喫茶店にはいった。
 なんだか、まだ身体にうねりの感触が残っているようだ。
 きみは、ここへはもう来ない、といった。ぼくはここへやってきた。
 どうだろうか。
 ぼくは待ってみることにするよ。
 きみはもうここへは来ないかもしれない。でも、ぼくは待つことにしたんだ。
 椅子に深く腰かけ、目をとじ、うねりの感触を思いだす。
 いつだって、夏は終わらせたくない。

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