2009年11月17日火曜日

沖へ

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----- Another Side of the View #5 -----

  「沖へ」 水城雄


 ひろい湖面にほとんど帆影が見えないのは、平日の午後だという理由だけではなかった。
 開店休業といった感じの貸しヨット屋の待合室から水路に張りだしているバルコニーに立って見ると、一面に白波が見えた。灰色の雲がかなりの速度で北からこちらに向かって流れている。が、雨が降りだすまでにはまだ時間がありそうだった。
 少年はいつものようにカゴのすきまから指をつっこんで緑色のオウムをからかってから、桟橋に降りていった。桟橋にも人影はなかった。怒ったオウムの鳴き声が、ここまで聞こえた。
 バルコニーの下のヨット置き場からレーザーをおろし、桟橋の先端までもやい綱を引いてまわしてきた。湖へと続いているこの水路のほうにも、波がたえず寄せてきていた。水路の向かい側にある大学のヨット部の艇庫も、今日は静まりかえっている。
 不安定に揺れ動くディンギーにマストを立てながら、これほどの風の中に出ていったことはあったっけ、と彼はかんがえた。
 父親にレーザーを買ってもらったのは、中学校にはいったとき。その前は、10歳の誕生日に買ってもらったOPディンギーに乗っていた。父親はこの貸しヨット屋で学生アルバイトからセーリングを教わった。ふたりだけで模擬レースをしても、どうしても父親に勝つことができなかった。しかし、レーザー乗りになったいま、おやじに勝つ自信はある。おやじがまだ生きていれば。
 マストを立てると、クリューが固定されていないセールがバタバタとさわいだ。
 ふいに少年は、今日の昼のできごとを思いだした。昼食を終え、体育館に行こうと教室を出ると、渡り廊下のところで彼女に呼びとめられた。
「渡辺くんが手紙をくれたの」
 と、彼女がいった。空にはまだ晴れ間が見えていたが、すでに風が出はじめていた。
「それで?」
 彼はわざとそっけなく訊いた。
「どうしようかと思って」
「なにを?」
「好きだって書いてあった」
 渡り廊下を風が吹きぬけ、彼女のスカートがバタバタとあおられた。それを押える彼女の手を見ながら、彼はいった。
「どうしてぼくにそんなこと、いうのさ」
「だって……」
 そういったきり、彼女はうつむいてしまった。
 少年はどうしていいかわからなかった。下級生のだれかがふたりを冷やかすような視線を向けながら、横をとおっていった。
「学校が終わったら、ヨットに乗りに行くんだ」
 まったく関係のないことをいい残し、彼女に背を向けた。そのときの彼女のびっくりしたような顔が、少年の目に焼きついている。
 それを脳裏から追いはらうように、彼はセールのクリューを引っつかむと、ブームエンドのロープをアウトホールに通した。
 ロープのテンションを調節し、セールをピンと張る。メインシートをブロックにとおす。ラダーを落としこむ。
 カイツブリが一匹、水路の向こう側をかなりの速度で泳ぎ、下手の橋の下に消えた。ホオズキを口の中で鳴らすような音が聞こえるのは、あいつの声だろうか。上手の崖の上では、柳の木がざわざわと身をゆすっている。
 センターボードをたたきこみ、ラダーにエクステンション・ティラーをとおす。
 すべての艤装を終え、彼はもやいを解いた。
 バウラインをコクピットに放りこみ、身体を中にいれながら、残った足で桟橋を強くけりつけた。メインシートを引きこみ、ティラーを引いて風下に向けると、すぐに、充分な風がメインをつかまえた。ハイキング・ストラップに爪先をひっかけ、思いきり身体をデッキの外に出した。
 水路の向こう岸がすぐに迫ってくる。タック。
 タック三回で柳の木の下をクリアして、ひろい湖面に出た。
 ヨットの上で機敏に身体を動かしていると、いつも担任の体育教師がいった言葉を思いだしてしまう。
「協調性がないんだよ、おまえには」
 バスケットボールの試合をしていたのだ、あのときは。
「ただやたらめったら、ひとりで動きゃあいいってもんじゃない」
 そうしてその言葉を思いだすと、母親のいったことまで自動的に思いだしてしまう。
「ちょっとは親のこともかんがえてよね。あんたには思いやりってものがないの?」
 水路の入口のすこし先にある防波堤が迫ってきた。いつごろできたものなのか、大きな岩を積みかさねたかなり古い防波堤だ。
 父親が教えてくれた。
「できれば右側を通過したほうがいい。右側は深くえぐれていて、かなり接近してもだいじょうぶなんだ。左側は水面下に隠れた岩があって、注意しなけりゃいかん」
 タックして右側にかわすことをかんがえた。が、やめた。すこしベアして、左側を通過することにした。シートをすこしゆるめ、接近する。隠れた岩の場所は、波がそこだけ乱れているので、よくわかった。曇っていて、山のほうから風が吹きおろしてくるような日には、本当にそこは危険なのだが。
「あたしの気持ちなんか、なんにもわかってくれない」
 放課後、玄関で上ばきを脱いでいた彼に近づいてきて、彼女は突然そういった。顔をあげると、もう去っていく彼女の背中しか見えなかった。背中に垂らした髪が、いきおいよく左右に振れていた。
 思いきりシートを引きこみ、艇を風上にむけた。親指にからませたシートが食いこんだ。ヒールが強まり、それをつぶすために思いきり身体を外にのけぞらせた。
 頭がほとんど水面につきそうになり、彼に見えるのは、ハルとマストとセールと、そして波しぶきだけになった。
 波しぶきが髪と顔を濡らした。
 そんなふうにして沖まで出ていかなくても、すでに自分が決心してしまっていることを、少年は知らないのだった。

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