2009年11月23日月曜日

夜の音

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----- Another Side of the View #10 -----

  「夜の音」 水城雄


 スタート直後から雨が降りだした。
 いつもそうなのだが、雨が降りはじめると、すべての音が消えてしまったように感じる。船首が水を切る音、ハルに打ちあたる波の音、セールを流れる風の音、ステイが空気を切る音。人の声までがラジオのボリュームをしぼるようにスウッと遠くなり、消えてしまうように思える。クルーも雨とともに、口数が少なくなってしまう。
 闇もまた、雨とともに深まったように思えた。
 岸辺の明かりは、かすんでボウッとしか見えない。ひしめきあうようにして進んでいるレース参加艇のマスト灯も、薄暗くなり、しかしひとまわり大きく見えはじめる。
 やがて、ゆっくりと音がもどってきた。
 隣の艇のコクピットから、ひそひそという人の声が聞こえてくる。どうやら、スピネーカーをあげるかどうかの相談をしているらしい。
 風はきわめて弱い。スタート時、クローズホールドだった風向が、クローズ・リーチぐらいに落ちている。
「スピン、あげるか」
 スキッパーの木野はボソリとつぶやいた。
「いや……」
 森山がためらいがちにいった。
「この風ですからね。それに雨もある」
 若いクルーふたり――星と小木曽――はなにもいわない。いつも作戦は、木野と森山が決める。
「ジブ、もうすこし、出せ」
 木野はジブシートを握っている小木曽に、短く命じた。小木曽がすぐにシートを繰りだす。
「出しすぎ。引いて」
 小木曽があわててウインチを巻く。今度は巻きすぎだ。しかし、まあ、いいだろう。なにもかも自分の思いどおりにはいかない。小木曽もそのうち、おぼえてくれるだろう。
 星のほうは自分でかんがえて、ヒールを作るためにポートサイドのデッキ上にしゃがんでいる。
「隣、あげてますね」
 星にいわれ、首をねじって隣の艇を見た。なるほど、スピンをあげはじめている。ポールをあげるウインチの音が、水面を伝わってきた。さらに向こうの艇も、あげているようだ。こちら側にブローでもあるのだろうか。反対側の船団は、まだ一艇もあげていない。
 午後10時スタート、翌朝午前8時前後のゴール予定というナイトレースだった。参加艇はさすがに少なく、艇長会議では31杯と発表された。
 この風だと、しかし、午前8時にゴールすることなど不可能だ。
 できれば、午前10時には後片づけを終え、家にもどりたかったのだが。種子島宇宙センターの単身赴任から、ひさしぶりに帰宅したのだ。昨夜、出てくる前、小学校2年になる息子に、ラジコンのヘリコプターの組立てを手伝ってやる約束をしてきた。
 隣艇のスピンが、闇の中に白く浮かびあがった。デッキからの懐中電燈の光に照らされて、なまめかしく揺れている。風が弱く、不安定だ。ともすれば、タック側に裏風がはいりこみ、つぶれそうになっている。
 あげるか……その言葉を口の中にため、木野は森山のほうを見た。森山も隣艇の動きを注視している。
 並走していた隣艇が、スウッと前に出た。
 風が出てきたか?
「あげるぞ!」
 木野が全員に命令した。
 森山と星がフォアデッキに走った。小木曽がハッチをあけ、キャビンにもぐりこんだ。
 いうべき言葉を、いまは胸にためこみ、木野はフォアデッキのふたりの動きを注視した。
 森山がスピンポールをセットしている。
 小木曽がスピネーカーのセールバッグを持って、キャビンから出てきた。フォアデッキに走る。
 小木曽の動きはよかったが、ハッチを閉め忘れている。この雨なのだ。閉めなければキャビンがびしょ濡れになるのだ。
 わかってるってば……不意に声が聞こえ、木野はあたりを見まわした。いや、もちろん、頭の中から聞こえてきた声だ。小木曽の声であるはずがなかった。
 わかってるってば、あとでやろうと思ってたんだよ……息子の声だった。
 うるさいなあ、おとうさん。
 ティラー・エクステンションを持つ手のこぶしが、力をいれすぎて白くなっている。これでなぐられたとき、幼ない息子はどんな気分だったのか。
「ぐずぐずするな!」
 スピンがなかなかあがらない。
「なにをやってる?」
「アフター・ガイが……」
 星が言葉を途中でとめた。
「オーケイ! いいです!」
「あげるぞ!」
「はい!」
「よし、あげろ!」
 森山がスピン・ハリヤードを力まかせに引いた。
 スピネーカーがまっすぐにあがり、それからたよりなげに風をはらみはじめた。
「ガイ、引け! シート、引け!」
 つぶれる。
 ぐずぐずするな。レースなんだぞ。なんのためにやってんだ。
 木野は言葉を腹の中に押えこんだ。
 艇速が増した手応えがあった。やはりあげるべきだったのだ。できれば、他の艇の様子などうかがう前に、決断したかった。
 おれという男は……
 木野は奥歯をかみしめた。
 フォアデッキでは、小木曽がジブシートの取りこみを終えたところだった。
 コクピットにもどってきた小木曽に、いった。
「ハッチをあけっぱなしにするな。雨が降ってるのがわからんのか。中がびしょ濡れになっちまうだろう。雨のときは、出入りするたびにハッチを閉めるんだ。わかったか」
「はい、すんません」
 小木曽がこたえ、身体をちぢめるようにしてコクピットにしゃがみこんだ。ちゃんとしたオイルスキンを持っていない彼は、ぐしょ濡れになっている。
 この調子で風が強まってくれれば、明朝は早めにゴールできるかもしれない。
 木野はさらに、なにかいおうと口を開きかけた。が、結局は口をむすんでしまった。
 この気持ちを伝えられる言葉など、彼には持ちあわせがなかったのだ。

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