2009年11月13日金曜日

雪原の音

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----- 音楽祭用短編 -----

  「雪原の音」 水城雄


 どこまでも続く雪原を渡りながら、夏のできごとを思いだしている。
 待ち合わせ場所にあらわれたきみは、暖炉から取りだしたばかりのマシュマロみたいな笑顔を浮かべた。
 はにかんで首をかたむけるしぐさ。肩よりすこし長い髪がゆれ、横にならぶといいにおいがした。
「ビールを飲みに行こう」
 ぼくはそういって、きみの背中をそっと押した。
 その掌の感触を思いだしながら、ぼくは雪原を歩いている。
 まるで夢の中のような光景だ。ゆるやかな起伏が曲線を描いて、はるかかなたに見える山の裾野までつづいている。
 白亜の起伏。
 冬の太陽がななめに照りつけ、起伏を強調している。まろやかな雪のふくらみのてっぺんは、光を反射してきらきらと輝いている。
 ふくらみの谷の部分、日陰になった場所を、なにかの足跡が点々とたどっていた。たぶん野うさぎだろう。まだ冷えきっていない昨夜の宵のうちに歩いたらしい。月光の中で目を赤く光らせながら、雪原をたどっていく野うさぎの姿を、ぼくは想像してみた。
 意味もなく、笑みが浮かんでしまう。
 だれもいないのに照れくさくなって顔に手をやると、手袋に凍りついた水滴がびっくりするほど冷たかった。
 ぼくは野うさぎの足跡をたどるように、雪を踏んでいった。
 夜の間にかたく凍りついた雪の表面は、ぼくがしっかりと体重を乗せても、びくともしない。きっと昼すぎまではこの雪原がゆるむことはないだろう。
 行く手のかなたにある立木から、粉のような雪が音もなく落ちるのを見た。ほとんど風もない冴えわたった大気に、拡散され、きらめき、雪原へと降りそそぐ水の結晶たち。
 ふいに音楽が聞こえた。
 ぼくは立ちどまり、あたりを見回す。
 だれもいない。
 ぐるっと身体をまわしてたしかめてみたが、ここにいるのはぼくひとりだ。でも、音楽が確かに聞こえてくる。
 ピアノの音。
 なんの曲だ?
 妙になつかしい……柔らかな旋律の……ゆるやかなテンポの……
 ――サティみたいだ。
 ぼくは思って、耳をすました。でも、サティではない。柔らかな旋律をささえる不響和音の進行が、曲に心地よい緊張感を作りだしている。ちょうど枯れ枝からこぼれた粉雪が、風のない大気に複雑なきらめきを残しながら拡散していくような……
 この曲は……サティよりずっと新しく……そして同時に古くもあるような……過去と未来を切りむすぶみたいで……
 聞きおぼえがあることを、思いだした。
 あのとき、あのバーで、きみは、ぼくがひどくビールを飲みたがることをおかしがった。
 ぼくはバーテンダーにビールをせかし、あわただしく飲んだ。ひどくかわいていた。
 なかば飲みほし、ようやく落ちついた。
 きみが横にいた。ぼくの横にならんですわっている。ぼくは初めて会った人のように、きみを発見した。きみはマシュマロみたいな笑みを浮かべ、髪からはいいにおいをさせ、そして音楽に包まれていた。
 そう、あのときの曲だ、これは。過去と未来を切りむすぶ曲。
 いま、きみがすぐ近くにいることを、感じる。
 どこにいる?
 ぼくはふたたび、雪原に足を踏みだした。
 靴底が氷の粒を踏みかためるざっくりとした感触。登山家にでもなったような気分だ。雪原を登っていくぼく。ざくざくと踏みながら、野うさぎの足跡をたどって歩いた。
 ピアノの音はどんどん近くなってくる。
 エアコンのよくきいたあのバーで、きみはすこし寒いといった。寒いといって、首をすこしかしげた。いまとなっては、それがきみの癖だということがわかる。
 ぼくは、
「冬だったらコートを貸せるのに」
 と思った。思ったけれど、口には出さなかった。口に出してしまうと嘘になってしまう気持ちというのは、確かにあるからだ。伝えるためには、長編小説を一冊書くか……そう、一曲の演奏が必要だ。
 ぼくは黙ってピアノ曲を聞いている。
 ゆるやかなリズムから、ふいにテンポが増し、音の密度が増えた。ぼくはひとつの音も聞きのがすまいと、耳をすます。
 密度はどんどん高まり、音はまるで壁のように分厚くなっていく。
 それにしても、この密度の濃さはなんだ。
 ――そうか。
 とぼくは思いあたる。ピアノは一台ではなかった。これは音の響宴だ。会話だ。過去と未来の音が出会い、出会いの喜びを表現しているのだ。
 ぼくは音の粒を追うことをあきらめ、音の波の中に身をまかせた。
 冷たくもあり、暖かくある。古くもあり、新しくもある。柔らかくもあり、鋭くもある。優しくもあり、激しくもある。
 まるでぼくら自身のように、音はいろんな顔を見せる。
 雪原を歩いていたぼくの身体は、いつしか静かに空中へと浮かびあがっていた。
 眼下に広がる果てしない雪原。
 どこから来て、どこへ行くとも知れぬ野うさぎの足跡。
 枝いっぱいに粉雪をためた枯れ木の森。
 雪のうねりをきらめかせながら、太陽が空を飛行した。
 突風にあおられ、ぼくの身体が一回転した。いや、突風と思ったのは、曲の転調だった。
 ふらふらするぼくの身体を、だれかがつかんだ。
 背後から腰にまわされたその手をつかんで、ぼくはすぐにそれがきみだとわかった。ちいさな、ぼくの掌にすっぽり収まる、きみの手。
「やあ、また会えたね」
 きみは首をすこしかしげ、笑みを浮かべた。あの、柔らかな笑みを。
 ぼくがコートの前をあけると、きみは中にするりともぐりこんできた。
 コートの中にすっぽりときみを包みこんでしまったぼくは、ゆっくりと雪原へと降りていく。
 曲はふたたびテンポをゆるめ、終曲へとむかっているようだ。
 過去と未来を、きみとぼくを、そしてあらゆるものを包みこんで、音は雪原へと舞いおりていく。

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