2009年12月9日水曜日

梅雨の合間に聴くマーチ

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----- Another Side of the View #7 -----

  「梅雨の合間に聴くマーチ」 水城雄


 もどってこようとしていたスナイプが、タックに失敗してひっくりかえるのが見えた。
 乗っているのは20代のカップルだ。ベアしすぎた艇はセールから風を逃がしきれず、ゆっくりと左舷から倒れていった。ふたりとも慣れていないらしく、センターボードに乗りうつるひまもなく、湖に落っこちてしまった。
 まあ、今日の天気なら寒くはないだろう。ライフジャケットも着ていることだし。
 そう思いながら、次の客のためにセッティングしかけていた別のスナイプのシートブロックを桟橋に放りだし、彼はモーターボートのほうに行きかけた。どうやらあの様子では、自力で起こせそうになかったからだ。
 梅雨にはいったばかりだというのに、からりと晴れていた。しかし空はこの天気を長くつづけるつもりはないらしく、西風が強く吹きはじめていた。このあたりではこの風を三井寺風と呼んでいる。この風が吹きはじめると、だいたい天候は悪い方向にむかう。貸しヨット屋にはあまりうれしい風ではなかった。
 小型のモーターボートが艇庫と桟橋にはさまれた狭い水路につながれている。そのもやいをときかけたとき、エンジン音が聞こえた。大きいほうのモーターボートが桟橋の下からゆっくりと走ってきた。ついいましがた、水上スキーの客をおろしたところだった。
 ハンドルを握っているおじさんがいった。
「高橋くん、わしが行くからええわ。あっちの準備、先にしたってや。お客さんが待ってるさかい」
 小柄だががっしりした体格。浅黒い顔。白いスポーツシャツ。頭には船長帽をのっけている。
「わかりました」
 こたえると、おじさんはエンジン音をあげて沖にむかった。モーターボートに取りつけてあるカーステレオから、威勢のいい行進曲が聞こえてきた。星条旗よ永遠なれ。
 見送り、スナイプの準備にもどった。
 朝からやけにいそがしかった。梅雨入り宣言がされたくせに天気がいいので、いまのうちに乗っておこうと客が殺到したのかもしれない。時給いくらの学生アルバイトの身としては、いささかつらい。もっとも平日は楽をさせてもらっているのだが。
 それに風が悪く、やたら沈(ちん)が多かった。たまに来る客の中には、沖からの順調な風しか知らない者もいる。桟橋のある水路から湖へいつものように間切って出ようとして、とまどったりしている。そういう客たちの面倒を見てやらねばならないばかりか、アルバイトは出艇、着艇をひとりで切りまわさなければならなかった。おじさんはおじさんで、水上スキーの客の応対に追われている。
 ひっくりかえっていたスナイプが、おじさんのモーターボートに引かれ、セールをバタバタいわせながらもどってきた。若いカップルは頭からずぶ濡れになっている。それを気の毒がっているひまはない。準備ができたスナイプに次の客を乗せ、送りだしてから、もどってきた艇の後始末に取りかかった。

 四時をすぎてから風がさらに強まった。
 これから出ていこうという客はいなかったが、いても出せないほどに強い西風が吹きはじめていた。
 彼はおじさんとふたりで、帰ってきた艇の始末をしていた。もどってきたディンギーは、シート類をはずし、センターボードとラダーを抜く。メインセールはブームに巻き、ジブはたたんで、それぞれ倉庫にしまう。そうして船はおじさんとふたりがかりで、船台にひっぱりあげ、ウエスで丁寧にふき、カバーをかけて艇庫にしまう。
 艇の始末をほとんど終えかけたとき、まだ1杯、帰っていないことに気づいた。
「おじさん、シカーラが1杯、もどってません」
 船台にあげた艇にカバーをかける作業の手をとめ、おじさんは顔をあげた。
 沖を見る。もう帆影はほとんど見えない。はるか沖に見える数枚の白いセールは、おそらくクルーザーのものだろう。
「いつ出たやつや?」
「2時間以上前ですよ」
「村山さんやな。奥さんとふたりで出たやつやろ?」
「そうだと思います」
 風を見る。水路の対岸の柳が、びゅうびゅうと風になびいている。セールをおろしてまだ桟橋につないである艇のリギンが、カチャカチャと激しく音を立てていた。
「無理やな、この風やと。高橋くん、いっしょに来てくれへんか」
 彼もコクピットのビルジの掃除を中断し、おじさんの後についていった。
 大きなほうのモーターボートに乗りこむ。
 おじさんがイグニション・キーを回すと、ボートは低く震動をはじめ、同時にいれっぱなしになっていたカセットテープから音楽が流れはじめた。行進曲〈士官候補生〉だった。
 おじさんがグイとレバーを倒すと、モーターボートは船首をもたげ、沖にむかっ
て勢いよく走りだした。
「どっちに行ったのかわかるんですか?」
「唐崎(からさき)やな。村山さんはいつも、あっちのほうに行くんや。奥さんを乗せるときには特にな。あのへんのどこかに避難してるんとちゃうか」
「だといいですね」
「村山さんはしっかりした人や。ヨットはまだ下手やけどな」
「おじさん、マーチが好きなんですね」
「ああ。船に乗るときはこれが一番や。調子ええやろ?」
「そうですね」
「このテープは特に豪華やで。なにしろニューヨーク・フィルやからな。指揮はバーンスタインやで。気分がシャキッとする」
 おじさんのいったとおり、唐崎の手前のちいさなマリーナの桟橋に避難しているシカーラが、見つかった。
「高橋くん、わしがシカーラを引っぱる、あっちで舵持っててくれんか」
 曲は〈士官校補生〉から〈双頭の鷲のもとに〉に変わった。
 モーターボートが近づいていくと、ふたりの人影が桟橋で大きく手を振った。

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