2009年12月2日水曜日

嵐の中の温泉

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----- Urban Cruising #11 -----

  「嵐の中の温泉」 水城雄


 湯からあがると、ようやく彼女の顔がほころんだ。
 たたきつけてくる雨と風。巨石をころがすゴロゴロという音を伝えてくる濁流。山肌からふき出すわき水。
 ここに来たいといいだしたのは、彼女のほうなのだが。

 秋を呼ぶかのような台風の中を、たたきつけてくる風雨にさからってハンドルを切った。
 夕刻にはまだ間があるというのに、もうヘッドライトをつけねばならない。助手席の彼女の顔は、すこし青ざめている。
「明日、帰れるかしら」
 という彼女の言葉に、不安が凝縮されている。
 ラジオの天気予報によると、なんでも、台風が九州南部に上陸したということだ。そのラジオも、いまでは雑音を伝えるばかりだ。電波もこの山中まではとどかないらしい。
 温泉に行きたい、といいだしたのは、彼女のほうだった。近ごろの温泉ブームの影響を受けたのか、あるいは都会育ちの彼女にとって、田舎の温泉がめずらしかったのか、ずっと以前話したことのある温泉の名前を、彼女が出してきた。会社の同僚たちと、イワナ釣りのための宿にした山奥の温泉宿。
 その温泉の名を標識に見てから、もうずいぶん走ったような気がする。
 県境へと続く山道。整備された広い二車線の国道は走りやすかったが、温泉へとつづくわき道にはいってからは、荒天のせいもあって緊張を強いられている。車二台がすれちがえるかどうかという細い山道。ところどころある未舗装の箇所には、濁った水たまりができている。山肌からは、わき水があふれだし、いまにも崖くずれを起こしそうな心配にかられる。
 明日、帰れるだろうか、という不安は、なにも彼女だけのものではない。明日はふたりで、両親に会うことになっている。

 古い木造建築の温泉宿は、迫りくる山と濁流にはさまれるようにして、いかにも頼りなげに建っていた。
 犬が鳴いている。
 お寺の本堂前のような木の階段を踏みしめて、建物にはいる。がらんとした中にむかって、呼んでみる。
 すぐに返事があり、頭に手ぬぐいを巻いたたくましい男が、中から出てきた。
 名前をつげると、予約をうけたまわってますといって、てきぱきと奥へ案内する。その背中にむかって、たずねてみた。
「明日、だいじょうぶでしょうか」
 すると、なにがだいじょうぶなのか、とも聞きかえさずに、男は力強くうなずきながら、こたえた。
「だいじょうぶです」
「帰れますかね、ちゃんと」
「だいじょうぶです」
 だいじょうぶです、の一本やりだ。その一途ないいかたに、彼女が目にみえてほっとするのがわかった。
 それでも、本当に彼女がくつろいで顔になったのは、湯にはいってからだった。
 夕食前に、すでに用意されていた湯にはいった。泊まり客はほかにもいるようだが、多くはない。浴場にはだれもいなかった。
 男湯と女湯の仕切り越しに、話しかけてみる。
「ちょっと熱いね、お湯」
「そうね」
 くぐもった彼女の声が、すぐに帰ってきた。
「どんどん埋めてるよ、おれ」
 仕切越しに話すのは、なぜだか気恥ずかしい感じだった。

 食事がすむと、なにもすることがなくなった。
 テレビはあるのだが、普通のチャンネルはうつらない。衛星放送がはいるが、なんだか外国のニュースばかりやっていて、つまらない。
 食事はうまかった。イワナの塩焼き、アマゴのフライ、山菜の数々。彼女の顔がみるみるほころんでくる。
 食事のあとかたづけが終わってからすぐに敷いてもらった布団に寝そべっていると、ゴウゴウという谷川の音が聞こえてきた。雷はもう鳴っていないが、雨は降りつづいており、川が大きな石をころがしていくゴロゴロいう音が伝わってくる。
 雨にすっぽりとつつみこまれた宿で、これからのことを彼女とすこし話した。
 明日は両親に会わなければならない。
「きみのこと、どう説明するかな」
「そうね。いきなり連れていったりして、さぞかしびっくりするでしょうね」
 男みたいに両手を頭の下に組み、天井を見上げながら彼女がいう。
 他の泊まり客たちはどうしているのか、宿の中はしんと静まりかえっている。
「もう一度、風呂にはいってこようか」
 そう提案してみた。せっかく温泉に来たことだし。
 返事がないので、彼女のほうを見ると、目を閉じている。寝息が聞こえてくる。
 なんだ。もう眠ってしまったのか。
 ひとりで湯につかり、部屋にもどってみると、彼女は横むきになり、幼児のように丸くなって眠っていた。
 布団を肩までかぶせてやりながら、思った。
 両親にははっきりいうべきだな。この人と結婚することに決めた、と。

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