2009年12月21日月曜日

爪を切る

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----- Urban Cruising #18 -----

  「爪を切る」 水城雄


 いつもそうなのだが、パソコンのキーをたたいていると、爪がのびていることに気づいた。
 腕をまわし、こりかけた肩をほぐしてから、立ちあがった。
 事務所にはぼく以外、だれもいない。
 爪切りはだれが持っていたんだっけ、とぼくは考えた。
 いつも、経理の女の子から借りていたのだ。
 が、今日は彼女、休みらしい。朝から見かけない。
 課長は出張だし、部長はもとより、めったに事務所に顔を出さない。
 たいして広い事務所ではない。が、社員が少ないので、広くかんじられる。
 窓からは、やわらかな太陽の光が差しこんでいる。その光の中でゆっくりと動いているほこりが見えた。
 窓際に置いてある花瓶のコスモスが、やや首をうなだれている。経理の女の子が持ってきたものだろう。水をかえてやらなければならないな、とぼくはぼんやり考えた。
 立ちあがり、経理の女性の机の前に立った。
 すこしためらってから、引きだしをあける。なに、爪切りを借りるだけだ。かまわないだろう。爪切りを借りるためだけに、明日の朝まで待っているなんて、ばかばかしい。
 右の引き出しの一番上。ペン・トレイの中。
 シャープペンや消しゴム、髪どめなどにまじって、ちいさな爪切りがそこにあった。
 ぼくは爪切りをつまみあげると、いそいで引きだしをしめた。
 事務所の中をなぜか見まわしてしまう。
 下の通りを走る車からの反射だろうか、天井が一瞬、きらりと明るくなって、影が動いた。

 ギシギシ鳴る事務用の椅子に腰をかけ、机の下のゴミ箱を引きよせた。
 ゴミ箱の上に左手をかざし、右手に爪切りをかまえる。
 そろそろ新しい椅子を支給してもらいたいものだ、なんてことをぼんやり考えた。
 爪切りを左手の親指にあてる。
 爪の生えぎわが、三日月型に白っぽくなっている。昔、この部分がたくさん出ていればいるほど健康なんだ、ということを聞いたような気がするな。あれはほんとうなんだろうか。もしほんとうだとすれば、いまのぼくはきわめて健康だ、ということになる。
 念のためにほかの指もあらためてみたが、左右の小指をのぞいてすべて三日月型の白い部分が見えている。その部分のことをなんていうんだろうか。
 爪を切りはじめる。
 パチンという小気味良い音とともに、爪がゴミ箱の中へとはじき飛ばされる。ゴミ箱は、今日まだ一度も使っていないので、からっぽだ。昨日、帰るときに経理の子がきれいにしていったのだろう。
 親指を切りおえ、ひとさし指に取りかかる。
 そういえば、あの経理の子も、はいってきたときにはずいぶんういういしい感じがしたものだが、最近ではすっかり、OLっぽくなってしまっている。入社して何年になるんだろう。
 そもそも彼女はいま、何才なんだ?
 たぶん、二十五は越えているな。
 彼女もやがて結婚し、たぶん会社をやめ、子供を作り、ふつうのおばさんになってしまうんだろうな。それが人生というものだ。
 中指の爪を切りながら、じゃあおれの人生とはなんなんだ、とぼくは自問した。

 左手の爪をすっかり切りおえ、右手に取りかかった。
 そのときふいに、ある光景が目の前に浮かんだ。
 ぼくは畳に正座している。傘のついた白熱電灯の明かりが、ぼくをつつみこんでいる。ぼくの手は、だれかのあたたかい手につかまれており、ぼくはそれを見ている。
 ぼくの手をつかんでいるのは、ぼくの母親だ。ぼくはおふくろに爪を切ってもらっているのだ。
 たぶん、小学校にはいったばかりの記憶だろう。いや、小学校にはいる前の記憶かもしれない。埋もれていた記憶が、たったひとり、事務所で爪を切っているとき、ふいによみがえったのだ。
 たったひとりで事務所に残り、爪を切ることがなければ、そのまま一生思いだすこともなかったかもしれない。母親に爪を切ってもらった暖かな思い出は、ぼくの心の奥底に埋もれたまま、ぼくとともに年老いていき、やがてはぼくとともに消えてしまうのだ。
 そんな記憶って、いったいどのくらいあるのだろうか。
 ぼくの中で眠っている記憶って、どのくらいあるのだろうか。
 そんなことをひとり考えていると、ふいにぼくは悲しみをおぼえた。
 ぼくがおぼえている光景、おぼえている人々、おぼえている物語、こういったものはいずれ、すべて消滅してしまうのだ。ぼくとともに。
 ぼくが生き、そして死んでいく、ということは、どういうことなんだろう。
 ぼくは爪を切るのを中断し、窓ぎわのコスモスを見つめた。
 それは相変わらず、すこしばかりうなだれている。
 花瓶の水をかえるために、ぼくは爪切りを置くと、椅子から立ちあがった。

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