2010年2月20日土曜日

An Octpus

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #38 -----

  「An Octpus」 水城雄


「釣りたいんだけど、乗せてくれる舟はないかな」
 英語で話しかけると、見るからに漁師風のまっ黒に日焼けした男は、無表情に彼を見返した。
 通じないのか? それもやむをえない。イタリア語ですら通じないかもしれない。なにしろここはマルタ島なのだから。
 それにしても、なぜおれはこんなところに?
 あきらめて、英語が通じそうなところはないかとその場を離れかけると、思いがけず漁師が返事をした。
「わしの舟でよければ、乗りな」
 そこそこの英語だ。強いなまりはあるが、意味はわかる。
「あんたの舟って?」
「そら、あそこに」
 指さした先には、地元でルッツと呼ばれている派手な模様がペイントされた木造の小舟が見えた。このあたりの漁船だ。
「なにが釣れる?」
「なんだって。いまの時期だと蛸がいい」
「タコね……」
「あんた、日本人だろう。タコを食うだろうが。もっとも、知られていないことだが、わしらマルタ人もタコを食う。ちなみに、ギリシアの連中もな」
 まあいい。釣果が目的ではない。ただなんとなく釣りをしてみたくなっただけだ。
 学生時代、マルタで生まれたという同級生の女がいた。父親の仕事のために一家でそこに住んでいた。いい島だと彼女はいっていた。
 学生のときに立ちあげた会社がたまたまうまくいき、若い起業家としてマスコミからもてはやされた。実際、業績ものび、株式上場するまでに急成長した。株によって多額の資金を手に入れ、結婚もして順風満帆に思われた矢先、インサイダー取引疑惑で内偵が進められているという情報がはいった。さらに、写真週刊誌にはアイドルタレントとの火遊びをすっぱ抜かれた。実際、少しのぼせあがっていたところはあると、自分でも自覚している。
 ほとぼりをさますべく、ひとり、見知らぬ島に逃げてきた。妻にも行き先は伝えていない。来てみれば、乾いた砂ぼこりと、白い土壁ばかりの土地だ。なにもない。ただ、海と空は見たこともないほど美しかった。
 丘の上のホテルの窓から、ちっぽけな漁船が浮かぶ湾をながめていて、唐突に「釣りでもするか」と思いたった。日本にもどれば、ほとぼりがさめるどころか、検察が手ぐすねひいて待っているのかもしれない。なぜか知らないけれど、いま、美しい海にわが身を浮かべてみたくなった。置きざりにしてきた妻も、まだ子どもといってもいいようなアイドルタレントのことも、いまはどうでもいい。
 海に出ると景色が変わった。赤茶けた丘と、そこに建ちならぶ白い壁の家。海側から見るマルタの街は、ジオラマのようだ。
 釣糸をたらしてしばらくすると、手ごたえがあった。ぐねぐねと抵抗する感触を力ずくで引張りあげると、いきなり墨を引っかけられた。
 漁師が遠慮のない笑い声を彼に浴びせかける。顔の墨を指さして、ゲラゲラ笑っている。
「いいさ、そうやって笑ってろ」
 どうせおれはそういう人間なんだ。これまでだって、けっこううまくやってきたように見えて、じつは無理してた。かっこばっかりつけてた。ほんとは笑われて、こきおろされて、馬鹿にされるのがちょうどいい男なんだ。かんがえてみれば、ガキのころからいつも馬鹿にされていた。だから見返そうと思って無理を重ねてきた。
 こちらの日本語に対抗したのか、漁師が笑いながらマルタ語でなにかいう。もちろんなにをいっているのかわからない。
 墨を引っかけた蛸は、ルッツの船底でぐにゃぐにゃと足をよじらせてあがいている。自分そっくりだと思った。
 彼は着ているものを全部脱いだ。船べりに足をかけ、頭から思いきり海に飛びこんだ。
 浮かびあがると、気でも狂ったのかという顔でこちらを見下ろしている漁師の顔があった。それを見て、彼は笑いだした。いましがた笑われた分まで笑い返してやった。
 素っ裸のまま海面に仰向けになる。
 漁師がなにかいっている。今度は英語かもしれない。波の音に消されて聞こえない。
 真っ青な空と地中海の雲が、彼の網膜に焼きつけられる。
 よし、日本に帰るか。帰ってまたひとあがきするか、と彼は思う。

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