2010年2月25日木曜日

単独行

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

----- Urban Cruising #2 -----

  「単独行」 水城雄


 山道にさしかかると、視界が緑におおわれた。
 エアコンをとめ、車の窓を開放した。
 草いきれ、木々の香り、谷川の音。そういったものがドッと車内に流れこんできて、思わず微笑してしまう。
 スピードを落とし、緑の空気を楽しみながら、ゆったりとハンドルを切る。
 ぼくは部長に休戦宣言をして、ここにやってきた。
 いや、ことによると、あれは部長にとって、ぼくからの宣戦布告だったのかもしれない。
 まあいい、そんなことは。いまぼくはひとりでここにやってきた。
 それでいい。
 一か月前の日曜日、すでにロケーションはすませてある。テントを張れそうな場所も見つけてある。
 ほんとうは、自転車か徒歩でここにやってきたかったのだ。が、もらった休暇が三日では、ぜいたくはいえない。それでもギリギリの線だ、と部長はいったものだ。いまの時期をなんだと考えているんだ。
 山道を走りはじめて約二十分、ぼくは目的の場所についた。
 いちおう舗装は完備しているが、道はほそくまがりくねっている。道の右側には、谷川が流れている。
 ぼくが車をとめたところは、ちいさなダムがあった。ダムで川がせきとめられ、上流は細長い湖になっている。雨があがって数日たっているため、水のにごりはとれていた。しかし、あたりには雑草がたくましく生い茂っている。
 ぼくは車から荷物を下ろすと、それを背にかつぎあげ、ダムを渡った。
 ダムの向こう側に、道路からはまったく見えず、それでいて湖の水面をすっかり見わたせる絶好の場所があるのを、すでに確認してある。
 そこでこれから三日間、すごすのだ。
 テントの中で。
 ひとりのぜいたくな時をすごす。

 二日めの朝、ぼくは川をさかのぼった。
 手に一本の竿を持って。
 大きな岩の上に腰をおろし、谷川の音を聞きながら、仕掛けを作る。
 川にはいり、岩を返して岩虫をさがす。
 見つけた岩虫は、口にくわえた笹の葉に貼りつけておく。そうすればいつでも餌が必要なときに、針にかけることができる。
 岩虫を針にとおし、流れがうずを巻いている深みにむかって、糸を投げこむ。
 糸を流しながら、岩かげに身体をひそませる。
 そうやって魚と知恵をくらべあっていると、日常のさまざまな思いが肩から抜けおち、身体が軽くなってくるのを感じる。
 ぼくは部長のことを考えた。
 この三日間の休暇を取るのに、彼とはひと悶着あった。なぜこの時期に休暇なんか、というわけだ。おまえ、いま会社がどういう状態なのかわかってるのか。
 わかっているとも。しかし、部長に、部下の営業成績しか頭にないような男に、ぼくのなにがわかる?
 まあいい。
 いまはぼくの時だ。
 日常からときはなたれた、ぼくの時間だ。
 会社も家庭も忘れ、いまは魚との知恵くらべに、うつつを抜かすのだ。
 いきなりラインが引きこまれ、棹が大きくしなった。グイと棹を立てる。針が魚の上顎にしっかり食いこむ感触が伝わってきた。
 魚め。勝負あったな。
 いや、まだわからないとも。勝負ははじまったばかりだ。
 いつの間にか、ぼくの身体の中に、漁師がすべりこんでいる。
 たけりたったやつ、大きなイワナが、銀色の身体をひらめかせて、水面を走った。

 星だ。
 星々だ。
 何年ぶりだろう、星を見るのは。
 確かに、仕事帰りに夜空に、星のまたたきを見ることはある。が、あれは星を見るとはいえない。仕事帰りに見る夜空は、狭く、暗い。屋根やアンテナや電柱やビルディングにかこまれ、ひどく視界が狭い。
 そして、暗い。
 いや、逆に明るいというべきか。
 つまり、街頭や家々の明かりが明るくて、星の光が暗いのだ。
 いまこうやって夜空をながめていると、街の中では見えないじつに多くの星が見える。
 それを見つめていると、すうーっと立ちくらみを起こしそうな感覚に引きこまれる。自分がまさに、この大地、地球という星の表面にへばりつき、星々の空間にただよっているのだ、という感覚。
 うん。この感覚。あいつにも味わせてたい。もうすぐ五歳になろうという、ぼくの息子。
 よし。今度はやつとふたりでここにやってこよう。
 ぼくがやつに伝えられることなど、たかが知れているが、その星々を見せるだけで、やつはぼくのなにかを理解するはずだ。ぼくの息子なのだから。
 明日はまた、家庭にもどる。
 いまのこの心を、そのまま持って帰れることができるだろうか。もしそれが可能なら、すごい土産になるぞ。そして語ってやろう、やつに。父がいかにしてテントをはり、いかにして火をおこし、いかにして魚と闘ったかを。
 そしてその次の日は、また仕事という戦場に出ていくのだ。
 部長め。ぼくを待ちかまえていることだろう。
 上等だ。やってやろうじゃないか。
 うむ。彼にもきっと、息子がいる。
 彼も彼なりに戦っているのだ。
 よし。彼に応えてやろうじゃないか。
 ぼくはテントにもぐりこむと、目をとじた。
 夜がぼくをすっぽりと、つつみこんだ。

2 件のコメント: