2010年12月15日水曜日

特殊相対性の女(2)

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----- 役者と朗読者のためのシナリオ -----

「どうして彼はわたしを選んだのだろう、とよく考える。あるいは、どうしてわたしは彼に選ばれたのだろう、と。
 わたしは、ドジでわがままな女だ。とりたてて美人でもなければ、スタイルもよくない。背も高くないし、顔はソバカスだらけだ。
 わたしの毎日は、失敗の連続だ。
 ヤカンを火にかけていたことを忘れて、黒コゲにしてしまう。ホットケーキを引っくりかえそうとして、床に落としてしまう。
 トーストはかならず、バターのついたほうを下にして落としてしまう。洗い物ではかならず、コップを割ってしまう。ご飯は、硬すぎるか、柔らかすぎるようにしか炊けない。掃除機を振りまわしては、花瓶を割ってしまう。読んでいる本にはソースをこぼし、新聞にはコーヒーをぶちまけてしまう。買ってきた卵はかならず割ってしまうし、豆腐はきっとくずしてしまう。階段ではつまずく。キーをつけたまま、車のドアをロックしてしまう。キャッシュカードはどこかに置き忘れる。財布は電話ボックスに忘れてきてしまう。セーターを洗えば、ツーサイズも縮めてしまう。こんなわたしを、どうして彼は選んでくれたのだろう」

 畑から林のなかを抜けて岬の突端の灯台へとつづくぬかるんだ道を彼女はとぼとぼと歩いてもどりながら彼のことをかんがえ、そして両手で抱えている玉子を入れたカゴに目を落とす。
 ふと、立ちどまる。
 玉子をひとつ取ってみる。白くて、まだあたたかい。殻も柔らかくて、いまにも割れてしまいそうだ。
 そっと頬にあててみる。
 自分もこの玉子みたいに生まれたてだったらいいのに、と思う。しかし彼女は、自分がその玉子にそっくりで、うりふたつで、まだ生まれたてといっていいほどであることには、気づいていない。

「彼はいう。そんなことを気にすることはないよ。そんなつまらないことを。きみにはもっと大切な、すばらしいことがあるんだから、と。
 そんなことって本当だろうか。
 うたがうわたしの顔を、彼はじっと見つめているばかりだ」

〔ト書き〕
 次の朗読テキストと役者セリフは、同時に読む。からまったり、交互に会話するように読んだり。二回、くりかえす。一回めは役者は上手側で、二回めは下手側で。

 ぬかるんだ道を灯台へと戻っていきながら、彼女は時空を超える。季節は春から夏の盛りをすぎ、秋へとすぎていく。秋はさらに死の冬へと向かっていく。道のぬかるみは量子の不確定性を増加させ、時間の進行エントロピーを増大させる。
 歩きながら急に彼女は身体の衰えをおぼえる。若いころはあれほど張りのあった筋肉が、いまはしわだらけの皮膚におおわれ垂れている。水たまりを避けるために歩幅を多く取ろうとして、しかし水たまりにスニーカーを突っこんでしまう。自分の足が思ったより遠くに届いていなかった。白いスニーカーはさらに泥水で茶色く汚れる。この汚れはもうどうやったって落とすことはできない。泣きたいのを通りこして、笑いだしたくなる。

「彼に会っていなかったら、わたしはどうなっていただろうか、とよく考える。わたしのような女をつかまえていてくれる人は、彼のほかにいただろうか。
 幼いころからわたしは、まぬけな女だった。おまけに神経質で、すぐに興奮する。
 せっかく旅行に連れていってもらっても、つまらなそうにだまりこくっているかと思えば、急におうちに帰りたいとぐずりだす。話しかけられても返事はしないし、近所の人にも挨拶はできない。毎日のようにいじめられて帰ってくるし、そのくせ熱があってもかくして学校に行こうとする。好き嫌いははげしいし、気にいらない服は絶対に着ようとしない。宿題は忘れる。せっかくおみやげに人形をもらっても、気にいらなければ押入の奥に隠してしまう。彼に会っていなかったら、わたしはどうなっていたのだろう。わたしが日々しでかすことの後始末を、彼はきちんとやっていってくれる。彼がいなければ、わたしはいったいどうしていいのかわからない」

〔ト書き〕
 役者、客席にはいっていく。

 ぬかるんだ道を、彼女は八十歳を超えてようやく抜けだすことができた。

「わたしが眠りにつくとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない」

 灯台の、なかに入る木の扉は、とても重くて、湿っている。

「わたしが眠りにつくとき、彼はいつも目をさましている」

 緑青が浮いている真鍮の取手をガチャリと押しさげ、扉を手前に引く。

「わたしが目をさますとき、彼はもう目をさましている。わたしが目をさましたとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない」

 灯台のなかは薄暗く、光の施設のくせに光を拒絶しているようにすら見える。

「わたしがふと夜中に目をさましたとき、彼はきっと起きている。わたしが夜中に目をさましたとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない」

 薄暗い灯台のなかに足を踏みいれると、最初に見えるのは壁にそって上へと伸びている螺旋状の階段だ。

「そんなとき、わたしは彼にたずねる。あなたは眠らないの? と」

 階段の奥にはキッチンや食料倉庫があり、彼女はそこに取ってきたばかりの玉子を置きに行く。

「彼はこたえる。ああ、ぼくは眠らないのだ、と」

 玉子を置いた彼女は、階段のところに戻り、それを一歩一歩のぼり始める。

「わたしは彼にたずねる。あなたはどうして眠らないの? と」

 筋肉が衰えた私は、階段の一歩をのぼるにもとても時間がかかる。右足の膝をゆっくりとあげ、つま先を階段の上に乗せる。

「すると彼はこたえる。きみを見ているのだ、と。きみを見ていなければならないから、ぼくは眠らないのだ。ぼくはきみを見ていなければならないから、けっして眠らないのだ」

 つま先が段に乗ったら、右足に体重を乗せて力をこめる。膝の痛みをこらえながら、ゆっくりと身体を上に引きあげる。

「きみはなにも心配することはない。なにも気にしなくてもいいんだ」

 どうしてこんなに筋肉が衰えてしまったんだろう、と彼女はかんがえる。ついさっきまで彼女は14歳で、学校でいじめられることを気にしながら、鶏の世話をしていたというのに。でも、だれだって歳は取るし、運が悪ければ病気になる。いや、病気になるのは運とは関係がないことかもしれない。

「ぼくはけっして眠らずに、ここにこうやっているから。わたしは彼のその言葉を信じることができる」

 彼女は一歩一歩、息をあえがせながら、階段をのぼっていく。
 いつの間にか夜が近づいている。
 でも、彼は眠らない人なのだ。

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