2009年10月15日木曜日

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----- Urban Cruising #9 -----

  「猫」 水城雄

 ひとけのないはずの空き家の中で、かすかに空気が動いた。
 彼は部屋に足を踏みいれたところで、立ちどまった。
 だれかがこの部屋にいる。
 もの音は聞こえないのだが。

 仕事場に、と彼がこの空き家を借りたのは、夏のはじめのことだった。
 古い古い民家。いや、農家だろうか。そういう言葉が使えるとしての話だが、築後、ゆうに百年はたっているにちがいなかった。
 山奥の村のはずれの、百坪ほどの敷地に建てられた、二階建ての木造建築。外壁はススでよごれ、ところどころくずれおちている。はがれた板張りの部分には、ベニヤ板を打ちつけてしのいである。庭に面した障子は、もちろん風雨にさらされてボロボロになっている。
 彼がその空き家を借りたとき、家のまわりにはまだ、雪囲いがしてあった。名にしおう豪雪地帯である。
「三年前までおやじがひとりで住んでいたんですが、入院しちまいましてね」
 近くでイワナの養殖をやっているという男が、案内してくれたとき、そう説明してくれた。
 では、この家に年老いた男が、たったひとりで住んでいたというのか?
 家の中には囲炉裏がみっつ。かつて蚕の養殖をしていたという二階は、たっぷり50畳はあろうかという広さである。
 こんなに古く、こんなに広い家を借りて、仕事などできるだろうか。彼は借りると決めるまで、ずいぶんそうやって迷った。
 もちろん、家の玄関には鍵などかかっていないし、もし鍵をかけたところで、その気になればどこからでもはいりこむことはできるだろう。
 もの音こそしなかったが、空気がわずかに動くのを感じた。
 そこにだれかがいるのは、まちがいなかった。

 ひっきりなしにかかってくる電話。
 増えつづける雑用。
 突然たずねてくる知人。
 押しかけてくる物売り。
 そういったものから逃げだしたくて、彼は山奥に仕事場を借りることにしたのだった。
 ボロボロの空き家を、ろくに手入れもせずに、彼は使いはじめた。やったのは、ひとつの部屋だけの床掃除。そこに、ちいさな机、仕事用のパソコン、キャンプ用品のコンロ、寝袋、その他わずかなものだけを持ちこんだ。電話を引き、限られた知人だけに番号を教えた。
 朝早く、妻に用意してもらった弁当を持って、車でその家に向かう。長く差しこんでくる日差しの中で、ちいさなコンロを使ってコーヒーをわかす。谷川の上流から引いてくる村の簡易水道は、冷たく、澄んでいる。
 戸を開けはなった縁側から、山と雲をながめながら、その日最初のコーヒーをゆっくりとすする。崖の下の清流からは、ゆうべの雨で増水した水の音が、立ちのぼってくる。
 コーヒーを飲みおえ、ゆっくりと仕事にとりかかる。
 そうやって一日、ひとりですごしていると、彼は自分が野性にもどっていくのを感じることができる。本来、そうあるべき姿に、自分が立ちもどっていく。
 が、今日は最初から様子がおかしい。だれかがあきらかに部屋の中にいる。
「だれだ? だれかいるのか?」
 全身を緊張させて、彼はそうたずねた。
「ミァア」
 というかぼそい返事が、部屋の奥から帰ってきた。

 なんだ、猫、か……
 肩の力を抜き、彼は部屋の奥をのぞき見る。
 そういえば、この空き家の玄関の戸には、猫が出入りできるように、ちいさく四角い穴があけられていた。三年前までここに住んでいたという老人が飼っていた猫だろうか。
 暗闇から彼女がゆっくり姿をあらわした。
 淡い茶色の猫だった。猫独特のしなやかな肩の動きから、まだそれほど年老いているようには見えなかった。が、ほこりだらけの空き家暮らしのせいか、身体は全体に薄汚れている。
 おい、おまえ。
 彼は猫にそっと語りかけた。
 ずっとここにいたのか? 三年間、ずっとご主人さまを待っていたわけじゃないだろうな。
 猫はそんな彼に、鋭くまっすぐな視線をむけ、しばらく立ちどまっていたが、やがて玄関のほうにゆっくりと歩いていった。
 この村のだれかが、彼女に餌をあたえているに違いない。そうでなければ、こんな山中で生きのびていられるはずはない。それとも、だれにも頼らずにひとり、生きのびているのだろうか。
 山に囲まれたこの静かな家の暗がりで、彼女はこの三年間、いったいなにを見つめてきたのだろうか。彼と同じように、ひたすら自分の野性と向かいあっていたのだろうか。
 先住者である彼女に敬意を表して、明日はみやげに、煮干でも持ってきてやるか。そんなことでこちらの存在を認めてくれるものでもなかろうが。
 猫が出ていった玄関に向かって、彼はひとり、苦笑いをかみしめた。

65 件のコメント:

  1. 素敵な作品ですね。お借りします!

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  2. お借りいたします!

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  3. このコメントは投稿者によって削除されました。

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  4. 配信アプリspoonで読ませて頂きました。ありがとうございます!

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  5. ツイキャスにてお借りしました!

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  6. YouTubeにてお借りします。

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  7. youtubeにてお借りします。とても素敵です。

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  8. 配信でお借り致します。

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  9. LINELIVEで使用させていただきます。

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  10. 素敵な作品ありがとうございます。
    配信アプリにて朗読させていただきました。

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  11. Spoonというアプリで配信しますラジオの朗読コーナーで使用させていただきます。

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  12. 配信にて朗読させていただきました!ありがとうございました!

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  13. 配信アプリ#私を布教してにて、朗読用にお借りします。

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  14. 朗読用にお借りします

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  15. SpoonのCASTに使わせていただきます!

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  16. 配信にお借りします

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  17. お借りします!ありがとうございます!

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  18. Yotubeの配信で使わせて頂きたいと思います。

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  19. YouTubeで借りようと思いますペコ

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  20. ツイキャスで使わせていただきます。

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  21. 朗読配信にてお借りします!

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  22. YouTube用にお借りします。

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  23. YouTubeにてお借りします。

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  24. YouTubeにてお借りします。

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  25. YouTubeにてお借りします

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  26. YouTubeにてお借りします

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  27. スタエフ配信にてお借りします

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  28. 世界観に引き込まれました。配信アプリでお借りいたします。

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  29. お借り致します。

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  30. 配信にて朗読させていただきます

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  31. 配信アプリSpoonにて読ませて頂きました。素敵な作品を生み出して頂きありがとうございます。

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  32. 初めまして、水城様。
    素敵な作品をありがとうございます。
    今回、Youtubeでの朗読動画として読ませていただきました。
    またお世話になることがあるかもしれないので、その時はよろしくお願い致します。

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  33. 素敵な作品をありがとうございます。
    YouTubeで朗読動画として読ませていただきます。

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  34. 初めまして、素敵な作品ですね。stand.fmで読ませていただきたいと思います。クレジットさせていただきます。

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  35. お借りいたします!

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  36. 配信で朗読させていただきます。

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  37. YouTubeの配信で使用させ頂きました!
    ありがとうございました~

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  38. 素敵な作品でとても好きになりました!配信で朗読させて頂きます。ありがとうございます!

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  39. 配信で使わせていただきました!ありがとうございます!

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