2009年12月31日木曜日

あめのうみ

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #37 -----

  「あめのうみ」 水城雄

MIZUKI Yuu Sound Sketch #37
by MIZUKI Yuu
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あめのうみ


 あめ。
 あめ。
 あめの。
 あめの。
 あめの。
 うみ。
 うみ。
 あめの。
 うみ。
 あめのうみ。
 あめのうみ。
 あめのうみのなか。
 あめのうみのなかから。
 あめのうみのなかからきこえるこえ。
 こえ。
 あめのこえ。
 うみのこえ。

 わたしは海の鳥。
 いつも海の音を聴いている。
 海が泣くとき、私は低く飛ぶ。
 海が笑うとき、私は高く飛ぶ。
 海が怒るとき、私はくるくるまわる。
 くるくるまわる。
 世界がまわる。
 海がまわる。
 そらがまわる。

 今日、わたしは低く飛ぶ。
 わたしは見る。
 低い世界を見る。
 機関銃がうなり声をあげるのを見る。
 その銃口の先には、人々が生きる街がある。
 建物がある。
 人が行きかっている。
 銃弾が人を倒す。
 血が流れる。
 もっと血を流すために、重い機械が空を飛んで、もっとたくさんの機関銃を持った兵士を運んでくる。
 人々が生きる街へ。

 今日、わたしは見る。
 怒りに満ち、顔をゆがませた人々が、石つぶてを建物に投げつける。
 ののしりの言葉をさけび、窓ガラスを割り、自動車に火をつける。
 旗を引き裂き、燃やし、歓声をあげる。
 ちいさな島を取りあい、居座り、海に井戸をほる。
 権利をさけび、ののしり、顔をそむけあう。
 低く飛ぶわたしは、それを見る。
 海の声が聞こえる。
 海が泣いている。

 わたしは海の声を聞く。
 わたしは海を思う。
 海もわたしを思う。
 私と海はたがいのことを思う。
 わたしと海は、低い世界のために、ともに祈る。
 ともにいのる。

2009年12月30日水曜日

Miracle of the Fishes

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----- Jazz Story #15 -----

  「Miracle of the Fishes」 水城雄


「どうしてそういうことをいうわけ?」
「ラーメンとそば? うーん、ラーメンかな、やっぱ。そばとうどんと聞かれたら、躊躇なくそばって答えるんだけどね」
「どうしてなの? なんで急にそんなことをいいだすの? あたしのこと、嫌いになったの?」
「知ってるって。うまいらしいね。行ってみたいんだよね、おれも」
「そんな勝手な言い草、ないでしょう? あたしの気持ちなんかなんにも考えてないんだから。やっぱりあなたって勝手な人」
「そう、やっぱり本場で食べなきゃね。いくら讃岐って書いてあっても、あっちで食べるのとは全然違うらしいもんな。一度行ってみたいよな」
「そんなこと思ってないわよ。いつもあたしはあなたのこと考えてたじゃない。
それなのに、一方的にそんなこというなんて……ひどいわ」
「そうねえ、トンコツかなあ。いわゆるチャッチャ系ね」
「別れたくなんかない!」
「そうそう、なんでかねえ。あのコテッとした感じがだめなのかな」
「だれか好きな人でもできたの?」
「そうね、たしかに獣っぽいというか、独特のにおいはあるよね。あれがだめなのかもしれないね、女は」
「それならどうして急に別れようなんていいだすの? あたしのどこが気にいらないの? あたし、なにか悪いことした?」
「うん、でもさ、おもしろいこと聞いたよ、おれ。東北より北の地方の人は断然味噌なんだってね」
「そんなこといわれてもどうしようもないわ」
「そう、北海道系ね」
「そう、やっぱりそういう人なのね」
「やっぱり寒いからなんじゃないの。味噌スープっていうくらいだからさ。おれもまあまあ好きだな」
「好きだなんて口先だけでいってたのね。しょせん、最初から遊びだったんでしょう?」
「でも、おれはやっぱりトンコツだよな。別に九州人ってわけじゃないけどさ、男はこう、やっぱりああいうコテッとした感じのやつがさ」
「いいえ、はっきりそういって。そのほうがあたしも気が楽だもん。ねえ、そうなんでしょう?」
「あんだよ、うまい店。このあいだ見つけたんだよ」
「正直に教えてよ」
「いや、教えない。ひいきにするんだからさ」
「どうしてもっていうなら、これまでのこと、全部ケンジくんに話しちゃうからね。あなたと約束したこと、ちゃんと覚えてるんだから。全部話すわよ」
「だめだよ。だれにでも教えたら、あっという間に評判になっちゃうんだから。
経験あんだよ、おれ。人に自慢たらしく教えたばっかりに評判になっちゃって、あげくに雑誌とかテレビまで押しかけちゃってさ」
「迷惑だったのね。ごめんね、知らなかった」
「うん。それでせっかくいい店見つけたと思ったのに、ならばなきゃ食えない始末だよ。このおれがだよ。このおれが見つけた店がだよ。くやしったらありゃしねーよ」
「わかったわ。もうこれ以上は話しても無駄ね」
「うん。だから教えないの。わりーな」
「いいわ。わかった。気にしないで」
「あれ、もうこんな時間か。行くか、そろそろ」
「あたしも行くわ。じゃあね。あっ!」
「おわっ、なんだよ!」
「ごめんなさい! なんともなかったですか?」
「見りゃわかるだろう。びしょびしょだよ」
「ごめんね、うっかりバッグにひっかけちゃって」
「いいよ、もう。ただの水だからさ、乾かせばすむことだから」
「ほんとにごめんなさい」
「いいって。これからは気をつけな」
「はい」
「また会ったら、今度は水をひっかけないでくれよな」
「うん、また会ったらね……」

2009年12月29日火曜日

ダイエット

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----- Urban Cruising #32 -----

  「ダイエット」 水城雄


 どうもこのごろ、お腹の脂肪が気になりはじめた。
 食事とアルコールをひかえめにしようと心がけてはいるのだが、さまざまな会合やつきあい酒がことわりきれない。
 せめてすこし運動でもするといいのだが。

 そうなんだ。若いときには気にもしなかったんだけどねえ、食事のことなんか。それこそ、好きなだけ食って、飲んで、ま、スポーツはずっとやってたけどねえ。そればかりじゃないんだろうな。新陳代謝の問題だと思うよ。ほら、人間ってさ、高校ぐらいの年齢の身体がいちばん活発な時期の体重が、その人にとってもっとも適切な体重ってこというじゃない。え、聞いたことない? だれかがいってたんだよなあ。ラジオかなんかで聞いたんだよ。医科大の先生かなんかがそういってた。うーん、はっきりとはおぼえてないけど、五十八キロぐらいじゃなかったかなあ。五十八か九か、とにかくそのへんだよ。だから、そのころに比べると、たっぷり十キロはふとっちゃったんだよなあ。スポーツ? サッカーやってたんだよ、おれ。いまはもう全然やってないなあ。大学にはいって以来、ぜんぜんやってないよ。大学を出ていまの会社にはいったぐらいから、どんどん太りだしちゃってねえ。知らないうちにいまではもう七十キロだよ。すこしへらさなきゃなんないんだよなあ。女房にもいわれるし。きまってるんだ、女房のセリフ。「昔はスマートだったのにね」って。女房にいわれるからってダイエットしてるわけじゃないよ。だいたい、重いんだよね、身体が。階段ののぼりおりなんかしんどいしね。スタミナも続かないし。それに、やっぱほら、あれじゃない、夏なんかかっこ悪いじゃない。会社でさ、社員旅行なんか行くだろ? うちの会社、毎年決まってんだよ、行くところが。でさ、そこでみんなで泳ぐわけだけど、若いやつなんかはいいよ、スマートでさ。おれたちなんか、腹、出っぱっちゃって、みっともないじゃない。やっぱ、女の子なんかに見られると、ヤじゃない。
 ダイエットの効果? んなもんわかんないよ、はじめたばかりなんだ。いつから? うん、いつからだろうなあ、去年の3月ごろからかな。

 ちょっと待って。いま話しかけないで。息、切れてんだから。だめなの、しばらく。もうほんと、しんどいんだから。大変なのよ、あれ。横から見てる分には楽そうに見えるかもしんないけど。けっこう大変なんだ。あたしも最初は、あんなの、効果あるかなあ、なんて思ったんだから。あんなので効果あるなら、あたしもやってみようかなあ、なんて。やってみたらとんでもないんだから、ほんと。あれは効果あるわ、ほんと。やってみればわかるって。けっこうきついんだから。ダイエットの必要なんかあるのかって? そう? スマート? うれしいこといってくれるじゃない。でも、そうなのよ。あたしって着やせするタイプなの。で実際にはけっこう、肉、ついてんのよ。見せたげようか。遠慮しないでいいって。ほら、ここなんかけっこうむっちりしてるでしょう? なにテレてんのよ。効果? 数字? うん、実際には体重が目に見えて減るってわけでもないんだけど、ほら、あれだから、体重のこと気にしないでおいしいもの食べられるって、いいじゃない。あたし、食いしんぼうだから。甘いものに目がないのよねえ、特に。ケーキとか和菓子とか、アイスクリームとかさ。で、せっせと食べては、ここに来てしぼり出してるってわけ。おいしいもののためには、このぐらいの努力はしなくちゃね。ううん、ふつうのOLよ。好きなもの食べて、体重を維持して、いうことないのよね。ほら、アメリカなんかじゃ、自分の体重も管理できないような人は、管理職につけないなんていわれてるじゃない。別に管理職につきたいわけじゃないけどね、あたし。アフリカの飢餓? なに、それ? 外国の話でしょう、そんなの。あたしたち、日本人なのよ。努力して豊かになったわけよ。おいしいもの食べて、どこが悪いの、自分が働いたお金で。そのかわり今度は、努力してカロリー出さなきゃなんないけどね。

 大変ですわ、はい。医者からは、やせなあかん、やせなあかん、いわれましてね。そらもう、口がすっぱくなるほどいうんですわ。腰痛も糖尿も全部太ってるのが原因や、いいましてね。そらもう。やせなあかん、やせなあかんと。いきなりやせなあかん、いわれましても、もう五十年やってますからなあ、この身体。そら急にはやせられしまへんわ。そら生まれたときからやせてたわけやありませんけど。いつごろからかなあ、太りはじめたのは。とにかく子どもが生まれる時分には太ってましたなあ。そらわかってるんです、食べなきゃいいんだってことは。食べなきゃやせる。そらあたりまえのことや。水を飲んでも太る、いわはる人もおりますけど、そらうそや。水なんてなんの栄養もありませんからなあ。出してしもうたら終わりです。太ってる人は、自分のことを棚にあげてこんなこというのもおかしいけど、必ずやせてる人よりたくさん食べてます。自分はちょっとしか食べんでも太る体質なんや、いう人もおりますけど、そらうそですわ。じっと見てるとわかるけど、必ず食べてます、人よりようけ。間食してますわ。人の残りもん、手ェつけたりして。しかし、考えてみれば、ぜいたくな話やなあ。わたしらが子どもの自分は、ぶくぶく太った人なんかそうおらへんかった。太った人いうたら、村の駐在さんとかお役人さんとか、お金持ちとか、とにかくそういう人ばかりやった。ところがいまの日本ときたら、みんなが太りくさって、ダイエットいうんですか? そんな方法ばかり考えとる。失礼な話ですなあ、考えてみたら。世界ではまだまだ食料が足らん国がある、いうのに。そら、わたしらも人のこと、いえまへんけど。とにかく、わたしらももうすこしやせんと、命にかかわる、医者におどかされてますからなあ。もうすこし、こうやってやせる努力せんと、まだ死にとうおまへんからなあ、孫の顔も見んうちに。

2009年12月28日月曜日

僕はスポーツ

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #6 -----

  「僕はスポーツ」 水城雄


 僕はスポーツ。
 名前の由来は簡単。スポーツが大好きだから。そのままずばり。
 スポーツだったらなんだって好きなんだ。野球、サッカー、水泳、ゴルフ、なんだって来い。スキーも水球も砲丸投げも棒高跳びもやる。
 僕の一家は僕だけじゃなく、みんなスポーツが大好き。スポーツ一家なんだ。
 父は柔道や相撲、レスリングが得意で、格闘技が専門。とくにレスリングはオリンピックにも出たことがある本格派だ。さすがにもうオリンピックには出ないけれど、国民体育大会にはまだ出ている。ただ、今年の大会には出られない。練習で腕を骨折して入院しているからだ。
 母はバドミントンやバレーボールが好きだけど、ずっとやっていたのは新体操。身体がすごーく柔らかい。ママさんバレーで全国大会に出るほどのレベルだけど、いまは休んでる。靭帯の疲労断裂で手術を受けたばかりだからだ。
 兄はヨットとかマウンテンバイクといった乗り物系が専門だ。先日、マウンテンバイクごと崖から転落して、肋骨を二本折って入院している。復帰にはまだ二ヶ月以上かかるらしい。
 祖父も有名な柔道家だったんだけど、若い頃の無理な練習がたたって、腎臓と肝臓を痛めて、僕がまだ赤ん坊の頃に亡くなってしまった。
 僕もこのあいだ、砲丸投げの玉を頭にあてて、病院にかつぎこまれた。いまも重態で、意識不明のままだ。
 でも、僕はスポーツが好き。世の中にこんなすばらしいものはない。スポーツこそ人の生きがいだと思う。スポーツのある人生には、栄光があると思う。
 そう、僕はスポーツ。

2009年12月27日日曜日

The Pursuit of the Woman with the Featherd Hat

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----- Jazz Story #7 -----

  「The Pursuit of the Woman with the Featherd Hat」 水城雄


 夫にも先立たれ子どももいない伯母の葬儀は父が喪主となってぼくの家でとりおこなわれることにな朝の8時に病院から電話がかかってきて臨終をつげられ前の日から風邪ぎみで咳に苦しんでい伯母の住んでいた村の寺からお坊さんがやってきて顔に白い布をかぶせられた伯母のかたわらでお経をあげ葬儀屋がふたりがかりで伯母の身体をきよめ小さなお棺におさめ父の姉妹である下の伯母たちとその夫娘息子たちもやってきうちの離れの座敷に棺桶を囲んでぐるりと座りぽつりぽつりと伯母の思い出を語ってい伯母からみれば姪にあたるぼくの従姉妹葉子も黒い洋服を着て座ってい彼女はたしかクリスチャンのはずだれもそのことを知らなぼくしか知らな葉子はどんな気持ちで浄土真宗の僧侶が読みあげるお経を聞いているのだろ葉子の横には亡くなった伯母の妹の山田のおばさんが座ってい山田のおばさんの頭には灰色の毛の帽子がのってい脳腫瘍が悪化してなにもわからなくなったおばさんの世話をしているおじさんが買ってあげたものだろおばさんが帽子を揺らしながら大きな声でこれはどなたのお葬式ですかといった。

 お花をお取りくださいと火葬場の係員がいいみんなは手に手に花をとる最後のおわかれをしてくださいと係員がいいみんなは手の花を棺桶のなかに入れる目を閉じた伯母の顔のまわりに花がいっぱいになる棺桶の蓋が閉じられ係員が焼却炉の扉を開く音もなくすべるように焼却炉にはいっていくお棺にむかってみんなは手をあわせお別れの言葉を口にするだれかがすすり泣いているいっしょによく遊んだよねとだれかがつぶやくぼくは少女時代の伯母の姿を想像してみようとしたがうまくできないだけど葉子の少女時代の姿なら知っている従姉妹の葉子も手を合わせて伯母にお別れをしているその手には数珠があるクリスチャンなのに数珠を持っているんだとぼくは思うけれど彼女がクリスチャンであることはだれも知らないのだからそれも当然なのかもしれないこれはどなたのお葬式ですかと山田のおばさんがいい葉子が川村の姉さんですよとこたえる山田のおばさんの顔に驚きが浮かぶけれどすぐに消えるそうですか川村の姉が死にましたかところであなたはどちらさまですかわたしは葉子ですよああ葉子ちゃんだよねひさしぶりとおばさんがいっているあいだに、焼却炉の大きな扉がずしんと音を立てて閉じられた。

2009年12月26日土曜日

手帳

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----- Urban Cruising #28 -----

  「手帳」 水城雄


 文房具売り場をひとりで歩きまわるのが好きだ。
 特に手帳のコーナーは楽しい。
 棚にずらりと並んださまざまな手帳をながめているだけで、サーカス小屋にもぐりこんだ子供みたいに、わくわくしてしまう。
 いつごろからであろう、自分の手帳を使いはじめたのは。
 そうだ、あれはまだ高校生の頃であった。県庁の土木課に勤めていた父から、県の職員手帳というものを譲り受けたのだ。
 黒いビニールの表紙に、金文字で〈職員手帳〉と刷りこまれていた。おそらくそれは、県の全職員に配給されたものであったのだろう。しかし私の父は、手帳で自分の行動を管理するといった几帳面な性格の持ち主ではなかった。
 職員手帳は、開くとパリパリという音と、インクの匂いを放った。スケジュールとメモのページのあとには、度量衡換算表や当用漢字音訓表のほかに、県職員心得といった項目が付録としてついていた。
 私はその手帳に、ありもしないスケジュールを無理やり書きこみ、さも意味ありげなメモを取っては喜んで持ち歩いたものだ。
 大学にはいってからである、自前の手帳というものを持つようになったのは。その頃から私は、年末になるとデパートや文具店の手帳売り場で手帳をあれこれとためつすがめつし、時間をかけて買い求めるのが楽しみになった。
 スケジュール欄に講義の時間割をびっしりと書きこみ、細かい文字を使ってメモ欄を読んだ本の感想などで埋めては、悦に入っていた。
 ありとあらゆるメモをそのちっぽけな手帳に書きこもうとしたものだから、手帳はすぐにいっぱいになってしまった。また、喫茶店のレシートや見終えた映画の入場券、安売りのデジタル時計の説明書といったものまで手帳にはさみこもうとしたものだから、たちまちそれはふくれあがり、しまいにはゴムバンドをかけておかなければパンクしてしまうありさまだった。
 はじめてシステム手帳というものを目にしたとき、即座に私がそれに飛びついたのも、無理はなかろう。
 システム手帳といっても、ようするにルーズリーフ式のノートを小型にして、皮の表紙をつけて高級感を出した、六穴バインダー式の手帳にすぎない。
 システム手帳と呼ばれるものには、この流行がはじまる前にシステムダイアリーというものがすでに日本には存在した。私もかつて買い求め、使ってみたことがあるが、なぜか相性が悪く、使用を中断してしまったのである。
 システム手帳の流行は英国製の製品からはじまったらしい。おそらくデザインが時代にマッチしたのであろう、バイブルサイズといわれるちょうど掌にすっぽりおさまる程度の大きさの皮の手帳を持って、会議や顧客とのミーティングに現れるビジネスマンは、いかにもやり手で、そしてちょっとファッショナブルな感じであった。
 1冊が3万円以上もするバインダーが、文具売り場から飛ぶように売れていった。
 私も当然、一冊購入して使ってみた。
 私が買ったのは英国製ではなく、アメリカのメーカーの黒皮のシステム手帳であった。英国製のものはいかにも、フリーライターやデザイナーといった人種が使うという雰囲気があって、ちょっと敬遠したのだ。一方、アメリカのメーカーのものはビジネスマン向けといった趣があった。
 他にもさまざまなメーカーの、さまざまなスタイルのシステム手帳が、ほんの数年であっというまに市場にあふれるようになっていった。
 使ってみると、なるほど便利である。これなら、書きこむ量に応じてどんどん用紙を増やしていけばいいし、古い書きこみはバインダーからはずしてストックしておけばいいのだ。
 私はすっかり、システム手帳のとりこになってしまった。
 システム手帳はバインダー式の手帳であるから、ルーズリーフ式ノートのようにリフィルと呼ばれる用紙を自由に入れ換えることができるようになっている。
 リフィルは各種多様なものが手帳と同じメーカーから出されていて、ユーザーはそれを選ぶだけでよいのだ。
 一年のスケジュール、一か月のスケジュール、週単位のスケジュール、毎日のスケジュール、防備録、メモ、健康管理、プロジェクト管理、金銭出納、新刊本のチェックリスト。考えられるあらゆるリフィルが市販されているという趣である。
 私はそういったリフィルを買い求め、自分のシステム手帳にセットするのが、なによりの楽しみとなった。いや、手帳にセットできるのは、紙でできたリフィルばかりではない。専用のカードホルダーや小銭入れまで市販されていて、それにキャッシュ・カードやクレジット・カード、テレフォン・カード名刺、保険証、運転免許証、お札、小銭まで入れておくことができる。
 薄いカード電卓や電話番号メモ、カード式の印鑑、時計、裁縫セット、旅行セットといったものまで出ていて、それらも私は手帳にセットしている。バインダーのリング径が大きければ、かなりのものが手帳にはさめるのだ。さらに私は、非常時に備えて、ばんそうこう、風邪薬、うがい薬、痛み止め、避妊薬などをセットしてある。また、カード式の食料品が売りだされたのを見て、それも手帳にセットすることを忘れなかった。
 さらに、コンパクトな歯ブラシと歯ミガキ、髭ソリ、クシ、下着、帽子を手帳にはさめるように工夫したし、携帯式電話、パソコン、自転車、自動車なども手帳にセットできる見通しがたった。
 私がいま知恵をしぼっているのは、これをなんとかセットできないものかどうか、ということである。
 つまり、私自身を。

2009年12月25日金曜日

とぼとぼと

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #64 -----

  「とぼとぼと」 水城雄


 とぼとぼと歩いていると
 とぼとぼと歩いている男の子がいる
 とぼとぼと歩いているぼくの前を
 とぼとぼと歩いている
 高校生だろうか
 いや、大学生だろうか
 ひとりぼっち
 スポーツバッグの取っ手に両腕をとおして
 背負って歩いている
 うつむいて
 地面を見ながら
 とぼとぼと歩いている
 その子に追いつきそうになり
 ぼくはとぼとぼ歩きを遅くする
 友だちはいないのだろうか
 学校帰りなのだろうか
 ひとり暮らしなのだろうか
 お昼ご飯はちゃんと食べたのだろうか
 なにかつらいことでもあったのだろうか
 毎日楽しく暮らしているのだろうか
 勉強ははかどっているのだろうか
 悪いやつにだまされたりしてないだろうか
 同級生からいじめられたりしてないだろうか
 女の子からふられたりしてないだろうか
 その子のとぼとぼ歩きは
 ぼくのとぼとぼ歩きとそっくりだ
 ぼくのとぼとぼ歩きは
 ぼくの息子のとぼとぼ歩きともそっくりだ
 そもそもとぼとぼ歩きの人間は
 みんなどこか似たところがある
 午後の日差しに長くのびた影も
 なぜかうすく感じる
 とぼとぼと歩いている男の子の後ろをとぼとぼと歩きながら
 ぼくは遠くでひとり暮らしをしている息子のことを思う
 ぼくとおなじく本を読むのが好きで
 友だちがすくなく
 いつもとぼとぼと歩いている息子のことを思う
 息子のことを思いながら
 ぼくはいつまでも
 とぼとぼと
 とぼとぼ歩いている男の子のあとをついていく

2009年12月24日木曜日

おばあちゃん

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----- Urban Cruising #25 -----

  「おばあちゃん」 水城雄


 いつものように油で汚れた作業着を着て、立壁さんは車の下にもぐりこんでいた。
 声をかけると、ガラガラと音を立てながら出てきた。
 鼻の頭にまで油をつけて、まるで子供みたいに見える。

 氷点下の寒さが何日か続いたせいか、車のワイパーの調子が悪くなってしまった。
 仕事に出る途中、知り合いの修理工場に立ちよった。
 立壁自動車、というひかえめな看板の脇を通って、車を作業場のほうに乗りいれた。事務所の前では立壁さんの奥さんが、ウェスの洗濯をしている。
「今日はなんだい?」
 もぐりこんでいた車の下から出てくると、立壁さんは軍手の甲で顔をふきながら、たずねてきた。顔の汚れがますますひどくなる。
 ワイパーがね、おかしいんだ。
 立壁さんはキビキビと車を調べはじめた。
 寒いね、と彼がいう。うん、寒いね、とこたえながら、考えてみれば、この人はぼくが生まれたときからぼくのことを知ってるんだな、と思った。
 生まれてから三十年あまり、ずっとつきあっている人間というのは、そういない。おやじ、おふくろ、それからあまり会う機会もない親戚の人たち。血のつながらない他人では、ほんと数えるほどしか思いうかばないな。
 ぼくが子供の時分、母方の祖父がやはり自動車修理工場を経営していた。立壁さんはそこで修理工として働いていたのだ。そのころは彼もまだ独身だった。
 ふと思いついて、ぼくはたずねた。
「立壁さん、結婚は何歳のとき?」
「二十六だよ」
 すると、すくなくとももう五十にはなってるわけだな、彼も。
 あれえ、この車検のシール、おかしいな、と彼がいった。

 うちの息子も来年からここでやってくれることになってね、と彼がいう。
 へえ。いいじゃない、にぎやかでさ。
 ああ。でも今度は嫁をもらわなきゃならないんだよな。
 いくつなの、息子さんは?
 二十二だよ。
 チェッ、まだ早いよ、そりゃ。
 この車、来年のはずだよな、車検は。
 そうだよ。去年やったばかりだもん。
 おかしいな。ほら、このシールを見てみなよ。茶色だろ? これは今年の車検ってことなんだよな。
 そんなはずないよ。去年、たしかにやったんだから。
 書類を見てみるか。車検証、あるかい?
 あるよ。ダッシュボードの中を見てよ。
 立壁さんはダッシュボードから車検証を出すと、手を思いきりのばしてしかめつらを作った。
 だめだな、読めないな。ちょっとここの数字、読んでくれないかな。
 なんだよ、老眼なの?
 いまにはじまったことじゃないさ。ほら、ここんとこ。なんて書いてある?
 平成三年五月。
 来年だな、やっぱり。このシール、まちがってるんだ、やっぱり。陸運局のやつがまちがえたんだな。
 ちゃんとなおしといてよ。
 ああ、今度行ったとき、正しいシールをもらってくるよ。
 しかしまあ、立壁さんが老眼とはねえ、とぼくは口に出しかけて、やめた。彼の肩ごしに、洗ったウェスをものほし竿にかけ、勢いよくてのひらで叩きつけている奥さんの姿が見えた。

 ワイパーの修理はすぐに終わった。ブレードも替えといたほうがいいな、もうゴムがよれよれだ、と立壁さんがいう。
 うん、そうしといてよ。
 子供の頃、ぼくの遊び場はおじいちゃんの修理工場だった。その工場は、いまはもうないけれど、ここへ来るたびに思いだす。所狭しとならべられたいろんな種類の車。コンプレッサーの回る音。溶接のバチバチいう音と火花。油のにおい。高い天井には、夏がくるたびにツバメが巣をかけていたっけ。
 工場の奥には、修理工たちのための食堂と風呂があった。立壁さんとその風呂にはいったかどうかはおぼえてないけど、おじいちゃんとなら確かにはいったおぼえがある。おじいちゃんは風呂にはいるたびに機嫌よく「ここはお国を何百里、はなれて遠き満州の」と歌ったものだ。
 そのおじいちゃんも、いまはもういない。
 おじいちゃんは子供のぼくに、いらなくなったベアリングをよくくれた。小さなてのひらにずっしりと重いベアリング。クルクルといつまでも回りつづける不思議なしかけ。あきずにそれで遊んだものだ。
 また、立壁さんたちといっしょになって車の下にもぐりこみ、人を運ぶ魔法の乗り物の裏側をのぞいて悦に入ったりした。
 よっしゃ、できた、と立壁さんがいった。
 ありがとう、とぼくはこたえながら、ふと足をわずらって入院したきりのおばあちゃんのことを思った。
 年があけてから、まだ一度も行ってないんだな、見舞いに。

2009年12月23日水曜日

Morning Plain

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #22 -----

  「Morning Plain」 水城雄


 その朝、ぼくはある予感をおぼえながら、急いで窓をあけた。
 思ったとおりだ。ここ数日降り積もった雪がまばゆい陽光を反射して、きらきら光っている。昨夜、学習塾の帰りにオリオン座がくっきりと見えた。このまま明日の朝まで曇らなければ……
 大人になってから知ることになる「放射冷却」という現象のせいだが、その言葉を知らなかった小学生のぼくも、晴れた夜の翌朝は冷えこみ雪の表面が凍りついてかちかちになることを知っていた。
 母が用意してくれた朝食もそこそこに、長靴をはき、ランドセルをせおって外に飛びだす。
 玄関前の雪をはねのけながら、車がつけたわだちをたどって大通りを横ぎる。
 そこは一面の雪原。
 ぼくの家から小学校まで約一キロ。なにもさえぎるもののない、まっ平らな雪原。
 ところどころ、こんもりと白い雪を乗せた農作業小屋が、雪原に突っ立っている。学校の帰りには、あの屋根の上から飛びおりて遊ぼう。そのころには雪は柔らかくなって体重をそっと受けとめてくれるだろう。
 雪原に長靴を踏みだすと、わずかに表面が沈んでザクリという音が生まれる。
 ザクリ、ザクリ。
 やがてぼくは、なにもかも忘れて駆け出す。ただひたすらに、まっすぐに、雪原をどこまでも駆けていく。
 そう、あれはもう20年も前の冬のことだ。
 いまはもう、あの学校も雪原も、田んぼも、母も、小学生だった私もいない。

2009年12月22日火曜日

セカンドステージ

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----- Jazz Story #13 -----

  「セカンドステージ」 水城雄


 それはセカンドステージのことだった。
 いつものように、ひとり、ピアノを弾いていると、女がおれのすぐ前に座った。ピアノのまわりにもカウンターが切ってあって、そこでも酒が飲めるようになっている。
 女がまっすぐにおれを見つめた。
 高校生のガキみたいに、どぎまぎしてしまいそうになる。
 そのとき弾いていた「ソフィスティケーティッド・レディ」に集中する。ダイアトニックなコード進行を多用した、けっこうややこしい曲なのだ。
 と、女が言った。
「なにがあってもそのまま弾きつづけてね」
 なに? おれはピアノを弾きつづけながら、聞き返した。リズムをくずすことなく客と会話するなんてのは、いつもやっていることだ。どうってことない。
「ピアノの下であたしの銃が、あなたの股間をねらっているわ」
 なんだ? いったいなにを話しているんだ?
「うそじゃない。ベレッタM一九二六。知り合いから買ったの。あなたを殺すために」
「おれを殺す? なんのために」
 頭がおかしいのか、この女。
「演奏をつづけてね。演奏が止まったら撃つわ。リズムを乱しても死ぬわよ」
「なぜこんなことをする」
「恨みをはらすため。あたしのリクエストを全部まちがえずに弾けたら、命だけはたすけてあげる」
 そういって、女はピアノの下からちらりと手をあげてみせた。
 たしかにその手には、小ぶりの銃が握られているのだった。

 おれは女のリクエストで「ラブ・フォー・セール」を弾いていた。
 リクエストは全部弾くこと。もし弾けなかったら、その場で撃ち殺される。
コード進行やリズムを間違えても、殺される。おれのこのステージの持ち時間は、あと十五分ばかり。
そのあいだ、無事に演奏を終えられれば、命は助けてもらえるという。
 女が一方的に押しつけてきたルールだ。銃の威力を使って。
 おれがなにをしたっていう?
「やっと見つけたの、この店。さんざん探したわ」
「悪いが、きみのことを覚えていないようだ」
「あなたらしいわ。そうやって人を死ぬほど傷つけて平気なのよ」
「おれがきみになにをしたのか、教えてくれないか」
「ごめんだわ。教えない。次のリクエストよ。ニアネス・オブ・ユー」
 幸い、知っていた。
 ジャズのスタンダードナンバーを知っているというのは、メロディとコード進行を覚えていることを意味する。
 おれがニアネス・オブ・ユーを弾きはじめると、女はいった。
「命拾いしたわね。でも、次の曲はどうかしら」
 いったいこれはどういうゲームなんだ。
「せめてきみの名前を教えてくれないか」
 おれは過去、関係のあった女の顔を思い出しながら、たずねた。しかし、記憶のなかに目の前の女の顔はない。けっこうな美人だというのに。
「教えない。あなたにはすでに一度、教えたから」
 混乱したまま、ニアネス・オブ・ユーを弾きつづけた。
「次のリクエストは、オール・オブ・ユーよ」
 それを聞いて、おれは思い出した。この女のことを。
 オール・オブ・ミーという曲がある。おれはその曲と、似た題名のオール・
オブ・ユーを、混乱して覚えることができないのだ。そんな話をしたことがある。
 どちらかがCのキーで、どちらかがEフラットのキーだ。
「弾くのをやめる?」
 せかされて、おれは決断した。そしてCのキーで弾きはじめた。
「それはオール・オブ・ミーだわ」
 女がいった。うれしそうに。

2009年12月21日月曜日

爪を切る

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----- Urban Cruising #18 -----

  「爪を切る」 水城雄


 いつもそうなのだが、パソコンのキーをたたいていると、爪がのびていることに気づいた。
 腕をまわし、こりかけた肩をほぐしてから、立ちあがった。
 事務所にはぼく以外、だれもいない。
 爪切りはだれが持っていたんだっけ、とぼくは考えた。
 いつも、経理の女の子から借りていたのだ。
 が、今日は彼女、休みらしい。朝から見かけない。
 課長は出張だし、部長はもとより、めったに事務所に顔を出さない。
 たいして広い事務所ではない。が、社員が少ないので、広くかんじられる。
 窓からは、やわらかな太陽の光が差しこんでいる。その光の中でゆっくりと動いているほこりが見えた。
 窓際に置いてある花瓶のコスモスが、やや首をうなだれている。経理の女の子が持ってきたものだろう。水をかえてやらなければならないな、とぼくはぼんやり考えた。
 立ちあがり、経理の女性の机の前に立った。
 すこしためらってから、引きだしをあける。なに、爪切りを借りるだけだ。かまわないだろう。爪切りを借りるためだけに、明日の朝まで待っているなんて、ばかばかしい。
 右の引き出しの一番上。ペン・トレイの中。
 シャープペンや消しゴム、髪どめなどにまじって、ちいさな爪切りがそこにあった。
 ぼくは爪切りをつまみあげると、いそいで引きだしをしめた。
 事務所の中をなぜか見まわしてしまう。
 下の通りを走る車からの反射だろうか、天井が一瞬、きらりと明るくなって、影が動いた。

 ギシギシ鳴る事務用の椅子に腰をかけ、机の下のゴミ箱を引きよせた。
 ゴミ箱の上に左手をかざし、右手に爪切りをかまえる。
 そろそろ新しい椅子を支給してもらいたいものだ、なんてことをぼんやり考えた。
 爪切りを左手の親指にあてる。
 爪の生えぎわが、三日月型に白っぽくなっている。昔、この部分がたくさん出ていればいるほど健康なんだ、ということを聞いたような気がするな。あれはほんとうなんだろうか。もしほんとうだとすれば、いまのぼくはきわめて健康だ、ということになる。
 念のためにほかの指もあらためてみたが、左右の小指をのぞいてすべて三日月型の白い部分が見えている。その部分のことをなんていうんだろうか。
 爪を切りはじめる。
 パチンという小気味良い音とともに、爪がゴミ箱の中へとはじき飛ばされる。ゴミ箱は、今日まだ一度も使っていないので、からっぽだ。昨日、帰るときに経理の子がきれいにしていったのだろう。
 親指を切りおえ、ひとさし指に取りかかる。
 そういえば、あの経理の子も、はいってきたときにはずいぶんういういしい感じがしたものだが、最近ではすっかり、OLっぽくなってしまっている。入社して何年になるんだろう。
 そもそも彼女はいま、何才なんだ?
 たぶん、二十五は越えているな。
 彼女もやがて結婚し、たぶん会社をやめ、子供を作り、ふつうのおばさんになってしまうんだろうな。それが人生というものだ。
 中指の爪を切りながら、じゃあおれの人生とはなんなんだ、とぼくは自問した。

 左手の爪をすっかり切りおえ、右手に取りかかった。
 そのときふいに、ある光景が目の前に浮かんだ。
 ぼくは畳に正座している。傘のついた白熱電灯の明かりが、ぼくをつつみこんでいる。ぼくの手は、だれかのあたたかい手につかまれており、ぼくはそれを見ている。
 ぼくの手をつかんでいるのは、ぼくの母親だ。ぼくはおふくろに爪を切ってもらっているのだ。
 たぶん、小学校にはいったばかりの記憶だろう。いや、小学校にはいる前の記憶かもしれない。埋もれていた記憶が、たったひとり、事務所で爪を切っているとき、ふいによみがえったのだ。
 たったひとりで事務所に残り、爪を切ることがなければ、そのまま一生思いだすこともなかったかもしれない。母親に爪を切ってもらった暖かな思い出は、ぼくの心の奥底に埋もれたまま、ぼくとともに年老いていき、やがてはぼくとともに消えてしまうのだ。
 そんな記憶って、いったいどのくらいあるのだろうか。
 ぼくの中で眠っている記憶って、どのくらいあるのだろうか。
 そんなことをひとり考えていると、ふいにぼくは悲しみをおぼえた。
 ぼくがおぼえている光景、おぼえている人々、おぼえている物語、こういったものはいずれ、すべて消滅してしまうのだ。ぼくとともに。
 ぼくが生き、そして死んでいく、ということは、どういうことなんだろう。
 ぼくは爪を切るのを中断し、窓ぎわのコスモスを見つめた。
 それは相変わらず、すこしばかりうなだれている。
 花瓶の水をかえるために、ぼくは爪切りを置くと、椅子から立ちあがった。

2009年12月20日日曜日

Him

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #22 -----

  「Him」 水城雄


 正直にいえば、彼の命はあと数週間、長くて数か月であろうと私は確信していた。
 とても一年、二年、もつものではない。巨大な軍事的警察国家を相手に逃げ切れるものではない。これから先、彼はどこへ逃げようというのか。どこに向かおうというのか。
 私はそれを確かめるために、みずからの生命の危険を犯して彼と行動をともにしていた。私の確信に従えば、つまり彼の死を見届けるために。
 しかし彼の言動には不安やためらいを感じさせるものはなにもなかった。言動は常に確信的であり、決断には一瞬のためらいもなく、ときには希望に満ちてさえいるように見えた。
 彼はなぜそれほどまでに自信にあふれているのか。大きく開けたライオンのまさにアギトの中に立っているような状況だというのに。
 神を信じているからか。
 違う。彼が信じているのは、彼自身だけだ。それは間違いない。
 今朝、私は、彼がだれよりも早く目覚め、洞窟の外に出ていくのに気づいた。私も急いで身支度し、彼の後を追った。
 砂漠の高原にいままさに日が昇ろうとしている。彼はくぼんだ目をさらにくぼませ、日の出をじっと見つめている。風はないでいる。完全に乾ききった大気も、この時間だけはかすかに湿りを帯び、官能的な芳香を放つ。
 私が近づいて行くと、洞窟の脇に立っていた歩哨が行く手をさえぎった。まだ十四、五の少年だ。
 彼がこちらを振り返り、歩哨の少年に私の接近を許させた。
「なにを見ているのですか」
 決まりきった質問に、私のあらわな肌をとがめることもなく、彼はこたえた。
「おまえはなにが見える?」
「砂漠の日の出」
「そうだ。そして今日も日の出を見ている私がここにいる。おまえは、明日は私がこの日の出を見られないと思っているな」
「そんなことは……」
「私には嘘はつけない」
 言葉がナイフのように私の身体をつらぬいてくる。彼と話しているといつもそのように感じる。
 私は身を震わせる。ことによると私は彼に心を奪われてしまったのかもしれない。
「今日がその日だ」
 彼の言葉の意味はただひとつ。
「では、いよいよ……?」
「世界中で仲間が立つ。よく見ておけ。そして書け。書いて世界に知らせろ。それがおまえの仕事なのだろう? 日の出を見られないのはだれなのか、嘘いつわりなく書け」
 また多くの血が流される、と私は思う。流血の連鎖だ。私の家族や友人も犠牲になるかもしれない。
 だがそれはこの男のせいなのだろうか。
 彼は私に見せるように腕を太陽に向かって真っすぐに伸ばすと、指先ですばやく光線を横に切った。それは私に見せるというより、歩哨の少年に見せたのかもしれなかった。

2009年12月19日土曜日

Someday My Prince Will Come

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----- Jazz Story #8 -----

  「Someday My Prince Will Come」 水城雄


 おばあさんからもらった真っ赤なリンゴは、つやつやと光って、ほんとうにおいしそうでした。白雪姫はかわいらしい口をあけると、リンゴを一口かじってみました。
「だめだめ、食べちゃだめ! それ、毒リンゴなのに」
 娘のまどかが真剣になっていう。
 それを見て、彼女はほほえんだ。そして思う。これじゃなかなか寝ついてくれないわ。
 まどかはまだ三歳。来年は幼稚園に行くのを楽しみにしている。
 わたしにもそういう時期があったのだろう。三歳のころの記憶なんて、まるで残っていないけれど。
「これはお話だからだいじょうぶなのよ」
「だって、毒リンゴを食べて、白雪姫は死んじゃうだもん」
 もう何度読み聞かせたことやら。娘はすっかりストーリーをおぼえてしまっている。それなのに、この場面になるといつも悲しそうな顔になるのだ。
「死んだりなんかしないわ。まどかも知ってるでしょう?」
 そういえば、彼女の母もよく絵本を読み聞かせてくれた。
 白雪姫は読んでくれたっけ?
 ピーターパンは読んでくれた。赤毛のアンの子ども版も読んでくれた。でも、白雪姫を読んでもらったかどうか、思い出すことはできなかった。
 娘はこうやってわたしが白雪姫を読み聞かせたことを、大人になって思いだすだろうか。

 そして白雪姫と王子様はいつまでも仲良く、ずっとお城で暮らしましたとさ、おしまい。
 結局、一冊全部読み聞かせることになった。
 絵本を閉じて、見ると、娘はすやすやと寝息を立てている。
 なんの心配もない、おだやかな寝顔。娘のただひとつの気がかりが、マンションなので犬を飼えないこと。犬が大好きで、ずっと飼いたがっているのに、かなえてやることができない。でも、来年の幼稚園はとても楽しみにしている。
 なにも覚えていないけれど、彼女の両親もやはりこうやって、彼女の寝顔を見ていたのだろうか。三歳のときのわたし。
 彼女が娘の寝顔をたまらなくかわいらしいと思うように、彼女の両親もまた彼女のことをいとおしく見つめていたのだろうか。
 彼女の六歳の誕生日に、両親は子犬をプレゼントしてくれた。雑種だけれど、とてもかわいかった。その犬といっしょに、彼女は小学生時代をすごした。中学もいっしょにすごした。
 その犬は彼女が高校二年生になるまで生きた。両親はそのときすでにいなかった。
 この子も犬が飼えるようになるといいのに。そんなことを思っていると、知らないあいだに涙があふれていた。
 娘の寝顔がにじんだ。
 彼女は涙を布団の端でぬぐうと、ふっくらとリンゴのように赤い娘のほおにそっとくちづけした。

2009年12月18日金曜日

ねむるきみと霧の中を通って

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----- Urban Cruising #3 -----

  「ねむるきみと霧の中を通って」 水城雄


 ハイウェイの路面はすこし濡れている。
 霧が出てきたようだ。
 助手席からは、きみのかすかな寝息が聞こえてくる。まだ乾ききっていない髪は、潮の香りを伝えてくる。

 折りたたみ式の椅子とビーチパラソルを持って、あの島に渡った。そうそう、ちいさなキャンプの道具も持っていたっけ。
 あれは正解だった。あの島----あの夢青い水に囲まれた夢みたいな小島には、桟橋と白い砂と松の木のほかには何もないことを、ぼくは知っていたからね。
 最初、あの島ではなくて、どこか違うところに行くはずだったんだ。
 どこへ行くつもりだったんだろう、ぼくたちは?
 湖へヨットに乗りに?
 そうだ。それが、あまりにいい天気なので、海に行くことになったんだな。ヨットには確かにきつすぎる日ざしだった。
 あの島へは、学生時代の合宿で一度行ったことがあるだけだ。それが、きみと行くことになるなんて。
 ぼくたちは泳げそうな浜をさがして、まがりくねった海べりの道路を走っていた。まだ夏休み前で、あまり泳いでいる人はいなかった。
 視界がぽっかりと開け、あの島が目に飛び込んできた。
 そう。まるで南海の孤島のような、コバルトブルーの海に囲まれたあのちいさな島。もちろん、椰子のかわりには松が生えているのだけど。
 学生時代の記憶がなにもかもよみがえってくるのを、ぼくは感じた。
 だから、島に渡るとき、キャンプの道具を持って行こうと思ったんだ。島には、砂浜と松と桟橋以外、なんにもないことを知っていたからね。
 夏休みにならなければ連絡船が動かないと聞き、ぼくたちは渡し舟を頼んだ。
 そう、あの腹巻をして、海からの風の音を顔にきざみつけたおじいさんの舟だ。おじいさんの舟で、ぼくたちはあのなんにもない島に渡った。
 なんにもないということは、じつはすばらしいことなんだ。きみにわかるだろうか。
 車がトンネルにはいる。黄色っぽい明りが、きみの横顔を照らす。
 でも、きみは起きない。
 トンネルを出ると、霧はさらに深まっている。

 潮が引いていて、おじいさんの船頭はゆっくりと舟を進めた。
 水は澄んでおり、白い砂の海底がそっくり見すかせた。桟橋からは、ぼくたちより先に到着した人々の広げたパラソルが、いくつか見えた。
 ぼくたちは、椅子とパラソルとキャンプ道具を持って、舟をおりた。
 でも、結局、パラソルはいらなかったね。松の木陰に椅子をひろげると、風が気持ちよかった。
 きみは水着の上に着ていたTシャツを椅子の背にすっぽりとかぶせた。それから波打ち際に歩いていった。爪先を水にひたし、肩をすくませているきみの姿に、ぼくはしばらく見とれてしまった。
 静かで、ほとんど波のない水面にあお向けに横たわると、指先でちぎれそうな雲が見えた。広げたぼくの手を、きみがつかまえた。ぼくはゆっくりときみにむかって流れていった。
 浜にもどると、キャンプ道具の中から小さなコンロを出し、松の木陰でひたいを寄せあって、コーヒーをわかした。
 マグカップにいれたコーヒーを持って、ぼくたちは椅子にもどった。おかしかったのは、なぜかきみの椅子だけが何度も、風で倒されてしまうんだな。たぶん、あのへんてこりんなTシャツのせいだろう。なんていったかな、あのコメディアンの顔がプリントしてあるTシャツだよ。
 ほとんど言葉をかわすこともなく、ぼくたちはずっと海を見つめていた。
 波打ち際では、名前のわからない水鳥が遊んでいたね。

 きゅうに濃くなりはじめた霧に、ぼくは車のスピードを落とした。
 ときおりワイパーを動かし、フロントガラスをぬぐう。
 きみはあいかわらず、助手席でねむっている。すこし疲れたのかもしれない。塩水と風と強い日差しは、人を疲れさせるものだからね。
 きみがシャワーを浴びているあいだ、ぼくは雲をながめたていたんだ。そして気がついた。つまり、雲の色ってそれぞれにちがうんだってこと。けっして白一色なんかじゃないってこと。
 遠くの高い雲は、空の色を映して青みがかっている。近くの低い雲は、日の陰になって淡い灰色だ。そんなことにいまさらながら気づく自分が、なんだかおかしかった。それとも、そんなことは知っていたのに、忘れていただけなのかもしれない。幼い頃は、それこそいやになるほど雲をながめてすごしたものだ。
 シャワーを終えたきみが車に乗りこんでくると、流しきれなかった潮の香りがぼくにはうれしかった。
 いまも息を大きく吸いこむと、潮の香りを感じることができる。
 ぼんやりした照明灯。
 濡れて光る路面。
 赤いテールランプ。
 かすかに見えはじめた街の明り。
 霧の中を通って、ぼくたちは夜の街へ帰っていく。
 せめてランプウェイをおりるまで、きみが眼をさまさないでいると、いいのに。
 ぼくは、カセットテープの音をしぼると、さらに車のスピードを落とした。

2009年12月17日木曜日

You Gatta Mail

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #13 -----

  「You Gatta Mail」 水城雄


 パソコンを買った。
 やっと。ついに。思いきって貯金をはたいて買っちゃったんだ。
 やったぁ。
 回線もADSLとかいうのに加入したんだ。なんだかよくわかんないけど、ずっとつなぎっぱなしにしておいても料金はおんなじらしい。それで電話もできるなんて不思議。でも、電話は別料金らしい。
 いいんだ。電話なんかめったにかけないもの。用事はほとんどメールですませちゃう。いままでだってケータイメールがほとんどだったし。かかってくるのは変な勧誘の電話ばかり。
「奥さんはいらっしゃいますか?」
 なんてね。そんな人いない。わたしだって奥さんなんかじゃないもん。
 これでネットもメールもしほうだい。ネットにつなげばなんだってできるらしい。
 やったぁ。
 でも、まだよくわかんないんだよね、パソコン。買ったっていったら、いろんな人からいろんなことをいわれる。キー入力は大事だから最初から正式な打ち方をきちんと覚えるように、とかね。それはわかるけど、タッチタイピング? ホームポジション? カナ入力とローマ字入力?
 わかんない。
 メールソフトとかいうのもいろいろあるらしい。みんないろんなのをすすめる。それぞれ使い勝手が違うらしい。
 あと、ウイルスとかいうものにも気をつけたほうがいいらしい。パソコンも風邪ひくらしい。知らないうちにその風邪をまた人にうつしてしまったりもするらしい。
 なんかこわい。
 いいんだ。わたしもこれでとうとうパソコン使いだ。
 これで新聞も雑誌もいらないね。テレビもラジオもいらない。ビデオだって見れるらしいし、ショッピングだってできる。これでパパもママもいらない。オトコだってもういらないや。
 やったぁ。

2009年12月16日水曜日

High Life

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----- Jazz Story #14 -----

  「High Life」 水城雄


 機体の故障で、使用機がトリプルセブンからB767に変更された。おかげでほぼ満席になってしまった。
 月曜日の昼便、復路は観光帰りの老若男女と、出張のビジネスマンがまだらに混じりあっている。
 梅雨明けの晴れわたった日。くっきりと影を抱えて、綿帽子のような雲が西から東へ流れていく。
 赤ん坊の泣き声が聞こえた。きっと、26Bのお客さんだ。
 わたしはそちらに行った。
「だいじょうぶですか?」
 母親らしい若い女性に声をかける。赤ん坊はもう泣きやんでいる。口に哺乳瓶をあてがわれている。女性の返事を待たずとも、だいじょうぶらしいことはわかった。
「もうすぐ離陸しますので」
 彼女のシートベルトを確かめ、わたしは通路を前方のほうにもどっていった。
 アナウンスがあったのに携帯電話を操作している客、シートベルトを着けてない客、背もたれを倒している客、荷物を足置きがわりにしている客。ひとりひとりに笑顔で注意しながら、もどっていく。
 収納棚のチェックも忘れない。
 笑顔と背伸びに疲れた。
 やっと乗務員用の座席に戻り、客と向かい合って座ると、4点式のシートベルトを着けた。
 向かいの客は、初老の夫婦だ。
 と、背後のトイレのほうから、先輩の声が聞こえた。
「お客さま、もうすぐ離陸ですので、お急ぎください」
 客がトイレにこもったまま出てこないのだ。たしか中年の男性客だった。
 手伝おうかどうしようか迷いながら、わたしはベルトの金具に指をかけた。

 飛行機が滑走路の端にたどりついても、トイレの男性は出てこなかった。
 先輩がこまったような、半分おこったような声で、くりかえしている。
「お客さま、出ていただけないと離陸できないんです。お急ぎください」
 わたしの妹もスチュワーデスをしている。妹は国際線。オランダの航空会社。
 わたしは国内3位の航空会社。羽田と地方のリゾートを行ったりきたりしている。でも、行き先でのんびりすることはない。行き先の飛行場から出られないばかりか、飛行機からすら降りられないほどだ。到着したら、機内清掃と復路の準備に追われ、すぐに出発時間となる。
 姉は小さな出版社で編集の仕事。毎日終電の時間まで残業している。姉だけが結婚しているのに、夫とはすれ違いの生活だとこぼしている。週末のテニス三昧だけが、彼女の楽しみらしい。
 わたしの楽しみって、なんだろう。妹はフライト先の街で、適当に楽しく遊びまわっているらしい。
 空の仕事は一見はなやかだけど、いろんなことがある。楽しいことばかりじゃない。
「先輩、だいじょうぶですか?」
 たまりかねて声をかけたとき、トイレのドアが開いた。
 こぶとりの中年男性が、青い顔をして出てきた。あきらかに宿酔いだろう。
アルコールが強くにおう。
「シートベルト着用のサインが消えるまで、席でご辛抱くださいね」
 先輩がいいきかせながら、男を席に案内していった。
 ほっとしてシートベルトの金具から手を離し、向かい側の席を見ると、初老の夫婦が青ざめた顔をならべている。
 ふたりとも指が白くなるほどギュッと肘掛をつかんでいる。
「当機は間もなく離陸いたします。いまいちど、シートベルトをご確認くださいませ」
 エンジン音がたかまり、飛行機が加速をはじめた。身体がぐっと前かがみに引っ張られる。
 ふたりの表情が引きつった。
 赤ん坊の泣き声が聞こえはじめた。

2009年12月15日火曜日

祈り

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----- 群読のためのシナリオ -----

  「祈り」 水城雄


  シーン 1

A「綿雪まじりの冷たい空気のなかで、私は大きな木に向かって祈りをささげる」
B「神にでもなく」
C「自分の幸せや健康にでもなく」
A「ひとり、大樹に向かって祈りをささげる」

D「昨夜見た、坂の途中で立ちつくしていたサンドイッチマンに」
E「割り勘をごまかそうとした友人に」
D「電話ボックスのなかで抱き合っていた若い男女に」
E「席をゆずらず眠ったふりをしていた高校生に」
全員「祈りをささげる」

A「ビルに衝突した飛行機の乗務員と乗客とテロリストに」
B「くず折れるビルに」
C「天空に向けられたロケット砲に」
D「アラファトとシャロンに」
E「オウムとイエスの方舟たちに」
全員「祈りをささげる」

B「私のコーヒーポットとオレガノの鉢に」
C「息子に贈るハーモニカに」
A「私は祈りながら、木の幹に手を触れる」
D「見上げると、綿のような雪が暗い空のかなたから、ゆっくりと降りてくる」
E「どこか遠くで鐘が鳴っている」


  シーン 2

C「この樫の木は、冬も青々と葉を広げて立っている」
A「私が生まれるより前から」
BE「世界の人が生まれるずっと前から」
A「樫の木はここにこうして立っていた」
DE「この樫の木より前に生まれた人は、ただのひとりもいない」
BC「この樫の木よりも長く生きる人も、ひとりもいない」
ACE「樫の木が倒されないかぎり」
全員「樫の木が人の手によって倒されないかぎり」

B「飛行機の形をした斧が、大陸のはずれの島に立っていた大きな木をなぎ倒し
 た。斧の力はすさまじく、木は一瞬にしてくずれ倒れた。人の手が斧をふるい、
 人の手が何本もの木をなぎ倒した」
D「人の手が細菌をばらまき、人の手がミサイルを異国に打ちこんだ」
E「光でいろどられ、音楽があふれている街を、着飾り、作られた笑いを顔に張
 りつかせた人々が、目的もなく行き交っている。
A「それを、今日、私は見ていた」

C「雪がやんだ」
D「私は手を樫の木に触れさせたまま、ひとり空をあおぎ、祈る」
全員「また鐘の音が聞こえた」

(おわり)

2009年12月14日月曜日

締切り

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----- Urban Cruising #20 -----

  「締切り」 水城雄


 いまにも雪が降りそうな寒さではあるが、空は雲ひとつなく晴れわたっている。
 昼すぎには、この寒さもやわらいでいることだろう。
 こんな土曜日だというのに、わたしは仕事場から出ることをゆるされない。
 1日5枚ずつ、10日間コンスタントに書けば、50枚の原稿が完成するはずなのだ。
 わかっているとも。それは充分にわかっているとも。
 原稿の依頼は、1か月も前にはいっているのだ。依頼されてすぐに取りかかっていれば、なお20日間の余裕を残して完成、ということになる。推敲するのに充分すぎる日数だ。
 わたしにだって、そのぐらいの計算はできる。では、なぜそのように仕事ができないのか。
 1日5枚という仕事量は、けっして多いとはいえない。むしろ、ゆったりしすぎるくらいだ。それをたったの10日間、なぜ持続することができないのか、わたしは。まったく不可解としかいいようがない。
 今日は土曜日。仕事場の外からは、会社が休みなのだろう、父親とちいさな子供がキャッチボールを楽しんでいる声が聞こえる。
 私の息子も、やがて、午後になれば小学校から帰ってくることだろう。どこかに連れて行けとせがまれるのだろうか。だが、今日はだめなのだ。今日、この父親は、仕事場を出るわけにはいかないのだ。
 明日の朝までに50枚の原稿を書きあげていただかなければ、雑誌が出せません、と、担当編集者から宣告されている。
 ところがわたしは、いまだ一字も書けていない有り様だ。
 今朝起きてからずっと、わたしは仕事場の机にむかってすわっていた。
 机の上には、最近買ったばかりのノートパソコンが鎮座ましましている。
 ワープロソフトの画面はまっ白だ。ひと昔前なら、原稿用紙はまっ白だ、というところなのだろうが。
 どちらにしても、原稿が書けていないことには、変わりはない。
 机の端には、なにかの記念(たぶん古い友人の結婚しきかなにかだと思う)でもらった時計が、テクテクと時を刻んでいる。
 わたしはワープロの画面から目をそらすと、その時計をじっとながめた。
 乾電池駆動の丸い時計。文字板にはかすかにほこりが付着している。そういえば、時計を掃除したことなどない。
 わたしは時計がきらいだ。その証拠に、腕時計はしていない。していなくても、どうにかなるものだ。とくにわたしのように仕事が個人作業である場合はそうなのだろう。
 ひとりで時間を区切り、ひとりで仕事をする。時間の割り振りは、わたしの自由だ。そのわたしが、いまは時間に追いかけられている。時間という壁が、容赦なくわたしを追いつめてくる。
 明日の朝、編集者が原稿を取りに来るまでに、20時間以上ある。2時間につき5枚の割合で書きすすめれば、タイムリミットまで仕上がることになる。
 もっとも、それはあくまで計算上のことではあるが。
 わたしはパソコンのそっけないキーボードの上に、指をそっと置いた。
 このパソコンをわたしに売りつけた電気店の店員が、ホームポジションという言葉を教えてくれた。
 そんな言葉を、わたしは知らなかった。言葉を使って仕事をしている身だというのに、なんとこの世には知らない言葉があるのだろうか、とそのときは思ったものだ。なんとこの世には、新しい言葉があふれかえり、そしてまた次々と誕生してくることだろうか、と。
 ホームポジションというのは、キーボードに指を置く基本的な位置のことだ。左手の小指が「ち」という文字の上に置かれなければならない。右手の小指は「れ」という文字の上に置かれなければならない。
 左手の小指から人差し指にかけて「ちとしは」という文字に置かれなければならない。右手の人差し指から小指にかけて「まのりれ」という文字に置かれなければならない。その位置をホームポジションと呼ぶのだそうだ。
 文字を打つときには、それぞれの指はその位置から上や下に移動しながら、リズミカルに動くことになる。
 いわれたとおり、わたしは練習した。なにしろ、仕事のための道具なのだ。ある程度使いこなせなければならない。
 が、そんな練習も、いまこの瞬間には、なんの役にも立たない。なにしろ、打つべき言葉がひとつも浮かんでこないのだから。
 こうやってまっ白なパソコンの画面をながめながら、はたしていつまでここにすわっていることになるのだろうか、わたしは。

2009年12月13日日曜日

Swallowed in the Sea

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #39 -----

  「Swallowed in the Sea」 水城雄


 またひとつ、家が流れた。
 海岸が氷に閉ざされなくなって、海が次々と海岸を浸食していく。かつては二百フィートも内陸にあった家が、昨夜のうちに海に呑まれて消えた。
 とっくに避難ずみだったが、ひと月前から彼らを受け入れている親族はもう限界だろう。もとは八人家族の家に、さらに九人の家族が避難している。
 数年前まで海岸は氷に閉ざされ、海から守られていた。われらイヌイットの一族は氷の海を、かつては犬ぞりで、そしていまはスノーモビルで渡り、アザラシを撃ちに行く。肉も脂も内蔵も、骨も皮も全部使う。捨てるものはひとつもない。ずっとそうやって大昔からやってきた。
 いまでは政府の仕事でいくらか現金収入がある。気象観測、外国から来た動物学者の宿舎の提供や世話。テレビ撮影隊のガイド。そんなところだ。現金で防寒着やスノーモビルや燃料を買う。なかには街の大学に行くために集落から出る者もいる。
 いい時代になったという者もいるが、おれはそうは思わない。環境が変わり、人々の考え方もかわり、一族の結束は薄れた。先祖から受け継がれた言葉や歌もすっかりすたれた。そのかわり、英語を話し、エミネムを聴く。
 昨夜呑まれた家の主人はもう六十六で、妻は六十三、八十四歳になる母親がいる。娘が三人いて、ひとりは独身、二人は出戻り。三人の孫はみんなまだ十歳になっていない。
 昔はそんな歳まで働く男はだれもいなかったが、やつはいまでも漁に出る。おれと組むこともある。タフな男だ。が、実はやつがひどく膝を痛めていて、ときに歩くのもままならない状態を必死にこらえて隠しているのを、おれは知っている。やつが働けなくなったら、ほかの八人はどうすればいいのだろう。おれにはわからない。
 そしていま、やつは家を失った。海べりとはいえ、堅固な永久凍土の上に建てられた頑丈な家を。
 やつの心配ばかりしているが、おれだってそれどころじゃない。あと数年で海に呑みこまれるこの集落には、州から退去勧告が出ている。しかし、いったいどこへ行けばいいというのか。
 街へ?
 街の連中がわれわれのことを嫌っていることは、子どもだって知っている。州は街のはずれにわれわれのための仮設住宅を作るつもりらしい。そこに移り住み、街の連中と摩擦しないように身をこごめ、さげすまれながら、生きていかなければならないというのか? 海の男、イヌイットの誇りはどこにある?
 このままいっそ、われわれも海に呑みこまれ、海の一部になってしまおうか。
 そんなことをおれはふと夢想するが、やつの家の三人の孫の顔を見ていると、生き恥をも受けいれなければならないのかもしれないと、せめてオーロラの輝きに思いをはせて祈るしかないのだ。

2009年12月12日土曜日

Solitary Woman

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----- Jazz Story #6 -----

  「Solitary Woman」 水城雄


 洗濯ものがまだ干しっぱなしになっていた。
 まっ暗な部屋に帰ってきた彼女は、あわててベランダに出て、乾ききった衣類を取りこんだ。
 部屋の蛍光灯は明るすぎる。
 六畳ひと間。夫と別れ、生まれ故郷から出てきた彼女には、それがせいいっぱいだった。頼れるのは、古い男友だちがひとり。彼のほうも離婚したと聞いていたのに、たずねてみると新しい恋人と暮らしていた。
「とにかく、口をきいてやるから、面接だけでも受けてみろよ」
 と、知り合いの会社を紹介してくれた。迷惑顔でもありがたかった。
 床にすわりこみ、取りこんだ衣類をたたみながら、昼間のことを思いだしていた。
「ちょっといいですか」
 女から突然声をかけられ、思わず答えてしまった。
「なんです?」
「よろしければアンケートに答えてくれませんか。美容に関する簡単なアンケートです。お時間は取らせませんので」
 キャッチセールスだろう。話には聞いたことがあった。実際に見るのは初めてだ。
 女の年齢はこちらより少しだけ上だろうか。
「すみません、急いでいるので」
 これから面接に行こうとしていた。心も身体も冷たく緊張していた。
 すると女は、ぱっと手を伸ばすと、こちらの腕をぐっとつかんできたのだ。
「痛いです、放してください」
 びっくりして腕をふりほどこうとすると、女はさらにぎゅっと指に力をこめた。
 目が合った。その瞬間、女がいった。
「気取ってんじゃないよ」
 さっと腕を引き、立ち去った。
 しばらく動くことさえできなかった。これが都会というものなのか。
 面接会場に着くと、会社の男にいわれた。
「どうかしたんですか。顔色が悪いですよ」
 シャツの皺を伸ばしてたたみながら、そんなことを思いだしている。
「採用の場合は、あとで連絡します」
 携帯電話にかけてくれるように頼んだ。不採用の場合は、連絡はなし。
 私はこれからどうなるのだろう。
 ひとりぼっちだ。友だちはいない。仕事もない。明るすぎる蛍光灯を取りかえるお金もない。
 明日もまた、この街に向かっていけるのだろうか。
 べつに気取ってなんかいない。なにをどうしていいかわからないだけだ。
 そのとき、開けたままだったベランダのドアから、音楽が聞こえてきた。
 ラジオの音ではない。CDの音でもない。だれかがギターを弾いているのだ。
 不思議な音色のギターだった。聞いたこともないメロディ。聞いたこともないサウンド。
 近くだ。たぶん、おなじアパートの別の部屋からだろう。
 彼女は洗濯物をわきへどけると、立ちあがり、ベランダに立った。
 静かで、不思議なギターの音色が、大きな飛行船の影のように彼女を包みこんだ。
 ギターの音がやんだ。
 ポケットの電話が鳴りはじめた。

2009年12月11日金曜日

講演

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----- Urban Cruising #19 -----

  「講演」 水城雄


 紹介が終わり、ステージの端にすわっていた私は、ゆっくりと立ちあがった。
 演壇の前に立ち、マイクにひたいをぶつけないように気をつけながら、おじぎをする。ひかえめな拍手が聞こえた。
 私は背広の内ポケットから、この講演のためのメモを取りだし、演壇に広げた。
 スポットライトがまぶしい。
 500人近くの聴衆が私を見つめているはずだが、ライトの光でよく見えはしない。最前列にすわっている人の顔だけが、はっきり見えている。
 私は折りたたんだメモを、演壇の上でていねいにひろげた。その私の一挙手一同が、聴衆に見守られているのを感じる。今日の聴衆は、熱心な聞き手ばかりのようだ。
 広げたメモには、今日は話そうと考えていることが、自分だけにわかる簡単なキーワードを使って書きとめられている。
 私はそのメモに目を落とした。
 せきばらい。
 メモには、
「まず謝辞をのべること」
 と書いてある。
 つまり、
「本日は私のような若輩者をこのような席に呼んでいただき、ありがとうございます」
 とかなんとかいう、形式的な挨拶である。それをまずいおうと考えていたのだが……
 これではだめだ。
 最前列には、固唾を飲んで私の言葉を待っている中年の女性の顔が見える。そのとなりでは、はやくも鉛筆とメモをかまえ、私のいうことを書きとめようと待ちかまえている初老の男性がいる。さらにその横には、足を組んで身体をななめにかまえ、懐疑的な視線をこちらに投げかけている若者が見える。
 さて、どうしようか。
 私は考えながら、ゆっくりと会場を見まわした。
 スポットライトの光に目がややなれたのか、会場の様子がすこし見えるようになってきた。
 それほど大きなホールではない。1階席と2階席を合わせて600人を収容できるということだ。が、その500 席までが聴衆でぎっしりつまっているのは、かなりの壮観といえた。
 いや、人ごとではないのだ。彼らは皆、私の話を聞くためにここにやってきたのだ。のんびりと会場をながめまわしているときではない。
 このような講演をたのまれるようになったのは、ここ2、3年のことだった。ゆっくりとしたペースではあるが、書きつづけ、著書も気づいたら5冊を越えていた。ときおりテレビやラジオへの出演をたのまれるようになった。
 はじめて講演したときのことを、私はなつかしく思いだすことができる。
 あれは、友人を通じてある企業の労働組合の会合で講演をたのまれたのだった。
 もちろん、人の講演を聞いたことは、何度もあった。そのたびに、話し手がいかにもやすやすと聴衆を笑わせ、自分の話に聞き手を引きこんでいくのを感心して見ていたものだ。
 が、いざ、自分が演壇に立ってみると、コトはそう簡単にいかないことを、最初のときに痛感したものだ。
 あのときは、話の技術と内容に余る謝礼をいただいてしまったものだが、それ以来、けっして多額の謝礼はいただかないことにしたのだった。
 今日の講演の謝礼も、じつはまだ額を聞いていないのだ。
 会場はしんと静まりかえっている。
 私の最初の言葉を、500 人の聴衆が待ちかまえているのだ。
 高校や大学などで講演したときには、このようなことはなかった。会場は最初からざわつき、それは話し手にとっていらだたしいことではあったが、緊張感からは遠く、最初からリラックスした内容で話しはじめることができる。終わってみると、意外に学生たちがよく聞いてくれたことをうれしく思ったりするのだ。
 が、今日はちょっとちがうようだ。
 会場には最初から緊張感がみなぎっている。
 私はもうひとつ、せきばらいした。
 会場のほうからは、せきばらいひとつ、聞こえない。
 ときには、聴衆の連れてきた子どもが騒ぐ声が聞こえたりすることもあるのだが、今日はそんなこともないようだ。
 光に目がなれてくるにつれ、感じるのは、500対の視線だ。500対の耳だ。それがすべて、私ひとりに向けられている。
 私はきゅうに、のどのかわきをおぼえた。
 演壇の右端に、水さしが置いてある。水さしには、コップがかぶせられている。中の水には氷が浮かび、ガラスの外側には水滴が無数についている。
 私は水さしを引きよせると、コップを取り、水を注いだ。
 手がふるえ、コップが水さしにぶつかる音がひびいた。聴衆にもそれは聞こえたかもしれない。
 私は水をひと口飲むと、顔を正面に向け、覚悟を決めた。

2009年12月10日木曜日

Dancin' On The Door

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #3 -----

  「Dancin' On The Door」 水城雄


 ちょっと、すいません。困るんです、こんなところで寝てられちゃ。
 ね、起きてくださいよ。ここ、あたしの部屋なんです。お願いします。
 まいったなあ、全然起きないよ。爆睡しちゃってるよ。酔っ払いかなあ。酔っ払いなんだろうなあ。におうもんね、すっごく。あたしだってけっこう飲んでるけどさ。
 すいません、起きてくださいってば。ねえ、目をさましてよ。ここ、あたしの部屋なんだって。こんなところで寝てられると部屋に入れないのよね。あなた、ここの人? 何号室ですか?
 きっと部屋を間違えたんだ。どこの階かなあ。見覚えのない顔だけど。いくつぐらい? あたしより上だよね、かなり。それなのに、こんなに酔いつぶれちゃって。みっともないよ。
 結婚してるのかなあ。子どもだっているかもしれない。お父さんのこんな姿、子どもが見たら悲しいよね、きっと。あたしのパパもけっこう酔っ払いだったな。
 起きてください。いつまでもあたし、こんなことしてらんないの。部屋に入りたいんです。わかります? 人を呼びますよ。それとも、だれかに迎えに来てもらいます? ケータイとか持ってないんですか? あたしがかわりに呼びましょうか?
 カバンは? 持ってないんですか? どこかに忘れてきちったの?
 ポケットのなかを見ますよ。いいですか? 見ますよ。いいですね?
 ケータイも持ってないんだ。どうしよう。
 あーあ、やだなあ、酔っ払い。あたしも少し控えようかな。おまえのそのだらしない酔いかたがいやなんだっていわれたもんなあ、元カレからも。
 ね、ね、起きましょうよ。こんなところで寝ていたら風邪ひきますよ。だめですって、起きて、おうちに帰りましょうよ。奥さん、待ってますよ、きっと。
 あっ、なにするんですか、いきなり! だめですって、困ります!
 あ、そんな……
 え、これ? くれるんですか? いいの? そんな迷惑だなんて……
 ありがとう。うれしい。ほんとに? いいの? もらっちゃいますよ。
 あ、何号室なの? 連絡先、教えて。
 あ、はい。さよなら。はい、あなたもお元気で。
 飲みすぎないようにね。うん、わたしも。わかってる。

2009年12月9日水曜日

梅雨の合間に聴くマーチ

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----- Another Side of the View #7 -----

  「梅雨の合間に聴くマーチ」 水城雄


 もどってこようとしていたスナイプが、タックに失敗してひっくりかえるのが見えた。
 乗っているのは20代のカップルだ。ベアしすぎた艇はセールから風を逃がしきれず、ゆっくりと左舷から倒れていった。ふたりとも慣れていないらしく、センターボードに乗りうつるひまもなく、湖に落っこちてしまった。
 まあ、今日の天気なら寒くはないだろう。ライフジャケットも着ていることだし。
 そう思いながら、次の客のためにセッティングしかけていた別のスナイプのシートブロックを桟橋に放りだし、彼はモーターボートのほうに行きかけた。どうやらあの様子では、自力で起こせそうになかったからだ。
 梅雨にはいったばかりだというのに、からりと晴れていた。しかし空はこの天気を長くつづけるつもりはないらしく、西風が強く吹きはじめていた。このあたりではこの風を三井寺風と呼んでいる。この風が吹きはじめると、だいたい天候は悪い方向にむかう。貸しヨット屋にはあまりうれしい風ではなかった。
 小型のモーターボートが艇庫と桟橋にはさまれた狭い水路につながれている。そのもやいをときかけたとき、エンジン音が聞こえた。大きいほうのモーターボートが桟橋の下からゆっくりと走ってきた。ついいましがた、水上スキーの客をおろしたところだった。
 ハンドルを握っているおじさんがいった。
「高橋くん、わしが行くからええわ。あっちの準備、先にしたってや。お客さんが待ってるさかい」
 小柄だががっしりした体格。浅黒い顔。白いスポーツシャツ。頭には船長帽をのっけている。
「わかりました」
 こたえると、おじさんはエンジン音をあげて沖にむかった。モーターボートに取りつけてあるカーステレオから、威勢のいい行進曲が聞こえてきた。星条旗よ永遠なれ。
 見送り、スナイプの準備にもどった。
 朝からやけにいそがしかった。梅雨入り宣言がされたくせに天気がいいので、いまのうちに乗っておこうと客が殺到したのかもしれない。時給いくらの学生アルバイトの身としては、いささかつらい。もっとも平日は楽をさせてもらっているのだが。
 それに風が悪く、やたら沈(ちん)が多かった。たまに来る客の中には、沖からの順調な風しか知らない者もいる。桟橋のある水路から湖へいつものように間切って出ようとして、とまどったりしている。そういう客たちの面倒を見てやらねばならないばかりか、アルバイトは出艇、着艇をひとりで切りまわさなければならなかった。おじさんはおじさんで、水上スキーの客の応対に追われている。
 ひっくりかえっていたスナイプが、おじさんのモーターボートに引かれ、セールをバタバタいわせながらもどってきた。若いカップルは頭からずぶ濡れになっている。それを気の毒がっているひまはない。準備ができたスナイプに次の客を乗せ、送りだしてから、もどってきた艇の後始末に取りかかった。

 四時をすぎてから風がさらに強まった。
 これから出ていこうという客はいなかったが、いても出せないほどに強い西風が吹きはじめていた。
 彼はおじさんとふたりで、帰ってきた艇の始末をしていた。もどってきたディンギーは、シート類をはずし、センターボードとラダーを抜く。メインセールはブームに巻き、ジブはたたんで、それぞれ倉庫にしまう。そうして船はおじさんとふたりがかりで、船台にひっぱりあげ、ウエスで丁寧にふき、カバーをかけて艇庫にしまう。
 艇の始末をほとんど終えかけたとき、まだ1杯、帰っていないことに気づいた。
「おじさん、シカーラが1杯、もどってません」
 船台にあげた艇にカバーをかける作業の手をとめ、おじさんは顔をあげた。
 沖を見る。もう帆影はほとんど見えない。はるか沖に見える数枚の白いセールは、おそらくクルーザーのものだろう。
「いつ出たやつや?」
「2時間以上前ですよ」
「村山さんやな。奥さんとふたりで出たやつやろ?」
「そうだと思います」
 風を見る。水路の対岸の柳が、びゅうびゅうと風になびいている。セールをおろしてまだ桟橋につないである艇のリギンが、カチャカチャと激しく音を立てていた。
「無理やな、この風やと。高橋くん、いっしょに来てくれへんか」
 彼もコクピットのビルジの掃除を中断し、おじさんの後についていった。
 大きなほうのモーターボートに乗りこむ。
 おじさんがイグニション・キーを回すと、ボートは低く震動をはじめ、同時にいれっぱなしになっていたカセットテープから音楽が流れはじめた。行進曲〈士官候補生〉だった。
 おじさんがグイとレバーを倒すと、モーターボートは船首をもたげ、沖にむかっ
て勢いよく走りだした。
「どっちに行ったのかわかるんですか?」
「唐崎(からさき)やな。村山さんはいつも、あっちのほうに行くんや。奥さんを乗せるときには特にな。あのへんのどこかに避難してるんとちゃうか」
「だといいですね」
「村山さんはしっかりした人や。ヨットはまだ下手やけどな」
「おじさん、マーチが好きなんですね」
「ああ。船に乗るときはこれが一番や。調子ええやろ?」
「そうですね」
「このテープは特に豪華やで。なにしろニューヨーク・フィルやからな。指揮はバーンスタインやで。気分がシャキッとする」
 おじさんのいったとおり、唐崎の手前のちいさなマリーナの桟橋に避難しているシカーラが、見つかった。
「高橋くん、わしがシカーラを引っぱる、あっちで舵持っててくれんか」
 曲は〈士官校補生〉から〈双頭の鷲のもとに〉に変わった。
 モーターボートが近づいていくと、ふたりの人影が桟橋で大きく手を振った。

2009年12月8日火曜日

Start

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----- Jazz Story #22 -----

  「Start」 水城雄


 大型台風の通過であやぶまれていたフライトだったが、なんとか定刻に飛んだ。
 昼の便が欠航したためか、機内はほぼ満席だった。
 夜のフライトだ。
 私はごく短い休暇を実家ですごし、仕事場にもどろうとしていた。小松空港十九時五十五分発JAL一四八便。
 空にのぼると、まだうっすらと日の光が地平線に残っていた。
 私は手帳をひろげ、明日からのスケジュールを確認した。朝一番にやるべきことを書きだし、頭を休暇から仕事にもどす。
 気がついたら、機体が左旋回を始めていた。
 私の席は47A。左舷窓側の席。飛行機の楕円形の窓からは、おびただしい光の帯が見えた。
 光の集合は、黒い線でくっきりと区切られている。
 海だ。
 どうやら、名古屋上空らしい。小松からまっすぐ南に飛んだ機体は、このあたりで東に進路を変える。
 旋回する窓のなかに、暗い空が見えた。
 なにかが光っている。
 星だ。五つの星がならんでいた。
 アルファベットの「W」の形をしている。カシオペア座だ。
 その手前を、別の飛行機が東から西に向かって、信号灯を点滅させながら、ゆっくりと横ぎっていった。

 大きくえぐれた湾から、こちら側に向かってくさび形の半島が突き出ている。
 伊豆半島だ。
 湾と半島を無数の光が縁取っている。その光のひとつひとつに、人々の営みがある。
 半島の東側もやはりえぐれた湾になっていて、湘南の街が光の帯になっている。
 その先は三浦半島、そして東京湾のはずだが、首都の光は雲に隠れて見えない。
 伊豆半島の付け根のあたりで、動く光を見つけた。小さな小さな丸い光。それがパッ、パッと点滅している。
 最初はそれがなんなのかわからなかった。よくよく目をこらし、それが花火であることに気づいた。
 小さなミニチュアのような花火。しかし、それは地上では巨大な打ち上げ花火に見えるのだろう。飛行機からは直径五ミリほどの、ミクロの花火だ。
 暗い空には、先ほどから見えているカシオペア座が右側に、そして左側には大熊座が見えた。北斗七星だ。ひしゃくの先を伸ばしたところに、ポールスター。北極星が見える。
 飛行機は駿河湾を横切り、伊豆半島の先をかすめて、大島上空に差しかかった。
 大島の真上で、左旋回をはじめた。
 房総半島の沖合いに出て、千葉上空でさらに左に旋回する。目に見えて高度を落としているのがわかる。
 傾いた飛行機の窓から、いままさに西に沈もうとしている上弦の月が見えた。
細く、赤く輝く月。それが目線より低いくらいの位置に見えている。
 月が沈むころには、私も、ほかの乗客たちも、家にもどり、都会の営みにもぐりこんでいることだろう。

2009年12月7日月曜日

プール

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----- Urban Cruising #17 -----


 天井は温室みたいにガラス張りになっている。
 胸をふくらませ、身体をあおむけにして水面に浮かんでいると、ガラスを通して秋の太陽がまぶしい。
 泳いでいる者は、ぼくのほかにだれもいない。

 歩いて行けるほどの近くに、プールができた。
 日ごろ運動不足を自覚しているぼくは、まっ先にスイミング・クラブの会員になることにした。
 なに、田舎のスイミング・クラブのことだ、都会のクラブのように、目の玉が飛びでるほど会費をふんだくられるようなこともなかった。
 温水プールで、水温は常に三十度前後にたもたれている。プールサイドにはサウナルームがあり、自由に利用できるようになっている。シャワールームも完備している。
 できた当初は、ものめずらしさと、夏だったこともあって、かなりの人が常時泳ぎにきていたものだ。会員にならなくとも、若干の入場料金を支払えば、一般客として泳ぐことができるのだ。日曜日ともなれば、家族連れが遊園地気分で押しかけてきた。
 とても泳げるものではない。
 が、秋も深まった今日このごろでは、めっきり利用者が少なくなってきた。
 平日の昼間、とくに午前中など、ちょうどいまのように、泳いでいる人間がぼくひとり、というようなことも珍しくない。
 たったひとりでプールを独占し、水面にゆったりと浮かんでいるのは、なんともいえない気分だ。
 そんなぼくに、声をかけてくるものがあった。
 水面にあおむけになったまま、顔だけプールサイドに向けると、水着をつけた若い女性の姿が目にはいった。

 若い、と思ったが、よく見るとぼくと同年輩らしい。
 ふっくりした顔だちだが、目尻のあたりに年齢があらわれている。
 正確に名前を呼ばれ、ぼくはプールの中に立ちあがった。
 向こうはこちらを知っている。こちらは向こうを知らない。
「どこかでお会いしましたっけ?」
 ぼくはまぬけな質問をした。それよりほかに、いうべきことを思いつかない。
「同級生です、高校の」
 同級生? 見おぼえ、ない。
「何組でした?」
「四組です」
 四組といえば、女子ばかりのクラスだ。あの子とあの子なら知っているぞ。
 ぼくは知っているかつての女生徒の名前をいってみた。
「そう、その子と同じクラス」
 と彼女はこたえる。
「あたし、目だたなかったから」
 そういって、彼女は頭に手をやると、スイミング・キャップをぬいだ。
 ああ、そうか。
 ぼくはわずかに記憶がよみがえるのを感じた。たしかにこの女性、高校の同じ学年にいたな。
 しかし、あのころはもっと……
 ぼくは正直にいった。
「すこし太ったね?」
 ふふふ、と高校生の顔になって、彼女が笑った。

 もともと水泳は得意だったが、ひさしぶりに泳いでみると、日ごろの運動不足をつくづく思い知らされた。
 最初は、二十五メートルプールを往復しただけで、息が切れてものもいえないほどになったものだ。
 毎日かよっているうちに、七十五メートル、百メートルと、すこしずつ距離をのばし、ゆっくりとではあるが八百メートルほど泳げるようになった。
 ぼくがそうやって泳いでいるあいだ、彼女もほぼ同じペースでぼくの横を泳ぎつづけた。
 八百メートルを泳ぎきり、彼女が泳ぎやめるのを待った。
「女性でそんなに泳ぐ人、はじめて見たよ」
 ぼくがいうと、
「だってあたし、このスイミング・スクールの先生だもの」
「なあんだ、教えているのか」
 それからぼくはたずねた。
「ここができる前は、どこかで教えていたの?」
「ええ」
 彼女は別の町の名を教えてくれた。ここからはかなり遠い。
「そこに住んでいたから。もどってきたの」
「ご家族は?」
「いまは、ひとり」
 ぼくはその意味を考えた。
 まあいい。人には人の事情がある。
 ぼくはプールからあがると、彼女に軽く会釈してから、シャワールームに向かった。

2009年12月5日土曜日

Ranmaru Blues

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #3 -----

  「Ranmaru Blues」 水城雄


 おうおう、なんだって黙って人の前を通りやがるんでぇ。ひとこと挨拶ぐれぇしろって。
 まぁそんな顔すんなよ。なにも取って食おうってんじゃねえんだ。こう見えても、心優しいんだぜ、おれぁ。飼い主が優しいいい人だと、猫もそうなるってもんよ。知ってるだろう、おめぇだってよ。
 おれの名か? おれの名は蘭丸ってんだよ。
 おう、てめぇ、いま笑ったろ。いーや、笑った。失礼な野郎だな。そういうてめぇはなんてぇ名だ。メルドー? なんだ、そりゃ。それが猫の名か? あんだって? 有名なジャズピアニストの名前をいただいたんだってか。そんな名前、おれぁ知らねえな。
 いや、まるっきり無学ってわけじゃねえんだぜ、こう見えても。けっこういい暮らししてんだ、これでも。
 おれの前の飼い主ってのは、おめぇもきっとうらやむようなきれいな人でな、歳の頃は人間歳で数えて26だった。花も盛りってとこよ。いや、ひとりもんだった。ひとりもんだったけどよ、ときどき男は来てたな。おれぁそいつがあんまり好きじゃなくてよ。ご主人さまには似つかわしくねぇようなじじぃでな、ま、ご主人さまの男の趣味についてとやかくいう筋合いはねぇけどな。ま、おれも適当にあしらってやってたわけよ。でもまあ、あんまり気にくわねえ感じだった。
 なんの話だ?
 そうそう、おれがまるっきり無学じゃねえって話だった。おれのご主人さまってのは、それぁ努力家で、勉強家だった。普段はドーナツ屋でドーナツを作ったり、客の相手をしたりして生活費を稼いでるんだが、本当にやりたいのは声の仕事らしいんだな。いわゆる声優ってやつよ。
 声優なんてのは、声がよくて、セリフがすらすらとしゃべれればだれでもやれそうに思うんだが、実際にゃそういうわけにはいかねぇらしい。事務所だの、養成所だの、コネだの、複雑怪奇な人間族のシステムがあって、まるっきり実力だけの世界でもねぇらしいんだな。もっとも、実力がねぇことには話にならねぇからな。だからご主人さまは毎日朝からカツゼツとかいうものの練習をしたり、少しでも声にからんだ仕事だとほとんどカネにもならねぇってぇのに出かけたりしてたな。養成所とかいうところに高ぇカネ出して通ったりな。
 努力家なんだな、ようするに。美貌は天からさずかったものだとしてもな。
 おれもそれに、ま、なんちゅーか、触発されたっつーんですか、このツラに似合わず、毎日読書にふけったりしたもんだ。それでもって、ガラにもなく「猫族における婚外交渉とHIV感染症の増加について」なんて論文を書いたりしたもんだから、この始末よ。学なんてぇものは、人生の幸せにゃあなんの関係もねぇ。むしろへたに学を身につけたりすりゃあ、このザマよ。猫にはそれぞれ、身に合った分ってぇもんがあるのよ。いまさらそんなことがわかって
も遅ぇけどな。
 あぁ、会いてぇにゃあ、ご主人さまに。いまごろなにしてるのかにぁあ。もうおれ様のことなんかすっぱり忘れて、あたらしい飼い猫だか、あるいはいまはやりのフェレットなんてぇものを飼ってるんじゃねえのかにゃあ。

2009年12月4日金曜日

Here's That Rainy Day

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----- Jazz Story #11 -----

  「Here's That Rainy Day」 水城雄


 そうなんだ、ひとり。
 珍しい? そうかな。そうか。そうだな、このところ、ひとりで来ることなんてなかったね。
 いつもの。オンザロックで。いや、ダブルじゃなくてシングルで。
 今日は静かだね。
 そんなことはないだろう。つぶれやしないさ。今日はたまたまだろう。いつも繁盛してるじゃないか。だから、最近はなんとなく来にくくってさ。
 もう何年になる、ここ? 10年? すごいじゃないか。やらないの、10周年とか?
 ふうん、そりゃマスターらしいや。そのほうがいいかもな。うん、そのほうがいい。
 それにしても、今日び、どんなことだって10年も続けるってのは大変なことだ。えらいよ、マスター。おれみたいに、ただ会社にぶらさがって、給料をもらってるだけじゃないもんな、こういう客商売は。
 いや、お世辞じゃないって。本気だよ。本気でいってる。
 これ、だれ?
 ギターデュオ? 最近の? 珍しいじゃない。
 なんて読むんだ、これ。ジーン・ベルト……ベルトンチーニ? イタリア系かい? それとジャック・ウイルキンス。
 いいじゃない。気にいったよ。おれも買おうかな。
 お、ライブなんだ。
 こいつらも10年も20年もきちんとギターに向かい合ってやってきたんだろうな。じゃなきゃ、こんな演奏、できないもんな。
 男と女だって、10年続けるのは大変なことさ。そう思わないか、マスター?

 彼の前には、バーボンのはいったグラスが置かれている。
 バーボンはメイカーズマーク。いつもこれを飲んできた。
 かかっているのは、「ヒヤズ・ザット・レイニー・デイ」。これも彼の好きな曲だ。この聞きなれないギターデュオの演奏もいい。
 静かな演奏の、音がとぎれる合間に、グラスのなかの氷がとける音が聞こえそうな気がする。
 彼は上着の内ポケットに煙草をさぐった。
 そうだ、ちょうど切らしていたんだ。
 と、目の前に、一本振り出した煙草の箱が差し出された。彼が吸っている銘柄だ。マスターが吸っているものとはちがう。
 昨日、彼女が来ましてねと、マスターがいった。そういえば、彼女はときどき、もらい煙草をして、一本だけ吸うことがあった。
 抜き取り、口にくわえると、マスターがライターで火をつけてくれた。
 煙草のかおりは、彼女の思い出を運んでくる。
 彼はバーボンの残りをひと息にあおった。
 しかたがないさ。もとからわかっていたことじゃないか。おれには妻も子どももいる。いつまでもつづくようなことじゃなかった。2年? 3年? 10年も20年もつづくなんて、彼女も信じていたわけじゃないだろう。
 胃を熱くするアルコールの感触。
 わずかに甘い煙草のにおい。
 静かなギターの音色。
 そして、思い出はいつも、苦い。

2009年12月3日木曜日

Come Rain Or Come Shine

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----- Jazz Story #10 -----

  「Come Rain Or Come Shine」 水城雄


 そうなの。今日はひとり。
 ううん、とくにどうってわけでもないんです。なんとなくひとりで飲みたい気分になっただけ。
 そうね、マスター、いつもの。うん、モスコーミュール。
 雨はまだだけど、なんとなく生暖かくていや。あたし、梅雨って苦手なんです。マスターは?
 梅雨どきにあう曲って、どんなのがあるんですか?
 雨の歌。
 ふうん、それ、どう訳すんだろう。
「降っても晴れても」?
 そういえば、村上春樹に紀行文に「雨天晴天」というのがあったけど、関係あるのかな。ギリシャとトルコの話なんだけど。タコを料理して食べる話があったんだけど、ギリシャで食べるタコってどんな感じなんだろう。
 ギリシャって行ったことあります? 一度行ってみたいなあ。
 マスターは好きですか、村上春樹?
 え、そうなの? あんまり男の人で好きっていう人にあったことないんですよね。でも、いいですよね。わたしは好き。
「中国行きのスローボート」もジャズのスタンダードナンバーなんですか。ふーん。ロリンズ? オンナ・スローボート・トゥ・チャイナっていうんですか。
 この曲、いまかかっているのはなんていうんですか?
 あ、これが「カム・レイン・カム・シャイン」なんだ。
 ふーん、ウイントン・ケリー。知らないなあ。

 店には彼女以外、客はだれもいない。
 バーテンダーの池田は、カウンターの端の換気扇の下で煙草を吸っている。
 シングルノートを多用したウイントン・ケリーの明快なピアノソロの合間に、エアコンの音がかすかに聞こえている。
 静かな夜だった。
 彼にはじめてこの店に連れてきてもらったときも、こんな静かな夜だった。
彼はジャズが好きで、しかし彼女はまったく知らなかった。聴くのはいつもロックかJポップ。
 ほんとをいうと、いまでもジャズはよくわからない。でも、この店の雰囲気は大好きだ。
 彼と別れようと決めたとき、最後にもう一度ここに来てみようと思った。ここは彼のホームグラウンドの店。別れればもう二度と来ることもないだろう。
 マスター、この曲はなんという曲、と彼女は聞いた。枯葉ですよと、マスターが答えた。ふうん、秋の曲ね。
 灰皿と、煙草を一本くれないかと、マスターに頼んだ。
 ずっとやめていた煙草を、彼からこの店でひさしぶりにもらい煙草したことを思いだしたのだ。あのときの煙草の味は、はっきりと覚えている。
 マスターがあたらしい煙草の封を切っている。自分の煙草はまだ残っているのに。
 一本だけでいいのよ。
 わかってますよ。でも、あの方とおなじ煙草を吸いたいんでしょう?
 あたらしい煙草を一本振りだし、彼女に差しだす。
 抜き取り、差し出されたライターの火をつけた。
 ふうー。
 マスター、だれだっけ、このピアノ。
 ウイントン・ケリーですよ。
 ふうん。
 たなびいている煙を払うように、ウイントンのシングルノートがいくつもころがってきて、彼女の目からこぼれた。

2009年12月2日水曜日

嵐の中の温泉

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----- Urban Cruising #11 -----

  「嵐の中の温泉」 水城雄


 湯からあがると、ようやく彼女の顔がほころんだ。
 たたきつけてくる雨と風。巨石をころがすゴロゴロという音を伝えてくる濁流。山肌からふき出すわき水。
 ここに来たいといいだしたのは、彼女のほうなのだが。

 秋を呼ぶかのような台風の中を、たたきつけてくる風雨にさからってハンドルを切った。
 夕刻にはまだ間があるというのに、もうヘッドライトをつけねばならない。助手席の彼女の顔は、すこし青ざめている。
「明日、帰れるかしら」
 という彼女の言葉に、不安が凝縮されている。
 ラジオの天気予報によると、なんでも、台風が九州南部に上陸したということだ。そのラジオも、いまでは雑音を伝えるばかりだ。電波もこの山中まではとどかないらしい。
 温泉に行きたい、といいだしたのは、彼女のほうだった。近ごろの温泉ブームの影響を受けたのか、あるいは都会育ちの彼女にとって、田舎の温泉がめずらしかったのか、ずっと以前話したことのある温泉の名前を、彼女が出してきた。会社の同僚たちと、イワナ釣りのための宿にした山奥の温泉宿。
 その温泉の名を標識に見てから、もうずいぶん走ったような気がする。
 県境へと続く山道。整備された広い二車線の国道は走りやすかったが、温泉へとつづくわき道にはいってからは、荒天のせいもあって緊張を強いられている。車二台がすれちがえるかどうかという細い山道。ところどころある未舗装の箇所には、濁った水たまりができている。山肌からは、わき水があふれだし、いまにも崖くずれを起こしそうな心配にかられる。
 明日、帰れるだろうか、という不安は、なにも彼女だけのものではない。明日はふたりで、両親に会うことになっている。

 古い木造建築の温泉宿は、迫りくる山と濁流にはさまれるようにして、いかにも頼りなげに建っていた。
 犬が鳴いている。
 お寺の本堂前のような木の階段を踏みしめて、建物にはいる。がらんとした中にむかって、呼んでみる。
 すぐに返事があり、頭に手ぬぐいを巻いたたくましい男が、中から出てきた。
 名前をつげると、予約をうけたまわってますといって、てきぱきと奥へ案内する。その背中にむかって、たずねてみた。
「明日、だいじょうぶでしょうか」
 すると、なにがだいじょうぶなのか、とも聞きかえさずに、男は力強くうなずきながら、こたえた。
「だいじょうぶです」
「帰れますかね、ちゃんと」
「だいじょうぶです」
 だいじょうぶです、の一本やりだ。その一途ないいかたに、彼女が目にみえてほっとするのがわかった。
 それでも、本当に彼女がくつろいで顔になったのは、湯にはいってからだった。
 夕食前に、すでに用意されていた湯にはいった。泊まり客はほかにもいるようだが、多くはない。浴場にはだれもいなかった。
 男湯と女湯の仕切り越しに、話しかけてみる。
「ちょっと熱いね、お湯」
「そうね」
 くぐもった彼女の声が、すぐに帰ってきた。
「どんどん埋めてるよ、おれ」
 仕切越しに話すのは、なぜだか気恥ずかしい感じだった。

 食事がすむと、なにもすることがなくなった。
 テレビはあるのだが、普通のチャンネルはうつらない。衛星放送がはいるが、なんだか外国のニュースばかりやっていて、つまらない。
 食事はうまかった。イワナの塩焼き、アマゴのフライ、山菜の数々。彼女の顔がみるみるほころんでくる。
 食事のあとかたづけが終わってからすぐに敷いてもらった布団に寝そべっていると、ゴウゴウという谷川の音が聞こえてきた。雷はもう鳴っていないが、雨は降りつづいており、川が大きな石をころがしていくゴロゴロいう音が伝わってくる。
 雨にすっぽりとつつみこまれた宿で、これからのことを彼女とすこし話した。
 明日は両親に会わなければならない。
「きみのこと、どう説明するかな」
「そうね。いきなり連れていったりして、さぞかしびっくりするでしょうね」
 男みたいに両手を頭の下に組み、天井を見上げながら彼女がいう。
 他の泊まり客たちはどうしているのか、宿の中はしんと静まりかえっている。
「もう一度、風呂にはいってこようか」
 そう提案してみた。せっかく温泉に来たことだし。
 返事がないので、彼女のほうを見ると、目を閉じている。寝息が聞こえてくる。
 なんだ。もう眠ってしまったのか。
 ひとりで湯につかり、部屋にもどってみると、彼女は横むきになり、幼児のように丸くなって眠っていた。
 布団を肩までかぶせてやりながら、思った。
 両親にははっきりいうべきだな。この人と結婚することに決めた、と。

2009年11月30日月曜日

When It Rains

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #11 -----

  「When It Rains」 水城雄


 こちらでは長雨が続いておりますが、そちらはいかがおすごしですか?
 満州はもう寒いのではないかとお父さまがおっしゃっておられましたが、お身体にさわりはありませんか?
 雨のせいで、戦地からのあなたのお便りは、インクの字がにじんで読みづろうございました。でも、読めることには読めました。ハルピンよりも遠くに行かれてしまったとのこと、とても心配です。でも、これもお国のためですもの、いたしかたのないことです。
 昭三は少し風邪をひいてしまいました。心配にはあたりません。鼻を出していますが、熱はもうすっかり下がりました。しばらく寝かせてありましたが、下の民子が心配顔で何度ものぞきこんで「にーちゃんダイジョブ?」と問いかけるのはおもしろくもあり、かわいらしくもありでした。
 お腹の子は順調のようで、ときどきびっくりするほど強く蹴られます。きっと元気な男の子でしょう。あなたはもうひとり、男の子をほしがっておられましたしね。
 先日のわたくしの誕生日には、たいそうなものをお送りいただき、ありがとうございます。大切に使わせていただきます。ほんとうにうれしうございました。おかあさまからもきれいな飾り櫛をいただいてびっくりしました。みなさまからお気づかいいただいて、とても幸せです。
 わたくしも二十歳になりました。まだまだ知らないことばかりですが、あなたのお留守のあいだ、おとうさま、おかあさまといっしょにしっかりとお家と子どもたちをお守りしておりますので、あなたもどうぞお国のためにおおきにお働きくださいますよう。
 でも、お身体にはくれぐれも気をつけて。
 鉄砲が飛んできたら、どうぞお隠れになってくださいましね。

2009年11月29日日曜日

夜に聞くデッキの雨の音

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----- Another Side of the View #3 -----

  「夜に聞くデッキの雨の音」 水城雄


「雪になるんじゃないのか、この雨」
 ハッチを閉めながら樋口がいった。
「そんなにひどく降ってるのか?」
「いや、ひどくはないが、冷たい」
 なるほど、彼のオーバーコートはぐしょ濡れというほどでもない。
「寒いな」
「いまつけたばかりだからな。おれもついさっき、来たばかりなんだ」
 私はストーヴの調子をうかがった。古めかしいデザインの真鍮製のキャビンストーヴ。シューシューという音を立てて快調に燃えている。
 樋口が差しだした紙袋を受けとるために、それまで読んでいた本をテーブルに置いて私は立ちあがった。樋口はコートを脱ぎ、私の本を手に取ってから、すわった。
 ギャレーに立ち、樋口が持ってきた袋の中身を点検した。
 レタス、ブロッコリ、トマト、アボカド、ソーセージ、生ハム、フランスパンが一本。袋から取りだし、さっそく調理に取りかかった。
「これ、おもしろいのか?」
 私の本を目の前まで持ちあげ、樋口がたずねた。
「まだわからん。読みはじめたばかりなんだ」
 ブロッコリのためのお湯をわかす。
「たぶんおもしろくないな」
「なら、なぜ読んでる?」
「書店に山のように積んであると、気になってつい買っちまうんだ。読みはじめたら、最後まで読まないと損したみたいな気分になる」
「おまえらしいよ」
 レタスを軽く水洗いし、指でちぎってサラダボウルに投げこんだ。
 樋口はそのまま本を読みはじめたようだった。私は調理を続けた。
 彼が船に来るのはひさしぶりだ。雨が降らなければ午後からやってきて、軽くセーリングするつもりだった。が、昼すぎから雨が降りだした。雪に変わりそうなほど冷たい雨だ。風はさほどないが、船はゆったりと揺れ、マストにリギンの触れ合う音が聞こえてくる。ときおりスプレッダーからまとまって落ちてくる水滴が、デッキをにぎやかに叩いた。外はもうすっかり暗くなったようだ。
 ギャレーとキャビンストーブの火で、だいぶ暖かくなってきた。できあがった料理を、私はテーブルへ運んだ。レタスとブロッコリとトマトのサラダ、アボカドの生ハム添え、フライパンで焼いたソーセージ。
 氷を落としたグラスをふたつ用意してから樋口と向かいあわせにすわると、彼が酒をボトルラックから取りだした。バランタインの 17 年だった。ボトルの中身は半分ほど残っている。
 樋口がそれぞれのグラスにスコッチを満たした。
 私はグラスを持ちあげ、なみなみと注がれた酒をながめた。
「おまえの考えていることはわかるよ」
 樋口がいう。
「なにが?」
「めんどくさがらずに、少しずつ注げばいいのにと思ってるのが、顔に書いてある」
 私は苦笑いした。
「すこしずつ注いでまめに氷をかえたほうが、うまいんだよ」
「厨房長のいってることだから、まちがいはないだろうさ」
「でもまあ、きみの気持ちもわかるよ。おれも面倒なのは苦手だ」
「よくいうよ」
「本当だ。その証拠に、食料の買いだしはきみに押しつけてる」
 彼は笑った。その笑い声が、私は好きだ。この三週間というもの、彼はまるでその笑いかたを忘れていたみたいだった。
「もうひとつの考えていることもわかるぜ」
「もうひとつとは?」
「女房からまだ連絡がないのかどうか、気にしてるんだろう?」
 私はかたい皮のパンをバリバリと手でちぎり、バターを塗りつけた。彼は酒を口に含んだ。
「まあな。で、どうなんだ? まだ連絡はないのか?」
「あったさ」
「へえ。それはよかった」
「内容にもよるさ。うまいな、このソーセージ」
「それで?」
「もうもどる気はないとさ」
「なるほど」
 どういう言葉を彼に返せばいいのか、私にはわからなかった。ハーバーにもどってきた船でもあるのか、揺れが急に大きくなった。耳をすますと、雨の音にまじってエンジン音が聞こえた。
 ウイスキーのおかわりを彼が自分でグラスに注ぎ、私も自分の分を飲んだ。
 しばらくして、彼がいった。
「何年たつのかな」
「4年じゃないかな。おれがいまの仕事に変わってからすぐにきみは結婚したんだ
から」
「結婚の話じゃない。船の話だ」
「ああ……7年ぐらいたつんじゃないかな、きみとおれがいっしょに船を持つようになったのは。この船はまだ2年だが」
「そんなになるかな」
「なる」
「もう34だもんな、お互いに」
「今年は5だ」
「ああ」
 揺れはもうおさまり、近くの桟橋から人の声が聞こえてきた。こんな寒い雨の日にセーリングとは、まったくご苦労なことだ。
「皮肉なもんだな」
「なにが?」
「どう考えてもおまえのほうが結婚に向いてる」
「結婚に向き不向きもあるもんか」
「あるよ、そりゃあ。げんにおれは失敗した。おまえだったらどんな女とだってうまくやっていけるだろうさ。つまらん本を最後まできちんと読みとおすみたいにな。おれの女房とだってうまくやっていける。うちの女房なら亭主が料理なんか作ったりした日には泣いて喜ぶだろうな」
「まだ終わったと決まったわけじゃないだろう」
「気休めはいい。おまえらしくない」
「すまん」
 そのとき、まるで急に食欲がわいてきたかのように、樋口がガツガツと料理を食べはじめた。
 手づかみで押しこんだレタスをほおばったまま、彼がいった。
「明日はどうする?」
「雨はどうなんだろう」
「明日いっぱい降るそうだ。それにもっと冷えこむそうだ。が、風はたいしたことないらしい」
 キャビンストーヴは快調に燃えつづけてはいるが。
 私は答えた。
「スキッパーはきみだ。きみが決めてくれ」
 彼はしばらく考えていたが、やがてきっぱりといった。
「出航だ。雨が降ろうと、たとえ雪が降ろうとな」
 私はうなずいた。彼に決めろといったのは、私だ。
 ご苦労なことではあるが。

2009年11月28日土曜日

先生への手紙

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----- Jazz Story #29 -----

  「先生への手紙」 水城雄


 拝啓。
 山々もすっかり色づき、いつ雪が舞い降りはじめても不思議ではない季節になりましたが、先生はいかがおすごしでしょうか。
 わたしのほうはなんとか元気でやっております。
 長男がやがて二歳になります。生まれてすぐのころ、少しアトピーが出て心配しましたが、大事にはいたらず、いまは元気に家のなかを歩きまわっています。といっても、せまい家なのですけれど。
 都会の生活なので、子どもが生まれると思いもかけない不自由がいろいろと出てきます。家がせまいこともそうですし、マンションの階段の登りおりもそうです。
 田舎では階段といえば、家のなかにあるものだけでしたよね。学校のギシギシいう木の階段もなつかしいです。でも、学校はもうあたらしい鉄筋コンクリートのものに建てかえられてしまったんですよね。
 あの階段を騒々しく駆けおりて、先生にしかられたことを思い出します。いまとなっては先生のおやさしがわかりますが、あの頃は厳しさばかりが身にしみたものです。
 子どもを抱いて冷たいコンクリートの階段を登りおりしていると、ふとそんなことを思い出したりしてしまいます。

 先生にこんなことを書くのはご迷惑かもしれませんが、書きます。
 子どもが生まれてから、わたしたち夫婦はあまりうまくいっていません。彼は仕事が忙しく、あまり子どものことをかまってくれません。そしてわたしのほうも子ども中心になってしまって、ついつい彼のことをおろそかにしてしまうことが多いのです。
 ささいなすれ違いでも、それが重なっていくと、夫婦の気持ちなんて離れていってしまうものなんですね。
 とてもおきれいだった先生の奥様は、いまもお元気でいらっしゃいますか?
わたしたち女子学生ばかりが何人か、先生のお宅にお邪魔したとき、やわらかい笑顔をお迎えくださいました。そしておいしい和菓子をごちそうになりました。
 先生は、お好きだった夏目漱石の小説の話をしてくださいました。覚えていらっしゃいますか?
 あのころのことが、わたしにはひどくなつかしいです。あのころにもどりたいと思うことがよくあります。でも、もどることはできないんですよね。この子も大きくなっていきますし、わたしたち夫婦も年をとっていきます。
 先生にお会いしたいです。でも、もう先生はいらっしゃいません。
 きっと暖かな笑顔を浮かべて、天国からわたしたちを見守ってくださっているのでしょうか。

2009年11月27日金曜日

The Green Hours

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----- Jazz Story #29 -----

  「The Green Hours」 水城雄


 拝啓。
 ひと雨ごとに秋深まる今日このごろですが、きみはどうしていますか。
 ぼくはなんとか元気でやっています。
 この季節になると、むかし痛めた膝がシクシクと痛むことがあるのだけれど、今年は割合調子がよくて、たすかってます。きっと、定期検診で血糖値を注意され、去年からスイミングを始めたことがよかったのかもしれません。
 毎朝、がんばって早起きして、早朝のプールにかよっているのです。だいたい朝の八時三十分くらいがすいているようです。休みながらゆっくりと、何度もプールを行ったりきたりしています。
 昔のぐうたらなぼくしか知らないきみには、きっと想像もできないことでしょう。
 がらんとひと気のないプールで泳いでいると、きみのことを思いだします。きみは海が好きでしたね。休みになると、いつもぼくを海に誘いましたね。
 ぼくも海は大好きだったから、誘われのはとてもうれしかった。
 取り立ての二輪免許に、買ったばかりの中古のバイク。それにまたがって、ふたりで海に出かけました。
 ぼくの身体に両手をまわし、しっかりとしがみついてくるきみのやわらかな胸の感触を、ぼくはいまもはっきりと思いだすことができます。

 海に着くと、ぼくは竿を組みたて、しかけをつける。
 針の先には、途中で買ってきた餌のゴカイ。キス釣りのしかけで、実際には釣れたことなんかないけれど、砂浜から海に向かってしかけを遠くまで投げいれる。
 その横で、きみは背中にしょってきた折り畳み式の椅子を組み立て、砂浜に広げる。
 しかけを投げこむと、ぼくはきみと砂浜に並んで座った。
 海からの潮風が気持ちよかった。
 ときには折り畳み椅子ではなく、シートを敷いて寝転がることもあった。
 きみはいつも手をのばしてきて、ぼくと手をつなぎたがった。ぼくはきみの手を握りかえし、そのまま眠ってしまうこともあった。
 秋の朝、膝が痛まないことに感謝しながら、ぼくはプールでそんなことを思いだしています。
 きみもときには、ぼくのことを思いだすことがありますか? きみがぼくを思いだすとしたら、どんなときなのでしょうか。
 きみはもう結婚しましたか? 子どもはいますか?
 きみはいま、どこでどうしているのでしょうか。

2009年11月25日水曜日

夏の終わり、遊覧船に乗る

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----- Urban Cruising #8 -----

  「夏の終わり、遊覧船に乗る」 水城雄


 電話のあとで車に乗ると、ダッシュボードにきみが置き忘れたはっか入りのガムを見つけた。
 紙をやぶり、ガムを口にいれる。
 かみしめると、きみの唇の味がした。
 遊覧船に乗ろう、とぼくは思った。

 夏の終わりだというのに、遊覧船の乗り場はけっこう混んでいて、どこからか聞こえるスピーカーの声に、まず切符売り場で切符を買うように、と指示された。
 大人一枚800円なり、の切符を買うと、断崖のつらなる海岸線の風景をバックに、白い船長の帽子をかぶった若い女性の写真が刷りこんであった。
 そういえば、この遊覧船は女船長による名調子が売りものだったのだ。
 しかし、この切符は、何年前の写真だろうか。
 切符売り場の横手には、年老いたアヒルが暑さにたえかねたようにうずくまっている。
 テントの下のベンチで待っていると、やがて乗船案内が流れてきた。テントの奥からは、炭火でイカを焼くにおいがただよってくる。
 20人ほどの乗客といっしょに、桟橋に向かった。
 家族連れが多い。中年の夫婦と小学生ぐらいの子供。子供たちはまっ黒に日に焼け、すこし型のくずれた麦わら帽子をひたいの上にずりあげている。夏休みの宿題はもう終わったのだろうか。
 おじいちゃんやおばあちゃんをまじえた家族もいる。足の悪い老人を、おばあさんが手を引いて、船に乗せている。
 頭上のスピーカーが鳴り、女性の声が告げた。
「前から順におつめください」
 他の乗客をやりすごし、いちばんうしろの席にすわった。
 板張りの甲板の感触が、スニーカーごしに心地いい。
 錆びた手すりに腕をあずけ、沖に目をやると、燈台をかすめるようにしてカモメが飛ぶ姿が見えた。
 ふいにぼくはきみからの電話のことを考え、悲しみをおぼえる。

 遊覧船はゆっくりと桟橋をはなれ、港の出口に向かった。
 頭上のスピーカーからは、流れていく風景を説明する女船長の声がとぎれなく聞こえている。
 きみはいった。
「あなたとはもう会わないわ」
 電話の声は、なんだかくぐもっていた。ひどく遠いところからかかってきた電話みたいだった。そして実際それは、ひどく遠いところからかかってきていたんだ。
「はなれているとだめなのよ、あたし」
 ときみはいう。そして、ごめんなさい、とつけ加えた。
 港を出ると、わずかなうねりが船をとらえた。つい数日前、通過したばかりの台風の名残りだろうか。
 ぼくはちょっとのあいだ目を閉じ、うねりに身をまかせてみる。
 目を閉じても、かすかにけむったような感じのする水平線が、まぶたの裏に残っている。
 ふたたび目をあけたとき、左手をご覧ください、とスピーカーがいった。
 左手には切り立った断崖がそびえている。断崖は水面から空に向かってほぼ垂直にのび、切り落としたような頂上には風でねじくれた松の木を乗せている。
 世界でもめずらしい断層がここでは見られるのだ、と女船長が説明している。学術的にもたいそう貴重なものなのです……
 受話器を持ったまま、ぼくはなにもいうことができなかった。ただきみの言葉を聞いているだけだった。
 最後にやっと、
「いつもの場所で待っているよ」
 それだけ伝えることができた。
 きみが帰ってくると、いつも待ち合わせる喫茶店。
「行かないわよ、あたし」
「いいんだ。待っているのはぼくの勝手だから」
 気持ちが悪い、とひとりの少女が泣き顔になっている。少女の背中を、母親がそっとさすってやっている。
 沖に出るほど、うねりは大きくなっているようだ。

 車の中には熱気が立ちこめていた。
 エンジンをかけ、エアコンを最強にする。
 夏も終わりだ。車内の空気の温度がさがるのに、思ったほど時間はかからなかった。
 エアコンを弱にもどすと、車内は静かになった。
 ダッシュボードのガムは、熱気で柔らかくなっていた。包み紙をとろうとしたが、ガムにくっついてしまっていた。無理にはがせば、紙がやぶれてしまうだろう。
 つい数日前も、きみをこの助手席に乗せていたんだった。やはり今日のように暑い日だったけど、あの日のほうが秋からは遠かった。
 仕事が軌道に乗り、きみは出かけることが多くなってきた。こちらですごすよりも、都会ですごす時間のほうが多くなってきたようだ。
 このままぼくたちははなれていってしまうのだろうか。
 車を走らせていくと、日に焼けた高校生が、夏服を着て歩いているのが見えた。彼女たちも一か月もたたないうちに、秋の服を身にまといはじめる。
 車を神社のわきの木陰に置き、喫茶店まで歩くことにした。
 境内をつっきる。敷石の上にはじけた爆竹が散らばっている。やしろの裏手にある栗の木は、小さな青い実をつけはじめている。
 ぼくはその喫茶店にはいった。
 なんだか、まだ身体にうねりの感触が残っているようだ。
 きみは、ここへはもう来ない、といった。ぼくはここへやってきた。
 どうだろうか。
 ぼくは待ってみることにするよ。
 きみはもうここへは来ないかもしれない。でも、ぼくは待つことにしたんだ。
 椅子に深く腰かけ、目をとじ、うねりの感触を思いだす。
 いつだって、夏は終わらせたくない。

2009年11月24日火曜日

Smile of You

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #4 -----

  「Smile of You」 水城雄


 窓からは雨上がりの湿った空気が流れこんでくる。
 花瓶のコスモスがかすかに揺れている。
 ぼくは怪我をして、車で運ばれ、手術を受けたばかりで、まだ麻酔がさめきっていなかった。
 ドアから入ってきたきみは「ひさしぶりね」といった。
 ほんとに。何年ぶりだろう。
 四年? それとも五年?
 五年ぶりに会うきみは、ずいぶんほっそりして見えた。きみはぼくの傍らにすわると、そっとぼくの腕に自分の手を置いた。
 どうしてる、ときみが訊いた。
 相変わらず。毎日、目先のことで走りまわってるよ。ちっとも楽にならない。でもそれなりに楽しくやってる。
 楽しくやってる? よかった。それを聞きたかったの。で、五年後の私はそっちにいるの?
 いるさ、もちろん。少しふっくらしちゃったけどね。
 そういう体質なのよ、しかたがないでしょう? そういって、きみは笑った。
 五年後にがんこになるよ、きみは。人のいうことを全然聞かない。
 そういう家系なのよ。わかって。
 もちろん、わかってる。文句をいってるんじゃない。そういうのも悪くないと思ってる。
 雲が動いて、秋の午後の日差しが病室に差しこんできた。
 もう行くわ、ときみがいう。そして立ちあがると、日差しのなかに白く光りながら、消えていく。
 ぼくはうとうとと麻酔の眠りのなかへもどっていった。

2009年11月23日月曜日

夜の音

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----- Another Side of the View #10 -----

  「夜の音」 水城雄


 スタート直後から雨が降りだした。
 いつもそうなのだが、雨が降りはじめると、すべての音が消えてしまったように感じる。船首が水を切る音、ハルに打ちあたる波の音、セールを流れる風の音、ステイが空気を切る音。人の声までがラジオのボリュームをしぼるようにスウッと遠くなり、消えてしまうように思える。クルーも雨とともに、口数が少なくなってしまう。
 闇もまた、雨とともに深まったように思えた。
 岸辺の明かりは、かすんでボウッとしか見えない。ひしめきあうようにして進んでいるレース参加艇のマスト灯も、薄暗くなり、しかしひとまわり大きく見えはじめる。
 やがて、ゆっくりと音がもどってきた。
 隣の艇のコクピットから、ひそひそという人の声が聞こえてくる。どうやら、スピネーカーをあげるかどうかの相談をしているらしい。
 風はきわめて弱い。スタート時、クローズホールドだった風向が、クローズ・リーチぐらいに落ちている。
「スピン、あげるか」
 スキッパーの木野はボソリとつぶやいた。
「いや……」
 森山がためらいがちにいった。
「この風ですからね。それに雨もある」
 若いクルーふたり――星と小木曽――はなにもいわない。いつも作戦は、木野と森山が決める。
「ジブ、もうすこし、出せ」
 木野はジブシートを握っている小木曽に、短く命じた。小木曽がすぐにシートを繰りだす。
「出しすぎ。引いて」
 小木曽があわててウインチを巻く。今度は巻きすぎだ。しかし、まあ、いいだろう。なにもかも自分の思いどおりにはいかない。小木曽もそのうち、おぼえてくれるだろう。
 星のほうは自分でかんがえて、ヒールを作るためにポートサイドのデッキ上にしゃがんでいる。
「隣、あげてますね」
 星にいわれ、首をねじって隣の艇を見た。なるほど、スピンをあげはじめている。ポールをあげるウインチの音が、水面を伝わってきた。さらに向こうの艇も、あげているようだ。こちら側にブローでもあるのだろうか。反対側の船団は、まだ一艇もあげていない。
 午後10時スタート、翌朝午前8時前後のゴール予定というナイトレースだった。参加艇はさすがに少なく、艇長会議では31杯と発表された。
 この風だと、しかし、午前8時にゴールすることなど不可能だ。
 できれば、午前10時には後片づけを終え、家にもどりたかったのだが。種子島宇宙センターの単身赴任から、ひさしぶりに帰宅したのだ。昨夜、出てくる前、小学校2年になる息子に、ラジコンのヘリコプターの組立てを手伝ってやる約束をしてきた。
 隣艇のスピンが、闇の中に白く浮かびあがった。デッキからの懐中電燈の光に照らされて、なまめかしく揺れている。風が弱く、不安定だ。ともすれば、タック側に裏風がはいりこみ、つぶれそうになっている。
 あげるか……その言葉を口の中にため、木野は森山のほうを見た。森山も隣艇の動きを注視している。
 並走していた隣艇が、スウッと前に出た。
 風が出てきたか?
「あげるぞ!」
 木野が全員に命令した。
 森山と星がフォアデッキに走った。小木曽がハッチをあけ、キャビンにもぐりこんだ。
 いうべき言葉を、いまは胸にためこみ、木野はフォアデッキのふたりの動きを注視した。
 森山がスピンポールをセットしている。
 小木曽がスピネーカーのセールバッグを持って、キャビンから出てきた。フォアデッキに走る。
 小木曽の動きはよかったが、ハッチを閉め忘れている。この雨なのだ。閉めなければキャビンがびしょ濡れになるのだ。
 わかってるってば……不意に声が聞こえ、木野はあたりを見まわした。いや、もちろん、頭の中から聞こえてきた声だ。小木曽の声であるはずがなかった。
 わかってるってば、あとでやろうと思ってたんだよ……息子の声だった。
 うるさいなあ、おとうさん。
 ティラー・エクステンションを持つ手のこぶしが、力をいれすぎて白くなっている。これでなぐられたとき、幼ない息子はどんな気分だったのか。
「ぐずぐずするな!」
 スピンがなかなかあがらない。
「なにをやってる?」
「アフター・ガイが……」
 星が言葉を途中でとめた。
「オーケイ! いいです!」
「あげるぞ!」
「はい!」
「よし、あげろ!」
 森山がスピン・ハリヤードを力まかせに引いた。
 スピネーカーがまっすぐにあがり、それからたよりなげに風をはらみはじめた。
「ガイ、引け! シート、引け!」
 つぶれる。
 ぐずぐずするな。レースなんだぞ。なんのためにやってんだ。
 木野は言葉を腹の中に押えこんだ。
 艇速が増した手応えがあった。やはりあげるべきだったのだ。できれば、他の艇の様子などうかがう前に、決断したかった。
 おれという男は……
 木野は奥歯をかみしめた。
 フォアデッキでは、小木曽がジブシートの取りこみを終えたところだった。
 コクピットにもどってきた小木曽に、いった。
「ハッチをあけっぱなしにするな。雨が降ってるのがわからんのか。中がびしょ濡れになっちまうだろう。雨のときは、出入りするたびにハッチを閉めるんだ。わかったか」
「はい、すんません」
 小木曽がこたえ、身体をちぢめるようにしてコクピットにしゃがみこんだ。ちゃんとしたオイルスキンを持っていない彼は、ぐしょ濡れになっている。
 この調子で風が強まってくれれば、明朝は早めにゴールできるかもしれない。
 木野はさらに、なにかいおうと口を開きかけた。が、結局は口をむすんでしまった。
 この気持ちを伝えられる言葉など、彼には持ちあわせがなかったのだ。

2009年11月22日日曜日

Love Letters

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----- Jazz Story #28 -----

  「Love Letters」 水城雄


 この上ない秋晴れの日、私はパソコンに向かって、苦情処理のメールを書いている。
 お客さまからの苦情。深刻な訴え。
 苦情処理係として、ここは誠心誠意、対応しなければならない。対応を間違えると、会社に甚大な損害をあたえてしまうことになる。お客さまの苦情に対して誠意ある態度を見せ、お怒りを静めてさしあげるのが、私の仕事だ。その仕事に対してお給料をもらっているわけだから。
 だから、どんな苦情が来ようと、冷静に、適切に対応しなければならない。
 なんてことだろう。
 ときどき泣きたくなる。愚痴をこぼしたくなる。椅子を蹴って立ちあがり、パソコンの画面に上司の灰皿を叩きつけたくなる。ああそう、私の近くで無神経に煙草をふかしている上司の存在だって、私には苦痛なのだ。
 でも私はいつもニコニコ。
「おはようございます」
「お疲れさまです」
「あ、コピーですか。わかりました、すぐにやっておきます」
 わざわざメールをいただきありがとうございます。お客さまのご要望の件は、早急に社内で検討いたしまして、ご納得いただけるような対応を……
 秋の空はどこまでも澄みきり、晴れわたっている。

 急に冷えこんできた。私はコートを持ってこなかったことを後悔した。もうコートを着て歩いていてもおかしくはない季節なのだ。
 例によって残業。苦情の電話。一時間近くもねばられてしまった。私がおかしたミスではないのに。でも、人のミスを処理するのが、私の仕事。
 自社ビルの通用口を出ると、ビルの谷間を吹きぬける突風にスカートをあおられる。
 もちろんすでに日は落ちている。とっぷりと暮れている。
 なにか暖かいものがほしい。
 でも、部屋に帰ってもひとり。空気は冷えきっているだろう。エアコンが暖まるまでの時間が哀しい。
 どこかに寄ってから帰ろう。
 どこに寄ろう? マック? スタバ? ミスド?
 私はポケットから携帯電話を取りだした。だれかにかけてみようか。
 思い浮かんだ顔は、今年の春に結婚したばかりの同級生。半月ばかり前に、妊娠したのよとうれしそうな声でかかってきた。
 私は電話をポケットにもどす。
 そのとき、立っていたサンドイッチマンと目が合ってしまった。もうサンタクロースの衣装を着こみ、新しいキャバレーの宣伝看板をさげ、四角い格好で立っている。
「気をつけて帰んな、お嬢ちゃん」
 サンドイッチマンが白い息を吐きながら、いった。

2009年11月21日土曜日

京都という街へのタイムスリップ

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----- Urban Cruising #15 -----

  「京都という街へのタイムスリップ」 水城雄


 山中越えで京都にはいろうと、大津の競輪場で右折した。
 161号線バイパス、という表示が目にはいる。こんな道は知らない。が、山科から東急インと都ホテルを左に見ながら、東山五条に降りていくとき、10年という歳月のへだたりが瞬時にして消えるのを感じた。

 結局、161号線バイパスに乗ったのは、道をまちがえたということになるのだ。そもそも、山中越えで京都にはいるつもりだったのだから。
 ところが、ついつい同行の女性にいいところを見せようと、知ったかぶりをよそおってバイパスに乗ってしまった。
 こんな道、いつできたのだろう。
 そういえば、湖西道路にしてもそうだ。かつては敦賀から琵琶湖の西を通って京都にはいるには、161号線一本しかなかったのだが、湖西道路などという自動車専用道路ができていて、驚かされる。その161号にしたところで、あちこちの町でバイパスができていて、ずいぶんと走りやすくなっている。
 たった10年という歳月で、こうも変わってしまうものだろうか。
 が、まちがえて乗った161号バイパスが山科で1号線と合流するあたりから、わたしの記憶は7年前と一致しはじめた。
 渋滞した山科を抜け、東山を京都市街にむかって降りはじめたとき、頭のすみで「右に寄れ」という声がする。
 やがて標識があらわれた。東山五条右に寄れ、とある。身体が、神経が街を思いだしはじめている。変わっていないな、と思う。
「3年ぶりぐらいかしら」
 と同行の女性が助手席でいう。
「観光ですか?」
「ええ。友人と」
 彼女の3年とわたしの10年。
 彼女の3年には歳月がつめこまれているが、わたしの10年はいま、どこに行っってしまったのだろうか。

 グランドホテルを予約してあった。
 夕方のラッシュをかいくぐり、ホテルの駐車場まですんなり車を乗りいれると、同行の女性がいった。
「慣れてらっしゃるのね」
「住んでたんですよ、この街に。8年ばかり」
 わたしは白状した。
「道理で。すいすいと運転されるんだなと思いました。さぞかし、なつかしいでしょうね」
「そうですね」
 わたしはうなずいたが、なつかしいという言葉ではいまの感情をいい表せないことがわかっていた。
 泊まったことはないが、このグランドホテルは多少知っていた。学生時代の皿洗いのアルバイト。妻とはじめての海外旅行に出かけたときは、ここから空港行きのバスに乗ったものだ。
 そんなことを、宿泊の予約をしたときにはまるで思いださなかったのに、ここへやってきたとたん、次から次へと思いだしはじめた。
 街、あるいは建物自体が、記憶を呼びおこす引き金になっているようだ。いや、記憶が呼びもどされたというより、感覚としてはわたし自身が10年前にそっくりそのままタイムスリップしてしまったようだった。
 チェックインし、それぞれの部屋に荷物を置くと、地下の〈たん熊〉で夕食をとった。まずしかった8年の間、決して口にすることのできなかった京の味覚だ。
「明日の仕事の成功を祈って」
 同行の女性がグラスを持ちあげた。

 コマーシャル・ヴィデオのロケの下調べのために、わたしたちは嵯峨野に車を向けた。
 秋も深まり、また平日ということもあって、観光客はまばらだった。
 車を丸太町の駐車場に置き、嵯峨野の細くまがりくねった道を、ゆっくりと歩いてのぼっていった。
 かたまって歩いている修学旅行らしい高校生のグループがいる。気のあった仲間で来ているらしい主婦のグループがいる。
 そういえば、わたしも学生時代、同級生3人でここへ来たことがある。男ばかりで来たものだから、アベックにずいぶんあてられて、つまらない思いをしたものだ。
「この角度から見た風景、使えると思いません?」
 ふと気づくと、彼女は持参したコンパクトカメラを構え、古びた竹の垣根を撮ろうとしている。
 そうなのだ。仕事なのだ、これは。感傷にふけっている時ではない。
 落柿舎、念仏寺、大覚寺と、わたしたちはロケの下見をすませていった。
 すっかり歩きつかれて、みやげ物屋にはさまれた喫茶店のひとつで、わたしたちは休むことにした。
 だしぬけに彼女がいう。
「いつもとちがう顔をしてらっしゃるのね」
「そうでしょうか」
 わたしはつるりと顔をなで、照れかくしにコーヒーを飲んだ。
 窓の外を、手をつないだ制服の高校生が通りすぎていった。

2009年11月19日木曜日

ひとり、秋の海を見る

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----- Urban Cruising #16 -----

  「ひとり、秋の海を見る」 水城雄


 偶然うまく焼けたパウンドケーキのように晴れあがった秋の日、ひとりで出かけた海岸は荒れていた。
 砂浜の手前で車をとめると、フロントガラスが波しぶきで白く曇った。

 だれだってそういう時があるだろう?
 生きていることに疲れ、いやけがさし、ふいにひとりになりたくなる。
 いろんなことが思うようにいかず、トラブルが続き、雑用ばかりがたまっていく。
 体調はぐずつき、部屋は散らかり、食べ物もおいしく感じられない。家族との会話も、なんだかすれちがいばかりだ。
 彼女が元の上司と親しげに歩いていたという噂を同僚から聞いたとき、ぼくはひとりになりたくて海に向かった。
 いつだってそうなんだ。車に乗り、ひとりになると、海に向かってしまう。海が近くにあってよかった、と思う。
 こんなに天気がいいのに、海はひどく荒れていた。
 砂浜には、見たこともないほど深くまで、波が押しよせていた。とがった波頭が、海からの強い風で白く泡だち、飛沫を空中にはねあげている。こまかい飛沫が、かすかに、ぼくの立っているところまで飛んでくる。
 こうやってしばらく立っていれば、髪はしょっぱくなり、肌はベトついてくることだろう。そんなことは、ぼくには気にならない。
 サーフィンをしている若者が、はるか沖に見えた。そのあたりでは、波が急激に海から立ちあがり、まるで絶壁のようにそそり立ってくるのが見える。その絶壁を、ウェットスーツを着た若者が、ころげおちるようにしてすべりおりてくる。
 晴れた空に荒れた海。
 一枚の板きれを武器に波とたたかう若者たち。
 みょうに心さわぐ光景だ。

 沖で急激に立ちあがった波は、不規則な線をえがきながら燈台のある突堤に向かってやってくる。
 突堤にななめにぶつかった波は、思いがけず高くしぶきを打ちあげる。いつもなら突堤の上を燈台にむかってぶらぶらと歩いていくのだが、今日はとても歩けそうになかった。ふだん、かならずひとりやふたりいる釣り人の姿も、今日は見えなかった。
 なにも彼女をひとりじめしようなんて、考えているわけではない。それほどまでぼくたちの関係は発展していない。ときおり会い、お茶を飲み、仕事の愚痴をこぼしあい、ときには映画をいっしょに観る程度の仲だ。
 でも、ぼくにはいま、彼女以外、女友だちと呼べるようなものはいないし、彼女のほうもそういったはずなんだ。会えばいつも元気な顔を見せてくれるし、別れぎわには「楽しかったわ」といってくれた。
 仕事がきつくなりはじめたこのごろ、せめて彼女の声を電話で聞くのが、ぼくにはなによりうれしかったんだよ。
 あの噂はほんとうなんだろうか。
 まあいい。いまはそんなことを考えるのはよそう。
 波は、ほとんど水平線をかくしてしまうほど、高くそそり立って、こちらに向かってくる。
 頭上では、強い風にさからって、カモメが羽をピリピリ震わせながら飛んでいる。

 夏には浜茶屋があったあたりも、いまはすっかり片づいている。
 打ち上げられた大きな流木のひとつに、ぼくは腰をおろした。波もここまではとどかない。
 ということはつまり、この流木をここまでうちあげるような高い波のときがあったってことだろうか、とぼくは考えた。先日の台風のときだろうな、きっと。
 そういうことをとりとめもなく考えるのは、楽しかった。仕事上のトラブルのことや、散らかった自分の部屋のことや、まずい昼食のことや、うそかほんとうかわからない噂のことをくどくど考えるより、波のことを考えているほうが、よほど楽しかった。
 流木に腰かけて波をながめていると、犬と少年がふいに視界の中にはいってきた。犬は、少年の祖母だろうか、ひとりの老女にロープで引かれている。というより、老女を引いているといったほうがいいだろうか。
 老女は、困ったような、それでいてうれしいような笑顔を浮かべながら、身体をうしろにそらせるようにして歩いている。
 まだ子犬だった。生後四、五か月といったところか。少年のほうはたぶん、小学二、三年だろう。子犬とそっくりなキラキラした目をしている。
 子犬が砂浜に穴を掘りはじめた。小さな前足でさかんに砂をはねあげながら、どんどん掘っていく。少年もその穴掘りを手伝いはじめた。
 老女はそのかたわらに立ち、海の方角をじっと見つめている。
 ぼくも海に視線をもどし、つまらない噂のことなど考えるのはよそう、と思った。
 沖を、大きなタンカーがゆっくりと横ぎっていくのが見えた。

2009年11月18日水曜日

Even If You Are My Enemy

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #44 -----

  「Even If You Are My Enemy」 水城雄


 彼女が目をさまして真っ先に思いだしたのは、昨夜のお父さんとの会話だ。
 お父さんは彼女の衣服のことをひどく気にする。昨日も、
「アイーシャ、外に出るときはきちんとチャドルを着けなさい」
 といわれた。これで百回めだ。いや、千回めかもしれない。彼女はただ、学校を休んでいる同級生のハッダードに、昨日出た宿題のことを伝えに行っただけなのだ。そしてハッダードはたった三軒向こうに住んでいるだけなのだ。
 それなのに、チャドルを着けろと口うるさい。
 家のなかでも肌をあらわにしていると嫌な顔をする。おまえはサンドニの売女《ばいた》かとののしられる。サンドニは行ったことがないけれど、パリのけがらわしい通りの名前らしい。何度かパリに行ったことがあるお父さんから聞かされた。
 パリにはムスリムが多いらしい。
「わたしも大人になったら行ってみたい」
 とアイーシャがいったら、おまえは家のことをしっかり身につけて、学校を出たら床屋のハッサンと結婚するのだ、といわれた。それはもう生まれたときから決まっていることなんだそうだ。そんなこと、まっぴらだ。わたしは学校を卒業したら、パリの美術学校に行って、絵の勉強をするんだ。なにも身にまとっていない美しいアラブの女の肖像を描くんだ。
 でも、とても許されないことだろう。パリに行くことも、アラブの女性の裸身を描くことも。
「ハッダードがなんで学校を休まねばならなかったか、よく考えなさい」
 お父さんがいう。もちろん、そんなことはよくわかっている。二、三日前、ハッダードがたまたま軍の兵士採用事務所の前を通りかかったとき、爆弾テロが起きて、ハッダードはそれで腕から肩にかけて二十針も縫う大怪我を負ってしまったのだ。腕がなくならなかっただけ幸運だとみんなからいわれた。
「世界は戦争の渦中なんだ。おまえひとりが自分のことだけ考えていればいいはずはないだろう」
 そのとおりだと思う。でも、なんでこんな時代に生まれてしまったんだろう。
 彼女は悲しくなって、ベッドのわきにそろえておいてあるサンダルを見つめた。
 赤いサンダル。今年、進級するとき、学校の成績がよくてほめられたとき、お母さんが、「おまえの好きなものをお買い、アイーシャ」といって買ってくれた。一番のお気にいりのサンダル。毎日それをはいて学校に行く。友だちからも「かわいいね」とうらやましがられる。
 サンダルを見るとすこし気分がよくなる。
 わたしの大切なサンダル。

「今日、われわれは並ぶもののない軍事力と偉大な経済的、政治的影響力を持つ地位を享受している。われわれは国際社会と強調するが、必要なら単独行動も辞さない」
 トマホークは固体ロケットブースターで射出され、ターボファンエンジンで巡航す
る。
 電波高度計による高度情報を、事前に入力されたレーダー地図と照合しつつ、計画された飛行経路に沿って目標へと誘導される。
 目標到達誤差は八〇メートルとされるが、搭載弾頭の破壊能力からすればこれは充分な数字である。

 彼女は朝の準備をすませて、学校に向かう。もちろん、お気に入りの赤いサンダルをはいて。
 家を出るとき、お父さんがいつものようにいう。
「アイーシャ、きちんとチャドルは着けただろうね」
 もちろん着けている。
 空はいつものように晴れわたり、一点の曇りもない。
 ハッダードは今日は学校に出てこれるだろうか、と考えながら、彼女は歩きはじめる。

2009年11月17日火曜日

沖へ

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----- Another Side of the View #5 -----

  「沖へ」 水城雄


 ひろい湖面にほとんど帆影が見えないのは、平日の午後だという理由だけではなかった。
 開店休業といった感じの貸しヨット屋の待合室から水路に張りだしているバルコニーに立って見ると、一面に白波が見えた。灰色の雲がかなりの速度で北からこちらに向かって流れている。が、雨が降りだすまでにはまだ時間がありそうだった。
 少年はいつものようにカゴのすきまから指をつっこんで緑色のオウムをからかってから、桟橋に降りていった。桟橋にも人影はなかった。怒ったオウムの鳴き声が、ここまで聞こえた。
 バルコニーの下のヨット置き場からレーザーをおろし、桟橋の先端までもやい綱を引いてまわしてきた。湖へと続いているこの水路のほうにも、波がたえず寄せてきていた。水路の向かい側にある大学のヨット部の艇庫も、今日は静まりかえっている。
 不安定に揺れ動くディンギーにマストを立てながら、これほどの風の中に出ていったことはあったっけ、と彼はかんがえた。
 父親にレーザーを買ってもらったのは、中学校にはいったとき。その前は、10歳の誕生日に買ってもらったOPディンギーに乗っていた。父親はこの貸しヨット屋で学生アルバイトからセーリングを教わった。ふたりだけで模擬レースをしても、どうしても父親に勝つことができなかった。しかし、レーザー乗りになったいま、おやじに勝つ自信はある。おやじがまだ生きていれば。
 マストを立てると、クリューが固定されていないセールがバタバタとさわいだ。
 ふいに少年は、今日の昼のできごとを思いだした。昼食を終え、体育館に行こうと教室を出ると、渡り廊下のところで彼女に呼びとめられた。
「渡辺くんが手紙をくれたの」
 と、彼女がいった。空にはまだ晴れ間が見えていたが、すでに風が出はじめていた。
「それで?」
 彼はわざとそっけなく訊いた。
「どうしようかと思って」
「なにを?」
「好きだって書いてあった」
 渡り廊下を風が吹きぬけ、彼女のスカートがバタバタとあおられた。それを押える彼女の手を見ながら、彼はいった。
「どうしてぼくにそんなこと、いうのさ」
「だって……」
 そういったきり、彼女はうつむいてしまった。
 少年はどうしていいかわからなかった。下級生のだれかがふたりを冷やかすような視線を向けながら、横をとおっていった。
「学校が終わったら、ヨットに乗りに行くんだ」
 まったく関係のないことをいい残し、彼女に背を向けた。そのときの彼女のびっくりしたような顔が、少年の目に焼きついている。
 それを脳裏から追いはらうように、彼はセールのクリューを引っつかむと、ブームエンドのロープをアウトホールに通した。
 ロープのテンションを調節し、セールをピンと張る。メインシートをブロックにとおす。ラダーを落としこむ。
 カイツブリが一匹、水路の向こう側をかなりの速度で泳ぎ、下手の橋の下に消えた。ホオズキを口の中で鳴らすような音が聞こえるのは、あいつの声だろうか。上手の崖の上では、柳の木がざわざわと身をゆすっている。
 センターボードをたたきこみ、ラダーにエクステンション・ティラーをとおす。
 すべての艤装を終え、彼はもやいを解いた。
 バウラインをコクピットに放りこみ、身体を中にいれながら、残った足で桟橋を強くけりつけた。メインシートを引きこみ、ティラーを引いて風下に向けると、すぐに、充分な風がメインをつかまえた。ハイキング・ストラップに爪先をひっかけ、思いきり身体をデッキの外に出した。
 水路の向こう岸がすぐに迫ってくる。タック。
 タック三回で柳の木の下をクリアして、ひろい湖面に出た。
 ヨットの上で機敏に身体を動かしていると、いつも担任の体育教師がいった言葉を思いだしてしまう。
「協調性がないんだよ、おまえには」
 バスケットボールの試合をしていたのだ、あのときは。
「ただやたらめったら、ひとりで動きゃあいいってもんじゃない」
 そうしてその言葉を思いだすと、母親のいったことまで自動的に思いだしてしまう。
「ちょっとは親のこともかんがえてよね。あんたには思いやりってものがないの?」
 水路の入口のすこし先にある防波堤が迫ってきた。いつごろできたものなのか、大きな岩を積みかさねたかなり古い防波堤だ。
 父親が教えてくれた。
「できれば右側を通過したほうがいい。右側は深くえぐれていて、かなり接近してもだいじょうぶなんだ。左側は水面下に隠れた岩があって、注意しなけりゃいかん」
 タックして右側にかわすことをかんがえた。が、やめた。すこしベアして、左側を通過することにした。シートをすこしゆるめ、接近する。隠れた岩の場所は、波がそこだけ乱れているので、よくわかった。曇っていて、山のほうから風が吹きおろしてくるような日には、本当にそこは危険なのだが。
「あたしの気持ちなんか、なんにもわかってくれない」
 放課後、玄関で上ばきを脱いでいた彼に近づいてきて、彼女は突然そういった。顔をあげると、もう去っていく彼女の背中しか見えなかった。背中に垂らした髪が、いきおいよく左右に振れていた。
 思いきりシートを引きこみ、艇を風上にむけた。親指にからませたシートが食いこんだ。ヒールが強まり、それをつぶすために思いきり身体を外にのけぞらせた。
 頭がほとんど水面につきそうになり、彼に見えるのは、ハルとマストとセールと、そして波しぶきだけになった。
 波しぶきが髪と顔を濡らした。
 そんなふうにして沖まで出ていかなくても、すでに自分が決心してしまっていることを、少年は知らないのだった。

2009年11月16日月曜日

Something Left Unsaid

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----- Jazz Story #24 -----

  「Something Left Unsaid」 水城雄


 ひとり、湿った闇に横たわったまま、私は息子のことを思っている。
 離れて暮らしている私の息子。
 夕立をいまにももたらしそうに重く垂れこめた雲は、いまだにこぼれ落ちてこない。開け放った窓から、湿気をたっぷりと含んだ大気がとろりと流れこんでくる。
 窓を閉め切り、エアコンをつけようか、私は迷っている。
 湿った空気に身を横たえるたび、私は思い出す。あの朝のこと。
 谷の台地で私たちはキャンプをしていた。密生しているミゾソバを足で踏み倒して、テントを張る場所を作った。なぎ倒した草がちょうどいいクッションになった。
 息子はまだ七歳に満たなかった。汗をふきふき、懸命に動きまわっていた。
もう10年も前のことだ。
 夕暮れが近づくと、谷を渡っていくヨシキリの鳴き声が聞こえた。
 コオロギの声、モリアオガエルの声。
 寝袋にくるまって眠っている幼い息子の横で、私はウイスキーを飲んだ。懐中電灯の明かりのなかで、いつまでも息子の寝顔を見ていた。
 そのときも、いまにも降りそうに空気は湿っていた。
 そう、いまがそうであるように。

 私は暗闇のなかで起き上がり、グラスにウイスキーを注いだ。
 ひと口含む。
 熱いかたまりが、喉から腹の奥へゆっくりと落ちていく。
 コンポーネントに手を伸ばし、スイッチを入れた。FM局からは静かなジャズが流れてきた。
 コオロギの声もヨシキリの鳴き声も、ずっと聞いていない。息子とは電話でしか話していない。そのかわり、私は音楽を聴いている。
 ひとりで。
 こういう湿った空気の夜が来るたびに、私は思い出すだろう。あのときの息子の寝顔を。私のたったひとりの子ども。
 あの谷の空気のこと。川が流れる音。虫の声、鳥の声、カエルの声。ミゾソバのクッションの感触。
 彼はそのことを覚えているだろうか。
 私はラジオから聞こえるピアノの音色に耳をすました。知らない曲だ。柔らかな和音が、アルコールのまわりはじめた身体に気持ちよくしみこんでいく。
 明日、電話してみよう。
 私はふたたび身体を横たえた。
 ようやく雨が降りはじめたようだ。雨の音と、雨のにおいが、開け放った窓から流れこんできて、私の身体をつつみこんだ。

2009年11月15日日曜日

タイム・トラベラー

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----- Urban Cruising #23 -----

  「タイム・トラベラー」 水城雄


 どこまでも続くまっ白な雪原。
 樹木の枯れ枝に咲いた雪の花が、冬の陽光の中できらめいている。
 その樹木のあいだを縫うようにしてテンテンと続いているのは、野ウサギの足跡だろうか。

 年に一度、わたしは時間旅行をする。
 大晦日、12月31日の午後11時59分、わたしは時間旅行者となって、自分の過去へとさかのぼるのだ。
 いまもわたしは、自分の書斎の椅子にもたれ、手にスコッチのグラスを持って、その時が来るのを待っている。
 お気にいりの部屋。
 お気にいりの音楽。
 お気にいりの飲物。
 ゆったりとしたぜいたくな気分の中で、わたしは時間旅行を楽しむための心の準備をしている。

 いつのことだろう、はじめて時間旅行を経験したのは。
 それは神のおぼしめしだろうか、あるいは神の気まぐれか、ふいにやってきたのだ。数年前の大晦日、いつものように家族と年越し蕎麦を食べながらテレビを見終わり、ひとりのんびりと入浴しているときだった。
 気がつくとわたしは、20歳にもどっていた。
 20歳のわたしは、寒い風に身をちぢこまらせて、自転車をこいでいた。見おぼえのある街だった。当然だ。そこはわたしが20歳のとき住んでいた街なのだから。
 わたしはこごえそうになりながらも、懸命に自転車をこいでいた。寒くてしようがないというのに、なぜか幸せな気分だった。手は冷たくかじかんでいたが、首に巻いたマフラーが暖かい。そうなのだ。このマフラーは、きみが編んでくれたものだ。クリスマスにきみがプレゼントしてくれたものだ。
 横断歩道にさしかかると、ちょうど信号が赤から青に変わった。わたしはとても幸せな気分だった。そうだ。これから君に会いに行こうとしているんだ、わたしは。
 そんなことがあったのを、数年前の大晦日まですっかり忘れてしまっていた。
 それが最初の時間旅行の経験だ。
 それ以来、毎年わたしは、いろいろな時間に旅行してきたものだ。
 今年はどこに行くことができるのだろうか。

 年に一度の時間旅行者となって以来、わたしは自分のさまざまな時代、年齢に旅行してきた。
 あるときはまだほんの五歳の自分へと旅した。五歳のわたしは、いまはもういない父親の膝にまたがって遊んでもらっていた。父親はまだ若く、いまのわたしとほぼ同じ年齢のたくましい男だった。父親はわたしに顔をこすりつけ、ごわごわした髭でわたしを痛がらせて喜んでいた。
 またあるときは、中学時代のわたしへと旅した。高校受験が間近にせまっていたわたしは、机にかじりついて英単語を暗記しようとしていた。わたしの背後にはストーブがあたたかく燃えており、わたしは必死になって睡魔とたたかっていた。部屋のドアがひらき、母親が夜食を持ってはいってきた。夜食のラーメンには、わたしの好きなもやしがたっぷり乗っかり、スープからはいい匂いの湯気が立ちのぼっていた。
 またあるときは、ほんの数日前のわたしへと旅したものだ。
 わたしはぬくぬくと布団にくるまり、目ざめようとしていた。妻がわたしの身体を揺すり、なにごとかをしきりに話しかけている。わたしはそれを聞くともなく聞いている。妻はわたしに、早く起きないと会社に遅れるわよ、といっているのだ。そのほかに、息子が昨日幼稚園でしでかしたいたずらの報告もしている。わたしは聞いているのだが、そのことは数日たつとすっかり忘れてしまうのだ。
 さて、今年はどこへ行くことができるのだろうか。どの年齢、どの時代へと旅することができるのだろうか。
 期待に胸をふくらませながら、わたしはスコッチをちびちびすすり、その時が来るのを待っている。

 時計の長針がほとんど真上を指そうとしている。
 今年もあと数分で終わりだ。新しい年がはじまろうとしている。しかし、わたしはその前に、時間旅行を経験してくるのだ。
 わたしはいま、去年の時間旅行のことをなつかしく思いだしている。
 去年の大晦日も、やはりいまと同じように、この書斎で時間旅行を経験したのだった。ただしスコッチではなく、確かブランディを飲んでいた。
 気がつくと、わたしはまっ白な雪原に立っていた。雪原にはところどころ、枯れた樹木が立っており、枯れ枝には雪がつもっていた。妙に暖かな光景で、雪原を横ぎる野ウサギの足跡を、わたしはずっと目でたどっていた。
 空には雲ひとつなく、冬の太陽がすべてをくっきりと照らしだしていた。ときおり枯れ枝から雪が音もなく落ちるのが見えた。雪が落ちるたびに、風に飛ばされた破片が空中に舞い、キラキラと光を反射している。
 その光景に見とれているぼくの横に、だれかが立った。
 顔をそちらにむけると、そこにはきみがいた。
 やあ、きみか。
 なつかしいね。
 忘れてはいないよ、この顔は。
 わたしの心の奥底で眠っていたなつかしい記憶が、いっきによみがえるのを感じた。そうだ。ここは、学生時代、きみとやってきた冬山だ。ほかにも何人かの仲間がいたんだっけ。みんな、どこに行ったのだろう。もうスキー場に出かけてしまったのかな?
 まあ、そんなことはどうでもいい。いまはこうやってきみとふたりきりで、まっ白な雪原をながめていられるのだから。
 時計の針が今年の終わりを告げようとしている。
 わたしはひとり、わたしがこれまでに歩いてきた道に乾杯しようと、グラスを持ちあげた。その瞬間、いつものように時間旅行がはじまった。
 さて、今年はどこに行くことができるのだろう。

2009年11月14日土曜日

この河

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #49 -----

  「この河」 水城雄


 毎日、決まった時間になると、その少年は川に水を汲みにやってくる。
 肩に天秤棒をかつぎ、両端には大きく粗末なブリキのバケツをぶらさげて。
 ころばないように慎重な足どりで岸辺まで降りてくると、天秤棒とバケツを地面に置き、両足を踏ん張って柄杓で水を汲みはじめる。そこまで降りてくる道はまるでけもの道のようにあやふやだし、雪溶け水でかさが増した流れは茶色く濁っている。
 体重を固定しにくいごろごろした河原の石の上に、ゴム草履をはいた両足を大きく開き、せいいっぱいやせた手をのばして水を汲む。何度も何度も汲む。ふたつのバケツがいっぱいになるまで汲む。
 そのようすを、私は対岸から望遠鏡を通して見ている。それが仕事だから。
 まだ春先の川辺の空気は身を刺すように冷たいだろう。しかし、私のいる監視所は石油ストーブで暖かく湿り、窓ガラスも曇りがちだ。私のかたわらでは、相方が銃の手入れをしている。いや、手入れというより、もてあそんでいるといったほうがいい。相方は銃器が好きなのだ。
 私は鹿のなめし皮で窓ガラスの曇りをもう一度ぬぐい、双眼鏡を目に押しつける。
 いつもそうなのだが、少年は水を汲み終えると、一種放心したような顔つきで川面をながめる。疲れのせいか、それともなにか別のことを考えているのか。
 少年は何歳くらいだろうか、と私は考える。八歳、あるいは九歳。いや、あちら側の子どもは栄養失調がちで育ちが悪く、年齢よりもずっと幼く見える。ことによるともう十一、二くらいにはなっているのかもしれない。
 少年はその水をなんに使うのだろう。もちろん飲むのだ。煮炊きに使うのだ。たとえ茶色く濁った雪溶け水だとしても、それは生活のための大切な水なのだ。
 少年はまだ川面を見つめつづけている。
 茶色い濁流は、うねりながらもまっすぐ下流に向かっている。少年が考えているのは、おそらくこの川が生まれる山あいの風景ではないだろう。この川が流れゆく、青くはるかなる世界。彼が思いをはせるとすれば、それにちがいない。
 この川のかなたには、海がある。
 彼は海を見たことがあるだろうか。
 彼をこの川に、この川の対岸の土地にしばりつけている者のことを、私は思わざるをえない。
 少年は苦しそうに身体をひねってしゃがむと、天秤棒をふたつのバケツに通し、やせた両脚を踏ん張って立ちあがる。天秤棒がしなり、少年の両肩に食いこむ。
 少年は川に背を向け、よろよろと堤防をのぼりはじめる。

2009年11月13日金曜日

雪原の音

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----- 音楽祭用短編 -----

  「雪原の音」 水城雄


 どこまでも続く雪原を渡りながら、夏のできごとを思いだしている。
 待ち合わせ場所にあらわれたきみは、暖炉から取りだしたばかりのマシュマロみたいな笑顔を浮かべた。
 はにかんで首をかたむけるしぐさ。肩よりすこし長い髪がゆれ、横にならぶといいにおいがした。
「ビールを飲みに行こう」
 ぼくはそういって、きみの背中をそっと押した。
 その掌の感触を思いだしながら、ぼくは雪原を歩いている。
 まるで夢の中のような光景だ。ゆるやかな起伏が曲線を描いて、はるかかなたに見える山の裾野までつづいている。
 白亜の起伏。
 冬の太陽がななめに照りつけ、起伏を強調している。まろやかな雪のふくらみのてっぺんは、光を反射してきらきらと輝いている。
 ふくらみの谷の部分、日陰になった場所を、なにかの足跡が点々とたどっていた。たぶん野うさぎだろう。まだ冷えきっていない昨夜の宵のうちに歩いたらしい。月光の中で目を赤く光らせながら、雪原をたどっていく野うさぎの姿を、ぼくは想像してみた。
 意味もなく、笑みが浮かんでしまう。
 だれもいないのに照れくさくなって顔に手をやると、手袋に凍りついた水滴がびっくりするほど冷たかった。
 ぼくは野うさぎの足跡をたどるように、雪を踏んでいった。
 夜の間にかたく凍りついた雪の表面は、ぼくがしっかりと体重を乗せても、びくともしない。きっと昼すぎまではこの雪原がゆるむことはないだろう。
 行く手のかなたにある立木から、粉のような雪が音もなく落ちるのを見た。ほとんど風もない冴えわたった大気に、拡散され、きらめき、雪原へと降りそそぐ水の結晶たち。
 ふいに音楽が聞こえた。
 ぼくは立ちどまり、あたりを見回す。
 だれもいない。
 ぐるっと身体をまわしてたしかめてみたが、ここにいるのはぼくひとりだ。でも、音楽が確かに聞こえてくる。
 ピアノの音。
 なんの曲だ?
 妙になつかしい……柔らかな旋律の……ゆるやかなテンポの……
 ――サティみたいだ。
 ぼくは思って、耳をすました。でも、サティではない。柔らかな旋律をささえる不響和音の進行が、曲に心地よい緊張感を作りだしている。ちょうど枯れ枝からこぼれた粉雪が、風のない大気に複雑なきらめきを残しながら拡散していくような……
 この曲は……サティよりずっと新しく……そして同時に古くもあるような……過去と未来を切りむすぶみたいで……
 聞きおぼえがあることを、思いだした。
 あのとき、あのバーで、きみは、ぼくがひどくビールを飲みたがることをおかしがった。
 ぼくはバーテンダーにビールをせかし、あわただしく飲んだ。ひどくかわいていた。
 なかば飲みほし、ようやく落ちついた。
 きみが横にいた。ぼくの横にならんですわっている。ぼくは初めて会った人のように、きみを発見した。きみはマシュマロみたいな笑みを浮かべ、髪からはいいにおいをさせ、そして音楽に包まれていた。
 そう、あのときの曲だ、これは。過去と未来を切りむすぶ曲。
 いま、きみがすぐ近くにいることを、感じる。
 どこにいる?
 ぼくはふたたび、雪原に足を踏みだした。
 靴底が氷の粒を踏みかためるざっくりとした感触。登山家にでもなったような気分だ。雪原を登っていくぼく。ざくざくと踏みながら、野うさぎの足跡をたどって歩いた。
 ピアノの音はどんどん近くなってくる。
 エアコンのよくきいたあのバーで、きみはすこし寒いといった。寒いといって、首をすこしかしげた。いまとなっては、それがきみの癖だということがわかる。
 ぼくは、
「冬だったらコートを貸せるのに」
 と思った。思ったけれど、口には出さなかった。口に出してしまうと嘘になってしまう気持ちというのは、確かにあるからだ。伝えるためには、長編小説を一冊書くか……そう、一曲の演奏が必要だ。
 ぼくは黙ってピアノ曲を聞いている。
 ゆるやかなリズムから、ふいにテンポが増し、音の密度が増えた。ぼくはひとつの音も聞きのがすまいと、耳をすます。
 密度はどんどん高まり、音はまるで壁のように分厚くなっていく。
 それにしても、この密度の濃さはなんだ。
 ――そうか。
 とぼくは思いあたる。ピアノは一台ではなかった。これは音の響宴だ。会話だ。過去と未来の音が出会い、出会いの喜びを表現しているのだ。
 ぼくは音の粒を追うことをあきらめ、音の波の中に身をまかせた。
 冷たくもあり、暖かくある。古くもあり、新しくもある。柔らかくもあり、鋭くもある。優しくもあり、激しくもある。
 まるでぼくら自身のように、音はいろんな顔を見せる。
 雪原を歩いていたぼくの身体は、いつしか静かに空中へと浮かびあがっていた。
 眼下に広がる果てしない雪原。
 どこから来て、どこへ行くとも知れぬ野うさぎの足跡。
 枝いっぱいに粉雪をためた枯れ木の森。
 雪のうねりをきらめかせながら、太陽が空を飛行した。
 突風にあおられ、ぼくの身体が一回転した。いや、突風と思ったのは、曲の転調だった。
 ふらふらするぼくの身体を、だれかがつかんだ。
 背後から腰にまわされたその手をつかんで、ぼくはすぐにそれがきみだとわかった。ちいさな、ぼくの掌にすっぽり収まる、きみの手。
「やあ、また会えたね」
 きみは首をすこしかしげ、笑みを浮かべた。あの、柔らかな笑みを。
 ぼくがコートの前をあけると、きみは中にするりともぐりこんできた。
 コートの中にすっぽりときみを包みこんでしまったぼくは、ゆっくりと雪原へと降りていく。
 曲はふたたびテンポをゆるめ、終曲へとむかっているようだ。
 過去と未来を、きみとぼくを、そしてあらゆるものを包みこんで、音は雪原へと舞いおりていく。

2009年11月12日木曜日

祈り

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----- Jazz Story #33 -----

  「祈り」 水城雄


 綿雪まじりの冷たい空気のなかで、私は大きな木に向かって祈りをささげる。
 神にでもなく、自分の幸せや健康にでもなく、ひとり、大樹に向かって祈りをささげる。
 昨夜見た、坂の途中で立ちつくしていたサンドイッチマンに。
 割り勘をごまかそうとした友人に。
 電話ボックスのなかで抱き合っていた若い男女に。
 席をゆずらず眠ったふりをしていた高校生に。
 祈りをささげる。
 ビルに衝突した飛行機の乗務員と乗客とテロリストに。
 くず折れるビルに。
 巻き散らされた白い粉に。
 アラファトとシャロンに。
 オウムとイエスの方舟たちに。
 祈りをささげる。
 私のコーヒーポットとオレガノの鉢に。
 息子に贈るハーモニカに。
 私は祈りながら、木の幹に手を触れる。
 見上げると、綿のような雪が暗い空のかなたから、ゆっくりと降りてくる。
 どこか遠くで鐘が鳴っている。

 この樫の木は、冬も青々と葉を広げて立っている。
 私が生まれるより前から、世界の人が生まれるずっと前から、樫の木はここにこうして立っていた。
 この樫の木より前に生まれた人は、ただのひとりもいない。
 この樫の木よりも長く生きる人も、ひとりもいない。
 樫の木が倒されないかぎり。
 樫の木が人の手によって倒されないかぎり。
 飛行機の形をした斧が、大陸のはずれの島に立っていた大きな木をなぎ倒した。斧の力はすさまじく、木は一瞬にしてくずれ倒れた。人の手が斧をふるい、人の手が何本もの木をなぎ倒した。
 人の手が細菌をばらまき、人の手がミサイルを異国に打ちこんだ。
 光でいろどられ、音楽があふれている街を、着飾り、作られた笑いを顔に張りつかせた人々が、目的もなく行き交っている。
 それを、今日、私は見ていた。
 雪がやんだ。
 私は手を樫の木に触れさせたまま、ひとり空をあおぎ、祈る。
 また鐘の音が聞こえた。

2009年11月11日水曜日

クリスマス・プレゼント

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----- Urban Cruising #21 -----

  「クリスマス・プレゼント」 水城雄


 五歳になったばかりの娘が、天井にむかって一生懸命お願いしている。
 サンタさん、どうかお人形のおうちをあたしにください。きっといい子にしてますから。
 もっと大きな声でいわないと、サンタさんに聞こえないわよ、と妻がいじわるをいっている。

 夕刻から雪が降りはじめている。
 ベタベタと重い雪で、まだ積もりそうにはない。が、気温がさがってきているのをみると、夜半には積もりはじめるかもしれない。
 明朝はスノータイヤが必要になるかもしれない。
 こごえそうなガレージでのタイヤの入れ替え作業のことは、想像しただけで気がめいってくる。
 あなた、お風呂にはいってきたら、と妻がいう。
 風呂からあがると、妻と娘が天井にお願いをしていた。
 ねえ、サンタさんて、どこから来るの?
 そういえば、うちには煙突などない。
 子どもの頃には、煙突のある家に住んでいた。といっても、風呂場の焚き口の煙突で、まだサンタクロースの存在を信じていた頃は、あんな細い煙突からサンタはどうやってはいってくるのだろう、と不思議に思っていたものだ。
 玄関からはいってくるのよ、ごめんくださいってね。
 妻がこたえている。
 じゃ、クリスマスの夜は玄関に鍵をかけちゃだめよ、おかあさん。
 だいじょうぶよ。ちゃんとお出むかえしてあげるから。
 ねえねえ、あたしもサンタさんをお出むかえしてあげたい。
 だめだめ。子どもは寝てなきゃ。こんな遅い時間まで起きてるような悪い子には、プレゼントをあげないぞっていわれるわよ。
 あたし、ちゃんと寝る。
 本当に積もらなければいいが、と思いながら、妻と娘の会話をぼんやり聞いている。

 テレビのニュースからはしきりに、「師走」という言葉が聞こえてくる。
 月末までにはまだ半月もあるというのに、なんとなく世の中はあわただしい。
 サンタさんはどこに住んでるの? と娘が妻にたずねている。
 絵本に書いてあったでしょ? フィンランドっていう国じゃない?
 あの絵本、あたし、好き。だってかわいいおもちゃがたくさん出てくるんだもん。でも、フィンランドって遠いところなんでしょ?
 そうよ。遠いところからサンタさんはやってくるのよ、トナカイのソリに乗って。
 あら、ちがうのよ、おかあさん。トナカイのソリに乗ってやってきたのは、昔のことなのよ。
 じゃ、今はどうするの?
 飛行機に乗って来るのよ。
 妻は笑いだす。
 へえ、だれに教えてもらったの、そんなこと?
 桃組のさっちゃん。だって、最近は昔より子どもも多いし、おもちゃもたくさんあるから、ソリなんかでは運べないのよ。だから飛行機に乗ってやってくるの。そのほうが早いし、寒くないから。
 そうね。去年、北海道に行ったときには、飛行機の中が暑くてこまったくらいだもんね。
 あたし、おぼえてるよ、飛行機に乗ったの。となりの席のおばちゃんに、チョコレートもらったの。でも、あのチョコ、あまりおいしくなかった。
 テレビ・ニュースには、ニューヨークかどこかのビルに取りつけられた、巨大なクリスマス・ツリーのイルミネーションが、大写しになっている。

 大きな声でいわなきゃだめよ、お願いは。と、妻が娘にいう。
 お外に出なくてもいいの、おかあさん?
 いいのよ。ちゃんと聞こえるのよ。でも、大きな声でね。
 サンタさん、どうかお人形のおうちをあたしにください。きっといい子にしてますから。
 クリスマス・プレゼントといえば、きまって思いだすひとつの光景がある。
 子どもの頃のイブの夜、興奮して眠れないので、起きて下に行ってみると、母親がひとりで黙々とプラモデルを組みたてていた。サンタクロースにお願いしたはずのリモコンの戦車だった。
 娘の人形の家は組みたてる必要はないが、そろそろ買いに行ってやらなければならない。そうして、娘に見つからないように、どこかに隠しておかなければならない。
 そういえば、娘が生まれてからは、妻にクリスマス・プレゼントを送らなくなってしまった。娘が生まれる前は、お互いになにか送りものをしたような記憶がある。なにを送ったのか、なにをもらったのか、もう忘れてしまったが。
 今年は、ひとつ、なにかプレゼントして、びっくりさせてやるかな。
 天井を向いて懸命に願いごとをとなえている娘。
 母親にむすんでもらったリボンが、頭のてっぺんでゆれている。
 こんな光景を、あと何回、見られることだろう。
 窓の外では、あいかわらず重い雪が降りつづいている。

2009年11月10日火曜日

I Am Foods

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #15 -----

  「I Am Foods」 水城雄


 ぼくはトマト。
 真っ赤に熟れてちょうど食べごろだ。
 これから湯むきにされて、ザク切りにしてトマトのスパゲティになる予定。きっとおいしいスパゲティができるだろう。みんなが楽しみにしてくれている。ぼくもおいしく食べてもらえてうれしいよ。

 ぼくはサンマ。
 いまがちょうど季節で、丸々と太っている。
 これから遠赤外線グリルでじっくりと塩焼きにされる予定。たっぷりと乗った脂がじゅうじゅうと音を立てて落ちて、いい匂いが部屋中に立ちこめる。みんなそれだけで口のなかが唾いっぱいになるんだよね。

 ぼくはニワトリ。
 成長ホルモンをたっぷり与えられていまがちょうど食べごろ。
 これ以上年寄りになってしまうと、ちょっと硬くなってしまうからね。だから、いまからシメられて、血を抜かれて、内臓も抜かれて、解体される。フライドチキンにするもよし、照り焼きにするもよしだ!

 ぼくはブタ。
 毎日モリモリと食べて丸々と太っている。どんなもんだい。
 これから解体工場に連れていかれて、身体のあちこちをバラバラに分解されて、肉やら内臓やらに切りわけられる。みんなの口に入るころには、ポークカツになってたり、ソーセージになってたり、ベーコンになってたりするってわけだ。
 どんなもんだい。

 ぼくは牛。
 ホルモンパンチを耳たぶにつけて成長したおかげで、ぼくの肉は柔らかジューシー。これから解体工場に連れていかれて、身体のあちこちをバラバラに分解されて……

 ぼくは鯨。
 いま捕鯨船に追いかけられているところ。これからモリを打ちこまれて、捕鯨船の上に引きずりあげられて、槍みたいなでっかい包丁で解体されて……

2009年11月9日月曜日

航跡

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----- Another Side of the View #2 -----

  「航跡」 水城雄


 バーテンは反対側の女性客と話しこんでいて、こちらに気づいてくれそうにない。
 まあいい。あわてることはない。こんなに風が気持ちいいんだ。
 椰子(やし)の葉を葺(ふ)いた桟橋の上のバーは、海からの風の通り道になっていた。彼は身体をなかばねじまげ、ビーチホテルのほうをながめやった。低い造(つく)りの白いホテルの前を、水着の上からTシャツをかぶっただけの女がひとり、ゆっくりと歩いているのが見えた。ほとんど銀色といっていい髪が、風に散っている。女はそれを押さえようともしない。
 カタマランのディンギーが湾内をかなりの速度で間切っていく。主人のいない犬が一匹、波打ちぎわの砂をしきりに掘っている。
 バーテンが話しているのは、大きな白い帽子をかぶった初老の女性だった。初老とはいえ、女性であることを放棄していない毅然とした美しさが、彼女にはそなわっていた。
 それはともかく、おれを干上がらせるつもりかい、ここのバーテンは? あわてることないとはいってみたものの。
 編んだ篭の中にオレンジといっしょに突っ込んであるラジオからは、陽気な調子のボレロが小さく聞こえていた。
 彼はふたたびビーチホテルのほうに視線をむけた。Tシャツの女はゆっくりこちらに向かってくる。
 トントンという音に振りかえってみると、バーテンが彼の前に立ち、カウンターを指先で叩いていた。
「あそこにお泊まりですかい?」
 唇のはしにかすかな笑みを浮かべ、そうたずねてきた。中年……といっても、彼よりは若そうだったが。二度ばかり沸かしなおしたコーヒーのような顔。
「いや、違う。長くいるつもりはないんだ」
「ご注文は?」
「キューバリブレ」
「ラムはカリオカでいいですかい?」
「それでいい。ちょいとラムを抑えぎみで」
「まだ日は高いってやつですかい。旦那はこちらへはやっぱり船で?」
「そう」
 彼は首をまわし、自分の船を見た。
 ビーチホテルとは反対側のハーバーに、41フィートのスループがつながれている。
 トン、と彼の前にグラスが置かれた。
「こちらへは休暇かなにかで?」
「そんなところかな」
「日本人ってのは休暇なんか取らねえってんじゃなかったんですか? あたしら、そんなことを聞いてますけどねえ」
「日本人だってわかるかい?」
「チャイニーズには見えませんや。40フィートにオートヘルムくっつけてる中国人なんて、いやしねえ」
 なんだ、こいつ。ちゃんと見てたんじゃないか、おれがはいってくるのを。
「40じゃない。41だ」
「似たようなもんでさ」
 バーテンは女性客のほうにもどっていった。
 キューバリブレ。ラム・アンド・コーク。
 濃い褐色の液体を、彼はひと口、飲んだ。
 Tシャツの女は桟橋の付け根を通り、ハーバーのほうへとむかっている。若い。十八、九といったところか。あいつの相手には若すぎるか。
 犬はまだ砂を掘っていたが、カタマランはもう見えなくなっていた。
 彼は半ズボンの尻ポケットから、一枚のすりきれた写真を取りだした。
 カウンターの上に置き、指先で押さえてゆがみを直し、じっと見入る。
 それから、おもむろにラム・コークを飲みほした。
 グラスをトン、とカウンターに置く。バーテンは振りかえろうともしない。
 で、指先で二度、トントンとカウンターをたたいてみた。バーテンがやってきた。
「もう一杯たのむ。それから……」
 こんなことはこれまでしたことはなかったのだが……。ここのバーテンの顔を見ていたら、なぜかその気になっちまった。なにかを確認したい気分に……
「こいつを見たことがあるかい? ちょうど一年前、このあたりにも立ちよってるはずなんだが」
「ちょいと待ってくださいよ」
 バーテンはまず酒を作ってから、慎重に写真に顔を近づけた。
「いや……」
 彼はいった。
「いや、見たことないでさあ。このバーへは寄らなかったんでしょう」
「たしかかい?」
「たしかでさあ。この人をお探しで?」
「いや……」
 探しているといえば、そうもいえる。が、ふつう、もうこの世にいない人間を、探すとはいわない。あいつが一年前たどった航路を、あいつの船で、これといった理由もなく追っている。ことによると、あいつが死んだことで失ったなにかを、探しているといえるのかもしれない。
 彼は写真をポケットにもどし、ビールを飲んだ。
 ハーバーに視線を向けると、Tシャツの女が自分の船に近づいていくのが見えた。女は船の横に立ちどまると、しばらくながめていたが、やがてライフラインをまたいで船に乗りこんだ。そう、まるで自分の船に乗りこむかのように。
 バーテンがアゴの先で示した。
「行ったほうがいいですぜ」
 いわれるまでもなく、彼は立ちあがっていた。
「ちょい待ち。これを持っていくといい」
 バーテンがいい、ビールの小壜を二本、すばやく抜いて彼に渡してくれた。
「あたしからのおごりでさ」
 おせっかいめ、と彼は思いながら、こたえた。
「いや、これはツケにしといてもらおう。すぐにもどってくるさ」
 バーテンがニヤッと笑う。
「あの子と?」

2009年11月8日日曜日

Blue Monk

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----- Jazz Story #12 -----

  「Blue Monk」 水城雄


「あなた、ひとつ聞いていい?」
「なんだ」
「あなた、あたしと結婚してから、浮気したことある?」
「おいおい、なんだい、唐突に」
「いいから、答えて」
「なんでこんなときにそんな質問に答えなきゃならないんだ」
「こんなときからだからこそ、教えてほしいのよ」
「待ってくれよ。おまえ、いまのこの状況、わかってんのか?」
「もちろんわかってるわ。もうどうしようもないってことぐらいね」
「まあ、それはそうなんだが……」
「だから、教えて。いいじゃない、もうあたしたち、終わりなんだから」
「終わりだからこそ、もっと有意義な話をしようじゃないか」
「有意義な話って、どんな話よ」
「それはその……あれだ」
「こんなことになって、いまさら有意義もなにもないじゃない。どうせ死ぬのよ、あたしたち」
「おい、それをいうなって」
「だって本当のことだからしようがないじゃない。現実を直視しなきゃ」
「わかった。現実を直視しよう。だから、昔の話なんか持ちだすのはやめろ。
どうしようもないだろう?」
「知っておきたいのよ、死ぬ前に」
「知ってどうする。どうせ死ぬんだ。知っても、その記憶は闇に消えるんだ。
どうせ消える記憶なら、清らかで美しい記憶のほうがいいだろう」
「あなた……」
「なんだ」
「そうやって話したがらないってことは、つまり、浮気したことがあるのね」
「なにいってんだ。あるわけないじゃないか」
「ほんとのこといって。どうせもうすぐ死ぬのよ。いまさらあたしに嘘ついてもしかたがないでしょ。最後に本当のことをいってよ」
「だから、浮気なんかしてないっていってるじゃないか」
「そうやって逃げるのね」
「逃げてなんかいないって。どうやって逃げるっていうんだ、こんなところから」
「そうね。外は真空だもんね。そしてエアーの残り時間はあと一時間」
「そういうことだ。いまさらあれこれいってもしかたがない。おれが浮気したことがあるかどうかなんて、どうでもいい問題なのさ」
「やっぱりしてたのね、浮気」
「してないって」
「なんだか熱いわ、あなた。息苦しいし」
「空調がおかしいんだ。酸素も残り少ないし」
「どうしてこんなことになっちゃったんだろう」
「わからない。すべて順調にいっていたのにな。コンピュータが暴走して、軌道をはずれてしまった」
「コンピュータなしじゃなにもできないのね、人間って」
「頼りすぎてたのかもしれないな」
「いまごろは無事に火星に到着して、植民地のみんなに再会しているはずだったのに」
「…………」
「ねえ、さっきの話だけど」
「浮気のことなら、ノーだ」
「…………」
「なあ、この曲、だれが演奏しているか知ってるか?」
「知らない。あなたはジャズ、あたしはテクノ。いつも違う音楽を聴いてたじゃない。いまはあなたに妥協してあげてるのよ」
「それはどうも、ありがとう」
「だれが演奏してるって?」
「モンク。セロニアス・モンク」
「ふーん、知らない。何歳くらいの人?」
「もう死んだ。ずっと前に死んだ。一世紀も前に死んだ」
「そうなの。なんか変な演奏」
「じっくり聴けばよさがわかる」
「そうね、じっくり聴けばね。でも、もうそんな時間はないわね、あたしたち」
「ああ……」
「浮気の話なんか持ちだしたりして、悪かったわ。いまさらそんなこと聞いても、しかたがないもんね」
「まあな」
「あたしの人生って、いったいなんだったんだろう。あなたのこと、なんにもわかってなかったような気がする。このピアニストのことだって、全然知らなかったし」
「それはお互いさまだよ。でも、そんなことをいまさらいっても、しかたがない。もうすぐ、おれたちはふたりとも死ぬ。人はみんな死ぬんだ。セロニアス・モンクを知ってる人も、知らない人も、みんな死ぬ。モンクもちゃんと死んだ」
「でも、彼はいまもこうやって聴いてくれる人がいる」
「その人間も、やがて死ぬ」
「…………」
「まんざら悪くもなかったよ」
「え?」
「きみといっしょにいられて、よかった」
「あたしもよ」
「いまもだ」
「うん」
「ほら、見てごらん。しし座のほうで流星が生まれているよ」

2009年11月7日土曜日

人形

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----- Urban Cruising #30 -----

  「人形」 水城雄


 やけににぎやかだと思ったら、テレビでは蜂蜜まみれになったクマのプーさんが、蜜蜂たちに追いかけられて大騒ぎを演じているところだった。
 やがて六歳にもなろうというぼくの息子は、かじりつくようにしてテレビに見いっている。
 このビデオ、もう何回見たことかわからない。
 風船が破裂したクマのプーさんは、その勢いで木にぶつかりそうになったり、地面をかすめたりしながら、猛烈な勢いで飛びまわっている。そのあとを、黒い雲のようになった怒り狂った蜜蜂の集団が、ブンブンとうなりながら追いかけていく。クマのプーさんは、無邪気にも木の洞(ほら)のたまった蜂蜜に手を突っこんでむさぼりなめたため、蜜蜂たちの怒りを買ってしまったのだ。
 やがて風船はしぼんでしまい、プーさんはあえなく墜落。が、しつこい蜜蜂はなおもプーさんに襲いかかってくる。
 心やさしい少年のクリストファーが、木の根っこにつまづいてころんだプーさんをひっつかみ、逃げる、逃げる。もとはといえば、プーさん、クリストファーに貸してもらった風船で、高い木の洞にある蜜蜂の巣までのぼったのだ。
 クリストファーとプーさんは、蜜蜂に追われて、とうとうどろんこの水たまり
に飛びこむはめになってしまった。うまい具合に持っていた傘をクリストファーが広げ、蜜蜂の大群の急降下爆撃をかろうじてかわした。
 大人が見てもおもしろい。子供が夢中で見るのもあたりまえだ。
 ほかにもディズニーのアニメビデオを、息子はたくさん持っている。ミッキーマウス、ドナルド・ダック、チップとデール、プルート、グーフィー、白雪姫、シンデレラ、ピノキオ、ダンボ。数えあげたら、きりがない。
 その中でも、息子はとりわけ、クマのプーさんが気にいっているようだ。
 画面では、難をのがれたプーさんが、今度はうさぎの家に行って蜂蜜をせびりはじめている。

 足を折り畳み、背中を丸めてペタンと尻をおとし、まるでおばあちゃんみたいな格好ですわりこんでいる。目はテレビ画面に釘づけになったままだ。
 生まれたときからなんだか暢気な性格で、おぼこいというか幼稚というか、とにかく子供っぽい。これでもう六歳になろうというんだから、おどろきだ。
 考えてみれば、そうなんだ、来年は小学校に入学だ。いつのまにこんなに大きくなってしまったんだろう。こんな赤ちゃんの延長みたいな性格で、ちゃんと集団生活が送れるんだろうか。クマのプーさんなんかいつまでも喜んでみていて、いいんだろうか。
 プーさんといえば、この子が生まれたとき、お祝いにぬいぐるみの人形をいくつかいただいた。その中に、クマのぬいぐるみがあった。灰色のクマで、サンディーという名前がついていた。
 いまでもそれは、息子の寝室に置いてある。
 彼を寝かしつけるのは、ずっと妻の役目だったが、ときおりぼくが寝かしつけてやることもあった。といっても、本をすこし読んでやるだけなのだが。
 そのときに、サンディーに役に立ってもらうのだ。
 息子は寝るときに枕を使わない。息子の寝室には枕が置いてない。息子と並んで横たわり、本を読んでやろうとすると、ぼくのほうは頭に血がのぼって具合が悪い。
 そこで、サンディーを枕がわりにちょいと使わせてもらうのだ。
 ちょうど具合がいい。
 サンディーはこぎれいな現代的なぬいぐるみのクマで、プーさんとは似ても似つかない。
 画面では、蜂蜜を食べすぎておなかが入口につかえ、うさぎの家から出られなくなったプーさんが、大騒ぎを演じている。

 おなかがつかえて動けなくなってしまったプーさんを、クリストファーがたすけだそうとするのだが、どうしても抜けない。あわれなプーさんは、つかえたおなかがやせほそるまで、そのままがまんしていなければならないことになった。
 うさぎは、入口をふさいだプーさんのおおきなお尻が目ざわりで、気になってしようがない。額縁をはめて花瓶をかざったり、ろうそくを立てたりと、工夫をこらすのだが、それが見ている者にはおかしい。クマのプーさんに出てくる人形たちは、みんな、どこかしらおかしなところがあるようだ。
 ぼくの息子はサンディーというクマのぬいぐるみをもらったけれど、ぼく自身も幼い頃、クマのぬいぐるみを持っていたことを覚えている。サンディーと同じく灰色のクマだったが、サンディーのようにこぎれいなクマではなく、いまから思えばテディベアというものだったように思う。
 かなり大きくなってからも、そのぬいぐるみを持っていた。まさかそれで遊んだわけではないが、おもちゃをしまってある押入をあけると、いつもそのテディベアが目についた記憶がある。あのぬいぐるみ、どうしたんだろうか。まさか、いまだにしまってあるということもないだろう。一度、おふくろに聞いてみることにしよう。
 なぜか男の子の人形というと、世間では「クマ」と相場が決まっているようだ。じゃあ、女の子はどうなんだろう。
 おもちゃ売り場などに行くと、じつにたくさんのぬいぐるみが山と積まれていて、目がチカチカするほどだ。でもやはり、ヒナ人形というものが定番なのだろう。うちには女の子はいないが。
 テレビでは、みんなが力を合わせて、プーさんをうさぎの穴からひっこぬこうとしている。

2009年11月6日金曜日

雨の女

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #61 -----

  「雨の女」 水城雄


 雨が降り出した。
 ぽつり、ぽつり、ぽつり。
 雨は嫌いだ。雨が降ると私の心も身体も流れて行く。
 雨は嫌い。だから、早く来て欲しい。

 彼が来た。私の願いが通じた。
 彼が傘を差しかけてくれる。雨に濡れた私の身体を拭いてくれる。
 彼の手が私に触れる。私は彼の指を感じる。彼の優しい指が、私の肌に触れる。
 彼の指が私の腕をなでる。彼の指が私の指に触れる。まるで私の肌が波立つように、そこから心地良さが生まれて、私の身体のなかを通り抜けていく。
 私は思わずため息を漏らす。
 私は彼のために生きている。彼がいなければ私は生きていることができない。彼が触れてくれなければ私は自分の存在を確かめることができない。彼が触れていないとき、私は存在していないも同然だ。
 彼の指が私の肩をなぞる。私は自分の肩の形を意識する。
 彼の指が私の乳房をなぞる。私は自分の乳房の形を意識する。そして快感に思わず声をあげる。
 あああ。

 やがて彼は私から離れていく。
 行かないで。懇願する私を彼は置き去りにする。私はまたひとりぼっちで取りのこされる。
 風が吹いてきた。
 あ、傘が飛ばされた。
 大粒の雨が容赦なく私に降りそそぐ。彼がそのことに気づいて戻ってきてくれることを私は願う。しかし、私の願いは彼に届かない。彼はもう遠くに行ってしまった。
 雨粒が私に降りそそぎ、私を濡らしていく。
 雨粒が私のなかにしみこんでいく。彼によってかろうじて形を保っていた私の身体に、容赦なくしみこんでいく。もろくも私の身体は溶けくずれていく。腕も肩も乳房も、顔も耳も頭も、みんな雨によって崩れ、雨水とともに流れていく。
 雨はどんどん強くなる。
 私の身体はいまや濡れて汚らしい灰色の砂山にしかすぎない。
 流されていく私は、雨水とともに海に流れこみ、砂浜の一部にもどっていく。
 私は、また彼が、砂浜の砂で、私を、作ってくれる、こと、を、願う、の、み。

2009年11月5日木曜日

洗濯女

(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- Jazz Story #33 -----

  「洗濯女」 水城雄


 わたしは今日も川に行く。洗濯物を抱えて。
 山々のいただきは、とうとう白いものに覆われた。朝の空気は身を切るように冷たい。
 わたしの粗末な家から川までの道は、泥や石ころですべりやすい。畑や林を縫って、だらだらとくだっていく道だ。
 立ち枯れて、開ききった穂を風に揺らしているススキが、朝の日差しをすかして光っている。
 柿の実はすっかり熟して、いくつかは地面に落ちている。渋柿だが、わたしは今年も干し柿を作った。その残りが、まだ木になっている。
 干し柿を作っても、わたしたち夫婦には子どもがいない。食べるのはわたしと、彼だけだ。
 彼は今日も山にはいっている。今日は冬にそなえ、柴を刈りに行っているのだ。昨日は大きな山芋を掘りあげてきてくれた。その前はサルノコシカケを採ってきた。
 川のせせらぎの音が近づいてきた。
 小さな川だが、昨日の雨で少し水量を増し、豊かに流れている。下のほうのよどみの手前に、彼が作ったヤナがまだ仕掛けたままになっているが、今年の漁はもう終わった。
 わたしは洗濯物の入った洗い桶を石の上に置き、川の水に手を入れた。

 水は肌を切るように冷たく、痛かった。
 わたしは歯を食いしばり、洗濯をはじめた。
 洗濯物といっしょに持ってきた洗濯板を流れに差し入れ、その上で着物をゴシゴシと洗う。水の冷たさを払いのけるように、手に力をこめる。
 ゴシゴシと着物をしごいていると、やがて手が冷たくしびれてくる。
 一枚洗い終わるごとに、わたしは手を休め、両手をこすりあわせて暖めなければならなかった。
 何度めかの手休めのとき、わたしは川面になにか浮かんでいるものを見つけた。
 上流のほうから流れてくる。
 丸いなにか。プカプカと浮かんで、こちらに流れてくる。
 それはどう見ても、桃だった。しかも、異常に大きい。
 こんな季節に桃?
 わたしは腑に落ちない気持ちのまま、川に足を踏みいれ、手をのばしてそれを取った。
 ずっしりと重い。まるでなかに、赤ん坊でも入っていそうだ。
 わたしは洗濯物を洗い桶にもどし、その上に大きな桃を乗せた。
 早く帰って、彼に見せなければ。でも、まだ彼は山からもどってきていないだろう。
 わたしたちに子どもがいたらどんなによかったのに。ふとわたしは、そう思った。

2009年11月4日水曜日

サンタの調律師

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----- Urban Cruising #22 -----

  「サンタの調律師」 水城雄


 そのちいさな講堂にはいっていくと、まず大きなクリスマス・ツリーが目にはいった。
 イルミネーションが不規則に点滅している。
 イルミネーションの前では、子供たちが元気よく駆けまわっている。

 講堂にはいっていったわたしをはじめは気にもとめていなかった子供たちも、わたしがピアノのそばに行き道具箱を広げると、たちまち興味を示しはじめた。
 床に膝をつき、道具箱の中身を出してならべていると、講堂をかけまわっていた子供たちのほとんどが、わたしのまわりに集まってしまった。
「おじいちゃん、これ、なに?」
 とりわけ好奇心が旺盛で活発そうな女の子のひとりが、わたしにたずねた。
 わたしはその子を見た。
 膝をついているわたしと、目の位置がほとんど同じくらいだ。母親にゆってもらったのか、長い髪をきれいなおさげにして、赤いリボンを結んでいる。
 わたしはこたえた。
「これはね、調律の道具なんだよ」
「チョーリツってなに?」
 女の子はたたみかけるように聞いてくる。
「調律っていうのはね、狂っているピアノの音を、ちゃんと元にもどしてやることさ」
「でも、このピアノ、狂ってなんかいないよ」
「よく聞くと狂っているのさ」
 わたしは立ちあがり、アップライト・ピアノの天蓋、前板、それから下の板などを取りはずし、弦の部分をむきだしにした。
 子供たちのあいだから、歓声があがる。
 毎年、クリスマス・イブになると、この幼稚園にやってきて、ピアノを調律するのが、わたしのなによりの楽しみなのだ。

 イルミネーションの前で、わたしは仕事をはじめた。
 ちいさなハンマー、音叉、共鳴を抑えるためのゴムのクサビ、弦を巻きあげるためのドライバー。
 椅子の上にならべられたそれらの道具に、子供たちは鼻をこすりつけるようにしている。
 わたしはゴムのクサビを弦の間に打ちこんでから、おもむろにまん中のAの音を鳴らした。それから音叉を膝にたたきつけ、ピアノの共鳴板の部分にあてがう。澄んだ正弦波の音が、ピアノの音にからまる。
 ドライバーで弦をしぼり、最初の音を合わせた。
 まわりでは、子供たちが興味シンシンでわたしの一挙手一投足を見守っている。加えて、なにごとかを口ぐちにしゃべりあっているが、音を合わせられないというほどではない。
 これで、神経質だった若い頃なら、幼稚園の先生に頼んで子供たちを遠ざけてもらったろうが、いまではむしろ子供たちがまわりにいてくれたほうが、仕事は楽しい。
 そういえば、わたしの息子にもこのような時期があったのだ。あの頃はまだ子供が多くて、町内にも子供会などというものがあった。子供会でクリスマスをしたことをおぼえている。わたしをはじめとする父親たちが交代で、サンタの役をさせられたものだ。子供の人いきれでむんむんする集会場で、あの服装をしているのはかなりつらかったものだ。
 わたしももう、このくらいの孫がいても不思議はない年齢になっているのだが、どういうわけか息子は子供を作ろうとしない。嫁とふたりで、気楽にやっているようだ。
 それもそれでよかろう、というわけだ。
 そんなことを考えながら、わたしはかなり弾きこまれて狂ってきているピアノの弦を、次々と調節していった。

 幼稚園のピアノの調律は、30分ばかりで終わった。
 そのあいだ、子供たちがいれかわりたちかわり、わたしの仕事の進行具合を点検しにやってきては、口ぐちに質問をあびせていった。
「おじいちゃん、この機械、なに?」
「どうしてこんなところにゴムをはさむの?」
「おじいちゃん、ピアノを作ったりもするの?」
 彼らにとって、わたしの仕事や仕事道具は、興味がつきないらしい。
 調律が終わると、わたしはピアノを片づけ、道具をいつもどおり、きちんとしまいこんだ。
「おわり?」
 とひとりの男の子が無邪気な顔で聞く。
「ああ、おわりだよ」
「もう弾けるの?」
「ああ、弾いていいんだよ。きみ、弾けるのかな?」
 男の子はかぶりを振った。
「あたし、弾けるよ」
 横にいた女の子が、目をかがやかせて、いった。
「ほう。それはすごい。でも、ちょっと待っててね。ちゃんと弾けるかどうか、最後にもう一度点検してみるからね」
 そういって、わたしは椅子にすわった。
 この瞬間が、わたしには一番たのしい。
 わたしは指を鍵盤に乗せると、おもむろにジングルベルを弾きはじめた。
 まわりから歓声があがった。
 弾き終え、道具箱をぶらさげて講堂から出ていくわたしのあとを、子供たちがゾロゾロとついてきた。
「おじいちゃん、ほんとはサンタさんなんでしょ?」
 ふりかえったわたしの目に、クリスマス・ツリーのイルミネーションが見えた。
 わたしはうれしくてしようがない。

2009年11月2日月曜日

嵐が来る日、ぼくたちはつどう

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----- Another Side of the View #11 -----

  「嵐が来る日、ぼくたちはつどう」 水城雄


 レースの中止が決定したのは、9時をまわってからだった。
 でも、結局、中止になることはみんなわかっていたのだ。もちろん、ぼくにもわかっていた。天気予報を注意して聞いていたものには、皆、わかっていた。
 ぼくがハーバーにやってきたわけは、ほかでもない、船が心配だったからだ。いま、ハーバーに集まってきているのも、船を気づかってやってきた者ばかりだった。
「よお。磯崎さん、来てるぜ」
 スタンのもやいの具合をたしかめていると、うしろから肩をたたかれた。〈フリーキー・ディーキー〉のオーナーの樋口さんだった。いつもながら、不精髭だらけの顔だ。フリーキー・ディーキーのバースは、ぼくたちの〈ノー・ウーマン〉の隣だった。
「知ってますよ」
 と、ぼくはこたえた。
「きみも電話でかりだされたクチかい?」
「ちがいますよ」
 すでに磯崎さんが来ていることは、船のもやいを見ればわかる。台風にそなえて、いつもの倍くらい、もやいを増強してある。あとぼくに残された仕事があるとすれば、まだ揺れの来ないキャビンでコーヒーでもわかし、オーナーの労をねぎらうくらいだ。
「きみも来いよ」
 樋口さんが手まねきした。
「なんです?」
「コーヒーがはいってる。〈デコイ〉ではじめてる」
 ぼくに残された最後の仕事も、べつのだれかに取られてしまったというわけだ。
「すぐに行きますよ」
 樋口さんに返事しておいてから、ぼくはノー・ウーマンのデッキに飛び乗った。
 なにも女っ気がないから、ノー・ウーマンという名前になったわけじゃない。オーナーの樋口さんがボブ・マーレイを大好きだから、という理由からだ。ノー・ウーマンには、「ノー・ウーマン・ノー・クライ」と続く歌詞がついている。おまえさん、泣くんじゃねえよ。
 備えが完全に終わっていることはわかっていたけど、ぼくはひとわたり、デッキ上を点検した。まだほとんど感じるほどではないけれど、ハーバーの中にはわずかなうねりがはいってきているみたいだった。マストが左右に振れ、そのたびにリギンがカチャカチャ鳴る音が聞こえた。
 泣くんじゃねえよ、おまえさん。
 そういえば、フリーキー・ディーキーというのも変わった名前だ。なんでも、60年代の後半、アメリカではやったイカレたダンスのことなんだそうだ。その頃、アメリカ中を放浪したあげく、デトロイトで自動車修理工をやって食いしのいだことのある樋口さんの思い出にちなんで、そう名付けられたのだという。
 いやはや。いろいろあるもんだ。
 デコイも、命名にはちょっと変わったいきさつを持っている。デコイのオーナーは武部さんという建築資材の会社の社長だけど、三年ばかり前、離婚した。武部さんの奥さんは、女性にしては風変わりな趣味だと思うけれど、デコイを作るのが好きだった。デコイってのは、つまりあの木でできた鴨のことだ。子どもも大きくなって、手を離れてしまうと、それこそ朝から晩までデコイ作りに熱中しちゃうんだそうだ。
 ある日、たまたま虫の居所の悪かった武部さんは、作りかけのデコイで足の踏み場もないほど散らかった部屋を見て、つい大声を出してしまった。このロクでもないデコイを片付けるか、おまえが出ていくか、どちらかにしてくれ。
 翌日、武部さんは、部屋いっぱいのデコイを抱えて、独身生活にもどった。教訓を忘れないように、武部さんは自分の船にデコイという名前をつけた。
 教訓というのは、こうだ。
「女から理不仁なことをいわれても、男から理不仁なことをいってはならない。たとえ相手が妻であろうと」
 最後にブームカバーを点検してから、ぼくはノー・ウーマンを降りた。
 ぼくがデコイのキャビンにはいっていったとき、全員がいっせいにはじけるように笑ったところだった。
「いや、きみのことじゃないよ」
 独身の武部さんが、ぼくにコーヒーをいれてくれながら、説明した。
「ある人の噂をしていたもんでね」
「だれの噂ですか?」
 ぼくはたずねた。
「だれのって……ここにいないやつに決まってるだろうが」
 みんな、ニヤニヤ笑っている。
 ぼくはコーヒーカップを受けとって、あいている席に割りこんだ。
 総勢七人。いつもの顔。いつもの笑い声。
「ああ、またあの人の噂ですね」
「そう、あの人の、な」
 磯崎さんがいった。彼の目は、おまえ、おれが点検したあとのデッキでなにしてたんだ、といっている。おれが全部やっといた。完ぺきだったろうが、え?
 ぼくはいった。
「よくないですよ、いない人の悪口をいうのは」
 背をもたれてくつろぐと、まだ揺れはほとんど感じられなかった。

2009年11月1日日曜日

じぃは今日も山に行く

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----- Jazz Story #27 -----

  「じぃは今日も山に行く」 水城雄


 じぃは今日も山に行く。
 痛めた膝をかばいながら。杖にすがって。
 晴れ渡った空。木々はすっかり葉を落としている。空には高く、オオタカが舞っている。じぃはオオタカの巣がある場所を知っている。なぜなら、オオタカの巣の近くに、毎年大きなマイタケが出る木株があるからだ。
 オオタカの鳴き声が空から降りてくる。それはときに、じぃの嫌いな音楽のように聞こえることがある。
 じぃは空を見上げ、顔をしかめる。オオタカに鳴くのをやめよといっているみたいに。
 じぃのひとり息子は音楽をなりわいとしているらしい。じぃはそれが嫌なのだ。いや、そもそも、音楽自体が気にいらない。わけがわからない。そんなものをメシの種にする人種など、とうてい信用することができない。
 じぃは今日も山に入る。マイタケを狩り、山芋を掘る。
 じぃの一日の稼ぎは、息子の嫁が家でやっているデータ入力の仕事よりも安いほどだ。
 しかし、今日も膝をかばいながら、じぃは通いなれた山道を分け入っていく。

 オオタカの巣の近くのマイタケは、今年はもう採ってしまった。
 今年も大きなマイタケが採れた。じぃはその場所をだれにも教えていない。
音楽をやっている息子にも教えない。
 だから、じぃはマイタケの株を通りすぎて、もっと山の上まで登っていく。
 汗がポタ、ポタ、と、ミズナラの枯葉の上に落ちる。
 またオオタカの鳴き声が聞こえた。
 じぃは顔をしかめ、家にいる息子の嫁のことを考えた。
 もちろん、音楽なんぞで食えるわけがない。じぃの息子なのだ。才能がないことはわかっている。しかし、どんな夢を見ていることやら、息子はふわふわと生きている。嫁はカネにならない内職に精を出している。大きな腹を抱えて。
 前から目をつけていた山芋のツルのところまでやってきた。
 じぃは手ぬぐいで汗を拭くと、小鍬を手にして土を掘りはじめた。
 ザク、ザク、ザク。
 山芋は大きいだろうか。いくらで売れるだろうか。そしてじぃは、生まれてくる赤ん坊のことを思う。
 頭上高く、オオタカの泣き声が聞こえる。