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----- Urban Cruising #25 -----
「おばあちゃん」 水城雄
いつものように油で汚れた作業着を着て、立壁さんは車の下にもぐりこんでいた。
声をかけると、ガラガラと音を立てながら出てきた。
鼻の頭にまで油をつけて、まるで子供みたいに見える。
氷点下の寒さが何日か続いたせいか、車のワイパーの調子が悪くなってしまった。
仕事に出る途中、知り合いの修理工場に立ちよった。
立壁自動車、というひかえめな看板の脇を通って、車を作業場のほうに乗りいれた。事務所の前では立壁さんの奥さんが、ウェスの洗濯をしている。
「今日はなんだい?」
もぐりこんでいた車の下から出てくると、立壁さんは軍手の甲で顔をふきながら、たずねてきた。顔の汚れがますますひどくなる。
ワイパーがね、おかしいんだ。
立壁さんはキビキビと車を調べはじめた。
寒いね、と彼がいう。うん、寒いね、とこたえながら、考えてみれば、この人はぼくが生まれたときからぼくのことを知ってるんだな、と思った。
生まれてから三十年あまり、ずっとつきあっている人間というのは、そういない。おやじ、おふくろ、それからあまり会う機会もない親戚の人たち。血のつながらない他人では、ほんと数えるほどしか思いうかばないな。
ぼくが子供の時分、母方の祖父がやはり自動車修理工場を経営していた。立壁さんはそこで修理工として働いていたのだ。そのころは彼もまだ独身だった。
ふと思いついて、ぼくはたずねた。
「立壁さん、結婚は何歳のとき?」
「二十六だよ」
すると、すくなくとももう五十にはなってるわけだな、彼も。
あれえ、この車検のシール、おかしいな、と彼がいった。
うちの息子も来年からここでやってくれることになってね、と彼がいう。
へえ。いいじゃない、にぎやかでさ。
ああ。でも今度は嫁をもらわなきゃならないんだよな。
いくつなの、息子さんは?
二十二だよ。
チェッ、まだ早いよ、そりゃ。
この車、来年のはずだよな、車検は。
そうだよ。去年やったばかりだもん。
おかしいな。ほら、このシールを見てみなよ。茶色だろ? これは今年の車検ってことなんだよな。
そんなはずないよ。去年、たしかにやったんだから。
書類を見てみるか。車検証、あるかい?
あるよ。ダッシュボードの中を見てよ。
立壁さんはダッシュボードから車検証を出すと、手を思いきりのばしてしかめつらを作った。
だめだな、読めないな。ちょっとここの数字、読んでくれないかな。
なんだよ、老眼なの?
いまにはじまったことじゃないさ。ほら、ここんとこ。なんて書いてある?
平成三年五月。
来年だな、やっぱり。このシール、まちがってるんだ、やっぱり。陸運局のやつがまちがえたんだな。
ちゃんとなおしといてよ。
ああ、今度行ったとき、正しいシールをもらってくるよ。
しかしまあ、立壁さんが老眼とはねえ、とぼくは口に出しかけて、やめた。彼の肩ごしに、洗ったウェスをものほし竿にかけ、勢いよくてのひらで叩きつけている奥さんの姿が見えた。
ワイパーの修理はすぐに終わった。ブレードも替えといたほうがいいな、もうゴムがよれよれだ、と立壁さんがいう。
うん、そうしといてよ。
子供の頃、ぼくの遊び場はおじいちゃんの修理工場だった。その工場は、いまはもうないけれど、ここへ来るたびに思いだす。所狭しとならべられたいろんな種類の車。コンプレッサーの回る音。溶接のバチバチいう音と火花。油のにおい。高い天井には、夏がくるたびにツバメが巣をかけていたっけ。
工場の奥には、修理工たちのための食堂と風呂があった。立壁さんとその風呂にはいったかどうかはおぼえてないけど、おじいちゃんとなら確かにはいったおぼえがある。おじいちゃんは風呂にはいるたびに機嫌よく「ここはお国を何百里、はなれて遠き満州の」と歌ったものだ。
そのおじいちゃんも、いまはもういない。
おじいちゃんは子供のぼくに、いらなくなったベアリングをよくくれた。小さなてのひらにずっしりと重いベアリング。クルクルといつまでも回りつづける不思議なしかけ。あきずにそれで遊んだものだ。
また、立壁さんたちといっしょになって車の下にもぐりこみ、人を運ぶ魔法の乗り物の裏側をのぞいて悦に入ったりした。
よっしゃ、できた、と立壁さんがいった。
ありがとう、とぼくはこたえながら、ふと足をわずらって入院したきりのおばあちゃんのことを思った。
年があけてから、まだ一度も行ってないんだな、見舞いに。
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