2009年11月9日月曜日

航跡

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----- Another Side of the View #2 -----

  「航跡」 水城雄


 バーテンは反対側の女性客と話しこんでいて、こちらに気づいてくれそうにない。
 まあいい。あわてることはない。こんなに風が気持ちいいんだ。
 椰子(やし)の葉を葺(ふ)いた桟橋の上のバーは、海からの風の通り道になっていた。彼は身体をなかばねじまげ、ビーチホテルのほうをながめやった。低い造(つく)りの白いホテルの前を、水着の上からTシャツをかぶっただけの女がひとり、ゆっくりと歩いているのが見えた。ほとんど銀色といっていい髪が、風に散っている。女はそれを押さえようともしない。
 カタマランのディンギーが湾内をかなりの速度で間切っていく。主人のいない犬が一匹、波打ちぎわの砂をしきりに掘っている。
 バーテンが話しているのは、大きな白い帽子をかぶった初老の女性だった。初老とはいえ、女性であることを放棄していない毅然とした美しさが、彼女にはそなわっていた。
 それはともかく、おれを干上がらせるつもりかい、ここのバーテンは? あわてることないとはいってみたものの。
 編んだ篭の中にオレンジといっしょに突っ込んであるラジオからは、陽気な調子のボレロが小さく聞こえていた。
 彼はふたたびビーチホテルのほうに視線をむけた。Tシャツの女はゆっくりこちらに向かってくる。
 トントンという音に振りかえってみると、バーテンが彼の前に立ち、カウンターを指先で叩いていた。
「あそこにお泊まりですかい?」
 唇のはしにかすかな笑みを浮かべ、そうたずねてきた。中年……といっても、彼よりは若そうだったが。二度ばかり沸かしなおしたコーヒーのような顔。
「いや、違う。長くいるつもりはないんだ」
「ご注文は?」
「キューバリブレ」
「ラムはカリオカでいいですかい?」
「それでいい。ちょいとラムを抑えぎみで」
「まだ日は高いってやつですかい。旦那はこちらへはやっぱり船で?」
「そう」
 彼は首をまわし、自分の船を見た。
 ビーチホテルとは反対側のハーバーに、41フィートのスループがつながれている。
 トン、と彼の前にグラスが置かれた。
「こちらへは休暇かなにかで?」
「そんなところかな」
「日本人ってのは休暇なんか取らねえってんじゃなかったんですか? あたしら、そんなことを聞いてますけどねえ」
「日本人だってわかるかい?」
「チャイニーズには見えませんや。40フィートにオートヘルムくっつけてる中国人なんて、いやしねえ」
 なんだ、こいつ。ちゃんと見てたんじゃないか、おれがはいってくるのを。
「40じゃない。41だ」
「似たようなもんでさ」
 バーテンは女性客のほうにもどっていった。
 キューバリブレ。ラム・アンド・コーク。
 濃い褐色の液体を、彼はひと口、飲んだ。
 Tシャツの女は桟橋の付け根を通り、ハーバーのほうへとむかっている。若い。十八、九といったところか。あいつの相手には若すぎるか。
 犬はまだ砂を掘っていたが、カタマランはもう見えなくなっていた。
 彼は半ズボンの尻ポケットから、一枚のすりきれた写真を取りだした。
 カウンターの上に置き、指先で押さえてゆがみを直し、じっと見入る。
 それから、おもむろにラム・コークを飲みほした。
 グラスをトン、とカウンターに置く。バーテンは振りかえろうともしない。
 で、指先で二度、トントンとカウンターをたたいてみた。バーテンがやってきた。
「もう一杯たのむ。それから……」
 こんなことはこれまでしたことはなかったのだが……。ここのバーテンの顔を見ていたら、なぜかその気になっちまった。なにかを確認したい気分に……
「こいつを見たことがあるかい? ちょうど一年前、このあたりにも立ちよってるはずなんだが」
「ちょいと待ってくださいよ」
 バーテンはまず酒を作ってから、慎重に写真に顔を近づけた。
「いや……」
 彼はいった。
「いや、見たことないでさあ。このバーへは寄らなかったんでしょう」
「たしかかい?」
「たしかでさあ。この人をお探しで?」
「いや……」
 探しているといえば、そうもいえる。が、ふつう、もうこの世にいない人間を、探すとはいわない。あいつが一年前たどった航路を、あいつの船で、これといった理由もなく追っている。ことによると、あいつが死んだことで失ったなにかを、探しているといえるのかもしれない。
 彼は写真をポケットにもどし、ビールを飲んだ。
 ハーバーに視線を向けると、Tシャツの女が自分の船に近づいていくのが見えた。女は船の横に立ちどまると、しばらくながめていたが、やがてライフラインをまたいで船に乗りこんだ。そう、まるで自分の船に乗りこむかのように。
 バーテンがアゴの先で示した。
「行ったほうがいいですぜ」
 いわれるまでもなく、彼は立ちあがっていた。
「ちょい待ち。これを持っていくといい」
 バーテンがいい、ビールの小壜を二本、すばやく抜いて彼に渡してくれた。
「あたしからのおごりでさ」
 おせっかいめ、と彼は思いながら、こたえた。
「いや、これはツケにしといてもらおう。すぐにもどってくるさ」
 バーテンがニヤッと笑う。
「あの子と?」

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