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----- Urban Cruising #18 -----
「爪を切る」 水城雄
いつもそうなのだが、パソコンのキーをたたいていると、爪がのびていることに気づいた。
腕をまわし、こりかけた肩をほぐしてから、立ちあがった。
事務所にはぼく以外、だれもいない。
爪切りはだれが持っていたんだっけ、とぼくは考えた。
いつも、経理の女の子から借りていたのだ。
が、今日は彼女、休みらしい。朝から見かけない。
課長は出張だし、部長はもとより、めったに事務所に顔を出さない。
たいして広い事務所ではない。が、社員が少ないので、広くかんじられる。
窓からは、やわらかな太陽の光が差しこんでいる。その光の中でゆっくりと動いているほこりが見えた。
窓際に置いてある花瓶のコスモスが、やや首をうなだれている。経理の女の子が持ってきたものだろう。水をかえてやらなければならないな、とぼくはぼんやり考えた。
立ちあがり、経理の女性の机の前に立った。
すこしためらってから、引きだしをあける。なに、爪切りを借りるだけだ。かまわないだろう。爪切りを借りるためだけに、明日の朝まで待っているなんて、ばかばかしい。
右の引き出しの一番上。ペン・トレイの中。
シャープペンや消しゴム、髪どめなどにまじって、ちいさな爪切りがそこにあった。
ぼくは爪切りをつまみあげると、いそいで引きだしをしめた。
事務所の中をなぜか見まわしてしまう。
下の通りを走る車からの反射だろうか、天井が一瞬、きらりと明るくなって、影が動いた。
ギシギシ鳴る事務用の椅子に腰をかけ、机の下のゴミ箱を引きよせた。
ゴミ箱の上に左手をかざし、右手に爪切りをかまえる。
そろそろ新しい椅子を支給してもらいたいものだ、なんてことをぼんやり考えた。
爪切りを左手の親指にあてる。
爪の生えぎわが、三日月型に白っぽくなっている。昔、この部分がたくさん出ていればいるほど健康なんだ、ということを聞いたような気がするな。あれはほんとうなんだろうか。もしほんとうだとすれば、いまのぼくはきわめて健康だ、ということになる。
念のためにほかの指もあらためてみたが、左右の小指をのぞいてすべて三日月型の白い部分が見えている。その部分のことをなんていうんだろうか。
爪を切りはじめる。
パチンという小気味良い音とともに、爪がゴミ箱の中へとはじき飛ばされる。ゴミ箱は、今日まだ一度も使っていないので、からっぽだ。昨日、帰るときに経理の子がきれいにしていったのだろう。
親指を切りおえ、ひとさし指に取りかかる。
そういえば、あの経理の子も、はいってきたときにはずいぶんういういしい感じがしたものだが、最近ではすっかり、OLっぽくなってしまっている。入社して何年になるんだろう。
そもそも彼女はいま、何才なんだ?
たぶん、二十五は越えているな。
彼女もやがて結婚し、たぶん会社をやめ、子供を作り、ふつうのおばさんになってしまうんだろうな。それが人生というものだ。
中指の爪を切りながら、じゃあおれの人生とはなんなんだ、とぼくは自問した。
左手の爪をすっかり切りおえ、右手に取りかかった。
そのときふいに、ある光景が目の前に浮かんだ。
ぼくは畳に正座している。傘のついた白熱電灯の明かりが、ぼくをつつみこんでいる。ぼくの手は、だれかのあたたかい手につかまれており、ぼくはそれを見ている。
ぼくの手をつかんでいるのは、ぼくの母親だ。ぼくはおふくろに爪を切ってもらっているのだ。
たぶん、小学校にはいったばかりの記憶だろう。いや、小学校にはいる前の記憶かもしれない。埋もれていた記憶が、たったひとり、事務所で爪を切っているとき、ふいによみがえったのだ。
たったひとりで事務所に残り、爪を切ることがなければ、そのまま一生思いだすこともなかったかもしれない。母親に爪を切ってもらった暖かな思い出は、ぼくの心の奥底に埋もれたまま、ぼくとともに年老いていき、やがてはぼくとともに消えてしまうのだ。
そんな記憶って、いったいどのくらいあるのだろうか。
ぼくの中で眠っている記憶って、どのくらいあるのだろうか。
そんなことをひとり考えていると、ふいにぼくは悲しみをおぼえた。
ぼくがおぼえている光景、おぼえている人々、おぼえている物語、こういったものはいずれ、すべて消滅してしまうのだ。ぼくとともに。
ぼくが生き、そして死んでいく、ということは、どういうことなんだろう。
ぼくは爪を切るのを中断し、窓ぎわのコスモスを見つめた。
それは相変わらず、すこしばかりうなだれている。
花瓶の水をかえるために、ぼくは爪切りを置くと、椅子から立ちあがった。
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返信削除はじめまして、音声配信アプリで使用させていただきます。
返信削除はじめまして
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ありがとうございます
初めまして。ツイキャスの配信で使わせていただきます。
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返信削除配信で読ませて頂きました!
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