----- Another Side of the View #4 -----
「ぼくらは悲しみを取りかえる」 水城雄
男が妻に、すこしは歩きまわってみたらどうだい、と提案すると、彼女はこうこたえた。
「もうすこし灼きたいの。それに、どうしてこんなところに来てまでセカセカ歩きまわらなくちゃならないわけ?」
抜けるような青い空。
抜けるような青い海。
プールの水も、空がもうひとつそこにあるみたいに、青く澄んでいる。風がすこし吹いていて、水面にさざ波が立っていなければ映っている椰子の葉がそこに浮いているのかと錯覚するほどだった。
プールの向こう側には、三層になったまっ白いホテルの建物が見えた。
たしかに妻の言葉にも一理ある。が、彼はなにも、セカセカ歩きまわろうと思ってそんなことを提案したわけではないのだ。第一、これまで寄港してきた多くの街々でいそがしく歩きまわっては土産ものやブランド商品を買いあさっていたのは、彼女のほうではなかったか。
男はもう一度、妻に悲しげな視線を向けた。
デッキチェアに寝そべり、顔に帽子を乗せて日ざしを避けている。若く美しく、知的な彼の妻。
男は妻のそばを離れると、プールサイドをぐるりとまわって桟橋に向かった。今朝がたから一隻のヨットがつながれていて、何人かがデッキで作業しているのが気になっていたのだ。
いまはデッキの上には、ひとりしか見えなかった。
近づいていくと、それがかなり若い男であることがわかった。茶色の髪だが、東洋人らしい。ひょっとすると日本人なのかもしれない。船尾にはフランスの国旗がプリントされていた。
若者は船尾に近い船べりにかがみこみ、ドライバーを使ってなにかをはずそうとしている。
男が船の横に立ちどまると、ちらっと顔をあげたが、すぐに作業にもどった。
しばらくドライバーを持ってなにかの金具と格闘していたが、やがて顔をあげ、ひたいの汗をぬぐい、かたわらに置いてあった缶ビールを口に運んだ。
男のほうを見て、日本語でたずねた。
「なんか用ですか?」
「いや……」
男は言葉をさがした。べつに用はないのだ。
「どこから来たのかな、と思って」
「シドニー」
口調はぶっきらぼうだったが、悪意は感じられなかった。
「でも、フランスの国旗が貼ってあるよね」
「フランス人の船だったんですよ、シドニーに住んでる」
若者は作業にもどった。
「だった?」
「日本人が買ったんです」
「でも……」
「その日本人はホノルルに住んでるってわけ。ぼくらはシドニーからホノルルまで回航するだけ。いい金になるんですよ」
「そういうのがきみの仕事?」
「まさか。アルバイトですよ。でも、まあ、仕事といえば仕事かな。年中こんなことやってるから」
たしかに若者の身体はまっ黒に日灼けしていた。
「定職というのはないの?」
「ありませんね。気楽なのが好きなんです」
「ふうん」
自分がこの年齢のころはどうだったろう、と男はかんがえた。
こんなふうではなかったな、たしか。高校を出てすぐに就職し、しゃにむに働いて金をため、自分で商売をはじめたのがちょうどこの若者ぐらいの歳のことだった。浮き沈みがあるにはあったが、基本的に商売はうまくいき、いまでも思ってもいなかったほど成功をおさめたといえる。すくなくとも、相当な資産を持つ身分になった。
目の前の若者は、財産といってもたぶん、ラジカセがひとつとかそういう感じなんだろうな。
「あなたは観光ですか?」
若者が訊いてきた。
「そうなんだ。妻とね、客船で旅してる」
「いいですね」
ちっともよくなさそうに、若者がいった。
「いい……のかな。うん、いいんだろうな。こう見えてもぼくはけっこう大きな会社の社長でね、いままでしゃにむに働いてきたおかげで、はじめてこんな一か月もの休暇を取ることができるようになった。もっとも、悲しいかな、こんなところに来てまで会社のことが気になってね。ついセカセカしちまうんだ。いまも女房にしかられたばっかりさ」
「あそこで日光浴してる方かな」
「そう」
「きれいな方ですね。さっきチラッと見たけど」
「ぼくにはもったいないくらいなのさ。ぼくがまったくの貧乏人だったら、結婚してくれなかったかもしれないな」
「そんなことはないでしょうよ」
「なぐさめてくれなくていいさ。自分が女たちからどのように見えるのかってことは、よくわかってるつもりだ。きみ、結婚は?」
「まさか」
「彼女ぐらいいるんだろう?」
「いませんね」
「きみのお仲間はどこに行っちまったんだい?」
「買いだしですよ」
「ところで、きみはそこでなにをやってるの?」
「見たとおり。スタンションの修理です。明日には出るから」
「あまり邪魔しちゃ悪いな」
「べつに……」
男は汗で光る若者の腕を見た。力をいれてドライバーをこじるたびに、筋肉がぐりっと動く。
「よかったら、遊びにおいでよ。ビールぐらいおごるよ」
「どうも」
男は船のそばを離れた。
桟橋の根元のところで振りかえると、ちょうど若者が立ちあがったのが見えた。腰をのばし、ひたいの汗をてのひらでぬぐい、缶ビールをあおった。男はいそいで視線をそらした。
プールサイドにもどってみると、妻はさきほどとまったく同じかっこうで日光浴をしていた。
男は彼女の顔に乗っていた帽子をつまみあげた。
ほそく目をあけ、妻がいった。
「まぶしいじゃない……なにか収獲はあった?」
「収獲?」
「ビキニ姿の若い女の子とか……」
「ああ」
妻を見下ろしながら、男はゆっくりとうなずいた。
「海の景色がすばらしかったよ」
2009年10月22日木曜日
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朗読でお借りしました。ありがとうございます!
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