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----- Urban Cruising #9 -----
「猫」 水城雄
ひとけのないはずの空き家の中で、かすかに空気が動いた。
彼は部屋に足を踏みいれたところで、立ちどまった。
だれかがこの部屋にいる。
もの音は聞こえないのだが。
仕事場に、と彼がこの空き家を借りたのは、夏のはじめのことだった。
古い古い民家。いや、農家だろうか。そういう言葉が使えるとしての話だが、築後、ゆうに百年はたっているにちがいなかった。
山奥の村のはずれの、百坪ほどの敷地に建てられた、二階建ての木造建築。外壁はススでよごれ、ところどころくずれおちている。はがれた板張りの部分には、ベニヤ板を打ちつけてしのいである。庭に面した障子は、もちろん風雨にさらされてボロボロになっている。
彼がその空き家を借りたとき、家のまわりにはまだ、雪囲いがしてあった。名にしおう豪雪地帯である。
「三年前までおやじがひとりで住んでいたんですが、入院しちまいましてね」
近くでイワナの養殖をやっているという男が、案内してくれたとき、そう説明してくれた。
では、この家に年老いた男が、たったひとりで住んでいたというのか?
家の中には囲炉裏がみっつ。かつて蚕の養殖をしていたという二階は、たっぷり50畳はあろうかという広さである。
こんなに古く、こんなに広い家を借りて、仕事などできるだろうか。彼は借りると決めるまで、ずいぶんそうやって迷った。
もちろん、家の玄関には鍵などかかっていないし、もし鍵をかけたところで、その気になればどこからでもはいりこむことはできるだろう。
もの音こそしなかったが、空気がわずかに動くのを感じた。
そこにだれかがいるのは、まちがいなかった。
ひっきりなしにかかってくる電話。
増えつづける雑用。
突然たずねてくる知人。
押しかけてくる物売り。
そういったものから逃げだしたくて、彼は山奥に仕事場を借りることにしたのだった。
ボロボロの空き家を、ろくに手入れもせずに、彼は使いはじめた。やったのは、ひとつの部屋だけの床掃除。そこに、ちいさな机、仕事用のパソコン、キャンプ用品のコンロ、寝袋、その他わずかなものだけを持ちこんだ。電話を引き、限られた知人だけに番号を教えた。
朝早く、妻に用意してもらった弁当を持って、車でその家に向かう。長く差しこんでくる日差しの中で、ちいさなコンロを使ってコーヒーをわかす。谷川の上流から引いてくる村の簡易水道は、冷たく、澄んでいる。
戸を開けはなった縁側から、山と雲をながめながら、その日最初のコーヒーをゆっくりとすする。崖の下の清流からは、ゆうべの雨で増水した水の音が、立ちのぼってくる。
コーヒーを飲みおえ、ゆっくりと仕事にとりかかる。
そうやって一日、ひとりですごしていると、彼は自分が野性にもどっていくのを感じることができる。本来、そうあるべき姿に、自分が立ちもどっていく。
が、今日は最初から様子がおかしい。だれかがあきらかに部屋の中にいる。
「だれだ? だれかいるのか?」
全身を緊張させて、彼はそうたずねた。
「ミァア」
というかぼそい返事が、部屋の奥から帰ってきた。
なんだ、猫、か……
肩の力を抜き、彼は部屋の奥をのぞき見る。
そういえば、この空き家の玄関の戸には、猫が出入りできるように、ちいさく四角い穴があけられていた。三年前までここに住んでいたという老人が飼っていた猫だろうか。
暗闇から彼女がゆっくり姿をあらわした。
淡い茶色の猫だった。猫独特のしなやかな肩の動きから、まだそれほど年老いているようには見えなかった。が、ほこりだらけの空き家暮らしのせいか、身体は全体に薄汚れている。
おい、おまえ。
彼は猫にそっと語りかけた。
ずっとここにいたのか? 三年間、ずっとご主人さまを待っていたわけじゃないだろうな。
猫はそんな彼に、鋭くまっすぐな視線をむけ、しばらく立ちどまっていたが、やがて玄関のほうにゆっくりと歩いていった。
この村のだれかが、彼女に餌をあたえているに違いない。そうでなければ、こんな山中で生きのびていられるはずはない。それとも、だれにも頼らずにひとり、生きのびているのだろうか。
山に囲まれたこの静かな家の暗がりで、彼女はこの三年間、いったいなにを見つめてきたのだろうか。彼と同じように、ひたすら自分の野性と向かいあっていたのだろうか。
先住者である彼女に敬意を表して、明日はみやげに、煮干でも持ってきてやるか。そんなことでこちらの存在を認めてくれるものでもなかろうが。
猫が出ていった玄関に向かって、彼はひとり、苦笑いをかみしめた。
2009年10月15日木曜日
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