2009年10月8日木曜日

移動祝祭日

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----- Another Side of the View #8 -----

  「移動祝祭日」 水城雄


 自分の妻がふざけて高村とキスするのを見て、彼はもうひとりの青年にいった。
「竹内くん、氷を取ってくれないかな。まだ残っているんだろう?」
 自分の声が必要以上に大きくなってしまったことを意識しながら、折りたたみ式テーブルの上のハヴァナ・クラブのゴールドを取った。
 2本めのラム。
 長身の竹内は、頭をすくめるようにしてキャビンに降りていった。
「まだたくさん残ってるはずですよ、嵯峨さん」
 メアリの手を払いのけながら、高村がこちらに顔をむけて、いった。その目は、ぼくのせいじゃないんですよと訴えているみたいだった。メアリはなおも彼の首筋に手をまわそうとしている。
 高村は竹内ほどには背は高くない。しかし共に若い。ふたりともまだ学生だった。
「ようし、乾杯しよう」
 竹内から氷のはいった袋を受けとると、嵯峨はいった。彼と竹内がならんですわり、メアリと高村は向かい側だ。
 氷をわしづかみにして、それぞれのグラスに乱暴に放りこんだ。ボトルの封を切り、ラム酒をドボドボとグラスに注いだ。
「乾杯だ」
 高村と竹内がグラスを持ちあげた。メアリはグラグラする身体を高村にあずけ、愉快そうにたずねた。
「ねえ、今度はなんに乾杯なの、ダーリン?」
 結婚して6年、彼女の日本語は完ぺきといってよかった。しかし、完ぺきなのは言葉だけだ、と彼はかんがえてしまうのだ。
「そうだなあ。われらが良き航海に、かな」
「それ、さっきもいったわよ」
「じゃあ、きみがかんがえてくれ」
「そうね……」
 メアリがグラスを持ちあげた。こぼしそうになるのを、高村が横から手を差しだしかけた。こぼしはしなかった。
「男どもに乾杯しましょう。あなたと、そしてこの優秀なる若者、あたしたちのクルーに乾杯しましょう」
「ようし、わかった。それに乾杯だ」
「乾杯!」
 南海の空は、急速に暮れつつある。いま何時なんだろう。まだ星は見えない。
 しかしだ、と彼はかんがえた。時間など関係ない。昼からこの調子なのだ。この島についてからずっと祝祭日のようにわれわれはすごしている。いったいここにやってきたのが何日前なのかさえ、さだかではない。いや、日本を出たときからすでにはじまっていたのだ。
 メアリがコンパニオンウェイの横の壁にもたれかかり、ショートパンツから伸びた長く形のいい脚を、高村の膝の上に乗せた。高村もショートパンツ姿だ。いや、ここにいる4人全員が、ショーパンツ姿だった。男どもはTシャツを、そしてメアリはタンクトップを着ていた。
 嵯峨はグラスの酒をほとんどひと口で飲みほした。竹内がとがめるような視線でこちらを見ているのに気づいた。メアリと高村はこちらを見ていなかった。メアリが高村のグラスの指を突っこんでふざけている。ブラをしていない胸のふくらみが、袖口から見えた。
 竹内がいった。
「そろそろホテルにもどりません? 虫が出そうですよ」
「虫なんていないじゃない」
 メアリがこたえ、それからなにか早口の英語でいった。高村が笑い、それから竹内もこらえきれないように笑い声をあげた。嵯峨には聞きとれなかった。竹内に問いただしたい気持ちを押さえ、ボトルを取った。
 竹内がまたいった。
「腹がへりませんか。そろそろホテルにもどったほうがいいですよ」
「まだいいじゃない。こんなに気持ちいいんだもの。もうすこしいましょうよ、ここに」
 そして足の指を動かして、高村の大腿の内側をくすぐった。
 酒をそそぎ、ボトルをテーブルにもどすと、立ちあがった。全員が彼を見あげた。じっと見つめた。
 グラスをつかむと、コクピットからライフラインをまたぎ越えて、桟橋に飛びうつった。足元がふらついたが、ころびはしなかった。
「嵯峨さん」
 竹内の声が追いかけてきたが、無視して椰子の林の方角にむかった。
 夜風が島のほうから吹きはじめていた。椰子の葉をとおして、日が落ちたあとの複雑な色の空が見えた。
 椰子林の向こうに広がる砂浜には、まだ多くの観光客が海と遊んでいた。
 重ねた編み帽子を小脇にかかえた娘が、砂浜のほうからやってきた。嵯峨に近づくと、なにかいった。フランス語のように聞こえた。
「わからないんだ。大学ではドイツ語しかやらなかったんでね」
 日本語でいうと、娘はさらになにかいった。彼はかまわず、日本語でこたえつづけた。自分がかなり酔っていることを感じた。
「フランス語はわからないんだってば。英語だってろくにわからないのさ。自分の妻がアメリカ人だってのにさ。おかしな話だろう? 彼女は日本語がペラペラしゃべれのさ。しかもこちらのいうことは100パーセントわかる。100パーセントわかるんだ。でも、こちらのかんがえていることは、なにひとつわからないのさ」
 15歳ぐらいだろうか、娘はまるでこちらの話していることがわかるかのように、一心に耳をかたむけていた。そしてまたなにか、フランス語でこたえた。
「そうさ。きみはよくわかってる。そのとおりだ。おれはなにひとつ不自由なくやっているように見えるが、じつはひどく不自由な人間なのさ。よし、ごほうびに、帽子をひとつ買ってやろう。そうなんだろう? きみの望みはそういうことなんだろう?」
 彼はポケットをまさぐり、紙幣をつかみだした。それを見て、娘は首を横にふっ
た。それからあどけない笑顔を浮かべると、ホテルの方角に歩みさってしまった。
 彼は長いあいだ、そこに立っていた。
「なにをしているの、ダーリン?」
 背後にやってきたメアリが、彼の腕に自分の腕をからませて、たずねた。
「帽子を買いそこねちまった」
「え?」
「大事なことを忘れていたんだ」
「あなた、だいじょうぶ?」
 彼は妻のほうを振りむき、それから額にキスした。
「だいじょうぶだとも。さ、ホテルにもどろう。あのふたりには悪いことをした」

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