2009年10月31日土曜日

失われし街

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----- Urban Cruising #15 -----

  「失われし街」 水城雄


 栂野(つがの)の存在を示す文献は、県内にもそう多く存在しない。宝永年間に著されたとされる橘家の所有になる『栂野記』によれば、現在の河野(こうの)村浦白(うらじろ)にあったとされるが、さだかではない。
 われわれはただ、おぼろげなる伝承と文献により、その幻の地を想像するしかないのだ。

 松岡町の郷土史家杉本浩三郎氏によれば、栂野の存在は橘家所有の『栂野記』より、『越前奥越開拓史』につまびらかにされているという。
 杉本氏は、この明治23年に大日本帝国陸軍調査部島田忠次大尉によって書かれた報告書の写しを一部所有しているが、これには栂野が越前奥越地方、現在の大野郡三井原(みついがはら)に存在していたことを示す重要な証拠が記されていると主張する。実際われわれは、次のような一文を目にすることができる。

三井原発掘調査団ハ地中四尺ノ位置ヨリ栂野ニテ使用サレテイタト云ハレル
鱗粉掻キ棒ヲ掘リ出スコトニ成功セリ。

 この鱗粉掻き棒というのは、あくまで伝承によるものだが、栂野において飼育が盛んだったとされるいまでいうムラサキコトブキチョウの鱗粉を加工するためのものである。
 しかし、この掻き棒が発掘されたことは、すなわち栂野がこの地にあったことの直接的な証拠とはならないし、また掻き棒の存在も今日ではさだかではないのである。
 これほどまでに名の通った村が、その存在した位置すらもわからずに今日まで語りつがれているという例を、われわれは他に知ることができない。
 あるいは栂野は、中世の人々の純粋な想像の産物だったとでもいうのだろうか。

『栂野記』では海辺の町であったといい、『越前奥越開拓史』では山村であったという。が、文献に頼らないとすれば、じつに多彩な栂野に関する伝説が、民間で伝承されていることは、周知である。
 栂野が長く人に語りつがれ、記憶の奥底で愛しつづけられていたことは、次のわらべ歌にひそむ言葉によっても明かである。

ちょうちょ たべては ひゃくひとつ
かわず ねぶては ひゃくふたつ
 つがの いきたや てきねえと

 杉本氏とは対象的に地方マスコミには決してあらわれない、知られざる民間伝承の研究家竹内洋三氏によると、栂野の立地はさだかではないが、語りつがれている栂野伝説はあながち虚構ばかりではないと信じるという。いわく、老人はムラサキコトブキチョウの変種から取った鱗粉を食べることによって200 歳近くまで生きていた。いわく、ヒキガエル、アオダイショウをはじめとする主にハ虫類より抽出した特殊な薬物によって疫病の治癒をおこない、近隣地域に絶大なる益をもたらしていた。いわく、決して村人以外は村にいれず、また村から出るものもいなかった。
 竹内洋三氏によれば、栂野の末えいがおそらく、この北陸にもまだ多く生きているはずだということだが、その証拠を得ることはおそらくできないだろう。われわれはただ、わずかに残るわらべ歌や民話から伝説の地栂野の姿を想像するしかないのである。

 栂野の存在を、物的証拠から証明しようと試みる者もいる。
 元京都大学文学部教授、現在は福井市内で93歳の老骨に鞭打って『栂野民話考』の執筆を精力的につづけている徳永栄一郎先生である。先生は、各地に残されている民話やわらべ歌から推理して、微細な証拠を次々と数えあげるというすばらしい仕事をつづけている。
 われわれはまれに、足羽山のふもとあたりを杖にすがってゆっくりと歩いているひとりの老人の姿を見ることができる。そのとき、老人の視線が、道路わきの石垣のあたりを飢えた野犬が野ネズミを追うように鋭く探索しているのに気づくかもしれない。
 わたしは何度か徳永先生の探索行に同行する好運を許された、数少ない人間のひとりである。ゆっくりと歩く先生が、杖の先である場所を指ししめすたびに、わたしは驚愕し、わが身の不明を恥じたものである。それほど、栂野の存在を示す物的証拠は、われわれの身のまわりに豊富にあるということである。
 わたしは、花堂(はなんどう)駅前の敷石にきざまれた栂野特有の方位記号を見た。清水町の古い民家の玄関に、栂野彫りの置物を見た。幾久公園の雪囲いに、栂野でしか育たなかったと伝えられる春ツゲの枝が使われているのを見た。そして、鯖江の織物工場の倉庫に打ちすてられた手織機の下から、ムラサキコトブキチョウの羽の一枚が、ほぼ完全な形で出てくるのを見た。
 先生に勇気づけられ、われわれもまた微細な観察者となって街を歩きつづけなければならないのではないだろうか。

2009年10月30日金曜日

農夫

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #33 -----

  「農夫」 水城雄


 まだ日も出ない早朝、荷車いっぱいのネギと白菜をロバに引かせて、街まで15キロの道のりをゆく。
 ロバはうんと年寄りだ。道中何度も苦しそうに立ち止まって、鞭を入れるのもかわいそうなほどだ。今年いっぱい……いや、この夏ごろにはもう使い物に
ならないかもしれない。といって、若いロバを買うほどの金は、偉(ウェイ)にはない。
 年々、街には高層ビルが建築され、ピカピカのアパートが立ちならんでいくというのに、偉一家の生活はますます苦しくなるばかりだ。経済は驚異的な発展を遂げているといっているが、その金は偉のところにはいっこうに回ってこない。
 かといって、偉のまわりにないわけではない。その証拠に、向かいの王(ワン)の息子は、まだ二25だというのに、BMWだかいう車を乗り回している。親にもヤンマーのトラクターを買ってやった。なんでも、つてを頼って日本から古新聞を買付いつける仕事を始めたらしい。日本人はたくさんの古新聞を出し、中国人はたくさんのトイレットペーパーを使う。昔はケツなんて汲み置きの水で洗ってたもんだが。
 ほかにも村には何人か、車やトラックを買ったものがいる。皆、なにかの商売を始めた連中だ。偉のところのように畑仕事だけでやっている者は、生活が苦しくなるばかりなのだ。ものの値段はあがるばかりなのに、作物の値段はいっこうにあがらない。
 ――これじゃわしら百姓に飢え死にしろといってるようなもんじゃないか。
 偉の声はだれに向けられたものか。彼自身にもわかりはしない。
 ――この先、わしらはどうすればいいのか。
 ひとり息子は今年、大連の大学に入った。賢くて勤勉な息子だ。ひとりっ子政策で、子どもは息子がひとりきりだ。一家の自慢の息子だ。学費は安いが、それでもいくらか仕送りをしなければならない。息子への仕送りをすると、偉の手元にはいくらも残らない。あたらしい服も買えなければ、ストーブの石炭すら事欠くこともある。むろん、若いロバなど望むべくもない。
 年老いたロバが、懸命に荷車を引いている。吐く息が白い。偉の息も真っ白だ。
 ネギは売れるだろうか。白菜は売れるだろうか。
 偉の作る野菜は、形は悪いけれど、泥だらけだけれど、味はとびきりだ。しかし、町の道端で店を広げても、最近は思うようには売れなくなった。大型のショッピングセンターや、コンビニとかいう店が街にたくさんできて、みんなそこで、きれいに泥を洗い落とされ形のととのった野菜を買うようになった。だから、道端で売っている泥だらけで形の悪い偉の野菜は、このところ売れ残るばかりだ。
 ――いっそ飢え死にするか。
 偉は大きくため息をつく。四十七にもなって、自分の生きていく道が見えなくなった。これまで迷いもなく生きてきたのに。懸命に生きてきたのに。安らかな老いの時間が待っていると信じてやってきたのに。
 明日の糧すら手のなかにない。
 ――わしらのせいか? わしらが悪いのか? わしらがまちがっていたのか?
 たぶんそうなんだろう。
 ロバが立ちどまった。
「えいや、歩けよ、ほい!」
 鞭をかまえて、偉は思いとどまった。この年老いたロバもまた、自分の歩く道が見えなくなってしまったのかもしれない。
 見上げると、えもいえぬ色合いに染めあがった暁の空が見えた。
 この宇宙のなかで、自分のようなものがひとり、人知れず消えていってしまうのはさほど意味ないことだろう。王がBMWを乗りまわしていることも、さほど意味ないことだろう。
 身が軽くなった。
「えいや、歩けよ、ほい!」
 偉は渾身の力を振りしぼって、ロバの尻に鞭を振るった。
 ロバが歩きだした。

2009年10月29日木曜日

Solar

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----- Jazz Story #26 -----

  「Solar」 水城雄


 きんぴらごぼうを作ろう。
 すかっと晴れわたった秋晴れの日。窓をあけたら、金木犀の香りが流れこんできた。
 今日は休み。出かける用事もない。
 ゴボウは買ってある。人参もある。
 コンポにCDをセットする。かけるのは、最近気にいっているケニー・バロンのピアノトリオ。ライブの演奏だ。
 誕生日に彼からもらった。
 私はジャズはよくわからないけれど、彼の影響で時々聞くようになった。
 ケニー・バロンは秋によく似合う。
 なぜだろう。そんなことはわからないけれど、そう思う。春に聴いてもいいかもしれないけれど。
 ゴボウを洗う。水を流して、たわしでごしごしと土を落とす。たわしといっても、シュロの毛でできたものではない。ビニール製のたわしだ。
 きれいに洗いあがったら、今度は包丁の先でシュッシュッシュッ。笹がきにしていく。細長くこそげ切られたゴボウが、ボウルに張った水のなかに飛んでいく。
 なんだかケニー・バロンと共演しているみたいな気分になってきた。
 そういえば、彼は今日は出張だとかいっていたっけ。どこだっけ?
 とにかく、今日は全国、北海道から沖縄まで晴れわたっている。きんぴらごぼうとケニー・バロンの似合う日だ。

 ゴボウと人参を炒める。
 ゴマ油のいいにおい。金木犀のにおいはもうしない。
 初恋のにおいがするんだ、と彼がいっていた。そんなこと、わたしの知ったことではない。彼の初恋なんて、わたしは知らない。
 お醤油のいいにおい。お砂糖も少し。甘いかおり。
 いい感じ。
 ケニー・バロンが軽くつま先立ちで歩いているみたいにピアノを弾いている。
 昔、初めて入ったジャズ喫茶を思いだすんだよな、と彼はいう。いっしょに行った相手は、初恋の人とは別の人だったという。そのときかかっていたのが、こんなピアノトリオだったらしい。
 わたしはそもそも、ジャズ喫茶なんて知らない。行ったこともない。そんな歳じゃない。
 でも、ちょっと行ってみたいかも。
 きんぴらごぼうが完成した。
 ちょっとつまんで、味見してみる。
 おいしい。
 彼はわたしの料理をいつも喜んでくれる。今日はいないのが残念だ。
 そうだ、彼の携帯に電話してみよう。いまごろなにをしているのか。
 おいしいきんぴらができたといったら、きっとくやしがるに違いない。彼をくやしがらせるのが、わたしには楽しい。
 ついでに、スピーカーに近づいて、ケニー・バロンも聴かせてみよう。

2009年10月28日水曜日

眠らない男(ひと)

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----- Urban Cruising #14 -----

  「眠らない男(ひと)」 水城雄


 わたしが眠りにつくとき、彼は目をさましている。
 わたしが目をさましたときも、彼は目をさましている。
 彼はけっして眠らない人なのだ。

 どうして彼はわたしを選んだのだろう、とよく考える。
 あるいは、どうしてわたしは彼に選ばれたのだろう、と。
 わたしは、ドジでわがままな女だ。とりたてて美人でもなければ、スタイルもよくない。背も高くないし、顔はソバカスだらけだ。
 わたしの毎日は、失敗の連続だ。
 ヤカンを火にかけていたことを忘れて、黒コゲにしてしまう。
 ホットケーキを引っくりかえそうとして、床に落としてしまう。
 トーストはかならず、バターのついたほうを下にして落としてしまう。
 洗い物ではかならず、コップを割ってしまう。
 ご飯は、硬すぎるか、柔らかすぎるようにしか炊けない。
 掃除機を振りまわしては、花瓶を割ってしまう。
 読んでいる本にはソースをこぼし、新聞にはコーヒーをぶちまけてしまう。
 買ってきた卵はかならず割ってしまうし、豆腐はきっとくずしてしまう。
 階段ではつまずく。
 キーをつけたまま、車のドアをロックしてしまう。
 キャッシュカードはどこかに置き忘れる。
 財布は電話ボックスに忘れてきてしまう。
 セーターを洗えば、ツーサイズも縮めてしまう。
 こんなわたしを、どうして彼は選んでくれたのだろう。
 彼はいう。そんなことを気にすることはないよ。そんなつまらないことを。きみにはもっと大切な、すばらしいことがあるんだから、と。
 そんなことって本当だろうか。
 うたがうわたしの顔を、彼はじっと見つめているばかりだ。

 彼に会っていなかったら、わたしはどうなっていただろうか、とよく考える。
 わたしのような女をつかまえていてくれる人は、彼のほかにいただろうか。
 幼いころからわたしは、まぬけな女だった。おまけに神経質で、すぐに興奮する。
 せっかく旅行に連れていってもらっても、つまらなそうにだまりこくっているかと思えば、急におうちに帰りたいとぐずりだす。
 話しかけられても返事はしないし、近所の人にも挨拶はできない。
 毎日のようにいじめられて帰ってくるし、そのくせ熱があってもかくして学校に行こうとする。
 好き嫌いははげしいし、気にいらない服は絶対に着ようとしない。
 宿題は忘れる。
 せっかくおみやげに人形をもらっても、気にいらなければ押入の奥に隠してしまう。
 彼に会っていなかったら、わたしはどうなっていたのだろう。わたしが日々しでかすことの後始末を、彼はきちんとやっていってくれる。彼がいなければ、わたしはいったいどうしていいのかわからない。
 わたしが眠りにつくとき、彼はいつも起きている。起きてわたしの顔を見つめている。
 そして彼はいうのだ。
 なにも心配することはない。なにも気にしなくてもいいんだ。
 と。

 わたしが眠りにつくとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない。
 わたしが眠りにつくとき、彼はいつも目をさましている。
 わたしが目をさますとき、彼はもう目をさましている。わたしが目をさましたとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない。
 わたしがふと夜中に目をさましたとき、彼はきっと起きている。わたしが夜中に目をさましたとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない。
 そんなとき、わたしは彼にたずねる。
 あなたは眠らないの? と。
 彼はこたえる。ああ、ぼくは眠らないのだ、と。
 わたしは彼にたずねる。
 あなたはどうして眠らないの? と。
 すると彼はこたえる。きみを見ているのだ、と。きみを見ていなければならないから、ぼくは眠らないのだ。ぼくはきみを見ていなければならないから、けっして眠らないのだ。
 きみはなにも心配することはない。なにも気にしなくてもいいんだ。
 ぼくはけっして眠らずに、ここにこうやっているから。
 わたしは彼のその言葉を信じることができる。
 彼はけっして眠らない。
 彼はけっして眠らない。

2009年10月27日火曜日

Nearness of You

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #5 -----

  「Nearness of You」 水城雄


 朝方、バイト先からもどってくると、女は床の上で眠っていた。
 服を着たまま。ゲーム機のコントローラーを握りしめたまま。
 汚れたスニーカーを脱ぎすて、ドアロックをガチャンとかけても、彼女は目をさまさなかった。ゲームの画面がつきっぱなしになっている。
 おい、風邪ひくぞ、と声をかけて、手からコントローラーを取りあげた。わずかに身じろぎしたが、まだ起きない。何時まで起きて待っていたのか。先に寝ていろといつもいっているのに。
 疲れているはずなのに無理をする。夢を追いかけて全力疾走する。それなのに、ひとりで突っ走ればいいのに、こちらを振り返ったりする。気を使うなっての。おれにかまうな。ガンガンやってくれ。
 彼はいま、立ちどまっていた。それはわかっている。あせっちゃいない。いや、嘘だ。ひとり走っている彼女を見ていると、あせりを感じる。彼女の背中がどんどん遠くなるような気がして、あせりが深まる。だからといって、なにをどうすればいいのか、彼にはわからなかった。むやみに過激なヘアスタイルにしてみたりするばかりだ。
 バイトして、日々の生活費を稼いで、たまの記念日に安物のプレゼントをして、それでかつかつせいいっぱい。仕事も、夢も、ふたりの将来のことも、なにもわからない。なにもできない。
 どうにかなるわよ。彼女がいう。そのあとにつづけて、あたしがどうにかするという言葉をのみこんでいる。彼の顔を見て、それから視線をそらす。
 しかし、これだけは確かだ。おれはおまえといっしょにいたい。不幸のどん底に落ちようが、しびれるような栄光をつかもうが、おまえといっしょに味わいたい。おれの勝手な希望だけど。
 彼はゲームをリロードすると、コントローラーを握りなおした。
 かたわらの女は肩をむきだしにして寒そうだが、布団なんかかけてやらない。そのうち起きてきて、彼にうしろから抱きつく。抱きついて甘える。いつもそうだ。それがおれたちだ。

2009年10月26日月曜日

彼女の仕事

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----- Another Side of the View #1 -----

  「彼女の仕事」 水城雄


 フェンダーの位置が悪いらしく、右舷のハルが突堤にぶつかりそうだった。彼女は軽く舌打ちしてから、身体をかがめ、ライフライン越しにフェンダーの位置を調節した。
 ラグーンの中はまったくといっていいほど波がなかった。フェンダーを調節してから、身体を起こすと、ペリエのはいったグラスの口に耳をつけたときのような音がもどってきた。
 外海のほうを振りかえってみる。
 その動作で、腰から足へと続くきれいな腰のラインが、とりわけ引きたって見えた。いま彼女は、白いシンプルなビキニの水着を着ている。
 外海をはるばるやってきた波が、環礁にぶつかって白く泡だっていた。彼女は目を細め、しばらくその様子をながめた。
 やがて視線をはずし、ミズンのブームの先にぶらさげられた青いバナナの房を見ながら、昼食のしたくをしなくちゃ、とかんがえた。まさか、このバナナを昼食にはできない。ここに着けたとたんやってきた子供のバナナ売りから、とてもまだ食べられやしないバナナを夫が買ったことについて、ついいましがたふたりはやりあったばかりだ。もっとも喧嘩なら、この島に着く前から続けていたけれど。
 気をきかしたのか、安倍さんはどこかに姿を消してしまった。彼に昼食の準備を手伝ってもらおうと思っていたのに。
 と突然、桟橋のほうから夫のさけび声が聞こえた。「わぁお」というような声。
 むこう側の木の桟橋には、へっぴり腰になって両手で釣竿を支えている夫の姿があった。竿の先端は、ぐにゃりと曲がり、ほとんど海に引きこまれそうになっている。
「逃がさないで!」
 彼女は夫にむかってさけんだ。
「それ、お昼ごはんよ」
「釣りあげられたらな!」
 夫がさけびかえす。
「大物だぞ、これ」
「待ってて。いま行く!」
 裸足のまま自分のケッチから突堤に飛びおりると、桟橋にむかって駆けた。安倍さんはどこに行っちゃったんだろう。彼なら釣りの名人なのに。
 獲物は本当に大物のようだった。竿を支える夫の腕に、力コブが盛りあがっている。夫は竿の端を、すこし突きだしはじめたおなかに押しあて、両足をふんばってリールを巻きこもうとしている。
「だめ! 無理に巻いちゃ!」
「もう先がないんだよ! ほとんど出ちゃってんだ」
「走らせて、疲れさせるのよ。安倍さんがそういってた」
「やってるさ!」
 獲物がいきなり、横に走った。桟橋の先端をぐるっと回って、反対側に走る。糸が海面を切る音が聞こえた。
「手を出すなよ」
「わかってます」
「そこのボート、じゃまだ!」
 桟橋の反対側には、住民のものだろう、木製の手こぎボートが二艘、つながれていた。彼女は勝手にそのもやいを解くと、桟橋のつけ根のところまで引っぱっていった。
 夫のところにもどろうとしたとき、やじ馬がやってきた。男たちがなにごとかを口ぐちにわめきながら、桟橋に集まってくる。みんなまっ黒の顔をして、派手な柄のシャツを着ている。まるで制服みたいに、そろって白いショートパンツをはいている。
 彼らがなにをしゃべっているのか、さっぱりわからなかった。何語なの、これ? で、彼女も日本語でいった。
「手を出さないで! 彼にやらせるのよ」
 男たちのうしろから、子どもがワラワラとやってくるのも見えた。
 だめ、だめよ、うちのおかずなんだから、これは。
 彼女は両手を広げ、やじ馬を桟橋の中ほどで阻止した。どうやら男たちは、竿の動かし方やリールの巻き方について、文句をいっているらしい。
「手がしびれてきた」
 と夫がいう。
「がんばって」
「リールが巻けない」
「手伝いましょうか?」
「ばかいえ」
 竿がわずかに立ちあがった。
「ほら、いまよ! 巻くのよ!」
「やってる」
 もうやじ馬のことなんか気にしていられなかった。それに男たちも、耳がつぶれるほどの大声で、てんでにわめきちらしてはいるが、手を出そうとはしない。
 夫はここぞとリールを巻きこんでいる。獲物が疲れたのか。
 そのとき「おうッ」とうなり、竿を抱えこんだ。
 糸がピーンと張り、すごいいきおいでリールがもどされた。
「だめだ!」
 夫がずるずると桟橋のヘリまで引きずられた。彼女はとっさに、夫の腰にしがみついた。
 そのとき、夫の身体がガクンとのけぞり、その勢いでふたりはもつれあったまま、桟橋の反対側に転落していた。
 ふたり同時に、水面に顔を出す。
「切れたんだ」
「なにが?」
「糸がだよ。切れちゃったんだ、プッツンとね」
 桟橋を見上げると、やじ馬たちがふたりを指さし、ゲラゲラと笑いころげているではないか。
「やだー」
 それから夫と顔を見合わせ、同時にプッと吹きだした。
 それから首っ玉にしがみついて、キスした。ブクブクと身体が沈む。
 浮かびあがると、桟橋から日本語が聞こえた。
「なにしてんだ、そんなとこで?」
 住民にまじって、安倍が桟橋に立っていた。夫の友人、ハンサムな釣りの名人の安倍さん。
「それ、どうしたの?」
 彼女はたずねた。
「市場で買ってきたんだ。昼食にちょうどいいと思ってね」
 そういって安倍は、手にぶらさげた魚を持ちあげて見せた。
 ふたりは抱きあったまま、もう一度笑いはじめる。

2009年10月25日日曜日

ある夏の日のレポーター

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----- Jazz Story #18 -----

  「ある夏の日のレポーター」 水城雄


 いやだ、日焼け止めを塗るのを忘れたわ。
 加奈子は空を見上げ、顔をしかめた。
 ぎらつく太陽が照りつけている。
 もう何日雨が降っていないんだっけ。首都圏の水がめのダムは、ほとんど干上がりかけているという。
 そんななか、殺人事件現場のレポートだなんて、最悪だ。
 でも、文句はいえない。いわない。だって、やっとありついたレポーターの仕事なんだから。
 スタジオではキャスターと局アナが番組を進行している。もうすぐこちらに中継がまわされるはずだった。
 初めての生中継だ。口のなかが緊張でからからだ。日焼け止めどころじゃない。
 汗でべとつく手に、マイクを握りなおす。クリップボードをもう一度チェックする。口のなかで小さくつぶやいてみる。
「現場からお送りします。昨夜発生した一家惨殺事件は、警察の懸命の捜査にも関わらず、いまだに手がかりをつかめておりません。犯人が残したとされるTシャツには……」
「おねえちゃん、なにしてんの?」
 見ると、かたわらに五歳くらいの男の子が立っている。
「ちょっと、ボク、どうやってここに……だめよ、ここに来ちゃ。いま、おねえちゃん、仕事してるんだから、あっち行っててね」
 見回したが、ついいましがたまでそこにいたスタッフが、だれもいない。カメラマンまでカメラをその場に残したまま、いなくなっているのだった。
 子どもがまたいった。
「ねえ、おねえちゃん。これ、テレビ?」
 子どもは無邪気な顔で加奈子を見上げていた。
 さらさらした髪が、風に揺れている。髪が風にふわりと舞って、ひたいに傷跡が見えた。転んだかなにかしたのだろう、そう古い傷ではないそうだ。
 それにしても、暑さにうだっているこちらとは違って、別世界の住人のように涼しげな顔をしている。汗ひとつかいていないのだ。こちらはベタつく汗に化粧が落ちないか気になってしかたがないというのに。
「ぼくもテレビに映る?」
「だめよ、ボク。ボクがここにいたら、おねえちゃん、仕事できないの。わかる? お願いだから、向こうに行っててくれないかなあ」
 加奈子は子どもが苦手だった。好きとか嫌いということではなく、どう扱っていいのかわからないのだ。身近に子どもがいないせいもあるだろう。もちろん彼女自身、結婚もしておらず、子どももいない。
「ボクがここにいると、おねえちゃん、困る?」
「そうなの。ごめんね。お仕事だから。ちょっとだけあっちに行っててくれない? ママはいないの?」
「ママ、いない」
 ぽつんという。
「パパもいない。みんないなくなったんだ」
 そういい残すと、くるりと背を向けて、行ってしまった。
 カメラマンが戻ってきた。
「だれと話してたんだい?」
「子ども。知らない子。五歳くらいの小さな子。そういえば、ここで殺された一家の子どもも、五歳だったわね」
「そうなんだ。かわいそうに、なんの罪もないのにな。ひたいを割られてね」