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----- Another Side of the View #10 -----
「夜の音」 水城雄
スタート直後から雨が降りだした。
いつもそうなのだが、雨が降りはじめると、すべての音が消えてしまったように感じる。船首が水を切る音、ハルに打ちあたる波の音、セールを流れる風の音、ステイが空気を切る音。人の声までがラジオのボリュームをしぼるようにスウッと遠くなり、消えてしまうように思える。クルーも雨とともに、口数が少なくなってしまう。
闇もまた、雨とともに深まったように思えた。
岸辺の明かりは、かすんでボウッとしか見えない。ひしめきあうようにして進んでいるレース参加艇のマスト灯も、薄暗くなり、しかしひとまわり大きく見えはじめる。
やがて、ゆっくりと音がもどってきた。
隣の艇のコクピットから、ひそひそという人の声が聞こえてくる。どうやら、スピネーカーをあげるかどうかの相談をしているらしい。
風はきわめて弱い。スタート時、クローズホールドだった風向が、クローズ・リーチぐらいに落ちている。
「スピン、あげるか」
スキッパーの木野はボソリとつぶやいた。
「いや……」
森山がためらいがちにいった。
「この風ですからね。それに雨もある」
若いクルーふたり――星と小木曽――はなにもいわない。いつも作戦は、木野と森山が決める。
「ジブ、もうすこし、出せ」
木野はジブシートを握っている小木曽に、短く命じた。小木曽がすぐにシートを繰りだす。
「出しすぎ。引いて」
小木曽があわててウインチを巻く。今度は巻きすぎだ。しかし、まあ、いいだろう。なにもかも自分の思いどおりにはいかない。小木曽もそのうち、おぼえてくれるだろう。
星のほうは自分でかんがえて、ヒールを作るためにポートサイドのデッキ上にしゃがんでいる。
「隣、あげてますね」
星にいわれ、首をねじって隣の艇を見た。なるほど、スピンをあげはじめている。ポールをあげるウインチの音が、水面を伝わってきた。さらに向こうの艇も、あげているようだ。こちら側にブローでもあるのだろうか。反対側の船団は、まだ一艇もあげていない。
午後10時スタート、翌朝午前8時前後のゴール予定というナイトレースだった。参加艇はさすがに少なく、艇長会議では31杯と発表された。
この風だと、しかし、午前8時にゴールすることなど不可能だ。
できれば、午前10時には後片づけを終え、家にもどりたかったのだが。種子島宇宙センターの単身赴任から、ひさしぶりに帰宅したのだ。昨夜、出てくる前、小学校2年になる息子に、ラジコンのヘリコプターの組立てを手伝ってやる約束をしてきた。
隣艇のスピンが、闇の中に白く浮かびあがった。デッキからの懐中電燈の光に照らされて、なまめかしく揺れている。風が弱く、不安定だ。ともすれば、タック側に裏風がはいりこみ、つぶれそうになっている。
あげるか……その言葉を口の中にため、木野は森山のほうを見た。森山も隣艇の動きを注視している。
並走していた隣艇が、スウッと前に出た。
風が出てきたか?
「あげるぞ!」
木野が全員に命令した。
森山と星がフォアデッキに走った。小木曽がハッチをあけ、キャビンにもぐりこんだ。
いうべき言葉を、いまは胸にためこみ、木野はフォアデッキのふたりの動きを注視した。
森山がスピンポールをセットしている。
小木曽がスピネーカーのセールバッグを持って、キャビンから出てきた。フォアデッキに走る。
小木曽の動きはよかったが、ハッチを閉め忘れている。この雨なのだ。閉めなければキャビンがびしょ濡れになるのだ。
わかってるってば……不意に声が聞こえ、木野はあたりを見まわした。いや、もちろん、頭の中から聞こえてきた声だ。小木曽の声であるはずがなかった。
わかってるってば、あとでやろうと思ってたんだよ……息子の声だった。
うるさいなあ、おとうさん。
ティラー・エクステンションを持つ手のこぶしが、力をいれすぎて白くなっている。これでなぐられたとき、幼ない息子はどんな気分だったのか。
「ぐずぐずするな!」
スピンがなかなかあがらない。
「なにをやってる?」
「アフター・ガイが……」
星が言葉を途中でとめた。
「オーケイ! いいです!」
「あげるぞ!」
「はい!」
「よし、あげろ!」
森山がスピン・ハリヤードを力まかせに引いた。
スピネーカーがまっすぐにあがり、それからたよりなげに風をはらみはじめた。
「ガイ、引け! シート、引け!」
つぶれる。
ぐずぐずするな。レースなんだぞ。なんのためにやってんだ。
木野は言葉を腹の中に押えこんだ。
艇速が増した手応えがあった。やはりあげるべきだったのだ。できれば、他の艇の様子などうかがう前に、決断したかった。
おれという男は……
木野は奥歯をかみしめた。
フォアデッキでは、小木曽がジブシートの取りこみを終えたところだった。
コクピットにもどってきた小木曽に、いった。
「ハッチをあけっぱなしにするな。雨が降ってるのがわからんのか。中がびしょ濡れになっちまうだろう。雨のときは、出入りするたびにハッチを閉めるんだ。わかったか」
「はい、すんません」
小木曽がこたえ、身体をちぢめるようにしてコクピットにしゃがみこんだ。ちゃんとしたオイルスキンを持っていない彼は、ぐしょ濡れになっている。
この調子で風が強まってくれれば、明朝は早めにゴールできるかもしれない。
木野はさらに、なにかいおうと口を開きかけた。が、結局は口をむすんでしまった。
この気持ちを伝えられる言葉など、彼には持ちあわせがなかったのだ。
2009年11月23日月曜日
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