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2012年8月22日水曜日

ギターを弾く少年

(C)2012 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

  「ギターを弾く少年」
                            作・水城ゆう



  ギター演奏から。
  ゆったりと静かだが、メジャーキーの曲想で。
  しばらくギター演奏。のあと、朗読が演奏にかぶさってはいる。

 風が吹いていました。
 もう夕方に近くなっていましたが、まだ日がさしていました。
 まだ春は来ていなかったけれど、今日は暖かい一日だったのです。
 やわらかな風が木々を歌わせていました。おだやかなリズムと暖かなハーモニーをかなでていました。森が音楽をかなでていたのです。
 その森のなかから、男の子はやってきました。

  ギター演奏がゆっくりと終わる。
  演奏が終わるのを待ってから。

 男の子はストラップを肩から斜めにかけて、ギターを背負っていました。身体の割にいかにもギターは大きく見えましたが、よく見るとギターは普通の大人用のものよりひとまわり小さいのです。それでも男の子には大きすぎるほどでした。
 ほかには男の子はつばのある帽子を目深にかぶっていて、そのせいでどんな表情なのかよく見えませんでした。そして大きな革靴を履いていました。革靴は靴ひもが締まっていましたが、長すぎるせいで蝶結びの部分は大きくなって地面に少しこすれていました。
 着ているものは質素なズボンとセーターだけ。セーターは首と肘のところにほころびがありました。
 森のなかから出てきた男の子は、森のはずれに切り株を見つけると、そちらに近づいていきました。その様子をさっきからずっと、ひとりのおじいさんが見ていました。おじいさんは天気がいいと、毎日この森のはずれの広っぱにやってきて、小川のへりにある古い柳の切り株に腰をおろしてひなたぼっこをするのが習慣なのです。
 少年が切り株を吟味し、身体をかがめてフッとほこりを吹きはらってから、そこに座るようすを、おじいさんは全部見ていました。少年はおじいさんに気がついているのかいないのか、こちらには目を向けません。でも、そう遠くはないのです。小川のへりに何本かはえているクルミの木を二本ばかり渡せば届きそうな距離なのです。
 少年は切り株に座ると、背負っていたギターをぐるっと身体の前に回し、抱えました。そしてしずかにギターを弾きはじめました。

  静かなアルペジオだけの演奏、しばらく。
  その演奏にかぶせて。

 少年の指には大きすぎるように見えるギターから、静かな音が聴こえてきました。その音は風が歌わせている森のざわめきに溶けこみ、ひとつの曲をかなでているみたいでした。
 森のなかからは鳥のさえずりも聴こえてきました。鳥はまるで森と少年のギターの伴奏にあわせてメロディを歌っているみたいでした。
 別の種類の鳥もさえずりはじめました。メロディが重なり、ハーモニーのように聴こえます。おじいさんは思わず耳をそばだたせました。
 そういえば、しばらく音楽を聴いていなかったことを思い出しました。しばらくどころか、この以前にいつ音楽を聴いたのか、思い出せないほどです。若いころはあんなに夢中になっていろいろな音楽を聴いていたというのに。しかしこのごろは森の音や鳥のさえずり、小川のせせらぎがあるので、音楽を聴く必要がなくなっていたのです。

  アルペジオの演奏、続く。
  コードとアルペジオパターンはゆっくりと変化していく。
  しばらくの間を置いて。
  朗読が始まったら徐々にギターは抜けていく。

 いつのまにか、ひろっぱに女の子の手を引いたお母さんらしき人と、おばあちゃんらしき人がやってきていました。街のほうから来たようです。おじいさんも見覚えのある人たちでした。時々おかあさんと女の子、あるいはおばあちゃんと女の子、そしてたいていは三人でこの広っぱに来て、しばらく遊んで帰るのです。
 三人はすぐに男の子に気づき、しばらく見ていましたが、女の子がお母さんの手を振りほどいて男の子のほうに駆けていきました。お母さんは「待って」と口を開きかけましたが、間に合いませんでした。そこでお母さんも女の子を追って少年に近づいていきました。
 女の子が男の子の前に立つと、男の子は演奏をやめました。そして女の子を見ました。ふたりは同じくらいの年に見えました。女の子のほうが少し小さいかもしれません。
 追いついてきたお母さんが少年を見下ろすと、いいました。
「こんにちは。ギター、上手なのね」
 少年はお母さんのほうを見上げましたが、なにもいいません。挨拶もしません。
 お母さんはちょっと困った顔になりましたが、またいいました。
「どこから来たの? あなた、ひとり? お母さんかお父さんはいないの?」
 男の子はなにも答えません。
 おばあちゃんが横からいいました。
「ぼく、お話はできる?」
 なにもいいません。お母さんがいいました。
「どこか悪いのかしら。見たところ病気でもなさそうだし。迷子かしら」
「警察に届けたほうがいいかねえ」

  ギター、コードストロークでリズミカルに入る。
  マイナーキーのコード進行。
  徐々に激しく。
  ギターにかぶせて。

 急に風が強まってきました。
 冷たい風が森をざわつかせながらやってきて、広っぱのみんなに吹きつけてきました。鳥のさえずりはいつのまにか聴こえなくなっていきました。
 みんなは思わず首をすくめて、襟をかきあわせました。
 そのとき、女の子が男の子にいいました。
「寒くない?」

  ギターのコードストロークが、にわかに静かになり、コード進行も変化する。

「あたしの上着、貸したげようか」
 男の子は首を横に振りました。それを見て、みんなは初めて、男の子が話を聞いて理解していたことがわかりました。
 それまでこちらでだまって見ていたおじいさんがゆっくりと立ちあがると、みんなのところへ歩いていきました。

  ギター演奏、とまる。

 おじいさんに気づいた三人が振り返りました。おじいさんは三人に黙ってうなずくと、少年の前に立ち、いいました。
「この風は天気が変わる前兆だ。日が暮れるし、これから急に冷えてくるよ。もうお家にお帰り」
 それを聞いたお母さんがいいました。
「この子のこと、知っておられるんですか?」
「いや、知らない子だ」
「どこに住んでるのかしら」
「わからない。しかし、帰るところはあるんだろう。私たちが詮索する必要はないだろうさ」

  ギター演奏。今度は曲。できればメロディをともなった曲。
  すぐに朗読はいる。

「お腹、すいてない?」
 女の子がききました。男の子が答える前に、女の子は背中にせおっていた小さな鞄をおろすと、中からリンゴをひとつ取りました。
「これ、あげる」
 リンゴが少年に手渡されました。
「ありがとう」
 少年がそういうのを聞いて、みんなちょっとびっくりしました。
 少年は立ちあがり、リンゴをズポンのポケットに入れると、ギターをぐるっと背中のほうに回しました。
 少年はやってきたときとおなじように、また森のなかへと帰っていきました。ズボンのポケットが大きくふくらんでいるのが、みんなにも見えました。
 風がすこしおさまり、森のざわめきのなかにまた鳥の声がもどってきていました。
「また会える?」
 女の子がそうたずねましたが、男の子の答える声は聞き取れないまま、森の中へと消えていきました。
「きっとまた会えるさ」
 おじいさんがそういうと、女の子はおじいさんを見上げ、ニコッと笑ってから、お母さんとおばあちゃんの手を求めてつなぎました。

2011年1月25日火曜日

初恋

©2011 by MIZUKI Yuu All rights reserved Authorized by the author

----- 朗読パフォーマンスのためのシナリオ -----

  「初恋」

 聞いてる? そこにいるの? いいの、わかっているの、あなたがそこにいるのは。なにもいわなくていいわ。なにもいわなくていいから、それより私の話を聞いて。お願いだからそこにいて、私の話を聞いて。でもいいの。あなたがそこにいてくれようがくれまいが、どっちみち私はこの話をするんだから。この話をしなければ私はたぶん明日まで耐えられないでしょう。ここにこのままじっとして、このことをだれにも話さないまま明日の朝を迎えるなんて考えられない。聞いてる? いいわ、聞いてくれてるのね。なにから話しましょうか。そう、最近私、「神様なんかいない」という本を読んだの。神様というのは人間が作り出した妄想だっていうのよ。たしかに私も神様なんてそれほど信じてはいなかった。だってそもそも私はクリスチャンでもないし。といって仏教徒というわけでもない。もちろんムスリムでもないし、ゾロアスター教徒でもないわ。両親の葬儀は仏式でやったけれど。でもそれは、両親が亡くなったとき、親戚の人たちがよってたかってうちの先祖代々の浄土真宗のやり方で段取りをつけてしまったからだわ。私はなんにもしなかった。もちろん死んだ両親もなにもしなかった。そもそも死んだ両親が浄土真宗を信仰していたかどうかもあやしいものだわね。仏様の話じゃなくて神様の話だった。いえ、どちらでもおなじことね。ようするに宗教なんて人類の妄想だし、それを利用してうまく立ちまわって世界を支配したりお金をたくさん集めたりする人が何千年もいつづけてきたっていうこと。そういう本を読んだのよ、最近。立派な科学者が書いた本だった。なるほどと思った。でも、こんなことがあると、神様なんて自分の都合のいいときにしか信じない私でも、ひょっとして本当にいるのかもしれないと思うことがあるわ。気まぐれでいたずらな神様がね、私のことをからかっておもしろがってるんじゃないかって思えるのよ。そう思わなきゃ今回のことなんて信じられない。こんなことが自分の身に起こるなんて、何十年も生きてきて想像したこともなかった。何十年。そう、私は何十年も生きてきた。正確にいえば、七十七年生きてきた。この世に生まれ落ちてから、なんてこと、そう、七十七年もたってしまった。もう立派なおばあちゃんだ。だれが見たって白髪の、皺くちゃの、腰の曲がった、シミだらけの、年老いた老婆だ。十七歳の頃は自分が七十七の老婆になるなんて想像もできなかった。そうでしょう? あなただってそうでしょう? 十七歳どころか、五十歳のときだって、七十七の老婆になるなんて考えられなかった。五十のときにはまだ自分が十七歳のような気がしていた。身体だって元気だし、そりゃあ確かに十七歳のときみたいに颯爽と森を駆け抜けたり、波を切って泳いだりはできなくなっていたわ。でも、心は十七歳のときとなにも変わってはいなかった。十七歳のときとおなじように、かぐわしい風に産毛が逆立ったり、満天の星に胸が震えたりした。それはいまだってそう。心のなかはなにも変わっていない。変わったのは身体だけ。髪はハトがついばんだように白くなり、肌は釣りあげられたタコのようにゆるみ、腰は強風にあおられたように曲がってしまった。それは悲しいことだけれど、耐えられないほどの悲しみではない。だって、そんなふうに年老いていくのはなにも私だけではないのだから。私とおなじようにほかの人も、いえ、ほかの人とおなじように私も、身体はゆっくりと年老いていって、やがては耐用年数の限界が来るというわけ。それはすべての人間の運命だから、悲しいことではあるけれど、耐えられないというわけでもない。わかるでしょう? 耐えられないのは、私の身体のなかにはまだ十七歳の心の私がいるのに、身体だけが朽ちていって、十七歳の私もついには居場所がなくなって、身体から追いだされてしまうということ。追い出されてどこに行くのかって? どこにも行く場所なんてない。行くあてなんかない。だから、十七歳の私は消滅するしかない。消えてなくなるしかない。まだ十七歳なのに。ううん、天国なんて信じちゃいない。あの世とか、天国とか、来世とか、生まれ変わりとか、私は信じちゃいない。さっきもいったけれど、神様なんていないと思う。都合のいいときにだけ神様にお祈りして、お祈りが通じたと思ったこともあるけれど、本当は神様なんか信じちゃいなかった。あの世なんてないし、神様もいない。身体が朽ちて滅びれば、私の心もなくなってしまう。それだけ。でも、こんなことがあると、ひょっとして神様はいるのかもしれないと思うのよ。それもとびっきりいたずらな神様がね。ああ、そう、あの人のことをいっているのよ、私は。あの人。彼。坊や。いえ、だめよ、その呼び方はだめ。坊やなんて呼んではだめ。私のいい人。愛する人。私の大事な人。私の命より大切な人。そうよ、私の命より大切なんだわ。私より彼のほうが長く生きることは、よほどのことがないかぎり確実なんだから。なにしろ、彼はまだ二十二なんだから。二十二、二十二。二十二歳。私の二十二歳はどんなだったかしら。もう思い出せないくらい昔のことね。いまから何年前のことかしら。いやだ、五十年以上前のことなのね。五十五年も前のことだわ。ということは、私と彼とは五十五歳離れているということ。私がいまの彼の年齢だったとき、彼はまだこの世に生まれていなかった。私が五十五歳になったとき、彼がやっと生まれてきた。五十五歳年下の人。そんな男性から求婚されるなんて。なんてことかしら。なんということなんでしょう。彼から求婚されたときにはほんとうに驚いたわ。だってそうでしょう。夢かと思った。夢じゃないとわかったら、今度は彼の頭がおかしくなったんじゃないかと思った。それで彼にそういったのよ。頭がおかしくなったんじゃありませんこと? って。そしたら彼は、そうかもしれません、あなたに夢中のあまり頭がおかしくなってしまったんです、っていうのよ。だったら、結婚してなんて冗談はいわないでくださいな。心臓に悪すぎます。いえ、冗談なんかじゃありません。僕は真剣なんです。あなたに夢中なんです。頭がおかしくなったというのはそういう意味です。

 まだあげ初《そ》めし前髪の
 林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛の
 花ある君と思ひけり
 やさしく白き手をのべて
 林檎をわれにあたえしは
 薄紅《うすくれなゐ》の秋の実に
 人こひ初めしはじめなり
 わがこゝろなきためいきの
 その髪の毛にかゝるとき
 たのしき恋の盃を
 君が情けに酌《く》みしかな
 林檎畠の樹《こ》の下《した》に
 おのづからなる細道は
 誰《た》が踏みそめしかたみとぞ
 問ひたまふこそこいしけれ

 まったくどうかしてる。だれだってそういうと思います。けれど本当なんです。事実なんです。あなたのことを愛しています。真実なんです。僕と結婚してくれなきゃ僕は死んでしまいます。そこで私は彼にいったのよ。あなた、自分のいっていることをちゃんとわかっていらっしゃるの、って。人が聞いたらどう思うかわかっていらっしゃるの? わかってますとも。頭がおかしいんじゃないかっていうに決まってます。でも、本当なんです。あなたに夢中なんです。財産目当てなんじゃないかって思われることもわかってます。でも、そんなもの、僕はいらない。財産なんかが目当てじゃない。ただ僕はあなたと結婚したいだけなんです。彼が財産目当てじゃないことは確かよ。だって私、お金に困っているというわけじゃないけれど、けっしてお金持ちでもないもの。私が持っている財産なんかたいしたことない。親が残してくれた不動産が少し。贅沢さえしなければ不自由なく暮らせるだけの収入はあるわ。でもたいした額じゃない。こうやって老後を不自由なく暮らせるだけの資産があることはありがたいと思ってる。でも、人からうらやまれるほどのものじゃない。年下の男性からねらわれるほどのものじゃない。もし結婚したとして、私が先に死んだら、それはほとんど確かなことだけれど、私の財産を処分したとしてもほとんどまとまったお金になんかならないはず。そんなものが目的で彼が私に求婚するなんてことはありえない。彼が私と結婚して得るものは、彼が失なうものに比べればとてもみみっちいものよ。彼がなにを失うのかって? それはたくさんのものを失うはずよ。この結婚に反対する家族や親族を失うかもしれない。友だちだって失うかもしれない。頭がおかしくなったんだっていわれて、仕事だってうまくいかなくなるかもしれない。なにより、あんなばばあと結婚するなんてといっぱい陰口をいわれて、きっとたくさん名誉を傷つけられるわ。彼が失うものはとても多いと思うのよ。私はもちろん彼にそういったわ。でも彼はきかなかった。どうしても結婚してほしいといってきかなかった。でなければ私の前で死んでしまうともいった。私は折れたわ。そして、あなたも知っているように、そう、明日が私たちの結婚式よ。結婚式。私の初めての結婚式。彼も初めてよ。私たちふたりとも結婚するのは初めてなのよ。そういう意味ではおなじ経験をふたりでするのよ。ただ年がとても離れているだけ。彼は初めての結婚だけれど、これまでに何人かは恋人がいたというわ。そのことを彼は私に正直に話してくれた。でも結婚するまでにはいたらなかった。どの相手とも数ヶ月から数年で別れてしまった。そんなことを話したあとに、彼は私のおそれていた質問をしたわ。あなたはどうなんです? あなたにもさぞかし多くの恋人がいらしたんでしょうね。もしよければ話してくださいませんか。私は答えたわ。そんなこと、あなたに話したくないわ。私のつまらない思い出なんかどうでもいいの。これから作っていくあなたとの時間のほうが大切じゃないこと? 彼は納得してそれ以上質問しようとはしなかったけれど、私は胸が痛かったわ。なぜかというと、私はどうしても彼に話せなかったから。隠し事をしたわけではないけれど、話さなかったのは隠し事をしたことと同じだわ。彼はまだ知らないのよ。私にとって彼が初めての人だということを。いえ、結婚のことじゃないわ。男の人のことよ。私はこれまでひとりも恋人がいなかったのよ。思いを寄せた人はいたわ。そりゃあ私だって好きになった人はいたわ。ひとりやふたりはいたわよ。でも、どの思いもかなわなかった。それから、求愛されたこともあったわ。自慢するみたいだけど、正直にいえば、何人かいたわ。片手の指では足りないくらい。でも、だれの求愛も私は受けなかった。私が好きでもない人の求愛をどうして受け入れられるというの? でも、今度は違う。彼から求婚されたとき、私はたしかに私のほうも彼のことを愛してしまっていたことに気づいたの。そうなの、待ちに待った愛だわ。ただ、その時期があまりに遅すぎただけ。私は苦しいの。あなたにこうやって打ち明けながらも、苦しさに変わりはない。このまま死んでしまいたいくらい苦しい。明日のことを思うと、とくに明日の夜のことを思うと、どうしていいのかわからない。彼は結婚式が終わってふたりきりになったら、私をどうするつもりかしら。まさかこんなおばあちゃんをどうにかしようなんて思ってないと思うけれど、わからない。二十二歳の男の子といっていいような若い男性の考えていることなんて、私には想像もつかない。もし彼が私を求めてきたら、私はいったい……いったい、どうすればいいの。ねえ、どう思います? そのとき私はどうすればいいと思います? あなたにこんなことを聞いても無駄ですわね。あなたの問題ではないんですもの。彼と私の問題なんですから。ときどき、こんなふうに、だれにも答えることができない自分の問題について自問自答していると、私は本当に孤独を感じるの。ひとりぼっちだという気がしてくるわ。もっと若くに愛し合える人に出会って、連れ合いができていればよかったのに。もしかすると子どもも何人かできて、いまみたいにひとりぼっちということはなかったかもしれない。こうやってひとりでいると、私はまるで自分が灯台守にでもなったように感じることがあるわ。孤島にただひとり、灯台を守っている女。この家のまわりに本当はなにもなくて、ただ荒地と岩の上に立っている灯台であって、私はそこでだれの訪問も受けず、どこにも出かけることもなく、ひとりで灯台を守っている。灯台のまわりには、街ではなく海が広がっていて、いまの時期だと寒い北風がただびゅうびゅうと吹きつけてくるだけ。たまに渡り鳥が羽を休めに降りてくることはあるけれど、その鳴き声すらも風にかき消されて灯台の中までは聞こえない。灯台に明かりを入れる時間になってたまにガラス窓の外に目をやれば、遠くを貨物船が通りすぎていくのを見ることもある。でも、その船はただ通りすぎるだけでここへはやってこない。私はだれとも言葉をかわさず、関係も持たず、灯台でひとり暮らしながらゆっくりと時間がすぎて、ゆっくりと自分が年老いていくのを感じているだけ。そんな自分をさびしいと思ったことは何度もある。いまいったように、もっと若いころに恋人ができて結婚し、家族を持っていたらどんなに楽しかったろうと想像したことは何度もある。けれど、最近はさびしいことをあまり嫌だと思わなくなった。たしかにさびしいことはさびしい。でも、結局のところ、人ってなんのために生きているの? 神さまがいるかどうかは知らないけれど、家族がいようが連れ合いがいようが、結局のところ死んでしまえばただの動かない肉のかたまりになってしまうだけ。腐ってしまわないうちに急いで埋めるか焼くかして、残るのはわずかな骨ばかり。なかにいた私は追いだされて消滅するだけ。生まれる前だってそうだったんでしょう? 私がいったいどこからやってきたのか知らないけれど、生まれる前にいた場所に帰っていくというだけのことでしょう。つまり、無に。そうだというのに、恋人がいるとか結婚しているとか、家族がいるとか財産があるとか、いったいどんな関係があるというの。私はひとり。この島の最後の灯台守の女。それでいいと思いはじめていた。寂しいことは寂しいけれど、心は安らかだった。このままこうやって静かに年老いて消えていくことに納得していた。私の仕事はただ、灯台に明かりをともしつづけることだけ。それなのに、あの人が現れてしまった。私の静かな生活は一変した。私の灯台に別の人がやってきた。そして私と結婚したいといいだした。私はそれを受け入れるしかなかった。いままでただの一度もだれかを受け入れたことなんてないのに。私はこれからどうなるんでしょう。彼から求められてなにかを与えるなんてことができるのでしょうか。七十七の私が十七の心をいまだに持っているように、彼だってきっと二十二だけれど十七の心を持っているに違いないと想像したこともある。そしたら私たちおなじことになるでしょう。私たち、年齢と外見こそ違うけれど、おなじ十七歳同士じゃない。だったら楽しくやっていくこともできるかもしれないわ。でも、もし彼が十七の心を持っていないとしたら? 彼はちゃんと年齢相応に二十二歳の青年の心を持っているとしたら? それとも、彼はずっと成長が早い人で、もっとずっと大人になってしまっているのだとしたら? たとえば三十歳に。あるいは四十歳に。それとも五十歳に。もし彼がそうだとしたら、私はとても耐えられない。彼は私を求めるだろうか。それってどんな感じなのだろうか。私はこれまで一度も男の人に触られたことがない。抱かれたことがない。男の人に触られるってどんな感じなのだろうか。それが女にとってとても幸せなことだというのは話には聞くけれど、想像もつかないし、それって本当のことだろうか。映画のなかで男に抱かれる女たちは、皆陶然とした表情を浮かべているけれど、あなたはきっとあんな顔はできない。あなたの顔はきっと苦痛にゆがむだろう。そんなあなたを見て、彼は失望を覚えるだろう。あなたの顔が苦痛にゆがまないとしたら、それはおそらく嘘だろう。あなたの身体は心に反して嘘をまとうことを知っている。あなたはそうやって生きてきたのだから。あなたの心は身体という牢獄のなかに閉じこめられている。でももうすぐそこからも解放されるだろう。なぜならあなたの身体の耐用年数がもうすぐやってきて、電気炊飯器のように壊れて、ガラクタ置き場で朽ち果てていくのだから。そのとき、あなたの心は行き場所を失って消滅する。あなたは明日、私との結婚式を迎える。それは嘘をまとって生きてきたあなたの、最後の、最大の嘘なのかもしれない。あるいはあなたの嘘を最後に追い払うラストチャンスなのかもしれない。私に求められたときあなたはただ自分を私の前に投げだせるだろうか。あなたは抵抗するだろうか。逃げるだろうか。それともすべての嘘を脱ぎすてて私の前に身を横たえるだろうか。しかしそんなことはどうでもいいことだ。私があなたを求めるのは、自分自身の姿をあなたに見るからだ。あなたが生き、うろたえ、あらがい、嘘をまとい、満足したふりをし、善をなしたつもりで笑みを浮かべ、裏切り、裏切られ、疑いながら、いまそこにいる。それはほかならぬ私自身の姿でもある。老いさらばえ、やがて朽ちていく。それが私自身の姿なのだ。私はあなたに私を見る。すべてを見る。だから私はあなたを求める。あなたは私自身なのだ。

2010年12月22日水曜日

沈黙の朗読――記憶が光速を超えるとき(3)

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

----- 朗読パフォーマンスのためのシナリオ -----

 ちゃんと思いだした。子どものころから物忘れがひどかった。小学生のある日、ランドセルを忘れて手ぶらで学校に行った。母親が届けに来て、教室の入口で、同級生たちが見ている前で、こっぴどく頬をはたかれた。いまのいままでそんなことを思いだしたこともなかった。無意識の奥底にしまいこんでいた思いだしたくない記憶。たくさんの思いだしたくない記憶が、無意識の奥底にしまわれ、忘れさられている。物忘れをした恥ずかしい記憶がたくさん、記憶の奥底に忘れさられている。蛇口のパッキンを買わなければ。

 私は歩きはじめる。おっさんどこへ行くんだよというだれかの声が聞こえる。腕を強く引きもどされる。

 都会の学校に進学し、都会の会社に就職し、都会で結婚し、都会で家を持ったけれど、いつも思いだすのは野山のことだった。軒先に作られた燕の巣を見つめながら、畑の上の草はらで見つけた雲雀の雛のことを思っていた。街を歩きながら、風とともに山道を駈けおりたことを思い出していた。ひとり渓流をさかのぼり、岩陰にひそむヤマメを狙ったことを思い出していた。

 列車が通過いたします。危険ですので、黄色い線の内側までさがってください。
 列車が通過いた   します。危険です    ので、黄色い線       の内側
         までさが
                 ってくだ
                              さい。

 私はどこへ行こうとしているのか。
 そうだ、蛇口のパッキンを買いに行くのだ。
 だれかの怒号が聞こえる。
 腕を強く引かれる。
 私はそれをふりほどく。
 蛇口のパッキンを買うのだ。
 蛇口のパッキンを買うのだ。

 危険ですので。
 黄色い線の内側。

 蛇口のパッキンは死。
 蛇口のパッキンは死。
 死とはなにか。

 あのとき私が見ていたものの話をしよう。
 ランドセルを忘れて親に怒られた私は、その夜、かけっぱなしの梯子を伝って、家の大屋根に登った。
 屋根に寝っ転がって星を見ていると、自分がどこにいるのかわからなくなる。そんな経験はないかい? 自分が丸い地球に張り付いて、寝ているのか、地球にぶらさがっているのか、わからなくなってしまう。
 ちっぽけな地球の表面に張り付いている私。宇宙のまんなかにぽっかりと浮かんでいる地球に張り付いている私。
 地球、太陽系、銀河、銀河団、泡構造、超新星、膨張する宇宙、ブラックホール、ビッグバン、百数十億年のかなた。それが目の前に広がっている。永遠のかなた。
 永遠ってなんだろう。宇宙のはてにはなにがある?
 そんなことを考えていると、なにが原因で親にしかられたのかすっかり忘れてしまう。
 でも、屋根から降りると、まだ怒っている父がいたし、父に気を使っている母もいたし、自分は怒られまいとこっちをうかがっている妹がいた。
 そうやって地表の現実のなかで、今日まで生きてきた。
 宇宙のなかのちっぽけな現実。喜んだり、悲しんだり、疲れたり、発奮したり、裏切られたり、愛したり、お金の心配をしたり。
 この命も、いずれ消えていく。
 死なない人はただのひとりもいない。偉大な人もちっぽけな人も、金持ちも貧乏人も、ひとしく皆、死を迎える。
 沈黙に戻る。


 村を離れ、都会に出たことを後悔してはいない。都会には都会の生活があった。ただ、夜中にこっそり裏口から抜け出し、ひと気のない公園をさまようとき、私の脳裏には谷川から沸き立つように舞い上がる羽化したばかりの蛍の光の渦が見えていた。降るような満天の星が見えていた。

 いま、私は、都会の電車のホームで、だれかにつかまえられ、引きたてられようとしている手を振りほどき、妻にたのまれた水道の蛇口のパッキンを買いに行こうとしている。


 ぼくの身体は軽くなり、ふわりと浮いて舞い上がる。

 そのとき、ふいに私は


    妻の
              名を

                              思いだす。

         青い空
                  と
                          白い    雲
















(おわり)

2010年12月21日火曜日

沈黙の朗読――記憶が光速を超えるとき(2)

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

----- 朗読パフォーマンスのためのシナリオ -----

 あれは何年前のことだったろうか、その犬の名前はいまとなっては妻の名前と同様忘れてしまったが、愛苦しいゴールデンレトリーバーで、まったく家族同様に暮らしていたのだから、その犬の名前を私が忘れてしまったのはおそらくフロイトがいうところのつらい記憶の番人の仕業に違いないのだが、彼の長い毛足のふさふさと柔らかな体毛の感触ははっきりとした実感をともなってまるでいまでも手をのばせばそこに実体化するがごとく記憶の奥底にしまいこまれていたし、それがトリガーとなってぐりぐりと動くたくましい躍動する筋肉の感触や雨に濡れるととくに強くなる身体のにおいまで実体化するようで、しかしいま私が思いだしているのは彼が悪性のリンパ腺腫でたった六歳で死んでしまったあの朝、まだぬくもりの残っている大きな身体を玄関のコンクリートのたたきから部屋のなかへと運びこもうと抱きあげたまさにそのときの感触でありました。私はその感触を
        なので神聖なことのようにいまでも感じているのであり、悲しみ、喜び、楽しみ、暖かさ、活発さ、冒険、新鮮、安心といったさまざまな感情の記憶とつながっている大切な記憶のトリガーといってもいいのであります。
 それなのに、であります。
 それなのに、であります。
 それなのに、であり    右手に知覚が戻ったのは、私の右手をなにかが強く圧迫しながら強い力で上へと持ちあげようとしていたときであります。私は私の神聖な記憶を無理矢理かなたへと押しやられ、かるい憤りを覚えながら、私の右手に起こりつつあることを認識しようとしたのであります。
 だれかが、何者かが私の右手をつかみ、強くつかみ、握りしめ、そして私の意に反して上のほうに差し上げようとしている。

 私が身体を密着させまいと懸命の努力をしていたところの私の前にいた短いスカートからむちむちした太ももをのぞかせていた女子高校生が首をねじまげて私のほうを見上げ、そう彼女は私よりずっと小柄だったため、私を見るためには下から見上げるような格好にならざるをえず、上目遣いになり、下方から鋭角に私を見上げることになり、視線は下から上へと向かって急角度で突きあげられ、私の目に視線が突き刺さり、私はそれがなにを意味するのかとっさには理解できず、ただ視線を受け止めるばかりで、とまどった私の視線が彼女に伝わったのかどうかすらわからず、彼女は鋭い視線を向け、その視線は怒りや憎しみに満ちているようにも見え、たんなる眼球がなぜそのような感情を表出するのか私には理解できず、眼球ではなく眼球を縁取るところの瞼や眉やそれを取り囲む表情筋が感情を表出しているのかもしれず、また瞳孔の奥の水晶体のさらに奥にある網膜に走る無数の毛細血管の脈動が感情の興奮状態を表出するのかもしれず、そんなことを
      の右手が私の意に反して無理矢理上のほうへと引きあげられていたのでございます。

 ち か ん
 で す こ
 の て で
 す

 電車はいままさに次の駅のホームへとすべりこんでいくタイミングであった。かの女子高校生がそのタイミングを見計らっていたことは明らかであった。私の思考は停止していた。いや、実際には停止していたわけではない。脈絡のある思考が失われていたというべきだろう。私の思考の道すじは脈略のあるストーリーを失い、意味を失っていた。思考が脈略を失ったとき、人は自意識を失う。自分になにが起こっているのかわからず、また自分が何者なのかもわからなくなる。私の右手は女子高校生につかまれていた。女子高校生は私の右手をつかんで肩より高く持ちあげていた。持ちあげたこの手が「ちかん」であると叙述していた。私の手はちかんなのか。ちかんとはなんなのか。なにをもって私の手はちかんと定義されるのか。
 私のまわりがざわめいている。電車はまさに駅のホームに停車しようとしている。電車のドアが開こうとしている。乗客のひとりがいう。こいつを警察に

       突きだすんだ。おれがいっしょに行ってやるよ。若い男の声だ。もうひとりがいう。私も行ってあげる。若い女の声だ。私はふたりの男女に両側からそれぞれ腕をつかまれ、開いたドアから電車の外へと連れだされる。
 電車のドアの外は駅のホームの上であった。駅のホームはまだ真新しい。数年前に路線の複々線化のために駅と線路が高架になり、駅のホームも新しく作りかえられた。どの駅も似たような風景になり、駅名のプレートを確認しなければ


             どの駅なのかわからない



 私たちの、私たちというのは私と私の右手をつかんだ女子高校生と私の両腕をつかんだ男女ふたりの計四人であるが、その私たちの背後で電車のドアが閉まる。振り返ると

      ドアのガラス越しに好奇の色を浮かべた乗客たちの視線が私たちに向けられている。視線が横すべりを始める。ゆっくりと横にすべっていき、しだいに速度をあげる。視線は私の視線から遠くはなれ

  見えなくなる。電車がハイブリッドモーターの音を高めながら       速度をあげる。八両編成の電車が
                ホームから離れていく。一瞬

   最後尾の車両の最後尾の窓から上体を半分のぞかせた車掌と視線が合い、パチン

            という音が聞こえたような気がするが、もちろんそれは錯覚で

         引きこまれるような風圧が私を線路側へわずかに押しやる。


 いい天気だ。


 真っ青な空がホームの上を覆う屋根の間から見える。それを見て、私は記憶を訂正する。あの日が梅雨時のむしむしした日かもしれなかったという記憶は間違いであった。からっと晴れた夏至に近い初夏の日であった。真っ青な空には真っ白な積雲が綿菓子のようにぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽこぽっと浮かんでいる。綿菓子の手前を電車の架線が何本かまっすぐに横切っている。雲の背後を架線とは鋭角をなす角度の白い直線が横切っている。飛行機雲だ。飛行機雲だ。私は夏の空が好きだ。私は夏の空が好きだ。私の生まれた土地は田舎の山間部だったが、その夏の空も好きだった。私は夏の空が好きだ。飛行機雲だ。私が生まれたのは田舎のほうの、山が谷でくびれ、せせらぎが川となって平野へと流れこむ、その出口のところだ。小さな村となだらかな山があって、人々は長い年月をかけて山と折り合いをつけながら、段々畑や田圃を作ってきた。私が生まれたのは、コブシや桜が終わり、藤や桐が薄紫色の花を咲かせるころ、山吹が山裾の小道を黄色く彩るころだった。雪解けの名残り水が田に導かれて水平に広がり、空を映してぬるむと、白鷺が冬眠からさめた蛙をついばみ、子どもらはスカンポを噛みながら畦道を駆け抜ける。蛇口のパッキンを買わなければ、と私は思いだす。

2010年12月18日土曜日

沈黙の朗読——記憶が光速を超えるとき(1)

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----- 朗読パフォーマンスのためのシナリオ -----

 私はあの日、あの日というのがいつのことなのか定かではないのだが、夏至を迎えたばかりのように思うし、あるいは梅雨時のむしむしした日だったようにも思うが、とにかく暑苦しかったことだけは確かだったあの日、私がいつものように家を出ようとすると妻が帰りに忘れずにあれを買ってきてねといい、私はそのことがなんのことなのかわからなくて、ところで妻の名前はなんだっけ、間違えて呼んだりしたらとんでもないことになるぞと考えながら、とりあえずおまえと呼ぶ事にしようと決めて、あれってなんだっけなおまえとたずね返すと、私の、名前を思いだせないままの妻は、あらいやだあなたあれほど何度もたのんでたのにだから心配だったのよまた忘れるんじゃないかってと、いつまでも肝心のことを答えようとしないまま私をぐちぐちとなじりつづけるものだから、私の胸のなかにはなにかしらよどんだもの、まるで雨の日の増水した川にひっかかっている流木に腐った葉やらスーパーのレジ袋やら破れたTシャツやらコンドームやらがからみつき茶色くよどんでいるような光景が生まれ、私はなにかをいいかえそうと口をひらくのだがそこから出てくる言葉は私の灰色の大脳皮質までは浮かびあがって来ず、先に私の、名前を思いだせないままの妻が私をぐちぐちとなじるその言葉のつづきで、洗面所の蛇口のゴムのパッキンを買ってきてなおしてくれるっていってたじゃないほらいくらきつく締めてもぽたぽた水が止まらないのをこんなの直すのわけはないといったのはあなたよ覚えてるでしょう、といわれてみればたしかにそのようなことをいった覚えがあるような気がしてきたが、その記憶は本当に私の記憶なのだろうか、それともだれかから、いやつまり私の、名前を思いだせないままの妻からいわれて植えつけられた記憶なのだろうか、あるいは夢で見たことを現実の記憶と思いこんでしまったのだろうか、それだとしたら私の、名前を思いだせないままの妻の記憶も私の夢の記憶を共有しているということになってしまい、それは理屈にあわないというか現実的ではないような気がするが、その時はもちろんそんな考えを振りはらい、とにかく私の、名前を思いだせないままの妻の要求は私に伝えられたわけだからいつもどおり家を出て仕事に向かうことに決めて、わかったよおまえ帰りがけには忘れないように蛇口のパッキンを買ってきて洗面所の水漏れを直してやるからといい残して駅に向かったあの日、あの日というのがいつのことなのか定かではないのですが、夏至を迎えたばかりのように思うし、あるいは梅雨時のむしむしした日だったようにも思いますが、とにかく暑苦しかったことだけは確かだったあの日、ホームにはいつものように、いつもというのがいつのことをさしているのやら自分でもさだかではないまま申しておりますが、ホームにはいつものようにサラリーマンやらサラリーウーマンやら女子高校生やら老婆やらがごったがえしながら電車の到着を待っておりましたあの日、私は私の前にいた女子高校生の短いスカートからのびたむちむちした太ももに視線を落としながら、なぜ女子高校生はたくさんいるのに男子高校生はあまり見かけないのだろう、それは私が女子高校生についつい目が行ってしまい彼女らにばかり注意をひかれてしまうせいであって、男子高校生も確かにいるのに私の視線が彼らを素通りし、結果的に彼らは私にとって存在しないと同様のことになっているという理由からだろうかなどとかんがえておりましたところへ、あっけなく電車が人々をなぎ倒さんばかりの勢いでホームへ、いや正確にいえばホームの間に平行に敷かれた二本のレールの上へと進入してきて、停止線を越えてオーバーランすることもなく、ちらと見えた運転士は私と同年輩くらいの中年男性のようであり、たぶんベテラン運転士でありましょう、すでに何千回となく同じ場所同じ時間に同じように電車を停止させてきたことだろう経験に裏打ちされた一見やる気のない沈鬱な表情を私にかいま見せ、そういえば私はいったい何歳なのだろう、あなた、何歳に見えますか、私?
 エアが抜ける音がする。ぷしゅーうううドアが開く。降りる人はあまりいない。ひとり。ふたり。さんにん。そのくらい。木を植えた人は降りたのか? 降りる人を待ちかねたように、ホームにたまっていた人々はにじにじとホームと電車の間の隙間をまたぎ越え、押し合いへし合い、車両に乗りこんでいくのであります。私もスカートからのびたむちむちした太ももを持つ女子高校生のあとにつづいて車両に乗りこんでいったのであります。
 背後からぎゅうぎゅうぎゅうと車両のなかほどへと押しこまれていきながら、私は私の背中を押しているこの感触が男性のものか女性のものか無意識にさぐっていることに気づくが、私の背中の右の肩甲骨の上のほうに強くあたっているひどく角ばったものはほぼまちがいなく背の高い大柄な男性の拳の甲から手首の関節の外側あたりで、それがあまりに硬くてとんがっているものだから私は痛くてしかたがないのを振り返って文句をいうわけにもいかなくてがまんしながら、同時に私の前にいる小柄な女子高校生に自分の身体をあまりに強く押しつけて密着してしまわないように気をつけているのは、あながち私の気の小ささばかりではないであろう社会的に外部強制された内部要因なのだろうけれど、私は気の小さい人間と人からいわれたことはあるだろうかいやないと思うけれど、しかし正直にいえばどちらかというと気の小さい人間ではあろうと自分では思えるその証拠に、人から頼まれごとをしてそれが自分には不向きな仕事であったり気の向かないことであったりしてもきっぱりといやとはいえないところがあって、そのせいであとあと不愉快な思いをしたり、結局頼まれたことが片付かなくて相手にまで不愉快な思いをさせて信頼を失ってしまったりといったことが子どものころからたびたびあったことを思い返せばそのとおりであるということができるし、いまもまさに私の半分ほども体重がないだろう小柄でひ弱そうな女子高校生を相手に狐の前を通り抜けようとしている兎のごとくびくびくしながら必死に足を踏ん張って身体が密着しないようにこらえていると、発車の合図のピロピロと気の抜けた音楽が鳴り終わりぷしゅーうううとドアが閉まりがたんういぃぃぃんと車体と駆動モーターの音を立てて電車が動きはじめ、密着しあった人々は慣性と加速度の物理法則にしたがっていっせいに進行方向とは逆方向に向かって身体を押し寄せられ、どこかで悲鳴があがるのが聞こえた。
 加速度のおかげで、私の身体は女子高校生の身体からやや離れる。が、ほっとしたのは一瞬にすぎない。加速度で電車の後ろ方向に押しつけられた人々の圧力が、その反動で前方向にすみやかにもどってくる。そして前よりも強く私の身体は女子高校生の身体に押しつけられてしまう。私は左の手に鞄をさげている。鞄は密着した人の身体にはさまれて、しっかり握っていなければどこかに持っていかれそうだ。私は鞄を左の手でしっかりと握っている。右手のことを忘れていた。私は自分に右手があるということを忘れていた。そうなのだ、私は時々、自分に右手があることを忘れてしまうことがある。私に忘れられた右手は存在しないのとおなじだ。切断された私の右手。人は二度死ぬといったのはだれだったか。最初の死は肉体の死。二度目の死は人々から忘れられたとき。これをいったのはだれだっけ。アボリジニの言葉だったか、あるいは仏教の言葉か。それにならえば、私の右手はしゅっちゅう死んだり生き返ったりしているわけだ。ははははは。
 そんなこというなら、最近かけはじめた老眼鏡だってしょっちゅう死んだり生き返ったりしているぞ。ははは、ははは。おっと、右手だ。私の右手。存在を忘れていた私の右手を生き返らせねばならない。私の右手。いったいどこにあるのか。まさか家に置き忘れてきたわけではないだろうな。
 もちろんそんなはずはなく、私の右手は私の右の鎖骨と肩甲骨の延長線上にある上腕骨の関節の部分で靭帯やら筋肉やらら血管やらららリンパ節やららららら神経やららららららによって接続され右肩にぶらさげられているわけで、なにも持っていない右手は下向きになった腕の先に電車の床に向かってくっついているはずなのを私は知覚することによって生き返らせようとするとき、なにかがその知覚の働きをさえぎろうとしているのを感じそれはなにかと思えば大脳皮質のもっとも奥まった部分にしまいこまれてたったいままで一度も意識の表面に浮上することのなかったひとつの記憶であり、それはまるでマルセル・プルーストが紅茶に浸して柔らかくなったプチット・マドレーヌ、プチット、プチット、プチット・マドレーヌ、プチット、プチット、プチット、プチット・マドレーヌ、プチット             マドレーヌの一切れを口に含んだ瞬間に遠い過去の失われた時をよみがえらせたかのような異常な作用が私の前腕部にも起きたかのようで、そのとき私はひとりのタイムトラベラーとして一匹の犬を抱いていた。

2010年12月16日木曜日

特殊相対性の女(3)

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----- 役者と朗読者のためのシナリオ -----

〔ト書き〕
 役者、ステージに戻ってくる。

「彼はけっして眠らない。
 彼はけっして眠らない」

〔ト書き〕
 長めのピアノ演奏。

 彼女はようやく、階段をのぼりきって、灯台のてっぺんの部屋にたどりつく。

「これが私の部屋。私の居場所」

 粗末な椅子とテーブルと、何年も火をいれていない暖炉と、横になるとギシギシいう木のベッドがある。
 ベッドの上にはランプがさがっている。
 彼女は自分がどこにいるのか知らない。彼女は自分が島の岬の突端の灯台のてっぺんに住んでいると思っている。

「私は今夜も窓辺に出て、あの人のために明かりを灯す」

〔ト書き〕
 朗読者、立ち上がり、ステージ上手に立つ。役者はそれと対極のステージ下手に立つ。お互いに遠く見合う形。
 以下、おなじテキストをふたりで読む。

 私はこの島の最後の灯台守で、あの人の船はこの明かりをめざしてやってくる。こんなちっぽけな蝋燭の明かりでも、あの人はきっと見つけてくれるはず。クリスマスまでには必ずここに来ると約束してくれたんだもの。
 長年、孤独な島の生活を続けているせいで、私の身体はすっかり弱ってしまった。以前は島のまわりを駆けたり、散歩したり、食料品や薪を集めることもできたのに、いまは自分の脚で立つこともできない。筋肉が萎縮する病気――なんていったっけ――それに違いないといったのに、だれも信じてくれなかった。ただ年寄りになっただけだといわれた。ひどい人は鏡をみてごらん、自分がいかに年をとったかよくわかるはずだよ、その醜く皺が寄り集まった顔を自分の目でよく確かめてごらん、なんてことをいう。そもそもおまえは灯台守なんかじゃない。ここは島なんかじゃなく、都会のまんなかの高層マンションの一室だろう……
 私をこまらせるためにそんなでたらめをいう。人はどうしてだれかにそれほどつらくあたることができるんだろう。
 私が灯した蝋燭は、いかにもたよりなげにゆらめく。蝋燭の向こうには、窓をとおして果てしない世界が広がっている。私には見えないけれど、意味もなく増えた大勢の人々が、意味もなく暮らし、あくせく働き、喜びあい、いがみあい、ののしりあい、抱き合い、そして生まれては死んでいく。私もそのひとりには違いなくて、そんななかにたったひとりで灯台を守っている私の姿は、まるでいまここに灯されたたよりない蝋燭の明かりそっくりだ。
 でも、世界がいかに大きくて激しくてつらくても、私には自由がある。
 島から、いや、ともするとこの灯台から一歩も出ることのできない人間に自由なんてあるのかって? 旅することも、ディナーに行くことも、メリーゴーラウンドに乗ることも、若返ることも走ることも歌うこともできないこの私に、自由があるのかって?
 でもだれも知らない。私が毎夜、こうやって蝋燭に火を灯して灯台を守りながら自由に旅していることを。本当に足を痛めて旅に出かけることも、想像だけを見知らぬ土地にめぐらすことも、私にとってはもはやおなじことだ。私は毎夜、だれも行ったことのない場所に行き、だれも見たことのない光景を見、言葉も通じない人々と語りあっては笑い、食べたこともないおいしい料理をふるまわれ、そして聞いたこともないメロディを歌っている。そのことはだれも知らない。
 いや、あの人だけは知っているはず。クリスマスまでには必ずここに私を迎えに来てくれると約束してくれたあの人。あの人が来たら、私のすべてを聞いてもらいたい。だれも信じてくれなかった、だれも聞こうとしてくれなかった私の話。
 彼が来て、私の話を聞いてくれたとき、そうして初めて私の自由は完全なものになる。
 私は彼といっしょにここから飛びたつだろう。鳥になって彼とともに大空へと飛んでいくだろう。
 私は灯台守。この島の、最後の灯台守。
 今夜も窓辺に出て、あの人のために明かりを灯す。

〔ト書き〕
 以下、朗読。
 役者はその場を離れ、ふたたび客席をぐるりとまわってくる。その間にキッチンのほうで生卵をひとつ受け取ってくる。

 彼女は物音で目がさめる。最初はなんの音なのかわからなかった。ラジオのダイアルが合わないときのようなザアッというノイズのような音。
 ベッドのなかで目をあけ、音の正体をたしかめようとする。右側の壁が四角くぼんやりと白くなっている。四角いのは窓枠で、夜明けが近くて窓の外が白んでいるのだとわかる。そして音は雨の音なのだった。あまり長く降っていなかったので、雨がどんな音を立てるのか忘れてしまうところだった。
 もう九月だというのに、からっからに干上がったフライパンの上みたいな、流しこんだ油すら焼きあがってしまったような猛暑がつづいてた。ときどき雲が集まってきて、空が暗くなり、そして真っ黒になり、手をのばせば届きそうなほどの低いところまで雲のかたまりが降りてきても、はぐらかすみたいに雨は降ってこなくて、砂漠に放り出された裸足の女のように手をむなしく差しのばしたりしてみる日々がつづいてた。それなのに、いま、こうやってあっけなくザアッとやってきた。
 風雨にあおられたカーテンがバサバサと揺れた。いけない、雨が吹きこんでる。
 彼女はいそいでベッドから降りると、裸足のまま窓際に駆け寄る。吹きこんだ雨で窓枠と床がびしょ濡れになっていた。それでも彼女はひさしぶりの雨に喜びを感じた。
 海はまだ薄暗いのと雨のせいで見えない。昨夜もあの人は来なかったけれど、彼女は信じている。クリスマスまでにはきっと帰ってきてくれるはず。
 この雨も彼の頭上に降り、海や乾いた大地をおおい、世界を包みこんで降っている。
 そうだ、と彼女は思いだす。鶏小屋に行って、玉子を取ってこなければ。
 彼女は衣服を着替え、白いスニーカーをはいて部屋を出る。

〔ト書き〕
 役者が戻ってきて、ステージ中央に立つ。
 生卵を捧げ持って客席に見せたあと、ゆっくりと落とす。

(おわり)

2010年12月15日水曜日

特殊相対性の女(2)

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----- 役者と朗読者のためのシナリオ -----

「どうして彼はわたしを選んだのだろう、とよく考える。あるいは、どうしてわたしは彼に選ばれたのだろう、と。
 わたしは、ドジでわがままな女だ。とりたてて美人でもなければ、スタイルもよくない。背も高くないし、顔はソバカスだらけだ。
 わたしの毎日は、失敗の連続だ。
 ヤカンを火にかけていたことを忘れて、黒コゲにしてしまう。ホットケーキを引っくりかえそうとして、床に落としてしまう。
 トーストはかならず、バターのついたほうを下にして落としてしまう。洗い物ではかならず、コップを割ってしまう。ご飯は、硬すぎるか、柔らかすぎるようにしか炊けない。掃除機を振りまわしては、花瓶を割ってしまう。読んでいる本にはソースをこぼし、新聞にはコーヒーをぶちまけてしまう。買ってきた卵はかならず割ってしまうし、豆腐はきっとくずしてしまう。階段ではつまずく。キーをつけたまま、車のドアをロックしてしまう。キャッシュカードはどこかに置き忘れる。財布は電話ボックスに忘れてきてしまう。セーターを洗えば、ツーサイズも縮めてしまう。こんなわたしを、どうして彼は選んでくれたのだろう」

 畑から林のなかを抜けて岬の突端の灯台へとつづくぬかるんだ道を彼女はとぼとぼと歩いてもどりながら彼のことをかんがえ、そして両手で抱えている玉子を入れたカゴに目を落とす。
 ふと、立ちどまる。
 玉子をひとつ取ってみる。白くて、まだあたたかい。殻も柔らかくて、いまにも割れてしまいそうだ。
 そっと頬にあててみる。
 自分もこの玉子みたいに生まれたてだったらいいのに、と思う。しかし彼女は、自分がその玉子にそっくりで、うりふたつで、まだ生まれたてといっていいほどであることには、気づいていない。

「彼はいう。そんなことを気にすることはないよ。そんなつまらないことを。きみにはもっと大切な、すばらしいことがあるんだから、と。
 そんなことって本当だろうか。
 うたがうわたしの顔を、彼はじっと見つめているばかりだ」

〔ト書き〕
 次の朗読テキストと役者セリフは、同時に読む。からまったり、交互に会話するように読んだり。二回、くりかえす。一回めは役者は上手側で、二回めは下手側で。

 ぬかるんだ道を灯台へと戻っていきながら、彼女は時空を超える。季節は春から夏の盛りをすぎ、秋へとすぎていく。秋はさらに死の冬へと向かっていく。道のぬかるみは量子の不確定性を増加させ、時間の進行エントロピーを増大させる。
 歩きながら急に彼女は身体の衰えをおぼえる。若いころはあれほど張りのあった筋肉が、いまはしわだらけの皮膚におおわれ垂れている。水たまりを避けるために歩幅を多く取ろうとして、しかし水たまりにスニーカーを突っこんでしまう。自分の足が思ったより遠くに届いていなかった。白いスニーカーはさらに泥水で茶色く汚れる。この汚れはもうどうやったって落とすことはできない。泣きたいのを通りこして、笑いだしたくなる。

「彼に会っていなかったら、わたしはどうなっていただろうか、とよく考える。わたしのような女をつかまえていてくれる人は、彼のほかにいただろうか。
 幼いころからわたしは、まぬけな女だった。おまけに神経質で、すぐに興奮する。
 せっかく旅行に連れていってもらっても、つまらなそうにだまりこくっているかと思えば、急におうちに帰りたいとぐずりだす。話しかけられても返事はしないし、近所の人にも挨拶はできない。毎日のようにいじめられて帰ってくるし、そのくせ熱があってもかくして学校に行こうとする。好き嫌いははげしいし、気にいらない服は絶対に着ようとしない。宿題は忘れる。せっかくおみやげに人形をもらっても、気にいらなければ押入の奥に隠してしまう。彼に会っていなかったら、わたしはどうなっていたのだろう。わたしが日々しでかすことの後始末を、彼はきちんとやっていってくれる。彼がいなければ、わたしはいったいどうしていいのかわからない」

〔ト書き〕
 役者、客席にはいっていく。

 ぬかるんだ道を、彼女は八十歳を超えてようやく抜けだすことができた。

「わたしが眠りにつくとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない」

 灯台の、なかに入る木の扉は、とても重くて、湿っている。

「わたしが眠りにつくとき、彼はいつも目をさましている」

 緑青が浮いている真鍮の取手をガチャリと押しさげ、扉を手前に引く。

「わたしが目をさますとき、彼はもう目をさましている。わたしが目をさましたとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない」

 灯台のなかは薄暗く、光の施設のくせに光を拒絶しているようにすら見える。

「わたしがふと夜中に目をさましたとき、彼はきっと起きている。わたしが夜中に目をさましたとき、彼が眠っているのを、わたしは見たことがない」

 薄暗い灯台のなかに足を踏みいれると、最初に見えるのは壁にそって上へと伸びている螺旋状の階段だ。

「そんなとき、わたしは彼にたずねる。あなたは眠らないの? と」

 階段の奥にはキッチンや食料倉庫があり、彼女はそこに取ってきたばかりの玉子を置きに行く。

「彼はこたえる。ああ、ぼくは眠らないのだ、と」

 玉子を置いた彼女は、階段のところに戻り、それを一歩一歩のぼり始める。

「わたしは彼にたずねる。あなたはどうして眠らないの? と」

 筋肉が衰えた私は、階段の一歩をのぼるにもとても時間がかかる。右足の膝をゆっくりとあげ、つま先を階段の上に乗せる。

「すると彼はこたえる。きみを見ているのだ、と。きみを見ていなければならないから、ぼくは眠らないのだ。ぼくはきみを見ていなければならないから、けっして眠らないのだ」

 つま先が段に乗ったら、右足に体重を乗せて力をこめる。膝の痛みをこらえながら、ゆっくりと身体を上に引きあげる。

「きみはなにも心配することはない。なにも気にしなくてもいいんだ」

 どうしてこんなに筋肉が衰えてしまったんだろう、と彼女はかんがえる。ついさっきまで彼女は14歳で、学校でいじめられることを気にしながら、鶏の世話をしていたというのに。でも、だれだって歳は取るし、運が悪ければ病気になる。いや、病気になるのは運とは関係がないことかもしれない。

「ぼくはけっして眠らずに、ここにこうやっているから。わたしは彼のその言葉を信じることができる」

 彼女は一歩一歩、息をあえがせながら、階段をのぼっていく。
 いつの間にか夜が近づいている。
 でも、彼は眠らない人なのだ。

2010年12月14日火曜日

特殊相対性の女(1)

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----- 役者と朗読者のためのシナリオ -----

〔ト書き/ここは読まない〕
 舞台上の装置は、下手側に置かれたグランドピアノと、中央前方に置かれた椅子のみ。
 後方の壁は映像投影用の壁面を兼ねる。そこへプロジェクターでスティル映像が投影される。朗読者と役者は投影光とときに重なることがあるが、かまわない。
 映像は客入れのときから投影されているが、舞台と客席の明かりであまり目立たない。

〔ト書き〕
 朗読とピアノ、板付き。
 客電、落とす。
 舞台照明、落とす。映像が壁面に浮び上がる。その前に朗読が座っている。
 役者、上手より舞台へ。
 ピアノ演奏。
 ピアノが終わったら、役者、上手側で。

「もう九月だというのに、からっからに干上がったフライパンの上みたいな、流しこんだ油すら焼きあがってしまったような猛暑がつづいてた。ときどき雲が集まってきて、空が暗くなり、そして真っ黒になり、手をのばせば届きそうなほどの低いところまで雲のかたまりが降りてきても、はぐらかすみたいに雨は降ってこなくて、砂漠に放り出された裸足の女のように手をむなしく差しのばしたりしてみる日々がつづいてた。それなのに、今朝。そう、今朝。まだ日も出ない時間。あっけなくザアッとやってきて、開けっ放しの窓際がびしょぬれになってしまった。でもうれしくて、朝の鶏の餌やりに出たとき、買ってもらったばかりの真っ白なスニーカーを泥のあぜ道でよごしてしまった。
 この汚れはどうやったってもう取れないって知ってる。
 泣きたい気分」

〔ト書き〕
 役者、下手側へ。
 役者がひとりで女を演じ、朗読がト書きの部分を読む。舞台上には役者と朗読とピアニストがいるけれど、朗読はあたかも舞台の外側にいるみたいにテキストを読む。

「歯をくいしばる。治療をほったらかしにしてある奥歯が痛む。母にもらった歯の治療代は、全部たこ焼きを買うのに使ってしまった。自分が食べて、それからクラスメートにもふるまった。その日一日、いじめられずにすんだ。
「風邪じゃないんだから。虫歯は自然に治ったりはしないんだからね、絶対に」
 母がいう。そのとおりだろう。でも、知ったことじゃない。まだ十四でしかない彼女には、手のつけようがなくなった虫歯を抱えている自分の姿なんて、想像もつかない。
 知るもんか」

 灯台が立っている岩場に打ちあたる波しぶきは、短かった夏のきらめきをすでに失い、これからすばやくやってくる冬の陰をもうちらつかせはじめている。のぞきこめば、海中の岩場は深く切れこんで、暗く冷たい世界への魅惑をたたえている。彼女がいつからそこに住んでいるのかは知らない。今朝も彼女はいつものように灯台の頑丈な木戸を押しあけ、外に出てくると、木戸が風でバタンと閉じてしまわないように片手で押さえてゆっくりと閉めながら、もう一方の手で帽子を押さえる。木戸を閉めると、その手でスカートの裾を押さえる。岩場の上に立っている灯台からは頼りない小道が灌木の林のなかへとつづいている。明け方前にやってきた激しい通り雨で、小道はぬかるんでいる。彼女は水たまりを避けながら道を急ぎ、灌木の林を抜けて畑へと出る。
 いまは日はのぼっているが、海面をおおったもやをすかしてぼんやりと直視できるほどの明るさしかない。

「意地になって歯を食いしばりながら、制服のスカートをめくりあげる。そうしなければ、鶏たちにスカートを汚される。鶏の世話を終えてから制服に着がえればいいのはわかっている。でも、そうすると学校に遅刻する。遅刻常習者のリストにあげられている彼女は、もうこれ以上遅刻するわけにはいかない。それならば早起きすればいいのに。どうしても早起きできない。いつもギリギリまで布団にしがみついている。今日もそうだ。明け方見た、彼の夢のせいだ。夢のなかであこがれの彼は、今日もまたあのいじめっ子の女と手をつないで歩いていた。
 彼の手。
 死ね、女」

 畑は灌木の林と、赤松林とに囲まれたちっぽけな空き地にある。松林は大昔に植えられたもので、彼女がここにやってきたときにはすでに荒れ放題だった。畑も手がつけられないほど荒れていたが、それでも一本、二本と畝を作り、作物を植え、草を刈るうちに、いまでは少しは畑らしくなっていた。畝はいま、五本ならんでいて、あと二、三本も収穫すれば終わりになるとうもろこしと、収穫が終わったゴーヤの蔓の固まりが、縮れ毛の女の雨上がりの長い髪のようになってわだかまっている。モロッコ豆の蔓もはびこっているが、これはまだまだ収穫できる。
 畝の端には金網で覆われた鶏小屋がある。彼女が近づいていくと、餌の予感に鶏たちがものすごく興奮して鳴き声をあげる。粗末な扉をぎしぎしあけて小屋にくぐり入ると、鶏たちはところかまわず羽ばたきしながら走りまわる。

「死ね、女」

 餌箱の近くにいた一匹をけとばしてから、彼女は飼料の袋の中身をさかさまにぶちまけた。粉が舞いあがって、制服の上着を白くよごす。
 いそいでかかえてきたカゴに今朝の玉子を拾いあつめていく。
 いくつか玉子を集めた彼女は、鶏小屋を出てようやく一息つく。
 木立の上に輪郭のぼやけた太陽が見える。その前をウミネコがせわしなく羽ばたきながら横切っていく。

「手にまだ粉がついていた。余計に上着が白くよごれてしまった。なにかをしくじって、その失敗を取りかえそうとして余計に傷口を広げてしまう。私の人生はその連続だ。いままでもそうだったし、これからもきっとそうなんだろう」

 季節はすでに秋に差しかかっているが、長くつづいた強い日射しのせいで、盛りをすぎた畑の作物も、畝にそって伸び放題になっている雑草も、葉をカサカサと枯れさせてうなだれている。やがて作物も雑草も茶色く枯れはてていく。だから雑草がはびこってももう抜く気はない。夏前はあれほど抜いても抜いても生えてくる雑草に手を焼いていたというのに。
 彼女は畝のあいだを通って灯台のほうへと戻っていく。そしてふと、彼のことをかんがえる。クリスマスまでには必ず戻ってくると約束して去っていった彼。
 彼が去っていった方角を、彼女はながめて目をほそめる。ウミネコはもう見えなかった。そのかわり、はるかかなたを漁船が一隻、ぽつんと孤独に横切っていくのが見える。それがどんな船であろうと、ちっぽけな漁船であろうと貨物船であろうと、巨大なタンカーであろうと、いつも彼のことを思いだしてしまう。あの漁船はどこへ行くのだろうか。これから漁に出るのだろうか。それとも漁からもどってきたところなのだろうか。何人乗っているのだろうか。船員は若いのだろうか、あるいは歳を取っているのだろうか。
 彼が去ってから何年も、何十年もたったような気がする。クリスマスまでには必ず戻るといって、自分の船に乗り、南の水平線のかなたへと消えていった彼。いまごろどこでどうしているだろうか。

2010年3月20日土曜日

群読シナリオ「Kenji」(3)

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----- 群読のためのシナリオ -----

  群読シナリオ「Kenji」(3)


  ピアノ、入る。
  ここから「ポエティック・インプロヴィゼーション」。
  ピアノとBとCによる。

(B・静)
 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといつしよに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

(C・静)
 これらは二十二箇月の
 過去とかんずる方角から
 紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
 ここまでたもちつゞけられた
 かげとひかりのひとくさりづつ
 そのとほりの心象スケツチです

(B・動)
 これらについて人や銀河や修羅や海胆は
 宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
 それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
 それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
 たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
 記録されたそのとほりのこのけしきで
 それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
 ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
 みんなのおのおののなかのすべてですから)

(C・動)
 けれどもこれら新生代沖積世の
 巨大に明るい時間の集積のなかで
 正しくうつされた筈のこれらのことばが
 わづかその一点にも均しい明暗のうちに
  (あるいは修羅の十億年)
 すでにはやくもその組立や質を変じ
 しかもわたくしも印刷者も
 それを変らないとして感ずることは
 傾向としてはあり得ます

(B・静)
 すべてこれらの命題は
 心象や時間それ自身の性質として
 第四次延長のなかで主張されます

(C・静)
 大正十三年一月廿日
 宮沢賢治

  演奏、そのまま星めぐりの歌(Bパターン)へ。
  歌と演奏。
  一番が終わったら、ピアノBGMへ。
  全員、始めの位置へ。Aだけ中央へ。

A「夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。もう山
 焼けの火はたばこの吸殻のくらいにしか見えません。よだかはのぼってのぼって行きま
 した。
 寒さにいきはむねに白く凍りました。空気がうすくなった為に、はねをそれはそれはせ
 わしくうごかさなければなりませんでした。
 それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りません。つくいきはふいごのようで
 す。寒さや霜がまるで剣のようによだかを刺しました。よだかははねがすっかりしびれ
 てしまいました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました」

  全員、ハミングで星めぐりの歌を静かに。
  歌いながら、全員Aのまわりに集まってくる。ひとかたまりになる。

A「そうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼってい
 るのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただ
 こころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ました
 が、たしかに少しわらって居(お)りました。
 それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだ
 がいま燐(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見まし
 た。
 すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになって
 いました。
 そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
 今でもまだ燃えています」

  星めぐりの歌二番を歌手が歌う。
  歌が終わったら、かたまったまま、礼。
  終わり。

2010年3月19日金曜日

群読シナリオ「Kenji」(2)

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----- 群読のためのシナリオ -----

  群読シナリオ「Kenji」(2)


A「(つづけて)すると胸がさらさらと波をたてるように思いました。けれどもまた
 じっとその鳴ってほえてうなって、かけて行く風をみていますと、今度は胸がどかどか
 となってくるのでした。きのうまで丘や野原の空の底に澄みきってしんとしていた風
 が、けさ夜あけ方にわかにいっせいにこう動き出して、どんどんどんどんタスカロラ海
 溝の北のはじをめがけて行くことを考えますと、もう一郎は顔がほてり、息もはあはあ
 となって、自分までがいっしょに空を翔けて行くような気持ちになって、大急ぎでうち
 の中へはいると胸を一ぱいはって、息をふっと吹きました」

歌手「(呼びかけるように)ケンジ」

  ピアノ音(ジングル風一発音)。

全員「(動きながら)雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク
 決シテ瞋ラズ
 イツモシヅカニワラッテヰル」

D「霧がじめじめ降っていた。諒安は、その霧の底をひとり、険しい山谷の、刻みを
 渉って行きました。(これはこれ 惑う木立の 中ならず しのびをならう 春の道
 場)。どこからかこんな声がはっきり聞えて来ました。諒安は眼をひらきました。霧が
 からだにつめたく浸み込むのでした。全く霧は白く痛く竜の髯の青い傾斜はその中にぼ
 んやりかすんで行きました。諒安はとっととかけ下りました。そしてたちまち一本の灌
 木に足をつかまれて投げ出すように倒れました。諒安はにが笑いをしながら起きあがり
 ました。いきなり険しい灌木の崖が目の前に出ました。諒安はそのくろもじの枝にとり
 ついてのぼりました。くろもじはかすかな匂を霧に送り霧は俄かに乳いろの柔らかなや
 さしいものを諒安によこしました。諒安はよじのぼりながら笑いました。その時霧は大
 へん陰気になりました。そこで諒安は霧にそのかすかな笑いを投げました。そこで霧は
 さっと明るくなりました。そして諒安はとうとう一つの平らな枯草の頂上に立ちまし
 た」

全員(D以外)「(動きながら)一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 ヨクミキキシワカリ
 ソシテワスレズ」

D「そこは少し黄金いろでほっとあたたかなような気がしました。諒安は自分のからだ
 から少しの汗の匂いが細い糸のようになって霧の中へ騰って行くのを思いました。その
 汗という考から一疋の立派な黒い馬がひらっと躍り出して霧の中へ消えて行きました。
 霧が俄かにゆれました。そして諒安はそらいっぱいにきんきん光って漂う琥珀の分子の
 ようなものを見ました。それはさっと琥珀から黄金に変りまた新鮮な緑に遷ってまるで
 雨よりも滋く降って来るのでした」

全員「(動きながら)野原ノ松ノ林ノ
 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ」

D「(おっかぶせるように)いつか諒安の影がうすくかれ草の上に落ちていました。一
 きれのいいかおりがきらっと光って霧とその琥珀との浮遊の中を過ぎて行きました。と
 思うと俄かにぱっとあたりが黄金に変りました。霧が融けたのでした。太陽は磨きたて
 の藍銅鉱のそらに液体のようにゆらめいてかかり融けのこりの霧はまぶしく蝋のように
 谷のあちこちに澱みます。

全員「(動きながら)東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ」

D「(おっかぶせるように)すぐ向うに一本の大きなほおの木がありました。その下に
 二人の子供が幹を間にして立っているのでした。その子供らは羅(うすもの)をつけ瓔
 珞(ようらく)をかざり日光に光り、すべて断食のあけがたの夢のようでした」

全員「(動きながら)西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ」

D「ところがさっきの歌はその子供らでもないようでした。それは一人の子供がさっき
 よりずうっと細い声でマグノリアの木の梢を見あげながら歌い出したからです」

  全員、その場に静止して。
  偶然止まったその場所で。

C「サンタ、マグノリア、枝にいっぱいひかるはなんぞ」
D「南ニ死ニサウナ人アレバ、行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」
歌手「天に飛びたつ銀の鳩」
D「北ニケンクヮヤソショウガアレバ、ツマラナイカラヤメロトイヒ」
C「セント、マグノリア、枝にいっぱいひかるはなんぞ」
D「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」
歌手「天からおりた天の鳩」
D「サムサノナツハオロオロアルキ」
A「マグノリアの木は寂静印です。ここはどこですか」
D「ミンナニデクノボートヨバレ」
C「私たちにはわかりません」
D「ホメラレモセズ」
C・歌手「そうです、マグノリアの木は寂静印です」
A「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は」
C・歌手「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感
 じているのですから」
A「そうです、ありがとう、私です、またあなたです。なぜなら私というものもまたあ
 なたの中にあるのですから」
D「クニモサレズ」
A「ほんとうにここは平らですね」
B「ええ、平らです、けれどもここの平らかさはけわしさに対する平らさです。ほん
 とうの平らさではありません」
A「そうです。それは私がけわしい山谷を渡ったから平らなのです」
B「ごらんなさい、そのけわしい山谷にいまいちめんにマグノリアが咲いていま
 す」
A「ええ、ありがとう、ですからマグノリアの木は寂静です。あの花びらは天の山羊の
 乳よりしめやかです。あのかおりは覚者たちの尊い偈(げ)を人に送ります」
B「それはみんな善です」
A「誰の善ですか」
B「覚者の善です。そうです、そしてまた私どもの善です。覚者の善は絶対です。そ
 れはマグノリアの木にもあらわれ、けわしい峯のつめたい巌にもあらわれ、谷の暗い密
 林もこの河がずうっと流れて行って氾濫をするあたりの度々の革命や饑饉や疫病やみん
 な覚者の善です。けれどもここではマグノリアの木が覚者の善でまた私どもの善です」
全員「サウイフモノニ、ワタシハナリタイ」

2010年3月18日木曜日

群読シナリオ「Kenji」(1)

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----- 群読のためのシナリオ -----

  群読シナリオ「Kenji」(1)

   原作:宮沢賢治/構成:水城雄


  出演 歌手
     ピアノ
     朗読A~D


  全員、音楽教室へ入場。
  ピアノ、中央。
  向かって左からA、D、ピアノをはさみB、C、歌手。
  歌手のみマイクスタンド使用。

  ピアノ音、先行(ジングル風一発音)。

歌手「(生徒たちに呼びかけるように)ケンジ」

  ピアノ音、もう一度。

全員(歌手も)「雨ニモマケズ、風ニモマケズ。雨ニモマケズ、風ニモマケズ。雨ニモマ
 ケズ、風ニモマケズ……(何度もくりかえす)」

  ひとり抜け、次のセリフに移行していく。
  またひとり抜け、ひとり抜け、というふうに、気がついたら全員、次のセリフに以降
  している。

全員「どっどどどどうど、どどうどどどう。どっどどどどうど、どどうどどどう。どっど
 どどどうど、どどうどどどう……(何度もくりかえす)」

  全員がそろったところで次第に声が小さくなっていく。
  そしてささやき声になり、

全員「どっどどどどうど、どどうどどどう。青いくるみも吹きとばせ。すっぱいかりんも
 吹きとばせ。どっどどどどうど、どどうどどどう」

  その間にA、中央へ(ピアノ前)。

A「先ごろ、三郎から聞いたばかりのあの歌を一郎は夢の中でまたきいたのです。
 びっくりしてはね起きて見ると、外ではほんとうにひどく風が吹いて、林はまるでほえ
 るよう、あけがた近くの青ぐろいうすあかりが、障子や棚(たな)の上のちょうちん箱
 や、家じゅういっぱいでした。一郎はすばやく帯をして、そして下駄(げた)をはいて
 土間をおり、馬屋の前を通ってくぐりをあけましたら、風がつめたい雨の粒といっしょ
 にどっとはいって来ました」
C「馬屋のうしろのほうで何か戸がばたっと倒れ、馬はぶるっと鼻を鳴らしました」
A「一郎は風が胸の底までしみ込んだように思って、はあと息を強く吐きました。そし
 て外へかけだしました。
 外はもうよほど明るく、土はぬれておりました。家の前の栗(くり)の木の列は変に青
 く白く見えて、それがまるで風と雨とで今洗濯(せんたく)をするとでもいうように激
 しくもまれていました」
C「青い葉も幾枚も吹き飛ばされ、ちぎられた青い栗のいがは黒い地面にたくさん落ち
 ていました。空では雲がけわしい灰色に光り、どんどんどんどん北のほうへ吹きとばさ
 れていました」
A「遠くのほうの林はまるで海が荒れているように、ごとんごとんと鳴ったりざっと聞
 こえたりするのでした。一郎は顔いっぱいに冷たい雨の粒を投げつけられ、風に着物を
 もって行かれそうになりながら、だまってその音をききすまし、じっと空を見上げまし
 た」

  ピアノ入る。
  A、元の位置へ。
  歌手、ピアノ横へ。
  星めぐりの歌(Aパターン)。

 あかいめだまの さそり
 ひろげた鷲の  つばさ
 あをいめだまの 小いぬ、
 ひかりのへびの とぐろ。

 オリオンは高く うたひ
 つゆとしもとを おとす、
 アンドロメダの くもは
 さかなのくちの かたち。

 大ぐまのあしを きたに
 五つのばした  ところ。
 小熊のひたいの うへは
 そらのめぐりの めあて。

  B、C、中央へ。
  歌と演奏が続く中で、セリフ入る。

B「この地図はどこで買ったの。黒曜石でできてるねえ」
C「銀河ステーションで、もらったんだ。君もらわなかったの」
B「ああ、ぼく銀河ステーションを通ったろうか。いまぼくたちの居るとこ、ここだ
 ろう」
C「そうだ。おや、あの河原は月夜だろうか」
D「そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるで
 いちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした」
B「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ」
D「ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい愉快になって、足をこつこつ
 鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹きながら一生けん命延びあが
 って、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、は
 っきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラ
 スよりも水素よりもすきとおって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波
 をたてたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野
 原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立っていたのです。遠いも
 のは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白
 く少しかすんで、或いは三角形、或いは四辺形、あるいは電や鎖の形、さまざまになら
 んで、野原いっぱい光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をや
 けに振りました。するとほんとうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがや
 く三角標も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたり顫えたりしました」
B「ぼくはもう、すっかり天の野原に来た。それにこの汽車石炭をたいていないねえ」
C「アルコールか電気だろう」
D「ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、そらのすすきの風にひるがえる中
 を、天の川の水や、三角点の青じろい微光の中を、どこまでもどこまでもと、走って行
 くのでした。
C「ああ、りんどうの花が咲いている。もうすっかり秋だねえ」
D「線路のへりになったみじかい芝草の中に、月長石ででも刻まれたような、すばらし
 い紫のりんどうの花が咲いていました」
B「ぼく、飛び下りて、あいつをとって、また飛び乗ってみせようか」
C「もうだめだ。あんなにうしろへ行ってしまったから」
A「カムパネルラが、そう云ってしまうかしまわないうち、次のりんどうの花が、いっ
 ぱいに光って過ぎて行きました。と思ったら、もう次から次から、たくさんのきいろな
 底をもったりんどうの花のコップが、湧くように、雨のように、眼の前を通り、三角標
 の列は、けむるように燃えるように、いよいよ光って立ったのです」

  音楽は途中でFO。
  別の音楽に変わる(器楽のみ)。

2010年1月30日土曜日

群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(3)

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----- 群読のためのシナリオ -----

  群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(3)

   原作:夏目漱石・太宰治/構成:水城雄


  B、集団から抜け出る。

B「こんな夢を見た。腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな
 声でもう死にますと云う」
E「女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている」
B「真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうて
 い死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。
 自分も確にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上か
 ら覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちり
 と眼を開けた」
E「大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。そ
 の真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる」
B「自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのか
 と思った。それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大
 丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうにたまま、やっぱ
 り静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った」
D「じゃ、私の顔が見えるかい」
B「と一心に聞くと」
C・野々宮「見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんか」
B「と、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしな
 がら、どうしても死ぬのかなと思った。しばらくして、女がまたこう云った」
E「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ち
 て来る星の破片(かけ)を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下
 さい。また逢いに来ますから」
B「自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた」

  C、出る。

C「日が出るでしょう」

  D、出る。

C・D「それから日が沈むでしょう」
C・D・E「それからまた出るでしょう」
C・D・E・野々宮「そうしてまた沈むでしょう」
B「赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、あなた、待っていら
 れますか。自分は黙って首肯いた。女は静かな調子を一段張り上げて、「百年待
 っていて下さい」と思い切った声で云った。「百年、私の墓の傍(そば)に坐っ
 て待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」自分はただ待っていると答えた。
 すると、黒い眸のなかに鮮に見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水
 が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じ
 た。長い睫の間から涙が頬へ垂れた」
全員「もう死んでいた」

  全員(野々宮も)、その場にうずくまる。
  D、立ちあがる。

D「結局、僕の死は、自然死です。人は、思想だけでは、死ねるものでは無いん
 ですから」

  野々宮、立ちあがる。

野々宮「百年はもう来ていたんだなとこの時始めて気がついた」
D「それから、一つ、とてもてれくさいお願いがあります。ママのかたみの麻の
 着物。あれを姉さんが、直治が来年の夏に着るようにと縫い直して下さったでし
 ょう。あの着物を、僕の棺にいれて下さい。僕、着たかったんです。夜が明けて
 来ました。永いこと苦労をおかけしました。さようなら。ゆうべのお酒の酔いは、
 すっかり醒めています。僕は、素面で死ぬんです。もういちど、さようなら。姉
 さん。僕は、貴族です」

  D、うずくまる。

野々宮「はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計が二つ目をチーンと打っ
 た」

  E、立ちあがる。

E「彼は千代子という女性の口を通して幼児の死を聞いた」
野々宮「おれは人殺であったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石
 地蔵のように重くなった」
E「千代子によって叙せられた「死」は、彼が世間並に想像したものと違って、
 美くしい画を見るようなところに、彼の快感を惹いた。けれどもその快感のうち
 には涙が交っていた。苦痛を逃れるために已を得ず流れるよりも、悲哀をできる
 だけ長く抱いていたい意味から出る涙が交っていた。彼は独身ものであった。小
 児に対する同情は極めて乏しかった。それでも美くしいものが美くしく死んで美
 くしく葬られるのは憐れであった。彼は雛祭の宵に生れた女の子の運命を、あた
 かも御雛様のそれのごとく可憐に聞いた」

  E、うずくまる。

野々宮「こんな悲い話を、夢の中で母から聞いた」

  B、立ちあがる。

B「しかし私は今その要求を果たしました。もう何にもする事はありません。こ
 の手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とく
 に死んでいるでしょう。私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。
 しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせ
 たくないのです。妻が己れの過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存して
 おいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生き
 ている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中に
 しまっておいて下さい」

  B、うずくまる。
  C、立ちあがる。

C「「泣きましたか?」「いいえ、泣くというより、……だめね、人間も、ああ
 なっては、もう駄目ね」「それから十年、とすると、もう亡くなっているかも知
 れないね。これは、あなたへのお礼のつもりで送ってよこしたのでしょう。多少、
 誇張して書いているようなところもあるけど、しかし、あなたも、相当ひどい被
 害をこうむったようですね。もし、これが全部事実だったら、そうして僕がこの
 ひとの友人だったら、やっぱり脳病院に連れて行きたくなったかも知れない」
「あのひとのお父さんが悪いのですよ」何気なさそうに、そう言った。「私たちの
 知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まな
 ければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」
野々宮「けれども爺さんは、とうとう上がって来なかった。庄太郎は助かるまい。
 パナマは健さんのものだろう」

  Cも野々宮もうずくまる。
  全員、ゆっくり立ちあがり、客席に向かって一列にならぶ。

B「吾輩は猫である」
C「恥の多い生涯を送って来ました」
B「名前はまだ無い」
C「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」
D「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく
 に人の世は住みにくい」

  礼。
  音楽、終わり。

  終わり。

2010年1月29日金曜日

群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(2)

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- 群読のためのシナリオ -----

  群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(2)

   原作:夏目漱石・太宰治/構成:水城雄


  音楽演奏。
  四人、その場でゆっくりと回転する。
  回転、ストップ。

B「私《わたくし》はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生
 と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その
 方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ
「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字
 などはとても使う気にならない」
D「朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母さまが、「あ」」
B「私がその掛茶屋で先生を見た時は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海
 へ入ろうとするところであった」
D「と幽《かす》かな叫び声をお挙げになった」
B「私はその時反対に濡れた身体を風に吹かして水から上がって来た。二人の間
 には目を遮る幾多の黒い頭が動いていた。特別の事情のない限り、私はついに先
 生を見逃したかも知れなかった。それほど浜辺が混雑し、それほど私の頭が放漫
 であったにもかかわらず、私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西洋
 人を伴れていたからである」
D「「髪の毛?」スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。
「いいえ」お母さまは、何事も無かったように、またひらりと一さじ、スウプをお
 口に流し込み、すましてお顔を横に向け、お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送
 り、そうしてお顔を横に向けたまま、またひらりと一さじ、スウプを小さなお唇
 のあいだに滑り込ませた。ヒラリ、という形容は、お母さまの場合、決して誇張
 では無い。婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、てんでまるで、
 違っていらっしゃる。弟の直治《なおじ》がいつか、お酒を飲みながら、姉の私
 に向ってこう言った事がある」
C「僕も画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」
D「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。爵位が無くても、
 天爵というものを持っている立派な貴族のひともあるし、おれたちのように爵位
 だけは持っていても、貴族どころか、賤民にちかいのもいる。岩島なんてのはあ
 んなのは、まったく、新宿の遊廓の客引き番頭よりも、もっとげびてる感じじゃ
 ねえか」
C「自分はヒラメの家を出て、新宿まで歩き、懐中の本を売り、そうして、やっ
 ぱり途方にくれてしまいました。自分は、皆にあいそがいいかわりに、「友情」
 というものを、いちども実感した事が無く、堀木のような遊び友達は別として、
 いっさいの附き合いは、ただ苦痛を覚えるばかりで、その苦痛をもみほぐそうと
 して懸命にお道化を演じて、かえって、へとへとになり、わずかに知合っている
 ひとの顔を、それに似た顔をさえ、往来などで見掛けても、ぎょっとして、一瞬、
 めまいするほどの不快な戦慄に襲われる有様で、人に好かれる事は知っていても、
 人を愛する能力に於《お》いては欠けているところがあるようでした。(もっと
 も、自分は、世の中の人間にだって、果して、「愛」の能力があるのかどうか、
 たいへん疑問に思っています)そのような自分に、所謂「親友」など出来る筈は
 無く、そのうえ自分には、「訪問《ヴィジット》」の能力さえ無かったのです。
 他人の家の門は、自分にとって、あの神曲の地獄の門以上に薄気味わるく、その
 門の奥には、おそろしい竜みたいな生臭い奇獣がうごめいている気配を、誇張で
 なしに、実感せられていたのです」

  まるでビデオのリプレイのように。

B「吾輩は猫である」
C「恥の多い生涯を送って来ました」
B「名前はまだ無い」
C「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」
D「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく
 に人の世は住みにくい」

  以下の途中から、野々宮が出てきて、全員のロープをほどいていく。
  ほどき終えたら、元の位置に戻る。

B「ところへ知らん人が突然あらわれた。唐辛子の干してある家の陰から出て、
 いつのまにか川を向こうへ渡ったものとみえる。二人のすわっている方へだんだ
 ん近づいて来る。洋服を着て髯をはやして、年輩からいうと広田先生くらいな男
 である。この男が二人の前へ来た時、顔をぐるりと向け直して、正面から三四郎
 と美禰子をにらめつけた。その目のうちには明らかに憎悪の色がある。三四郎は
 じっとすわっていにくいほどな束縛を感じた。男はやがて行き過ぎた。その後影
 を見送りながら、三四郎は」
野々宮「広田先生や野々宮さんはさぞあとでぼくらを捜したでしょう」
B「とはじめて気がついたように言った。美禰子はむしろ冷やかである」
E「なに大丈夫よ。大きな迷子ですもの」
野々宮「迷子だから捜したでしょう」
B「と三四郎はやはり前説を主張した。すると美禰子は、なお冷やかな調子で」
E「責任をのがれたがる人だから、ちょうどいいでしょう」
野々宮「だれが? 広田先生がですか」
B「美禰子は答えなかった」
野々宮「野々宮さんがですか」
B「美禰子はやっぱり答えなかった」
野々宮「もう気分はよくなりましたか。よくなったら、そろそろ帰りましょうか」
B「美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰をまた草の上におろした。そ
 の時三四郎はこの女にはとてもかなわないような気がどこかでした。同時に自分
 の腹を見抜かれたという自覚に伴なう一種の屈辱をかすかに感じた」
E「迷子」
B「女は三四郎を見たままでこの一言を繰り返した。三四郎は答えなかった」
E「迷子の英訳を知っていらしって」
B「三四郎は知るとも、知らぬとも言いえぬほどに、この問を予期していなかっ
 た」
E「教えてあげましょうか」
野々宮「ええ」

  E、集団から抜け出る。

E「ストレイ・シープ。わかって?」

  全員、ストップモーション。
  短く音楽演奏。

C「けれども、その頃、自分に酒を止めよ、とすすめる処女がいました。「い
 けないわ、毎日、お昼から、酔っていらっしゃる」バアの向いの、小さい煙草
 屋の十七、八の娘でした。ヨシちゃんと言い、色の白い、八重歯のある子でし
 た。自分が、煙草を買いに行くたびに、笑って忠告するのでした。「なぜ、い
 けないんだ。どうして悪いんだ。あるだけの酒をのんで、人の子よ、憎悪を消
 せ消せ消せ、ってね、むかしペルシャのね、まあよそう、悲しみ疲れたるハー
 トに希望を持ち来すは、ただ微醺《びくん》をもたらす玉杯なれ、ってね。わ
 かるかい」「わからない」「この野郎。キスしてやるぞ」「してよ」」
D「この世にまたと無いくらいに、とても、とても美しい顔のように思われ、
 恋があらたによみがえって来たようで胸がときめき、そのひとの髪を撫でなが
 ら、私のほうからキスをした」

2010年1月28日木曜日

群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(1)

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----- 群読のためのシナリオ -----

  群読シナリオ「前略・な・だ・早々」(1)

   原作:夏目漱石・太宰治/構成:水城雄


  照明、落とし。最小限まで。
  演奏陣二人、板付き。音楽、先行。
  照明、第一段階にアップ。
  控えから五人が出てくる。全員喪服。ただし髪は「喪」とは不釣り合いに鮮や
  かに飾っている。
  先頭、A。ロープで胸の上を縛られた四人(BCDE)を連れて出てくる。
  全員、所定の位置へ。
  音楽、変化。

  照明、第二段階にアップ。
  以下、まるでひとつの小説のように調子を合わせて。

B「吾輩は猫である」
C「恥の多い生涯を送って来ました」
B「名前はまだ無い」
C「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」
D「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく
 に人の世は住みにくい」

  以下、たたみかけるように。

E「敬太郎はそれほど験の見えないこの間からの運動と奔走に少し厭気が注して
 来た」
D「人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りに
 ちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、
 越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世
 よりもなお住みにくかろう」

  音楽、変化。
  以下、E、怒り表現にて。

E「彼は今日まで、俗にいう下町生活に昵懇《なじみ》も趣味も有《も》ち得な
 い男であった。時たま日本橋の裏通りなどを通って、身を横にしなければ潜《く
 ぐ》れない格子戸だの、三和土の上から訳もなくぶら下がっている鉄灯籠だの、
 上り框の下を張り詰めた綺麗に光る竹だの、杉だか何だか日光が透って赤く見え
 るほど薄っぺらな障子の腰だのを眼にするたびに、いかにもせせこましそうな心
 持になる。こう万事がきちりと小さく整のってかつ光っていられては窮屈でたま
 らないと思う。これほど小ぢんまりと几帳面に暮らして行く彼らは、おそらく食
 後に使う楊枝の削り方まで気にかけているのではなかろうかと考える。そうして
 それがことごとく伝説的の法則に支配されて、ちょうど彼らの用いる煙草盆のよ
 うに、先祖代々順々に拭き込まれた習慣を笠に、恐るべく光っているのだろうと
 推察する。須永の家へ行って、用もない松へ大事そうな雪除をした所や、狭い庭
 を馬鹿丁寧に枯松葉で敷きつめた景色などを見る時ですら、彼は繊細な江戸式の
 開花の懐に、ぽうと育った若旦那を聯想しない訳に行かなかった。第一須永が角
 帯をきゅうと締めてきちりと坐る事からが彼には変であった」

  まるでビデオのリプレイのように。

B「吾輩は猫である」
C「恥の多い生涯を送って来ました」
B「名前はまだ無い」
C「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」
D「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく
 に人の世は住みにくい」

  以下、E、悲しみ表現にて。

E「そこへ長唄の好きだとかいう御母さんが時々出て来て、滑っこい癖にアクセ
 ントの強い言葉で、舌触の好い愛嬌を振りかけてくれる折などは、昔から重詰に
 して蔵の二階へしまっておいたものを、今取り出して来たという風に、出来合以
 上の旨さがあるので、紋切形とは無論思わないけれども、幾代もかかって辞令の
 練習を積んだ巧みが、その底に潜んでいるとしか受取れなかった」

野々宮「「姉さんもう少しだから我慢なさい。今に女中が灯を持って来るでしょう
 から」自分はこう云って、例の見当から嫂の声が自分の鼓膜に響いてくるのを暗
 に予期していた。すると彼女は何事をも答えなかった。それが漆に似た暗闇の威
 力で、細い女の声さえ通らないように思われるのが、自分には多少無気味であっ
 た。しまいに自分の傍にたしかに坐っているべきはずの嫂の存在が気にかかり出
 した。
B「吾輩は御馳走も食わないから別段肥りもしないが、まずまず健康で跛にもな
 らずにその日その日を暮している。鼠は決して取らない。おさんは未(いま)だ
 に嫌いである。名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯
 この教師の家で無名の猫で終るつもりだ。
野々宮「「姉さん」
 嫂はまだ黙っていた。自分は電気灯の消えない前、自分の向うに坐っていた嫂の
 姿を、想像で適当の距離に描き出した。そうしてそれを便りにまた「姉さん」と
 呼んだ。
「何よ」
 彼女の答は何だか蒼蠅そうであった。
「いるんですか」
「いるわあなた。人間ですもの。嘘だと思うならここへ来て手で障って御覧なさい」
 自分は手捜りに捜り寄って見たい気がした。けれどもそれほどの度胸がなかった。
B「吾輩は険呑になったから少し傍を離れる。「その朗読会さ。せんだってトチ
 メンボーを御馳走した時にね。その話しが出たよ。何でも第二回は知名の文士を
 招待して大会をやるつもりだから、先生にも是非御臨席を願いたいって。それか
 ら僕が今度も近松の世話物をやるつもりかいと聞くと、いえこの次はずっと新し
 い者を撰んで金色夜叉にしましたと云うから、君にゃ何の役が当ってるかと聞い
 たら私は御宮ですといったのさ」
野々宮「そのうち彼女の坐っている見当で女帯の擦れる音がした。
「姉さん何かしているんですか」と聞いた。
「ええ」
「何をしているんですか」と再び聞いた。
「先刻(さっき)下女が浴衣を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解い
 ているところです」と嫂が答えた。
 自分が暗闇で帯の音を聞いているうちに、下女は古風な蝋燭を点けて縁側伝いに
 持って来た。そうしてそれを座敷の床の横にある机の上に立てた。蝋燭の焔がち
 らちら右左へ揺れるので、黒い柱や煤けた天井はもちろん、灯の勢の及ぶ限りは、
 穏かならぬ薄暗い光にどよめいて、自分の心を淋しく焦立たせた。ことさら床に
 掛けた軸と、その前に活けてある花とが、気味の悪いほど目立って蝋燭の灯の影
 響を受けた」

2010年1月9日土曜日

群読シナリオ「声」

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

  群読シナリオ「声」 原作:夏目漱石/構成:水城雄


  出演 A
     B
     C
     D
     E


  全員、ピアノの前に横一列に立つ。
  向かって左から、A、D、B、Cの順。
  その前の真ん中に、Dくんの椅子が置いてある。

A「豊三郎がこの下宿へ越して来てから三日になる」
D「(Aの次の文「始めの日は……」にかぶせながら)豊三郎がこの下宿へ越して来てから三日になる……(以下、「窓の外でしきりに鋸の音がする」まで読みきる)始めの日は、薄暗い夕暮の中に、一生懸命に荷物の片づけやら、書物の整理やらで、忙しい影のごとく動いていた。それから町の湯に入って、帰るや否や寝てしまった。明る日は、学校から戻ると、机の前へ坐って、しばらく書見をして見たが、急に居所が変ったせいか、全く気が乗らない。窓の外でしきりに鋸の音がする」
A「(みんなの読みが後追いで重なってくるなか、自分のペースで読み進めていく)始めの日は、薄暗い夕暮の中に、一生懸命に荷物の片づけやら、書物の整理やらで、忙しい影のごとく動いていた。それから町の湯に入って、帰るや否や寝てしまった。明る日は、学校から戻ると、机の前へ坐って、しばらく書見をして見たが、急に居所が変ったせいか、全く気が乗らない。窓の外でしきりに鋸の音がする」
B「(Dの次の文「始めの日は……」にかぶせながら)豊三郎がこの下宿へ越して来てから三日になる……(以下、「窓の外でしきりに鋸の音がする」まで読みきる)始めの日は、薄暗い夕暮の中に、一生懸命に荷物の片づけやら、書物の整理やらで、忙しい影のごとく動いていた。それから町の湯に入って、帰るや否や寝てしまった。明る日は、学校から戻ると、机の前へ坐って、しばらく書見をして見たが、急に居所が変ったせいか、全く気が乗らない。窓の外でしきりに鋸の音がする」
C「(Dの次の文「始めの日は……」にかぶせながら)豊三郎がこの下宿へ越して来てから三日になる……(以下、「窓の外でしきりに鋸の音がする」まで読みきる)始めの日は、薄暗い夕暮の中に、一生懸命に荷物の片づけやら、書物の整理やらで、忙しい影のごとく動いていた。それから町の湯に入って、帰るや否や寝てしまった。明る日は、学校から戻ると、机の前へ坐って、しばらく書見をして見たが、急に居所が変ったせいか、全く気が乗らない。窓の外でしきりに鋸の音がする」

 全員、一フレーズずつずれた状態で冒頭の段落を全部読みきる。
 読み終えたら、そのまま待つ。

B「鋸の音がする」

  ピアノ、入る。

C「豊三郎は坐ったまま手を延して障子を明けた。すると、つい鼻の先で植木屋がせっせと梧桐の枝をおろしている。可なり大きく延びた奴を、惜気もなく股の根から」
全員「ごしごし」
C「引いては、下へ落して行く内に、切口の白い所が目立つくらい夥しくなった。同時に空しい空が遠くから窓にあつまるように広く見え出した」
B「見え出した」
C「豊三郎は机に頬杖を突いて、何気なく、梧桐の上を高く離れた秋晴を眺めていた」
A「豊三郎が眼を梧桐から空へ移した時は、急に大きな心持がした。その大きな心持が、しばらくして落ちついて来るうちに、懐かしい故郷の記憶が、点を打ったように、その一角にあらわれた。点は遥かの向にあるけれども、机の上に乗せたほど明らかに見えた」
B「見えた」

  ピアノ、終わり。

C「山の裾に大きな藁葺があって、村から二町ほど上ると、路は自分の門の前で尽きている」
B「尽きている」
D「門を這入る馬がある。鞍の横に一叢の菊を結いつけて、鈴を鳴らして、白壁の中へ隠れてしまった」
A「隠れてしまった」
B「日は高く屋の棟を照らしている。後の山を、こんもり隠す松の幹がことごとく光って見える」
C「見える」
A「茸の時節である」
D「豊三郎は」
B「豊三郎は机の上で今採ったばかりの茸の香を嗅いだ。そうして」
全員「豊、豊」
B「という母の声を聞いた。その声が」
D「その声が」
A「その声が」
C「その声が非常に遠くにある。それで手に取るように明らかに聞える。母は五年前に死んでしまった」

  ピアノ、入る。
  D、椅子を抱いてうずくまる。
  Dのまわりをほかの三人がゆっくり回りはじめる。

D「(ピアノに反応しつつ)豊三郎はふと驚いて、わが眼を動かした。すると先刻見た梧桐の先がまた眸に映った。延びようとする枝が、一所で伐り詰められているので、股の根は、瘤で埋まって、見悪いほど窮屈に力が入っている。豊三郎はまた急に、机の前に押しつけられたような気がした。梧桐を隔てて、垣根の外を見下すと、汚ない長屋が三四軒ある。綿の出た蒲団が遠慮なく秋の日に照りつけられている。傍に五十余りの婆さんが立って、梧桐の先を見ていた」

  D、立ちあがり、椅子から離れる。
  AとB、椅子に背中合わせに座る。
  その周りをDとCが、AとBの顔をのぞきこむように見ながらゆっくりと回る。

A・B「(同時に、しかし不揃いに、それぞれがピアノに反応しつつ)ところどころ縞の消えかかった着物の上に、細帯を一筋巻いたなりで、乏しい髪を、大きな櫛のまわりに巻きつけて、茫然(ぼんやり)と、枝を透(す)かした梧桐の頂辺を見たまま立っている。豊三郎は婆さんの顔を見た。その顔は蒼くむくんでいる。婆さんは腫れぼったい瞼の奥から細い眼を出して、眩しそうに豊三郎を見上げた。豊三郎は急に自分の眼を机の上に落した」

  全員、首をうなだれて静止。
  Cだけが顔をあげ、

C「三日目に豊三郎は花屋へ行って菊を買って来た。国の庭に咲くようなのをと思って、探して見たが見当らないので、やむをえず花屋のあてがったのを、そのまま三本ほど藁で括って貰って、徳利のような花瓶へ活けた。行李の底から、帆足万里の書いた小さい軸を出して、壁へ掛けた」

  C、うなだれる。
  ピアノ、入る。
  A、顔をあげ、

A「これは先年帰省した時、装飾用のためにわざわざ持って来たものである。それから豊三郎は座蒲団の上へ坐って、しばらく軸と花を眺めていた。その時窓の前の長屋の方で、豊々と云う声がした。その声が調子と云い、音色といい、優しい故郷の母に少しも違わない

  A、うなだれる。
  B、顔をあげ、

B「豊三郎はたちまち窓の障子をがらりと開けた。すると昨日見た蒼ぶくれの婆さんが、落ちかかる秋の日を額に受けて、十二三になる鼻垂小僧を手招きしていた。がらりと云う音がすると同時に、婆さんは例のむくんだ眼を翻えして下から豊三郎を見上げた」
D「見上げた(何度もくりかえし。ときどき「がらり」を入れる)」
C「見上げた(何度も。ときどき「がらり」を入れる)」
A「見上げた(何度も)」
B「見上げた(何度も)」

  くりかえしながら、次第に声が小さくささやきになる。
  同時に全員が椅子に近づいていき、最後は折り重なるようにひとかたまりになって「死体」になる。

2009年12月15日火曜日

祈り

(C)2009 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

----- 群読のためのシナリオ -----

  「祈り」 水城雄


  シーン 1

A「綿雪まじりの冷たい空気のなかで、私は大きな木に向かって祈りをささげる」
B「神にでもなく」
C「自分の幸せや健康にでもなく」
A「ひとり、大樹に向かって祈りをささげる」

D「昨夜見た、坂の途中で立ちつくしていたサンドイッチマンに」
E「割り勘をごまかそうとした友人に」
D「電話ボックスのなかで抱き合っていた若い男女に」
E「席をゆずらず眠ったふりをしていた高校生に」
全員「祈りをささげる」

A「ビルに衝突した飛行機の乗務員と乗客とテロリストに」
B「くず折れるビルに」
C「天空に向けられたロケット砲に」
D「アラファトとシャロンに」
E「オウムとイエスの方舟たちに」
全員「祈りをささげる」

B「私のコーヒーポットとオレガノの鉢に」
C「息子に贈るハーモニカに」
A「私は祈りながら、木の幹に手を触れる」
D「見上げると、綿のような雪が暗い空のかなたから、ゆっくりと降りてくる」
E「どこか遠くで鐘が鳴っている」


  シーン 2

C「この樫の木は、冬も青々と葉を広げて立っている」
A「私が生まれるより前から」
BE「世界の人が生まれるずっと前から」
A「樫の木はここにこうして立っていた」
DE「この樫の木より前に生まれた人は、ただのひとりもいない」
BC「この樫の木よりも長く生きる人も、ひとりもいない」
ACE「樫の木が倒されないかぎり」
全員「樫の木が人の手によって倒されないかぎり」

B「飛行機の形をした斧が、大陸のはずれの島に立っていた大きな木をなぎ倒し
 た。斧の力はすさまじく、木は一瞬にしてくずれ倒れた。人の手が斧をふるい、
 人の手が何本もの木をなぎ倒した」
D「人の手が細菌をばらまき、人の手がミサイルを異国に打ちこんだ」
E「光でいろどられ、音楽があふれている街を、着飾り、作られた笑いを顔に張
 りつかせた人々が、目的もなく行き交っている。
A「それを、今日、私は見ていた」

C「雪がやんだ」
D「私は手を樫の木に触れさせたまま、ひとり空をあおぎ、祈る」
全員「また鐘の音が聞こえた」

(おわり)