2018年9月17日月曜日

ボトム・クオークの湯川結合で見えてきたタイムトラベルの可能性

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   ボトム・クオークの湯川結合で見えてきたタイムトラベルの可能性

                           水城ゆう

 だれもが過去の失敗を悔やむことはあるでしょう。あのときこうすればよかった、あるいは、あのときあんなことをしなければよかった、その時点にもどれればいいのに、もう一度やりなおせたらいいのに、と。
 我々ハドロン衝突型粒子加速器のチームは、ヒッグス粒子がボトム・クオーク対へと重力崩壊する事象の観測をATLAS側でおこなっていたときに、質量起源の理論モデルによって裏付けられていた湯川結合のゆらぎを測定することに成功しました。質量は時間に変換できますから、ニュートリノ振動を反物質的に減速してやることによって、時間を反転させうる地平が見えてきたことを意味します。
 一般に時間とは不可遡なものであり、リニアに進行するものと思われて(思いこまれて)いますが、もちろんそうではなく、局所存在的なムラがあり、ときには可遡的であることが第三世代フェルミオンの観測結果を待つまでもなく提言されていたことでした。実験高エネルギー物理学の立場からいえば、我々は確率冷却法をもって時間不可遡のもつれを打ち破るべくミューオンに張り付きますが、同時にまた、量子分野の理論物理側からも破られる可能性があることを高らかに予言するものであります。この予言はあらかじめ決定されていたことではありますが。

2018年9月3日月曜日

ビッグウェーブ・サーファー

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   ビッグウェーブ・サーファー

                           水城ゆう

 足首からぽっきりと折れて壊れてしまったマリア像と十字架のある丘のてっぺんに仁王立ちになって、カルロスは街と岬と海を見渡す。
 ナザレの白っぽい街は丘の中腹から浜に向かって所狭しとなだれ寄せている。数年前に作られた岬の展望台には、ヨーロッパ中からやってきた観光客が集っている。ヨーロッパどころか、アメリカやアジアから来た客もいるにちがいない。あのカメラを構えた男は、どう見ても日本人だろう。驚異的な視力で、カルロスはひとりひとりを見分ける。
 それから、岬の沖へと目を転じる。
 観光客たちには残念なことだろう、今日の波は六メートルにも満たない。だから彼だって海に出ないのだ。朝からボードに触ってすらいない。それでも波頭は派手に崩れ落ちて、下腹にひびく音を立てている。
 このまま十月が終わってしまうつもりだろうか。このシーズン、まだ一度もビッグウェーブには乗っていない。天気予報では、しかし、明後日の引き潮の時間に、かなりの波が期待できそうだとか。
 もう少し待つか。
 丘から街へと、足場の悪い岩場の道を、カルロスは軽やかに駆けおりた。もうすぐ五十に手が届くとはいえ、今シーズン絶好調で、身体は軽い。
 ねぐらに借りているガレージのロフトにもどる。借り賃はゼロ。その代わり、オーナーの庭の手入れと子どもたち——それがまた六人もいるときている——の世話をたまにすることになっている。家族をバルセロナに置いてひとり、二か月も波乗りに集中するためにここに来ている。そのくらいどうってことない。
 去年はでかいのに乗りそこねて、肋骨を四本も折った。むち打ちにもしばらく苦しめられた。今年、復帰すると宣言したとき、さすがに家族にもいやな顔をされた。知り合いからは、いい歳してなんで波乗りなんてのに金をつぎこむ、もっと家族を大事にしろといわれた。
 しかし彼は今年ももどってきた。
 仲間のなかには世界記録が目標のやつもいる。スポンサーを獲得してプロになるのが目的のやつもいる。女にもてたいだけのやつもいる。
 カルロスも聞かれたことがある。なんでビッグウェーブに乗るんだ、と。
 死と隣り合わせのときが一番生を感じるからだ、と答えたが、本心じゃない。そのことばはだれかの受け売りだ。彼がでかい波に乗るのは、波が彼の一部だから。いや、逆だ。彼が波の一部だからだ。
 二〇メートルを超えるばかでかい波に乗り、七階建てのビルの高さからまっさかさまにすべり落ちるとき、頭のなかは真っ白になり、自分が生きているのか、死んでいるのかすらわからなくなる。おれはまちがいなくこの瞬間のために存在しているんだと感じる。
 どんな形であれ、人はかならず死ぬ。そのときに、ある瞬間の感覚に輝かしく包まれて、笑いながら息を引きとれるかどうかってことだ。
 まったくおれって自分のことしか考えちゃいねえよな。カルロスはひとり、薄暗いガレージのロフトで低い笑い声を漏らした。