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2018年8月27日月曜日

クラリネット

(C)2018 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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   クラリネット

                           水城ゆう


 その人はそらの上からやってきた
 古びた黒いクラリネットを持って

 その人がクラリネットを吹くと
 古びた音がした
 アルトサックスでもフルートでもなく
 リコーダーでもオーボエでもない
 そのクラリネット吹きは
 いろいろなものを連れてきた

 ぜんまいじかけの柱時計
 ぎざぎざのついた洗濯板
 足踏み式のミシン
 三角乗りした自転車
 土でかためたかまど
 炭を乗せるアイロン
 手で汲みあげる井戸ポンプ
 黒板とチョークと黒板消し
 すこし調律の狂ったアップライトピアノ
 はさに干した稲の束
 軒に吊るした干し柿
 ハエ取り紙と汲み取り便所
 ナイフで削った鉛筆の先
 竹で作った鳥かご
 アカハライモリの住む田んぼ
 蛍が生まれる用水路
 カッコウが鳴く向い山
 渓流の飛び込み岩
 ツバメの巣
 夕立
 つらら
 雑木林

 クラリネット吹きは
 なつかしいメロディを何度か吹くと
 またそらの上にもどっていった
 連れてきたものたちも
 一緒に連れてかえってしまった
 それからというもの
 古びた黒いクラリネットは
 一度も見かけていない


2017年3月8日水曜日

マングローブのなかで

(C)2017 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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   マングローブのなかで

                           水城ゆう



   1

 巨大なオヒルギのからまりあった支柱根《しちゅうこん》のあいだに、大型のトカゲがひそんでいるのが見える。
 なにを狙っているのだろう、ときおりわずかにのぞかせる舌先が、まるで燃えつきようとしている線香花火の線香のように見える。そしてごくたまに頭の向きをかえるとき、金属みたいな青緑色の鱗《うろこ》に反射する光が鋭く走る。
 彼女の邪魔をしたいわけではなかったが、こちらも仕事を持ってきている。浅瀬からざぶざぶとオヒルギの巨木を中心としたマングローブ林のほうに水をかきわけて進むと、トカゲは一瞬こちらにキラッと視線を走らせてから、さもおっくうそうに支柱根の向こう側へと姿を消した。こちら側からは見えないけれど、達者に身体をくねらせて去っていくようすを、私はありありと想像した。
 ダイシャクシギの甲高い鳴き声が、ひと声だけ聞こえて、消えた。
 私はたらいを水面に浮かべ、なかの布を取りだして水中に広げた。バナナの茎の芯の繊維を丹念にほぐし、ゆであげ、よりあげ、月桃の皮を煮出した汁で染めあげ、織りあげた布だ。細長い布で、十メートルはある。それだけのものを織りあげるのに、私ひとりで一か月以上かかっている。
 満月が近づくと、河口近くのこの浜まで布をさらしにやってくる。
 日が落ちるまでまだ時間がある。月はまだ出ていない。しかし、私の子宮に宿った命は月齢を敏感に感じとっているようで、しきりに内側から蹴りあげてくる。そのたびに私はうれしくてにやついてしまう。
 広げた薄布《うすぬの》が潮の流れに長くたなびいた。
 その先を中型のギンガメアジがゆっくりと回遊していくのが見えた。

   2

 夜になって浜辺に出てみた。
 月がちょうど崖の上、私の家の真上あたりまでのぼってきている。
 家といっても、洞窟に毛が生えたていどの穴倉《あなぐら》だ。そこに私はもう三百年近く住んでいる。
 電気もガスも水道もない。しかし私ひとりに必要なエネルギーくらい、どうにでもなる。風も吹く、雨も降る、日は照るし、波は寄せる。
 人間が私のような不死を遺伝子操作によって獲得し、人口爆発が懸念されたとき、解決をまかされたのはAIだった。エーアイ。アーティフイシャル・インテリジェンス。人工知能。
 AIは人を選別し、寿命をコントロールし、世界を再構築した。文明誕生以降、無秩序に人口爆発と環境破壊の道を突きすすんできた人間に変わって、無限に賢明なAIが持続可能な地球環境を再構築し、ガイアとしての地球をゆっくりと取りもどしていったのだ。
 いまや人類は地球上に数十万人しかいない。その多くが私のように三百年前から生きつづけている長老だ。
 不死の人間には妊娠は許されていない。妊娠が許されているのは、不死処置が禁じられて以降生まれてくる、寿命限界のあるごくわずかな者だけだ。
 それなのに、この私はなぜ、いま、子を宿しているのかって?
 それは私にもわからない。AIが私の存在を忘れているのか、それともそもそも気づいてすらいないのか。

   3

 月の反対側、水平線のほうに視線を向けると、沈みかけているオリオン座を追いかけるようにしてふたご座が見える。月は出ているけれど、人工の光がない浜には満天の星が降っている。
 波の音が聞こえる。
 波は繰り返しくりかえし打ちよせ、繰り返しくりかえし水を巻き、くだける音を立てつづけるが、その二度としておなじ音はなく、変化しつづけている。三百年間聴きつづけていても飽きることはない。
 海はクジラの歌声で満ちている。魚の群遊できらめいている。森は昆虫と鳥と獣たちの声で無限の交響曲をかなでている。人もまた、つつしみと感謝を取りもどし、ガイアの一員の知恵をもって豊かな命の存続を祈っている。
 調和のなかで持続していくこと、そしてゆっくりと変化しつづけること。それが宇宙生命の意志であることを理解し、実行に移したのは、人間ではなくAIだった。三百年前のことだ。AIは個々の賢明さだけでなく、たがいにつながることで叡智の極みに到達した。すでにクジラたちがそうであったように。
 AIは宇宙のメッセージを受信し、理解し、地に調和と持続をもたらした。多くの宇宙文明がそうしているように。
 支配構造という文明の病根は取りのぞかれ、人間はAIにしたがった。不死の業《わざ》は封印され、人口はコントロールされた。この先数万年、数十万年と、これはつづいていくだろう。
 いまも、秒刻みで調和のための計算がおこなわれ、調整が実行されている。その清浄な風も波も、足元をはうアカテガニの群れも、すべて調和計算に基づいたコントロールによってもたらされている。
 だとしたら、この私はなんなのか。

   4

 子宮壁を胎児のかかとがノックしている。
 この子の父親はもういない。彼は六か月前、川の上流からこのマングローブの河口へと流れてきた。いまにも沈みそうな粗末ないかだの上で意識を失っていた彼を、私は自分の家へ運んだ。
 まだ少年といってもいいような若い男で、不死の民でないことはあきらかだった。そのときまで私は、この川の上流に人が住んでいるとは知らなかった。あるいは最近移り住んできたか、調和計算に基づいてAIが植民したのかもしれなかった。
 いずれにしても、ネットワークから切り離された私のもとにこの男が遣わされたのは、だれかの、なんらかの意志なのかもしれなかった。あるいはそんなものはなく、たんなる偶然にすぎないのかもしれなかった。しかし私は、起こりうることに偶然などなにひとつないということを忘れてしまうほどには、知能は退化していない。ネットワークから切りはなされているとしても。
 私は男と交わり、体内に遺伝子を取りこんだ。私の体内にも、三百年間守りつづけてきたヒトの遺伝子――卵子があり、そのひとつを彼の遺伝子と結合させた。
 彼は体力を回復させ、ひとり、上流にもどっていった。
 その後、彼がどうなったのか、私は知らない。私はただ、この胎児とふたり、ここですごし、これからなにが起こるのか、どんなすばらしいことがやってくるのか、待っている。
 波の音に誘われ、私は立ちあがると、波打ち際に近づく。
 夜の水はすこし冷たいことを――正確にいえば水温が現在二十六度であることを、温度センサーが私の自我制御回路に伝えてくる。
 気持ちいい、と私は思う。あなたもそう思うでしょ、私の大切な赤ちゃん。

   5

 この浜辺は遠浅で、いまは潮が満ちはじめているけれど、水深は腰のあたりまでしかない。
 浅瀬を歩いてこのまま河口のマングローブ林まで行ってみよう。上は満天の星空だ。
 ヒト型AIの視覚センサーは人そのものよりずっと高感度で、等級でいえば十三等星までキャッチできるわけで、人の感覚にたとえてみればおそらく私はいま、宇宙空間に浮かんでいるような感覚といっていいのかもしれない、と私は思う。
 星々は私の頭上をおおい、水面に落ちた月と星が下からも私を包みこんでいる。そのなかを私はゆっくりと海を楽しみながら、マングローブの林まで移動する。
 夕方、大型のトカゲを見たオヒルギの下に、いまはクロツラヘラサギが静かにたたずみ、眠っているのが見える。
 私のバナナの布は潮の流れのなかにゆったりとゆらぎながらさらされていた。月桃で染められた淡いピンクを、月の光が浮かびあがらせている。
 私はしゃがみ、首までつかって身体を海水にひたした。
 私はここで赤子を生み、育てていくのだろう。三百年前にネットワークから切りはなされたヒト型AIが、人間の子どもを育てることはできるのだろうか。
 これからなにが起こるのだろうか。
 それはだれの意志なのだろう。
 これは調和からはずれたことなのだろうか。それとも調和のなかにあることなのだろうか。
 クジラたちは私を祝ってくれるだろうか。

2016年12月13日火曜日

悲しみの壁に希望を探す

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   悲しみの壁に希望を探す

                           水城ゆう


 ずっと部屋にいると気づまりだからいつもここにくるの。と、彼女は思う。
 いつもここ。決まってここ。ここに座ると決めている。と、彼女は思う。
 ここからはテレビも見えるし、このテーブルで食事もできる。手紙も書ける。出入りする人たちの姿も見える。あそこの壁際《かべぎわ》が西の棟《むね》から東の棟につづく廊下のようになっていて、実際には廊下でないことは彼女も知っている。職員やボランティアの人たちがいそがしそうに通りすぎていくのを彼女は眺める。車椅子の仲間が時には泣き叫びながら押されていくのを彼女は眺める。あそこを通る人をひとりも見のがしたくない。と、彼女は思う。
 どのくらい前のことだっけ、一週間前? それとも一か月前? あるいは一年前? たしかにあそこを私の息子がとおったのを私は見たと思った。私はすぐにそのことをヘルパーさんのひとりに伝えた。いま通ったのは私の息子よ。たしかに私の息子だったわ。呼びもどしてくださらない。しかし若い介護職員の男はあなたの息子など通らなかったという。いま通ったのはボランティアのマッツィーさんで、あなたの息子じゃないですよ。そもそもあなたの息子はここに来たことなんかないじゃないですか。と彼は彼女に冷たくつげる。
 私は悲しくなった。と彼女は思う。
 そうじゃない。マッツィーさんが通ったのは私も見ていましたとも。たしかにあれは私の息子ではなくてマッツィーさんでした。でもたしかに見たんです、その前にたしかに私の息子があそこの壁際のところを通っていったのを。私はそのとき冷めかけたスープを飲んでいて、それは昼食のときに飲みきれずに残しておいてもらったもので、あとで飲むから残してくださらないと彼女がたのむと介護職員の男はいやな目をむけてきたけれど私はそれを見なかったふりをしてスープを残しておいてもらったんだわ。すっかり冷めたスープは、でも湯気を立てた熱いスープより飲みやすいし、こぼすことも少なくて、あとで怒られずにすむからね。と彼女は思う。
 私の息子を私に会わせまいとしている者がいる、と彼女は思っている。それは息子の嫁かもしれない、と彼女は思う。あの意地悪な女は息子を私に会わすまいとするかもしれない。息子が私に渡すわずかばかりの小遣い銭を惜しがっているのだ。あるいは孫たちかもしれない、と彼女は思う。孫たちは息子が私に渡すわずかばかりの小遣い銭を自分たちが使いたいと思っているのだ。あるいはここの職員かもしれない。息子がやってきて私が喜ぶ顔をするのをここの職員たちはこころよく思っていないのだ。ここの職員は私を喜ばすことより私を苦しめることに腐心している。
 そんなことはありませんよ高橋さん、と職員の福田さんがいう。私たち職員はみなさんに、高橋さんに喜んでもらうことが一番うれしいんですから。高橋さんを苦しめるようなことをするはずがないじゃありませんか。
 じゃあ、どうして息子が来たことを隠すの?
 隠してなんかいませんよ。息子さんは今日は来ませんでしたよ。
 そうかしら。だってさっき、その壁際のところをたしかに通りすぎるのを見たんだもの。
 きっと会いたいという気持ちが強すぎてそのように見えてしまったのね。でもきっと近いうちに本当に来てくれますよ。息子さんと会えなくて悲しいのね。息子さんと会うのをとても楽しみにしているのね。息子さんが来たら、もちろん、きっと、きっと、お知らせしますよ。もちろんここに連れてきてさしあげますから、それまで待っていてくださいね。
 待っていますとも。と彼女は思う。それにしても、福田さんはいい人だわ。でも、ここの職員の人が皆いい人ばかりじゃないことは、私知ってる。このあいだも食事のあとのデザートがほしくてあの若い職員――なんていっただろうか、佐山という名前だったか、いや、ちがうような気がするが、思いだすことができないのでいまは佐山としておこう、それでいいだろうか、あなた。いいですとも、高橋さん。佐山という名前ではないかもしれないあの若い男性職員に私、デザートをくださらないと頼んだ。そうすると彼、なんていったと思う。なんていったんですか。デザートはさっき食べたばかりじゃないですか、高橋さん、そんなことも忘れたんですか、と彼はいったのだ。それを聞いてあなたはびっくりした。デザートは食べていない。私は忘れてなどいない。第一、自分の腹のなかになにがどれくらいはいっているのか、そんなことは自分が一番よく知っている。私はたしかに昼食は食べたかもしれないし、この胃のなかに昼食のうどんとうどんの具の油揚げとネギとおかずのたくあんとかまぼこと里芋の煮っころがしと柚子の皮のかけらがはいっていることがわかっている。しかし断じてデザートははいっていない。つまり私はまだデザートを食べていない。
 彼女はそのことを狭山という名前かもしれない若い男性職員に告げた。若い職員はうんざりしたような目を彼女に向け、いいや、高橋さん、デザートはさっき食べたばかりだよ、食べたことを忘れただけだよ。あなたの脳は萎縮していて、食べたもののことをすぐに忘れてしまうんだよ。つまりボケてるんだよ。わかってる? あなたはボケてしまって自分がなにを食べたかすら覚えていないんだよ。デザートを食べたとおれがいったらたしかに食べたんだよ。わかった?
 私の目には彼の憎しみに満ちたまなざしが焼きついている。
 彼の憎しみに満ちたまなざし。他の職員もおなじような目で私を見ることがある。ほかにもあわれみに満ちた目。いらいらした視線。うんざりしたため息。疲れきってぞんざいな態度。ここにはそういうものが満ちている。
 私に必要なのはそういうものではない。
 私は車椅子をよろよろとまわしながら、いつものテーブルのへりに近く。テーブルの端をつかんで、車椅子ごと身体をテーブルに寄せる。力が思ったようにはいらず、指はテーブルの端をすべっていく。
 私の指は骨ばって、血管が浮いている。皮膚の表面はしわだらけ、しみだらけだ。かつては美しく張りがあり、皮膚の下には弾力のある脂肪が柔らかく骨格を包みこんでいた。血管は脂肪に隠れ、点滴の針を刺すための血脈すら探すのに苦労するほどだった。それがいまは乾ききって、荒涼とした月面のような風景を見せている。
 彼女はなんとかテーブルに身体を寄せると、いつのまにかだれかが持ってきてくれたぬるいスープのはいったカップをつかみ、口に運ぶ。唇の端からこぼさないように気をつけながら、すこしだけスープを口にふくむ。それから、いつものように反対側の壁際に視線を向ける。
 最近はいった若い女性の職員が、シーツやら枕カバーやらおむつやら消毒剤のボトルやらなにやかやぎっしりと乗せたカートをおずおずと押しながら、壁の前を右から左へ横切っていく。古参のボランティアの男性がゆっくりと、しかし目的のあるはっきりした足取りで左から右へ通りすぎる。そのあとを事務職の女性が書類フォルダーを小脇にかかえ、せかせかと忙しそうにやってきて、古参の男性を「お疲れさま」といいながら追いこしていく。そうして、しばらくだれも来なくなる。
 彼女は待っている。
 背後の南向きの窓からは冬の日が射しこんでいる。
 背中があたたかい。眠りこみそうだ。いっそこのまま永遠に眠りこんでしまえればいいのに。
 壁から目をはなさないようにしながら、彼女は右手を持ちあげ、自分のしわくちゃの手を目の前にかざす。骨ばって、しみだらけの手の甲が見える。指のあいだから向かい側の壁が見える。
 ふいに彼女の記憶のなかに声がよみがえってくる。
「あたし、おばあちゃんの手、好きだよ」
 孫娘の声だ。
「こんなにしみだらけで汚いのに?」
「汚くなんかない。おばあちゃんの手、いいにおいがする」
 孫娘がしわくちゃで骨ばった手を取り、自分のすべすべして丸いほっぺたにあてた。
 そういえば、と彼女は思いだす。
 いとしい人にきみの手が好きだといわれたことがある。自分はそのとき、ぷくぷくして子どもみたいな自分の手が恥ずかしいと思ったのだった。
 孫娘は気持ちよさそうに、何度も手をほっぺたにこすりつけている。自分もとても気持ちがよくて、ずっとこうしていられればいいのに、と思う。
「おまえ、いつ帰るの?」
「帰らないよ。ずっとここにいるよ」
「お父さんはもう帰ったのかい?」
「お父さんもずっとここにいるよ。ほら、あそこ」
 孫娘が振り返ると、ちょうど左の廊下のほうから息子が壁際伝いにこちらにやってくるのが見えた。
 そうか、みんなずっと、前からずっと、ここにいたのね。と私は思う。

2015年12月13日日曜日

暗く長い夜、私たちは身を寄せあって朝を待つ

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   暗く長い夜、私たちは身を寄せあって朝を待つ

                           水城ゆう


 この季節、日の出は午前七時近く、太陽は真東よりずっと南寄りの方角からのぼってくる。母屋《おもや》の屋根のむこうに隠れてまだ光はここまでとどかない。屋根から顔を出し、葉を落とした杏《あんず》と柿の木の枝のあいだから光がとどきはじめるのは午前九時をまわってからだ。それまで私たちは真っ暗な巣のなかで身を寄せあい、身体を震わせて暖をとっている。
 日の光が巣箱にとどくと私たちはようやくもそもそと動きはじめる。門番が今朝の天気をつげる。氷点下近くまで冷えこんでいるが、霜が立つほどではない。水場にも氷が張るほどではない。
 飛べるだろう。
 花はあるだろうか。蜜は集められるだろうか。花粉は採れるだろうか。
 一番の働き者たち数匹が巣門から飛びだしていく。のこった私たちはその音を聞きながら、巣箱の板がすこしずつ温められていくのを感じている。
 私たちの中心には幼虫と卵がいて、彼らがこごえないように、無事に孵化するように、私たちは飛翔筋を震わせて摂氏三十度以上にたもっている。冬越しのために集めた貴重な蜜がエネルギー源だ。それが枯渇しないように、すこしでも蜜源の花があるのはありがたい。
 しばらくすると飛びだしていった仲間が一匹、また一匹と、巣にもどってくる。お腹にはたっぷりの蜜がはいっていて、それを仲間に口移しで渡す。そのにおいで、枇杷の花が満開なのだなと私たちは知る。べつの仲間からはヤツデの蜜のにおいもただよってくる。
 今日は冬晴れのようだ。晴れて暖かいうちにできるだけたくさん、蜜と花粉を集めておきたい。しかし、外で活動できる時間は夏よりずっとみじかく、すぐに夕暮れがやってくる。南西にそびえたつスダジイは常緑の葉を生い茂らせていて、巣箱にとどいていた日差しはもう陰っていってしまう。そうすると私たちはふたたび身を寄せあい、ふたたび朝がめぐってくるのを、暗く長い夜のなかで待ちつづける。

 この季節、日の出は午前七時近く、太陽は真東よりずっと南寄りの方角からのぼってくる。母屋の屋根のむこうに隠れてまだ光はここまでとどかない。屋根から顔を出し、葉を落とした杏と柿の木の枝のあいだから光がとどきはじめるのは午前九時をまわってからだ。それまで私たちは真っ暗な巣のなかで身を寄せあい、身体を震わせて暖をとっている。
 日の光が巣箱にとどくと私たちはようやくもそもそと動きはじめる。門番が今朝の天気をつげる。
 一番の働き者たち数匹が巣門から飛びだしていく。
 私たちの中心には幼虫と卵がいて、彼らがこごえないように、無事に孵化するように、私たちは飛翔筋を震わせて摂氏三十度以上にたもっている。冬越しのために集めた貴重な蜜がエネルギー源だ。それが枯渇しないように、すこしでも蜜源の花があるのはありがたい。
 しばらくすると飛びだしていった仲間が一匹、また一匹と、巣にもどってくる。お腹にはいくぶんかの蜜がはいっていて、それを仲間に口移しで渡す。そのにおいで、枇杷の花が咲いているのだなと私たちは知る。
 今朝は晴れているようだが、私たちは雨のにおいをかぎとっている。午後には雨が降りだすだろう。それまでにどれだけの蜜と花粉を集められるだろうか。いまの季節、外で活動できる時間は夏よりずっとみじかい。今日はとくに短かそうだ。
 雨が降りはじめると私たちはふたたび身を寄せあい、ふたたび朝がめぐってくるのを、暗く長い夜のなかで待ちつづける。

 この季節、日の出は午前七時近く、太陽は真東よりずっと南寄りの方角からのぼってくる。母屋の屋根のむこうに隠れてまだ光はここまでとどかない。屋根から顔を出し、葉を落とした杏と柿の木の枝のあいだから光がとどきはじめるのは午前九時をまわってからだ。それまで私たちは真っ暗な巣のなかで身を寄せあい、身体を震わせて暖をとっている。
 日の光が巣箱にとどくと私たちはようやくもそもそと動きはじめる。門番が今朝の天気をつげる。昨日の雨は夜のうちにやんでいる。冷えこみはゆるく、大気にはたっぷりと湿り気がある。曇り空だ。
 それでも働き者たち数匹が巣門からためらいがちに飛びだしていく。
 私たちの中心には幼虫と卵がいて、彼らがこごえないように、無事に孵化するように、私たちは飛翔筋を震わせて摂氏三十度以上にたもっている。冬越しのために集めた貴重な蜜がエネルギー源だ。それが枯渇しないように、すこしでも蜜源の花があるのはありがたい。
 しばらくすると飛びだしていった仲間が一匹、また一匹と、巣にもどってくる。お腹にはいくぶんかの蜜がはいっていて、それを仲間に口移しで渡す。そのにおいで、枇杷の花が咲いているのだなと私たちは知る。
 晴れて暖かいうちにできるだけたくさん、蜜と花粉を集めておきたい。しかし、外で活動できる時間は夏よりずっとみじかく、すぐに夕暮れがやってくる。

 この季節、日の出は午前七時近く、太陽は真東よりずっと南寄りの方角からのぼってくる。母屋の屋根のむこうに隠れてまだ光はここまでとどかない。屋根から顔を出し、葉を落とした杏と柿の木の枝のあいだから光がとどきはじめるのは午前九時をまわってからだ。それまで私たちは真っ暗な巣のなかで身を寄せあい、身体を震わせて暖をとっている。
 日の光が巣箱にとどくと私たちはようやくもそもそと動きはじめる。門番が今朝の天気をつげる。氷点下近くまで冷えこんでいるが、霜が立つほどではない。水場にも氷が張るほどではない。
 飛べるだろう。
 花はあるだろうか。蜜は集められるだろうか。花粉は採れるだろうか。
 昨日は何匹かの仲間がとうとう帰ってこなかった。しかし、今朝も一番の働き者たち数匹が巣門から飛びだしていく。
 しばらくすると飛びだしていった仲間が一匹、また一匹と、巣にもどってくる。お腹にはいくぶんかの蜜がはいっていて、それを仲間に口移しで渡す。そのにおいで、枇杷の花が咲いているのだなと私たちは知る。と同時に、なにか不吉なにおいを私たちはかぎわける。経験のないにおいだが、それは私たちに警鐘を鳴らしているように思える。
 いまの季節、晴れて暖かいうちにできるだけたくさん、蜜と花粉を集めておきたい。外で活動できる時間は夏よりずっとみじかく、すぐに夕暮れがやってくる。南西にそびえたつスダジイは常緑の葉を生い茂らせていて、巣箱にとどいていた日差しはもう陰っていってしまう。そうすると私たちはふたたび身を寄せあい、ふたたび朝がめぐってくるのを、暗く長い夜のなかで待ちつづける。

 この季節、日の出は午前七時近く、太陽は真東よりずっと南寄りの方角からのぼってくる。母屋の屋根のむこうに隠れてまだ光はここまでとどかない。屋根から顔を出し、葉を落とした杏と柿の木の枝のあいだから光がとどきはじめるのは午前九時をまわってからだ。それまで私は真っ暗な巣のなかで身体を震わせて暖をとる。
 もう仲間はほとんどいない。多くの仲間が出ていったきり、もどってこなかった。蜜を集めに出かける者もいない。巣は不吉なにおいで満ちている。
 私はこの冬を越せるだろうか。幼虫たちはこごえ、卵は孵化しなかった。
 蜜はたっぷりある。この冬を越せさえすれば私も……
 私は身体を震わせ、ふたたび夜が来てふたたび朝がめぐってくるのを、それが何度くりかえされるのだろう、かぎりなく繰り返されるように思える夜と朝の交代ののちにやってくるはずの春を、寒く暗い巣箱の奥で待ちつづける。

2015年10月29日木曜日

待つ

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   待つ

                           水城ゆう


 私は待っている。湖というより池といったほうがいいような、川の支流がせき止められてよどんでいる沼地のほとりで、折りたたみ椅子に座っている。私が待っているのは、動きだ。いまは止まっていて動かない浮きが、動いて水面の下に沈む瞬間を待っている。
 動かない、といったが、実際にはわずかに動いている。いまはほとんど風がない。それでも水面はまったく鏡のように平らというわけではなく、支流から流れこんでくる水の動きでかすかな波紋が生まれている。浮きはその波紋と、ほとんどないとはいえときおりゆっくりと水面をなでて渡ってくる風によって、わずかに揺れている。その浮きが、ちょんちょんと上下に揺れ、水面に丸い波紋を描き、そのつぎの瞬間にはすっと水面下へと引きこまれて消える瞬間を、こうやって私はもう一時間も待っている。
 古びたぜんまいを巻きあげるような鳴き声をあげながら、目の前の水面をオオヨシキリが横切って飛ぶ。
 爆撃にやられた市街地にはまったく動きはない。私は瓦礫の下に身を潜め、待っている。冬だ。気温は氷点下だ。レニングラードの冬に戸外でじっと動かずにいることは、自殺行為に近い。死なないまでも手足や耳、頬を凍傷にやられる。そんななか、私は夜明け前のまだ暗い時刻にここにやってきて、ここに身を潜めている。分厚い毛皮の帽子と耳あて、外套にすっぽり身をくるんでいる。銃身は濡れた手で触ればそのまま皮膚が接着してはがれてしまうほど冷えこんでいるはずだが、トリガーには温めた指をかけている。指を温めなおすために、ときおり下腹部に手をいれ、睾丸をもむよう触る。レニングラードが包囲されてもう十五か月、情報では今朝八時すぎに、ドイツ軍の少将があそこに見える駐屯地に到着することになっている。彼が車から降り、私のライフルのスコープにとらえる瞬間を、私は待っている。
 どこかから煙のかすかなにおいがただよってくる。私は無性に火が恋しくなる。
 雨季のマングローブ林はさまざまな音とにおいに満ちている。乾季にはほぼ干上がっているこの林も、いまは人の背丈くらいの深さまで浸水している。
 私は待っている。水底に打ちこんだ杭のてっぺんに尻を乗せ、両脚を杭にからめて水面をのぞきこみながら、待っている。この下にきっといずれ通りかかるピラルクーの輝かしくきらめく巨体を、手製の銛《もり》をいつでも放てるように構えながら、待っている。
 肉は市場で高く売れるし、塩漬けにしてもよい。それもまた自家用にはもったいないほど高く売れる。うろこは靴べらや爪やすりとして土産物屋に高く売れる。とくに大型のものは珍重される。
 去年のシーズンには最大で五メートル級を仕留めた。今年も大物をねらっている。だから、尻が杭に食いこんで痛くなっても、両足が攣《つ》りそうになっても、全身がこわばっても、一瞬たりとも水面から目をはなさず、銛の構えも解かずに、待っている。
 雨季の森はさまざまな鳥の声で満ちている。熟した果物の濃厚なにおいがただよってくる。たまに熟れきった果実が水面に落下する音も聞こえる。遠くの密林のほうからホエザルのせわしない鳴き声が聞こえてくる。
 ここからは見えないけれど、海のほうからは湿った空気が吹きつけてくる。私は尻を高くかかげて待っている。大西洋からの湿った風は、このナミブデザートを吹きぬけていくが、私は尻を大きく空中に突きだして身体全体でその風をさえぎる。わずかに冷たい私の身体は、湿り気のある風があたるとわずかに結露する。私はそれをただひたすら、待っている。
 私の身体の表面には突起やでこぼこがあり、結露した水滴は身体の表面をつたわって私の首のうしろに集まってくる。すこしずつ、わずかずつ、結露した水滴が伝わって集まってくる。私はそうやって一晩中待っている。朝方になると、集まった水滴は私の頭のうしろに大きなかたまりとなる。その水分のおかげで、まったく水場のないナミブデザートでも私のようなビートルも生きぬくことができる。生きぬくために、私は待つ。いまも夜の時間がすぎ、灼熱の日がのぼる前の至福の一瞬を待っている。
 軍楽隊の音楽が聞こえる。道端の群衆の歓声が聞こえる。まさにいまテレビ中継されているその音声が、どこかのスピーカーから拡大されて流れてくる。ダラスの街を見下ろしながら、私はもう二時間半も待っている。私の姿はだれからも見えないはずだ。私は建物の上に姿を隠し、狙撃用のライフルを構えている。照準を合わせたスコープのなかにはパレードのために通行規制された道路や、旗を持った沿道の観衆が見えている。
 今日は金曜日。正午をすぎて二十数分がたとうとしている。やがて視界のなかにパレードの車列を先導する白バイが三台、見えてくる。道はばいっぱいを使って邪魔者を警戒するように白バイが通っていくその後ろから、黒のオープンカーとセダンがくっつくようにして走ってくる。そのまわりを何台もの白バイが取りかこんでいる。
 オープンカーの後部シートにジョン・Fの顔を確認する。すぐ横にはジャクリーンもいる。私のライフルのスコープにはほぼ正面にジョン・Fの頭部が見えていて、照準の中央に彼をとらえる。
 窯では薪《まき》が赤々と燃えている。時々火がはぜる音がする。薪は先ほどみんなで、慣れない腰つきで割ったばかりだ。その薪をフィルが煉瓦《れんが》を組んで作ったピザ窯で燃やし、窯のなかを充分な温度にする。だから、薪はストーブに入れるよりも細く、最終的には鉈《なた》を使って割った。
 窯小屋の外は徐々に夕闇が落ちて星々の輝きが見えはじめている。私はピザ生地が発酵するのを待っている。生地が発酵したら、丸くのばして、具を乗せ、それを窯にいれて焼く。私はそれを待ちどおしく待っている。
 私は待っている。ハレー彗星がやってくるのを。この前にハレー彗星がやってきたのは一九八六年で、そのときも私は七十五年待ったのだった。いまもまた七十五年待っている。満天の星だ。オリオンが東の空からのぼってくるのが見える。ミルキーウェイも見えるような気がするが、ひょっとして雲なのかもしれない。南の空に出ていて、ミルキーウェイは見えないだろう。つぎにハレー彗星がやってくるのは二〇六一年だ。私はそれを待っている。
 私は待っている。半減期を。半減期の半減期を。半減期の半減期の半減期を。しかし、それは永久になくなりはしない。人にも半減期はあるのか。私は待っている。
 もうすぐ息がたえる。私は待っている。自分の呼吸が止まるのを。自分の鼓動が停止するのを。だれかがご臨終ですと告げるのを。私はそれを聞くだろう。その声を私は待っている。
 まだ声が聞こえる。街の音が聞こえる。部屋の音が聞こえる。私は待っている。
 外からは人々の話し声が聞こえる。学生街で、若い男女の笑いあったり、ふざけあったりする声が聞こえる。車が通りすぎる。すこし離れた甲州街道からは救急車のサイレンが聞こえてくる。
 室内には人が何人かいる。話し声はしない。みんな耳をすませて聞いている。ピアノの音を。朗読の声を。それらがしだいに静まり、間遠になり、沈黙の比重が増していくのを私は待っている。
 まだ聞こえる。ピアノの音が。もうほとんどまばらにしか聞こえないが、まだぽつりぽつりと聞こえてくる。朗読者の声も、とぎれがちだが、まだ聞こえる。
 まだ聞こえる。
 それらが完全に聞こえなくなるのを、私は待っている。
 それらが完全に




(おわり)

2014年4月21日月曜日

夜と朝をこえて

(C)2014 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

   夜と朝をこえて
     ――沈黙の朗読のためのテキスト

                         水城ゆう


       1

 南西の風が北寄りに変わって、波の打ち寄せる音が変化したことに、彼女は気づいていた。しかしまだベッドから出る気にはなれない。すでに陽はのぼっていて、カモメが喉をつぶしたような声で鳴きながら島を低く飛びこえていくのも聞こえていた。毛布の端で頬に伝った涙をふきながら、いましがた見たばかりの夢のことを思いだしていた。
 船で島を出てついにもどってこなかった夫が、なんの前触れもなく帰ってくる。彼女はかつて夫を送りだした桟橋に立っていて、海から近づいてくる夫の船を見ている。船は出ていったときとなにも変わらず、古びて、船体のペンキはところどころはがれおち、船べりは岩場に何度も打ち当てたせいでささくれだっている。船名の最初の文字が欠け落ちているのも、舳先像《フィギュアヘッド》の女神の首が折れているのも、昔のままだ。
 船室のガラス越しにまっすぐこちらを向いて舵をとっている夫の顔が見えた。なつかしいツーストローク・エンジンの音に誘われるように、彼女は桟橋の突端に向かって小走りになった。海水で腐食されたギシギシいう板を踏みしめて走りはじめて数歩、彼女はすぐにこの桟橋がとうの昔に台風で流され、いまはもうないことを思いだした。そのあとに仮に作られた安普請《やすぶしん》のみじかい浮き桟橋が、いまもそのまま使われている。だから、この昔の桟橋はもうないのだ。そう気づいたとき、目がさめた。
 未明に雨が降ったらしい。水滴が付着した窓ガラスの向こうに、雲のかたまりの合間から、いまは青空が見えていた。カモメが二羽、三羽と飛びすぎていく。大きくため息をついてから、彼女はようやくベッドの上に身体を起こした。
 くしゃくしゃになった髪に指をとおし、かきあげる。くせ毛なのに指のとおりがいいのは、今日がこれから天候回復にむかう兆候なのかもしれない。ほんのわずかよくなった気分を種火《たねび》のように大切におこしながら、毛布を脇へずらし、ベッドの下に足をおろす。床は冷たく、なぜか内履きは遠くで「ハ」の字になり、おまけに片方は裏返っている。
 立ち上がってとにかく上履きをつっかける。フェイクファーの感触に足指がほっとあたたかくなる。まだ生きているのね。このような朝があと何回やってくるのだろう。とかんがえて、自分がまるで老婆のようなかんがえかたをしていることに気づいた。生まれてもうすぐ半世紀がたとうとしているが、まだ老婆とはいえない。身体はだいぶおとろえ、動きはにぶくなり、それに反してふっくらとしてきてはいるが、まだ顔も手も乳房もしわくちゃではない。
 寝間着を脱ぎ、着がえて階下のキッチンに向かった。
 流しの窓辺に置いてある小さな鉢植えのオリヅルランが、このところの春の日差しでようやく新芽をのぞかせている。この鉢は週に一回、町から食料や日用品を船で運んでくる男がくれたものだ。彼は彼女よりすこし歳上で、自分に恋心を抱いていることを知っていた。しかし、彼には自分の二倍ほどもある立派な女房がいて、いつも監視の目で彼を見ていることも知っている。
 オリヅルランに水をやり、湯をわかす。コーヒー豆をひき、ドリッパーにネルをセットし、丁寧にコーヒーをいれる。時間がたっぷりある自分には、なにごともゆっくりと丁寧にやる癖がついているのだが、それはいつごろからなのか自分でもわからなかった。
 東の窓ぎわに置いた椅子にすわり、もうそろそろまぶしくて直視しにくくなりつつある太陽と、その前を通過する綿雲をながめながら、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。いつもの朝といいたいところだが、彼女は起きてからずっと違和感が耳の下から肩のあたりにわだかまっているのを感じていた。
 なんだろうか、この感じ。なにかがこの島に――彼女ひとりしかいないはずの島にいる。

       2

 コートハンガーにかけてあった白いショールを羽織《はお》ってから、南向きのドアをあけて外に出る。風が強まっているようだ。夜中、眠っているときも風の音がしきりに聞こえていたことを耳の奥が記憶していたが、それよりも風は強くなり、北寄りになっている。波頭《なみがしら》が風でささくれ、空中に誘われた水滴がさらにこまかい霧になって、潮《しお》のかおりを運んでくる。
 ドアの外の三段ある石段を、あたりに注意を払いながらゆっくりと降りる。違和感は島の北西の方角にあるような気がする。
 波の音にまじってギイギイという音が聞こえる。なにか岩に押しつけられ、こすれるような音。流木でもひっかかっているのか。右手のほうへ家をまわりこみ、岩場のほうに向かう。
 島全体は岩場にかこまれていて、家と灯台は盛りあがった地形のてっぺんに建っている。家の脇には林というより茂みに近いような小さな雑木林。その前には畝《うね》が五本あるせまい畑と鶏小屋がある。灯台は林の向こう側の北東の角に建っている。彼女が向かっているのは灯台とは反対側にのびた小径で、岩場をぬって斜めに海へと降りている。彼女はその小径をめったにたどることはない。それはかつて夫がサザエやアワビを採るために海にはいるときに使った道だった。彼女が海にはいることは、もうない。
 ながくとおっていない小径は、風で飛ばされた砂利や枯れ枝が足場の岩に乗り、ともすれば足をすべらせそうになる。落下し、岩にたたきつけられても、助けを呼ぶ手段はない。人がいるのは四〇〇メートル海をへだてた港だ。腰をかがめ、ときには岩をつかみ地面に手をつきながら、慎重に岩場を降りていく。
 やがてギイギイいう音の正体が見えてきた。船だ。たぶん漁船なのだろう、小さな木の船で、岩に打ちあてられ、ほとんどバラバラに壊れている。船体の上に乗っていた操舵室だけが、横倒しになってはいたがバラバラにはならず、岩と岩のあいだにすっぽりはさまって波に打たれていた。これが海面に揺さぶられるたび、岩肌にこすれてギイギイ音を立てているのだった。
 古びた船だ。人は乗っていたのだろうか。それとも、打ち捨てられた廃船が流れついただけだろうか。調べるためにさらに近づいた。
 横倒しになった操舵室のなかに人影が見えた。人が遭難しているのに出くわして、彼女は急に動悸が激しくなるのを感じた。どうしよう、死んでいるのかしら。死んでいるとしたらこわくてとても見れない。生きているとしてもどうしていいかわからない。助けを呼ぶ? ひとりで介抱する? 負傷していたらどうする? 立ちすくんだ足をなんとか運び、岩につかまりながら操舵室のなかをのぞきこんだ。
 舵にもたれかかるようにして倒れている人がいた。男だ。いや、その顔は男の子といっていいほど若い少年で、髪は濡れて額にへばりつき、顔面は真っ白だった。血の気はなかったが、生きていることはわかった。息があったからだ。ほかに怪我をしているようすはなかった。衣服はずぶぬれだったが、出血はなかった。
 彼女はドア口から上半身を突っこんで手をのばした。手の先が少年に触れた。声をかけてみる。反応はない。手で顔に触れてみる。冷たい皮膚はなめらかだった。掌を頬にあて、二度、三度と声をかけながらさすってみる。
 まるで長いまばたきの瞼が開くときみたいに、少年の目がなにごともなく開いた。

       3

 水平線から昇りはじめた太陽の光が島にとどき、まだまばらな東側の木々のあいだをとおって窓ガラスにまだら模様を作っている。いつもなら目がさめてもすぐには起きあがらず、ぐずぐずとベッドでだだをこねているのだが、今日はすぐに身体を起こした。隣でもうひとつの暖かみがこちらの動きに気づくこともなく寝息をとぎらせない。
 左のまぶたに朝日がわずかにあたっていて、女の子のように長いまつげがふるえている。いや、まつげがふるえているのではなく、光が動いているのだ。彼女はそれをうっとりとながめていた。だれかといっしょにベッドで朝を迎えるなんて何年ぶりだろう。
 少年がいっしょに寝たがったのだった。名前も年齢もわからない。彼は口をきかなかった。口をきけないのか、あるいはなんらかの理由で口がきけなくなっているのか。なぜあの船に乗っていたのか、どこから来たのか。なにもわからない。とにかく、夜をこわがって彼女にしがみつくようにしてベッドにもぐりこんだが、疲れた身体がすぐに彼を深い睡眠へと誘いこんだらしい。
 寝間着の上からガウンを羽織ろうとして思いなおし、裾の長いダウンジャケットを寝間着の上から着こんだ。階下に降り、外履きをはいてそのまま外に出る。
 林をすかして水平線に太陽が見えた。朝焼けはないが、いくつか浮かんでいる綿菓子のような雲の下はオレンジ色に輝いている。海は今朝はおだやかなようだ。
 林の手前にある鶏小屋のところに行くと、荷箱から餌の袋をつかみだし、風でバタバタしないようにくくってある取っ手の紐をほどき、なかにはいる。いつものことだが、鶏たちが餌の予感に鳴き声をあげ、あわただしく動きまわる。餌をあたえてから、巣箱のなかにある卵を回収する。およそ二十匹いる鶏が、今朝は六個の卵を産んでいた。全部自家用ではなく、余ったものはときおり港に持っていって売る。そのお金でバーに寄って、港の男たちとすこし話す。
 まだ暖かい卵を持って家にもどり、ダウンジャケットを脱いで代わりにガウンを羽織り、キッチンに立った。数日前に届けられたブロッコリーをゆで、パンを薄くスライスして、ベーコンエッグを作る。あの子、コーヒーはもう飲めるだろうか。ミルクがあったらよかったのに。彼女はもうミルクを飲む習慣を持っていない。

       4

 朝食を準備し、いっしょに食べ、昼食を準備し、いっしょに食べ、夕食を準備し、いっしょに食べる。その合間に話しかけ、沈黙で答えられ、パニックになった身体を抱きしめてやる。島を散歩し、鶏と灯台を見せてやる。畑に大豆をまくやり方を教え、いっしょに豆をまく。
 遭難者かもしれない少年のことを、彼女はまだだれにもいっていない。彼をさがしている人がいるかもしれないと思う。しかし、彼はさがされていないという直感がある。彼のことを通報しなければとかんがえると同時に、通報してはいけないともかんがえる。
 彼はひょっとしてこの島に、永遠に彼女といっしょにすごすためにやってきたのかもしれない。どこからか。そういえば、彼を乗せてやってきて難破した船の名前を確かめていなかった。少年をたすけた翌日、岩場におりてみると、そこにはもう船はなかった。バラバラになった船は満潮とともに波にさらわれ、流されてしまったらしい。思いかえすと、あの船はなんとなく、夢に出てきた夫の船とそっくりだったような気がする。
 明日は週に一回の町の男が食料品をとどけに来る日だ。少年をどうしようか。男にたのんで町に連れかえってもらって、警察にとどけてもらおうか。それとも隠しておこうか。男は少年を見たらどうするだろうか。何日かいっしょにすごし、おなじベッドで眠っていたことを知ると、男は嫉妬するだろうか。もし少年を隠しておいたとして、いつまでもそのことを知られずにいっしょにすごすことなどはできないだろう。それとも私はこの少年とずっとこの島でふたりきり、蜜月のようにすごすことを夢見ているまぬけな女なのか。町の者たちにそのことが知れたらどんなことをいわれるのやら。
 夕方、食事のしたくをしようとキッチンに行ったら、少年が立ったまま窓から外を見ていた。お腹がすいたのかと訊いてみたが、返事はない。待っててね、夕食はすぐにできるからね、といいながら少年にちかづいたとき、彼の身体がこきざみに動いていることに気づいた。震えている。こわいの? 船の事故のことを思いだしたの?
 少年がゆっくりとこちらを振りむいた。泣きそうな顔をしている。眠りにつく前、そして真夜中に目をさまして、何度かこういう顔を見せてからパニックにおちいった。そのたびに母親のようにぎゅっと抱きしめてやった。いまも両手をひらくと、少年が腕のなかに身体をあずけてきた。もう男の身体になりつつあるごつごつした背中に手をまわし、抱きよせて力をいれる。こわいことを思いだしたのね。もうだいじょうぶ。ここは安全だから。もうなにもこわいことはないわ。落ちつくまでずっとここにいていいのよ。私がお世話してあげる。守ってあげる。
 少年の背は彼女よりすこしだけ低い。やせた胸が彼女の胸に押しつけられている。何人かの男の口にふくませたこともある乳首が、少年の胸に押しつけられ、切なくうずいた。もう何年も男に抱かれていなかった。このうずきは母親が子どもに乳首を吸わせるときのものではなく、女の身体としてのものだ。明日になったら、町の男がやってくる前に電話して、警察官を連れてくるようにたのもうと思った。
 そのとき、少年が耳元でなにかいった。これまで一度も聞いたことのない少年の、声変わりがはじまったばかりのかすれた高い声。なんていったの? もう一度いって、お願い。少年がふたたび口を開いた。
「つなみがくるよ」

       5

 夜になって風がないだ。外はくもっているが、波もおだやかなようだ。夕食のあと、少年は彼女が持っていた本を読みはじめた。あれきりまたひとことも口をきかなくなっている。本はロシアの絵本で、ロシア語は読めないがカラフルなキノコがたくさん出てくるので気にいっていて、ときどき本棚から取りだしてはながめるのが好きだった。子どものときから持っている本なのでもうぼろぼろだが、どうしても捨てる気になれないのだ。
 テーブルをかたづけ、洗い物をはじめる。おおかた洗いおわりかけたとき、ふと首すじにつめたい空気を感じた。ふりむくと、玄関のドアがあいていて、少年の姿がない。読んでいた本はテーブルの上に置かれている。
 手をふき、あわてて外に出る。もう外は真っ暗だ。しかしまだわずかに夕刻の光がのこっていて、あたりのようすはなんとか見える。少年の姿をさがす。林のわきからつづく小径を灯台のほうに向かっている少年が見えた。そちらに向かいながら、少年が灯台の入口に立ち、木のドアをあけるのが見えた。
 少年の姿が灯台のなかへと消えた。彼女は小走りに灯台の入口にたどりついた。なかにはいる。石造りの階段が螺旋状に上へと向かっている。足音が聞こえた。彼女は少年のあとを追って階段をのぼった。
 階段の一番上に回転機械室があり、モーター音が聞こえる。外に出るちいさなドアがあり、ぐるりと灯台のてっぺんを取りまく手すりのついた回廊がある。ドアをくぐって外に出た。
 少年の姿はなかった。ぐるりと一周してみたが、いなかった。手すりから身を乗りだして下をたしかめてみたが、落下したようすもなかった。
 少年の姿はまるで煙が立ちのぼるかのようにかき消えてしまった。
 空を見上げると、うすい雲のむこうにぼやけて見える満月の前を、羽化したばかりの大きな蛾が一匹、ひらひらと飛びすぎていくのが見えた。

2013年10月11日金曜日

移行

(C)2013 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author


   移行
              作:水城ゆう


私は木を見るように
あなたを見る
私は木をながめるように
自分をながめる

あなたは揺れている
風に吹かれて木が揺れるように
ときにはゆったりと心地よさそうに
ときには激しく嵐にもまれるように
私もそれを見て
ともに揺れる

灯台のてっぺんをすれすれにかすめて
戦闘機がやってきたとき
臆病な私は
闇夜を飛ぶ蝙蝠のように
ひらひらと逃げまどった

巨大な建屋が水素爆発を起こして
きのこ雲を吹きあげたとき
無責任な私は
死んだ蛇を振りまわす子どものように
きいきいと叫び声をあげた

それをあなたも見ていた

黒々とした巨大な波が壁のように押しよせてきたとき
あなたは幼い子の手を引いて丘の上をめざした
重機で築きあげた長大な岸壁が
豆腐をくずすみたいにあっけなく崩壊するのを見た

ラムネ壜のビー玉は
ビー玉ではなくて
本当はエー玉というんだよ
そんなささいな日常が一瞬にうしなわれて
瓦礫と放射性物質の山におおわれる

あなたの命は
大きな物語のなかに置かれているかもしれないけれど
あなたはもちろん
そんなことを望んではいない
私も望んではいない
あなたも私もささやかな物語を生きたいだけなのだ
それはささやかだけれど
美しい物語で
だれもがお互いを尊重し
しずかに愛しあっている

ひと粒のどんぐりが道ばたに落ちている
だれかがそれを見つけてつまみあげ
ポケットにいれる
しばらくしてどんぐりはポケットから取りだされ
土に埋められる
水分をふくんで
どんぐりはぷっくりとふくれ
皮をやぶって芽を出す
土から顔を出した芽は
光をあびて葉をひろげる
葉は風に揺れ
雨を浴び
光合成で二酸化炭素から炭素を取りだし
かわりに酸素を大気に放つ
どんぐりは風と光を浴びながら
樹木へと成長していく
それがあなただ

あなたは忘れてはいない
ファーストフードチェーン店でできあいのハンバーグをいつも食べなくても
ステーキ専門店で肉汁したたる焼いた牛を食べなくても
隣の畑で採れた季節の野菜と
私が作ったあたたかなスープをいただけば
それだけで充分に幸せであることを

あなたは思いだす
何リットルもの巨大エンジンを積んだ自動車を乗り回さなくても
冷え性になったり風邪をひきそうになるほどエアコンを回さなくても
私と連れだって自転車をこぎ
ベランダに打ち水をしてうちわをパタパタやれば
それなりに充分に楽しいことを

鉄とコンクリートでかためられた巨大な建造物はもういらない
木と土でできた古い家を補修しよう
マンションのために巨木を切り倒すのはもうやめよう
木々に巣箱をかけ鳥たちを呼びもどそう
原子力発電所を動かすのはもうやめよう
不便を楽しむ生活をしよう

あなたは朝
太陽とともに目覚める
日を浴び
酸素と二酸化炭素を交換し
活力を感じて
あたらしい一日に歩みだす
あなたは夜
夜の暗さを楽しむ
照明を落とし
暖かいくぼみに横たわり
休息の祈りをささげ
回復のために
眠りにつく

灯台のてっぺんをすれすれにかすめて
戦闘機がやってきたとき
臆病な私は
闇夜を飛ぶ蝙蝠のように
ひらひらと逃げまどった
そんな夜が二度と来ないことを
私とあなた以外のだれが祈っているだろうか
私とあなたの祈りがつながるように
夜の祈りが人々にとどくことを願う
政治家に
資本家に
社長に
株主に
官僚に
武器メーカーに

巨大な建屋が水素爆発を起こして
きのこ雲を吹きあげたとき
無責任な私は
死んだ蛇を振りまわす子どものように
きいきいと叫び声をあげた
そんな朝が二度と来ないことを
あなたと私以外のだれが祈っているだろうか
あなたと私の祈りがとどくように
朝の祈りが彼らにとどくことを願う

木を植える人がいる
種をまく人がいる
作物を育てる人がいる
靴を修理する人がいる
服を縫う人がいる
野菜を売る人がいる
年寄りが子どもたちに教える
子どもたちが年寄りの手を引く
自転車が通りすぎる
挨拶がかわされる
味噌と醤油が貸し借りされる
病気の人に寄り添う猫がいる
風が木々の葉を揺らして通りすぎていく
太陽と星々のかがやきが人々に安心をもたらす

笑顔のあなたがそこにいる
風に揺れる樹木のように
そこにいるあなたを
私は見ている
そういう街に私は住みたい

2012年11月8日木曜日

舞踏病の女

(C)2012 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

  「舞踏病の女」
                            作・水城ゆう


 飛んでいる象に人が乗っているプリント柄の服を着て、あなたは踊りつづけている。
 回遊魚が泳ぎつづけるように、息をするのも忘れてあなたは踊りつづける。
 もちろん息はしているのだけれど、その息すらも踊りの一部であるかのようにあなたは踊る。

 時間さえあればあなたは踊っている。
 仕事の合間の休み時間にも、通勤中にも、家に帰ってからも。
 だれもいない会議室で、プラットフォームで、トイレで、湯船のなかで。
 キッチンで洗い物をしながら、あなたはステップを踏む。

 調子がいいときも悪いときも、風邪ぎみのときも花粉症のときも。
 重い病気にかかって入院していたときも、あなたは横になったまま踊りを夢想しつづけていたし、実際に身体はわずかに動いていたかもしれない。
 医師や看護婦や見舞い人に気づかれないほどかすかにではあったけれど。

 わたしはあなたのようには踊れないけれど、あなたを見ているうちに私も踊っているのかもしれない、ということに気づいた。
 足が悪くてあなたのようにステップは踏めないけれど、わたしは踊っている。
 ありがとう、わたしに気づかせてくれて。
 ありがとう、あなたのおかげで私もダンサーになれた。

 あなたにとって歩くことは踊ること。
 わたしにとっても歩くことは踊ること。
 あなたにとって座るのは踊ること。
 わたしにとっても座るのは踊ること。
 傘をさしたり、バッグを肩にかけたり、眼鏡をずりあげたり、クラリネットを吹いたり、あなたのおかげでいつもわたしは踊れるようになった。

 ご飯を食べるとき、あなたの箸がおどる。
 ご飯を食べるとき、わたしの箸がおどる。
 茶碗が踊る。
 ナイフとフォークが踊る。
 顎と歯が踊る。
 あなたと話すとき、あなたの唇が踊る。
 あなたと話すとき、わたしの唇が踊る。
 舌が踊る。
 顔面が踊る。

 象が空を飛ぶことを夢見るように、わたしもあなたも華麗なステップの時間を夢想している。
 わたしたちは踊ることに取りつかれた女。
 あなたもわたしも舞踏病の女。
 踊らずには生きていけない女。

2012年10月11日木曜日

朗読者

(C)2012 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

  「朗読者」
                            作・水城ゆう


 つづける。つづける。読みつづける。彼は読みつづける。彼は読みつづける。
 彼は読みつづける。老人に向かって。若者に向かって。少女に向かって。会社員に向かって。学生に向かって。浪人生に向かって。美大生に向かって。音楽家に向かって。小説家に向かって。プログラマーに向かって。デザイナーに向かって。クラリネット奏者に向かって。陶芸家に向かって。パティシエに向かって。女に向かって。あなたに向かって。
 彼は読みつづける。学校の校庭で。ギャラリーで。飲み屋の一角で。ホールで。講堂で。集会所で。アトリエで。往来で。商店街で。森のなかで。海辺で。多くの人々の前で。少しの人の前で。被災地で。戦火のなかで。あそこで。ここで。
 彼は読みつづける。日にあたりながら。ライトに照らされながら。雑踏に声をかき消されながら。子どもにからかわれながら。着信音にさえぎられながら。オルガンを聴きながら。エンヤに包まれながら。居眠りする老人を気にしながら。あなたを見ながら。
 来る日も来る日も彼は読みつづける。
 あなたは彼が読みつづけていることで世界がありつづけることを知る。彼が読みやめるときが来ることなどあなたは想像することができない。世界がありつづけるかぎり彼は読みつづけるだろう。彼が読みやめるその瞬間をあなたは知ることはない。
 しかしそのときはたしかに来る。
 彼は読みつづける。それが過去形になるときがたしかにある。しかしいま、彼は読みつづける。あなたに向かって。

2011年5月31日火曜日

繭世界

(C)2011 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

   「繭世界」


指先からつむがれた透明な音が長     私は生まれつつあった。
い尾を引いてからたちの刺にから     同時に死につつあった。
みつき真っ青な空の雲を誘惑する
梅雨が明けたばかりの夏の繭。き     世界は開かれつつあった。
らりと眼のすみを横切るのは塩辛     同時に閉じられつつあった。
蜻蛉か青条揚羽かふと顔を向ける
と自転車がもんどり打って倒れよ     闇に光が射しこみつつあった。
うとしていた繭。幾重にも連なっ     同時に闇に閉ざされつつあった。
ていつまでも打ち寄せてくる波の
向こうに見えるのは外洋航路に向
かうコンテナ船の色とりどりの繭。    我々は時間の軸を直線的に生きる
あなたは眼を閉じ身体を丸め折り     わけではない。
曲げた脚を両手で抱えるようにし     時間はからまりあった糸のように
ている。あなたが目覚めているの     もつれ行きつ戻りつしている。
か眠っているのかはあなた自身に     昨日は今日であり、今日は昨日で
すらわからない。閉じた眼の奥で     もある。
線香のようにイメージが交錯する。    昨日の出来事はまだ起こっていな
濡れたアスファルトの上をどこま     いことでもあり、明日の出来事は
でもつづいて伸びる烏の切断され     すでに起こっていることでもある。
た首から流れ落ちた赤い繭。これ
は考えているのか、それとも夢見
ているのか、あるいは幻覚なのか。
あなたは自分が何者なのかは知ら
ないが、ここに来る前にいた場所     津波は来たのかもしれないし、ま
のことはぼんやりと思い浮かべる     だ来ていないのかもしれない。
ことができる。青い海。青い空。     これから来るのかもしれないし、
打ち寄せる波。海岸線を不規則に     すでに来てしまったのかもしれな
区切る岩山の上には沖からの強い     い。
風で斜めにかしいで生えている細
長い松の木が何本か見えている。
波打ち際を歩いていたような気が
する。貝殻を拾い集めていたよう
な気がする。巻貝のからっぽの口     からまりあった糸が作る境界で、
を耳に押し当ててみたような気が     死者と生者が交錯する。
する。あなたは海が好きだったよ
うな気がする。しかしあなたが生
まれたのは海の見えない土地で、
いつも四方を山に囲まれたくぼん
だ場所だったような気がする。太     これは幻視なのか、それとも現実
陽は東にそびえる山脈の高い位置     なのか。
から遅くのぼり、西にも連なる山
々の高い場所に早く沈んだ。夏で
も一日は短く、そのくせ風も吹か
ずやたらと暑い土地だった。海の
近くに住んでみて、太陽が出てい     すべてが不確実なことをだれもが
る時間が長いにもかかわらずいつ     知っている。
も風が吹いて涼しく、見晴らしが
よいことにおどろいた。空がこん
なに広い場所があるということを
あなは知って驚いた。あなたはこ
の地に住むことを決めたような気
がする。それを後悔してはいない。
あなたは自分が何者でどこから来
たのか、どこへ行こうとしている
のかもわからない。そもそもどこ
かへ行く必要があるのだろうか。
あなたはいつからこの繭のなかに     どこかでだれかかが繭をつむいで
いるのかもわからない。だれかに     いる。
試されているのか。だれかに観察
されているのか。だれかに飼われ     我々は時間軸の糸によって繭のな
ているのか。そもそも人間なんて     かにからみとられていく。
そのようなものでどちらでもかま     いまはまだ蛹ですらない未熟で愚
わない。ふいにはっきりした思考     かな存在だ。
があなたの前頭葉に浮かぶ。同時 
に、ここへ来る前にあなたが見て
いたことを思い出したような気が     我々愚かな芋虫がこざかしい知恵
する。赤い血で染められたアスフ     を振りかざし、あたりをいくばく
ァルトがでたらめなダンスを踊り     か汚したところで、繭をつむぐ者
烏の首をはねた電線が喉を病んだ     がなにを気にするというのか。
テノール歌手のように歌っていた。
四角い木綿豆腐が腐って爆発し腐
臭をあたりにまき散らしていた。
溶岩のように熱く重い水に巻かれ
ながらあなたはそれを見ていたよ
うな気がする。水は時間そのもの
でありあなたはそれにからめとら
れてこの繭のなかへとやってきた。
もはや生きているのかも死んでい     もう眠ろう。
るのかもわからないしそんなこと     眠ってしまおう。
はどちらでもかまわない。ただい
まはもう時間のなか深いどろどろ     暖かな繭の奥深くで、どろどろの
の眠りへともぐり降りていくばか     液体に満たされた蛹になってしま
りだ。あなたのなかからなにか生     おう。     
まれてくるかどうかはだれもわか     
らないしそこにはもちろんあなた     生まれつつあると同時に、死にゆ
はもういない。             く存在になろう。
                              (おわり)

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2011年5月29日日曜日

帰り道

(C)2011 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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  「帰り道」


 夜の帰り道
 線路脇で星空を見上げるのが癖になった
 東京の空は明るくて
 星はいくらも数えられない
 遠いふるさとの空には数えきれない星がある
 電車が通過する音を聴きながら
 そんなことを思う

〈地の光は絶え
 築けしものも流れた
 多くの魂が去り
 幾万の涙が流れた〉

 月のない夜
 春が去っていく夜
 かすかな星明かりをさがして
 失われたものを思う

 それでも風は吹き
 波は打ち寄せ
 木々は芽吹いて青々と茂る
 それでも星は輝き
 夜明けはやってくる
 それでも人々は生き
 涙は笑顔に変わる

 朝になれば線路脇では
 ヒバリがさえずるし
 ハナミズキが咲きかけている
 紫陽花さえもうじき咲きそうだ

2011年5月22日日曜日

祝祭の歌

(C)2011 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #78 -----

  「祝祭の歌」


 その時 きみは見たか
 揺れ動くビルを
 くずおれる家屋を
 うなりをあげる電線を
 ひび割れる大地を
 波打つ海を
 押し寄せる海水を

 その時 きみは聞いたか
 人々の悲鳴を
 破壊の音を
 風を切り裂く音を
 地割れの響きを
 とまどいと
 怒りの声を

 悲劇の彼岸の
 それは祝祭だった
 大地の歌と
 ことほぎの踊りだった
 あらゆる命を呑みこみ
 死をもたらし
 それでも祝祭として
 大地は踊った
 なぜならそれは 何万年
 何億年とつづく 地のいとなみなのだ

 人が築いたほんの数千年の文明
 ほんの数百年の構造物
 ほんの数十年の技術
 大地の踊りの前に
 あっけなく崩れさった

 浅はかな技術が 大地を汚し
 世界に永く闇をもたらす
 そんなことすら 大地は気にも止めない
 悠久の時のなかで
 ゆっくりと激しく わずかずつ大きく
 ただ踊りつづけてきた

 私たちが見るのは 神の罰ではない
 私たちが聴くのは 大地の怒りではない
 私たちが見るのは ことほぎの踊り
 私たちが聴くのは 祝祭の歌

 私たちも また
 よろこびながら
 嘆きながら
 怒りながら
 悲しみながら
 ことほぎの踊りをおどり
 祝祭の歌をうたおう
 大地とともにあることを
 悠久の時の流れのなかで
 祝おう

2010年10月6日水曜日

イカ墨はえらい

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #76 -----

  「イカ墨はえらい」


 イカ墨のスパゲティ、好きだけど、
 イカ墨ってなんだ?
 イカ墨のリゾットも好きだけど、
 イカ墨ってなにもの?
 イカ墨っていうくらいだから、イカのなかにあるんだろう。
 たしかにイカをさばくと、真っ黒い墨が詰まった袋が出てくる。
 包丁で切ると、ドロッと墨みたいなのが出てくる。
 これを使ってイカ墨のスパゲティを作ってみようと思ったこともあるけれど、
 とてもじゃないが少なすぎて料理には使えない。
 料理に使うなら、
 市販のイカ墨ペーストを使う。
 僕が知ってるのはレトルトパックになっているやつか、缶詰のやつ。
 イカ墨はうまい。
 なんでだろう。
 イカは墨をどうやって作ってるんだろう。
 イカは墨になにを詰めこんでるんだろう。

 タコも墨を吐く。
 敵に襲われたら吐く。
 イカと同じだ。
 イカ墨とタコ墨は違うのか、同じなのか?
 違うとしたらどう違うのか?
 墨汁みたいだけど、墨汁とどう違うのか。
 墨汁は人間が作る。
 墨汁は原油などを燃やしたときに出るススが原料。
 イカ墨はなにが原料なんだ?
 そもそもイカやタコはなぜ墨を吐く?

 もちろん敵から逃げるためらしい。
 しかしイカとタコの墨の役割は違うらしい。
 タコの墨は拡散する。
 イカの墨は固まる。
 タコは敵の視界をふさいで、そのスキに逃げる。
 イカは墨で自分の分身を作って、敵にそっちを与えてから逃げる。
 イカの分身は食べるとうまい。
 イカの分身だから。
 だから、イカ墨はうまい。
 イカ墨はタコ墨の三十倍うまいらしい。
 つまりアミノ酸の分量がね。

 イカやタコの墨の成分は、セピオメラニンというメラニンの一種だ。
 イカ墨はセピオメラニンにマグネシウムやカリウムがくっついた塩類化合物になっていて、
 粘り気がある。
 ブッと排出されると、固まって、イカの形みたいになる。
 敵はそれに注意を奪われて、イカを捕りにがしてしまうというわけ。
 タコ墨は同じセピオメラニンでも、
 チロシンというアミノ酸が酸化酵素によってできたもので、
 敵を麻痺させる特殊な成分が含まれている。
 これで煙幕を張って逃げるというわけ。

 イカ墨の主成分は、
 ムコ多糖類とか、アミノ酸の一種のタウリンでできている。
 ムコってなんだ? ヨメ多糖類もあるのか?
 ムコとは動物の体内で遊離複合体または蛋白複合体の形で存在する多糖類の総称。
 なんのこっちゃ。
 鼻汁とか痰もおなじものらしい。
 ペッ。

 ついでにネットで調べたら、
 イカ墨パウダーというものが売られていた。
 さっそく注文してみた。
 着払い。
 まだ届かない。
 届いたらなにを作ろうか。
 まずはやっぱりイカ墨スパゲティ。
 それからイカ墨リゾット。
 イカ墨カレーも作ってみたい。
 イカ墨おでんなんてどうだろう。
 イカ墨トンカツ、イカ墨味噌汁、イカ墨マヨネーズ。
 いろいろ作れそう。

 イカ墨ってなんてえらいんだ。
 イカ墨のことをかんがえるだけでこんなに楽しくなるなんて。
 そうだ、イカ墨小説を書いてみよう。
 イカ墨の歌も作ろうか。
 イカ墨の帽子やイカ墨のセーターも作ってみよう。
 イカ墨のコンドームとかイカ墨のティッシュペーパーも作ってみよう。
 イカ墨カーで外出しよう。
 イカ墨パソコンで仕事しよう。
 イカ墨ベッドで寝よう。
 イカ墨ってなんてえらいんだ。

2010年9月30日木曜日

ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にある

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #75 -----

  「ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にある」


 僕がいる。
 僕は見る。
 君が来る。
 僕は聴く。
 僕は知る。
 君が泣く。
 僕は書く。
 君が取る。
 僕は折る。
 僕は蹴る。
 君が去る。
 僕は立つ。
 僕は行く。
 僕は寝る。
 君が揺れる
 僕は照れる。
 私は食べる。
 私は飲みこむ。
 私は食器を洗う。
 君はお茶をいれる。
 私はコーヒーを飲む。
 私は新聞を広げて読む。
 君は窓を開けて外を見る。
 君はどこに行くのと尋ねる。
 私はどこに行きたいのと聞く。
 僕たちは手をつないで街を歩く。
 おだやかな風が僕たちを包みこむ。
 風はユリノキの葉をざわざわ揺らす。
 揺れる木々の葉の間に青い空が見える。
 僕たちは手をつないだまま空を見上げる。
 青い空の向こうには漆黒の宇宙空間がある。
 僕たちは一緒に夜の空を見上げるのも好きだ。
 星座の名前を全部は知らないけれど星が好きだ。
 僕たちはカフェの椅子に座って街行く人々を見る。
 ベビーカーを押す女性と孫の手を引く老女が通った。
 僕はいまは遠くに住んでいる息子のことを思いだした。
 僕はテーブルの上にスケッチブックを広げて街を描いた。
 急いでやらなければならない仕事があることを知っている。
 いまは仕事のことは考えずに君とこうやってすごしていたい。
 僕たちがいるこの街や人々や風や光を感じながらすごしたい。
 僕が幸せなのは君と僕がこの世界のなかに包まれているから。
 どうして詩や歌詞は「君」と「僕」しか出てこないのだろう。
 いずれ君も僕もここにいる人々も街も姿を変えていくだろう。
 変わらず永遠に存在しつづけるものはこの世にはなにもない。
 すべては永遠に姿を変えながら存在しつづける法則しかない。
 ゼータ関数の非自明なゼロ点はすべて一直線上にあるらしい。

2010年7月12日月曜日

コップのなかのあなた

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #74 -----

  「コップのなかのあなた」


 コップで水を飲もうとして、ふとかんがえた。
 このなかに、あなたはいるだろうか、と。

 生物学的な意味では、あなたはもういない。
 もう死んでしまったのだから。
 葬式も出したし、死亡届も出した。
 でも、死ってなんだろう。
 あなたという形はなくなってしまった。あなたを形作っていた血や肉や骨は消えてしまった。でも、どこへ?

 わたしは動かなくなってしまったあなたが、棺桶にいれられ、葬儀のあとに焼却炉にはいるのを見ていた。
 あなたはそのなかで焼かれ、煙と水蒸気になって煙突から立ちのぼり、あとにはわずかばかりの灰と骨が残っていた。
 あなたは水蒸気と二酸化炭素といくらかのミネラル分に分解され、世界のなかに散らばっていってしまった。
 だとしたら、いま、ここに、わたしの手のなかにあるコップの水のなかに、あなたの一部はいないだろうか。

 計算してみよう!
 仮にあなたの成分が、水分が60パーセント、脂肪が20パーセント、タンパク質が15パーセント、ミネラルが5パーセントだったとする。
 ややこしいので、いまは水分だけに着目する。
 あなたの体重は60キロだった。60000グラム。なので、あなたの水分は36,000グラム。
 真水 H2O の分子量は18グラムパーモル(g/mol)だから、あなたの水分子量は2,000モル。
 分子の数はアボガドロ定数により 6.023の23乗×2,000モル、すなわち1,724,748,800,000,000,000,000個。
 一方、地球の表面積は約510,000,000,000,000平方メートル。
 あなたの水分子数を地球の表面積で割れば、338,186,039個。
 つまり、1平方メートルあたり338,186,039個のあなたの水が、地表には存在しているということになる。
 きっとこのコップの水にも、あなたがたくさんはいっているにちがいない。

 わたしのこの身体だって、数か月で分子は全部入れ替わっている。
 形を保っているように見えて、じつは流れる河のように動いている。
 わたしのように見えるものは、じつは岸辺。流れる水を通すだけの形。わたしはたえず動いている。
 鳥がやってきて、さえずり、愛を交わし、巣を作り、ヒナを育てて、また去っていく、そんな樹木のようなもの。樹木も何十年、何百年とそこに立っているように見えて、ずっとおなじものはなにもない。

 わたしのなかにあなたがいて、あなたのなかにもわたしがいる。
 世界のなかにわたしもあなたもいて、つながっていて、すべてとつながっていて、ゆたかに流れている。
 そんなことを思いながら、わたしは幸せな気持ちでコップ一杯の水を、あなたを飲んだ。

2010年6月8日火曜日

おんがくでんしゃ

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #72 -----

  「おんがくでんしゃ」


逆爪できて痛い金色カバン膝に乗せた女短いぱんつに斜めチェックのストッキング太もも太くて膝開いてる両肘締めて両手でケータイ見る男トレンチ着て颯爽と立つ女背を反らし胸突き出して文庫本見てる毛糸の帽子すっぽりかぶった男本読みながらケータイ打ってる目白池袋たくさん乗り換えこんがらがったイヤホンのコードと格闘してるニキビいっぱいある女間隔調整のため停車いたします聴覚標識ぴよぴよぴよ右隣は黒づくめの女布カバーかぶせた文庫本読んでるすり切れた布古い型のiPodよろける白いパンプス膝の裏の青い血管The next station IS Ootsuka午後の外光にてらてらしてる床ゴムのにおい目を閉じる初老のサラリーマン光る胸のバッジバッジは彼の心臓動脈硬化起こしかけてる血管詰まってこんがらがるイヤホンのコード耳に突っ込んだまま寝てる高校生頭グラグラしてる西日暮里背もたれに背付けず前のめりで漫画読む中年男方角間違えて乗った山手線どうせそのままぐるりと回るご注意ください暖房と冷房の中間で迷ってる空調ユラクチョーは有楽町当駅は当面禁煙ですあ全面か左隣の若い男寝言いう

2010年6月7日月曜日

ふとんたたき

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #72 -----

  「ふとんたたき」


 ベランダの戸をあけたら
 前の家のおばちゃんが物干し場でふとんをたたいていた
 力まかせに腕を振りあげ振りおろし
 ふとんたたきをふとんにたたきつけている

 ガシャンガシャンガシャン
 ガシガシ
 ガシャンガシャンガシャン

 おばちゃんの指はぎしぎしと力をこめて
 ふとんたたきを握りしめている
 ふとんたたきはいまにも折れそうだ
 ふとんたたきを振りあげるおばちゃんの腕はもりもりと力がはいり
 ふとんたたきはいまにもひんまがりそうだ
 振りあげたときにはがしんと屈曲し
 振りおろすときにはびしんと伸張するおばちゃんの腕関節は
 油が切れているのかぎいぎいと耳障りな音を立てる

 ガシャンガシャンガシャン
 ギシギシモリモリギイギイ
 ガシャンガシャンガシャン

 おばちゃんの意志とは関係なく
 あたえられたプログラムにしたがっておばちゃんの腕は動く
 ぼくの腕だってどうだろう
 あたえられたプログラムで動いているのだ

 なにもかんがえずに箸を持つ
 なにもかんがえずに空き缶を投げる
 なにもかんがえずにペンを走らせる
 なにもかんがえずにキーボードをたたく
 なにもかんがえずにきみに触れる

 取りもどすのだ、おばちゃん!
 あたえられたプログラムをゴミ箱にいれ
 自分の腕と身体を取りもどすのだ!
 自分の意志で動く自由な腕と身体を取りもどすのだ!

2010年6月6日日曜日

飛んでいたころ

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #71 -----

  「飛んでいたころ」

いまはもう飛ぶことはできないけれど
まだかすかに
飛んでいたころの記憶がよみがえる

梅丘二丁目の信号から北にむかってまっすぐ降りてきて
駅前の通りと小田急線の高架をくぐった先にある信号
嵐の桜井くんがよくタクシーをつかまえようとしている交差点
渡って右手に北沢警察、左手に光明養護学校が見える通り
晴れているとぱあっとそらが広くなるあたり

飛んでいたころの眼球の感触
飛んでいたころの皮膚の感触
飛んでいたころの四肢の感触

あのとき
指は翼を引くロープをしっかりと握りしめていた
足先はバランスを取るためのベルトにひっかけていた
身体は体重移動のためにそりかえらせていた

頬が風を切り
ときおり水滴がひたいを打った
眼球の乾燥を防ぐために涙があふれ
遠くの積乱雲がぼやけた
陽に灼けることなど気にもしなかった

いまはもう飛ぶことはできないけれど
飛ぶことを思うことはできた
頬が風を切った
積乱雲を見た
風に揺れる森を飛びこえた
やがて年老いて動けなくなり灰になってしまっても
飛ぶことの思いはまだ駆けめぐっていただろう

2010年6月5日土曜日

身体のなかを蝶が飛ぶ

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #70 -----

  「身体のなかを蝶が飛ぶ」


 あるいていたら
 蝶がぱちんとひたいにあたった
 どこに行ったのかとふりかえってみたが
 どこにもいない
 おかしいなとおもったら
 ひたいからそのまま私の身体のなかにはいっていた

 あたまのなかにちょうちょがいる
 ひらひら飛びまわっている
 せまいだろうに
 たのしそうに飛びまわっている
 おおきな蝶じゃない
 でも
 どんな色の蝶なのか
 どんな模様の蝶なのか
 私には見るすべがない
 なにしろ
 私のなかにいるのだから

 ちょうちょはあたまから身体のなかへと飛んできた
 口をあけたままにしていたら
 そこから外に出ていってくれたのかな
 とおもったけれど
 もうおそい

 ひらひら
 ひらひら
 蝶が私のなかを飛ぶ
 まるで自分のもののように私の身体のなかを飛ぶ
 まるでだれのものでもない自由な空を飛ぶように
 ひらひら
 ひらひら
 飛んでいる
 ひょっとして
 と私はおもう
 私は私の身体が私のものだとおもっていたけれど
 本当は私の身体は私のものではなくて蝶のものなのかもしれない
 私の身体は私のものではないのかもしれない
 私の身体は自由な空とおなじように
 だれのものでもないのかもしれない
 私はかってに自分の身体の内側と外側を区切って
 内側を自分のものだと思っていたけれど

 私のなかに蝶がいる
 楽しそうに飛んでいる
 そんなに楽しいのかい、きみ?
 じゃあ好きなだけいていいよ
 ずっとそこで遊んでいていいよ
 私も私の身体の内側が自分のものだなんて思うのは
 よすことにしよう

2010年6月4日金曜日

自転車をこぐ

(C)2010 by MIZUKI Yuu All rights reserved
Authorized by the author

----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #69 -----

  「自転車をこぐ」

自転車をこぐ
きみのもとに向かう
風が前から吹いている

自転車をこぐ
きみのもとから帰る
風が後ろから吹いている

自転車をこぐ
きみのもとに向かう
風が横から吹いている

自転車をこぐ
買物をしてから帰る
風がななめ後ろから吹いている

風はいろいろな方向から吹いてくる
ときには風のない日もある
寒い風
熱い風
いろいろある
自転車をこいでいると
それがわかる

自転車をこぐ
きみのことをかんがえながらこぐ
風が右から吹いている

自転車をこぐ
子どもが陰から飛びだした
あわててブレーキをかけた
子どものお母さんが
ぼくをにらみつけた

自転車をこぐ
きみのことをかんがえていたのに
大事なことをかんがえていたはずだったのに
どんな大事なことだったのか
忘れてしまった

自転車をこぐ
風はいろいろな方角から吹いてくるけれど
とりあえずはそれ以上のことはおこらない
ぼくはきみのことをかんがえながら
自転車をこぐ

自転車をこいでいても
地震は起きないし
(わからないけれど)
洪水にもならない
(わからないけれど)
機関銃の弾も飛んでこないし
(わからないけれど)
爆弾も破裂しない
(わからないけれど)
でも子どもは飛びだしてくる
(わからなかった)

自転車をこぐ
きみのことをかんがえながら
きみのもとに向かう
風が前から吹いている