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----- Jazz Story #35 -----
「Someone To Watch Over Me」 水城雄
どうやら場所を間違えてしまったらしい。
私はひとり、ポツンと広い講堂の脇で立ちつくしてしまった。運動場のほうから入ればすぐにわかるといわれたのに、だれもいない。なにもやっていない。
彼女の中学生の息子が、弁論大会に出るという。血はつながっていないが、父親として見に行ってやってほしいと頼まれた。しかし、彼のほうもまだ「おとうさん」と呼べずにいる。
耳をすませば、たしかにどこか離れたところから生徒たちの声が聞こえてきた。どこかこことは別の場所で、弁論大会はおこなわれているらしい。
この講堂から行けるだろうか。
私は靴を脱いで講堂に入った。木の床がひんやりと冷たい。
なつかしい感じがした。もう30年以上も昔、私もこんな学校に通っていた。
目の前をふと、セピア色の風景がよぎる。よぎった思い出に誘われて私が目を向けたのは、講堂の横にある音楽教室だった。扉が開いていて、グランドピアノが置かれているのが見えた。
私の足がそちらに向いた。
思えば私も、中学時代、合唱コンクールの伴奏をしてほめられたことが忘れられず、音楽の仕事に進んでいったのだ。
どことなくカビくさい音楽教室に入り、ピアノに近づいた。
蓋に鍵はかかっていなかった。開くと、黄ばんだ鍵盤が見えた。
指でなぞってみる。
と、教室の入口から声がした。
「ピアノ、弾くんですか?」
私の義理の息子とおなじ年くらいの女の子が、首をかしげて立っていた。
彼女と知り合って7年。その間に、彼女の息子は小学生から中学生になった。
彼も音楽が好きらしい。しかし、私の知らない流行歌手ばかり聴いている。
私のライブに一度だけ、彼女といっしょに来てくれたことがある。まだ小学生のころのことだった。しかし、それ以来、一度も来ていない。
私はピアノに座った。
中学生のころ、私はどんな音楽を聴いていたのだろうか。
女の子が近づいてきて、ピアノの横に立った。私は彼女に聞いてみた。
「なにを弾いてあげましょうか」
それが癖なのか、女の子はふたたび首をかしげた。
「そうですね。椰子の実の歌は弾けますか?」
「名も知らぬ……というやつですか」
「はい」
「弾いてみましょう」
私は弾いた。古い鍵盤は軽く、しかしアクションは重く、弾きにくかった。
ゆっくりとコードを考えながら弾いた。
弾き終えると、女の子は音のない拍手をくれた。
「お上手なんですね」
「仕事だから」
私は義理の息子の名前を出して、知っているかと聞いてみた。
「知っています。もうすぐ弁論することになってます。わたしも聞きたいの」
「いっしょに行きましょう」
「はい。おとうさん、ですか?」
私はちょっとためらってから、うなずいた。
「はい、おとうさんなんです」
女の子が先に立って会場まで案内してくれた。女の子の髪からは、いいにおいがした。
息子もきっと、この子が好きなんじゃないかな、と私は思った。
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