2010年1月18日月曜日

Heaven Can Wait

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----- Jazz Story #9 -----

  「Heaven Can Wait」 水城雄


 平日なのに、どうしてこんなに混んでいるのだろう。
 搭乗時間ぎりぎりに駆けこんだ彼女の席は、最後尾から二列め。窓際。
 通路側にはすでに人が座っていた。
 髭づらの男だ。
 髪が長い。イタリアのブランドものっぽいカジュアルなジャケットと、ゆったりしたスラックスをはいている。いずれも白。
 襟元の開いたシャツと、皮の靴、小ぶりのサングラス。いずれも黒。
 四十歳を越えているだろうか、どう見てもカタギのサラリーマンには見えない。
「すみません」
 やむなく声をかけると、機内誌を読んでいた男は顔をあげ、彼女を見た。そしてまゆをひそめる。
「わたしの席、そこなんです」
 ようやく男は理解したらしい。しかし、眉間のしわは刻まれたままだ。
 怒られるのかと思った。窓側の席なのに遅れてくるなんて。
 しかし、男は文句はいわず、かけてしまっていたシートベルトをはずすと、席を立ち、彼女を通した。
 席につき、窓の外に目をやる。若い整備士がカートを運転して機体から離れていくのが見えた。
 あの人、何年くらいああやって働いているのだろう。
 どこに就職するにせよ、わたしもこれからああやって毎日、どこかで働くことになるのだ。
 勤め人には見えない隣の男から話しかけられたくなくて、システム手帳を取りだすと、熱心に読むふりをはじめた。

 窓の外には、くっきりと富士山が見えている。
 ほとんど雲もなく、晴れわたっている。
 もう夏だ。梅雨にはまだ間があるが、会社訪問で歩きまわっている身としては、そろそろつらい季節だ。まっ黒のリクルートスーツ姿ときては、なおさらだ。
 今日で面接も六社めになる。まだどこからも内定は出ていない。
 スチュワーデスが飲み物のサービスにやってきた。隣の男はなにか分厚い単行本を読んでいた。男も、彼女も、コーヒーを頼んだ。
 前の座席の背もたれからトレイを出し、カップを置くためのくぼみに入れる。
 男はカップを手に持ったまま、あいかわらず熱心に本を読んでいる。
 なにを読んでいるのだろう。電車のなかでも、人が本を読んでいると気になってしまう。そういえば、このところめっきり、本を読まなくなった。とくに自分の楽しみのためだけに本を読むということがなくなっている。
 このまま就職して、忙しい日々がはじまってしまうのだろうか。学生でいられるのはあと2年たらず。
 自然ともれそうになるため息をこらえながら、コーヒーカップを取った。
 と、飛行機が急に揺れた。
 大きなエアポケットだ。どこからか悲鳴が聞こえた。彼女の手のなかでコーヒーカップがすべり、落としそうになった。
「あつっ」
 指にかかった。こぼれたコーヒーがさらに、隣の男の白いズボンにかかった。
「すみません」
 男はポケットから自分のハンカチを出し、コーヒーのシミの上に乗せた。
「すみません、弁償します」
「いや、その必要はないよ。気にしなくていい」
「でも……」
「白いものは汚れると決まっているんだ。おれもその覚悟で着ているのだから」
 やがて飛行機は地上に降りた。
 ドアが開くと、男はなにもいわず立ちあがり、振り返ることもなく先に行ってしまった。
 外国で見知らぬ果物を味わったあとのような気持ちが、彼女のなかに残った。

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