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「The Woman of Tea」
作・岡倉覚三/水城ゆう
茶は薬用として始まり後飲料となる。シナにおいては八世紀に高雅な遊びの一つとして詩歌の域に達した。十五世紀に至り日本はこれを高めて一種の審美的宗教、すなわち茶道にまで進めた。茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々《じゅんじゅん》と教えるものである。茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。
小さな箒で畳を小刻みに掃くような音をたてて茶を泡立てる。さっさっさっさっ。これまでに何度も繰り返してきた動作なのに、この音が彼に聞こえていると思うといつも緊張する。音の調子で彼は私のこころの乱れを聴きとっているのではないかと心配して、茶筅の動作が乱れないように注意しているのに、注意すればするほど手先に余分な力がはいってしまって動作が乱れるような気がする。ささっさっさっ。この音を彼は聴いているのだろうか。私の勝手な憶測なのだろう、彼はそんなことを気にもとめずに仕事に没頭しているにちがいない。そうは思うのだけれど、彼のことが気になってこれほどまでに緊張してしまうのは、私が彼にたいしていまだに、結婚していらいずっと、二十年以上にもなるというのにひけめを感じつづけているせいにちがいない。
茶の原理は普通の意味でいう単なる審美主義ではない。というのは、倫理、宗教と合して、天人《てんじん》に関するわれわれのいっさいの見解を表わしているものであるから。それは衛生学である、清潔をきびしく説くから。それは経済学である、というのは、複雑なぜいたくというよりもむしろ単純のうちに慰安を教えるから。それは精神幾何学である、なんとなれば、宇宙に対するわれわれの比例感を定義するから。それはあらゆるこの道の信者を趣味上の貴族にして、東洋民主主義の真精神を表わしている。
彼は書斎の座卓に向かって正座し、黙々と仕事をつづけている。彼が仕事に使っているのは西洋ペンで、インキ壷にペン先をひたしては書きつづけている。ときおりペンを休め、肩肘をついて庭先をながめるが、その間もしきりになにかをかんがえているようだ。そうやってまたペンを動かしはじめる。ペン先からつむがれていく文字は私には読めない英国語で、彼は英国語をも流暢に話す。その巧みさはだれもおよぶ者がないほどだということを、私はいろいろな人から聞いている。無学な私が彼にひけめを覚えつづけていることのひとつの理由ともなっている。私が彼と結婚したのは、まだ十四歳のことだった。どうして学を身につけることができたろうか。
日本が長い間世界から孤立していたのは、自省をする一助となって茶道の発達に非常に好都合であった。われらの住居、習慣、衣食、陶漆器、絵画等――文学でさえも――すべてその影響をこうむっている。いやしくも日本の文化を研究せんとする者は、この影響の存在を無視することはできない。茶道の影響は貴人の優雅な閨房《けいぼう》にも、下賤《げせん》の者の住み家にも行き渡ってきた。わが田夫は花を生けることを知り、わが野人も山水を愛《め》でるに至った。俗に「あの男は茶気《ちゃき》がない」という。もし人が、わが身の上におこるまじめながらの滑稽《こっけい》を知らないならば。また浮世の悲劇にとんじゃくもなく、浮かれ気分で騒ぐ半可通《はんかつう》を「あまり茶気があり過ぎる」と言って非難する。
茶筅を小刻みに動かし、充分に茶を泡立てる。先端からしずくが落ちないように茶筅をゆっくりと回しながら碗からはなし、脇に立てる。いまの音の乱れは夫に聴かれただろうか。さっさっささっ。茶柱虫という昆虫はこの茶をたてるようなかすかな声で鳴くという。しかし私は茶柱虫の鳴き声をいまだ聴いたことはない。夫は聴いたことがあるだろうか。聴いてみようか。大事な仕事をしている彼にそんなつまらない質問をするのはためらわれる。彼はまた来週にも横浜から出港する。今度はアメリカのボストンという街に行くのだそうだ。彼の頭のなかには茶柱虫のことなど想いうかぶすきまはないだろう。小さな盆に茶菓子と茶をのせ、私はおそるおそる書斎へと入っていく。
よその目には、つまらぬことをこのように騒ぎ立てるのが、実に不思議に思われるかもしれぬ。一杯のお茶でなんという騒ぎだろうというであろうが、考えてみれば、煎《せん》ずるところ人間享楽の茶碗《ちゃわん》は、いかにも狭いものではないか、いかにも早く涙であふれるではないか、無辺を求むる渇《かわき》のとまらぬあまり、一息に飲みほされるではないか。してみれば、茶碗をいくらもてはやしたとてとがめだてには及ぶまい。人間はこれよりもまだまだ悪いことをした。酒の神バッカスを崇拝するのあまり、惜しげもなく奉納をし過ぎた。軍神マーズの血なまぐさい姿をさえも理想化した。してみれば、カメリヤの女皇に身をささげ、その祭壇から流れ出る暖かい同情の流れを、心ゆくばかり楽しんでもよいではないか。象牙色《ぞうげいろ》の磁器にもられた液体琥珀《こはく》の中に、その道の心得ある人は、孔子《こうし》の心よき沈黙、老子《ろうし》の奇警、釈迦牟尼《しゃかむに》の天上の香にさえ触れることができる。
私が盆を畳の上に置くと、彼はすぐに気づいて身体をこちらに向け、ありがとうという。茶菓子を取って口にいれ、ゆっくりと味わう。菓子は練り菓子で、彼は歯を使わずに唇と上あごのあいだでつぶすようにしながら味わっている。その口の動きを私はしばらく見てから、あわてて目をそらす。濃い髭の間から見える唾液に濡れた唇の動きが、なにか見てはならない生々しいもののような気がしてしまう。その唇は私のものといってもいいというのに。その唇は私の夫のものなのに。
おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖《そで》の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮《さつりく》を行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。
菓子を味わってから彼は無造作に茶碗をつかみ、茶をすする。彼がいま書いているのは『茶の本』なのだという。英国語で書いて、日本の茶の文化のすばらしさを世界に知らしめるという大切な仕事に取りかかっているのだ、と彼はいう。その本はニューヨークというところにある出版社から出版されるのだという。私の知らない世界。彼の世界。私の夫の私が知らない世界。さっさっさっ。
いつになったら西洋が東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう。われわれアジア人はわれわれに関して織り出された事実や想像の妙な話にしばしば胆《きも》を冷やすことがある。われわれは、ねずみや油虫を食べて生きているのでないとしても、蓮《はす》の香を吸って生きていると思われている。これは、つまらない狂信か、さもなければ見さげ果てた逸楽である。インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心をば宿命論の結果といってあざけられていた。はなはだしきは、われわれは神経組織が無感覚なるため、傷や痛みに対して感じが薄いとまで言われていた。
私にも私の世界がある。私のなかにも彼の知らない世界がある。彼はそのことを想像したことがあるだろうか。机に向かい、むずかしい本を読んだり書いたりしている彼。日本の美術教育のために日々奔走している彼。日本と外国を行ったり来たり、外国人と流暢な英国語で議論を戦わしたりしている彼。そのいかめしい顔の奥に、十四歳で結婚し、子どもを産み育て、家をまもり、ささいな日々のことをすみずみまで気にし、気にやんで生きているちっぽけな女の世界について、想像が浮かんだことはあるだろうか。いけない、こんなふうにかんがえては。彼はきっと無学でちっぽけで私のことも全部わかりかんがえていてくれるにちがいないのだから。このようにかんがえるいやしい私のことも、彼は全部つつみこんでかんがえているにちがいない。さっさっさっ。すべてをみすかされているのかもしれないと思うと、私は彼の前にいる身が縮んでいってしまうような気がする。
西洋の諸君、われわれを種にどんなことでも言ってお楽しみなさい。アジアは返礼いたします。まだまだおもしろい種になることはいくらでもあろう、もしわれわれ諸君についてこれまで、想像したり書いたりしたことがすっかりおわかりになれば。すべて遠きものをば美しと見、不思議に対して知らず知らず感服し、新しい不分明なものに対しては、口には出さねど憤るということがそこに含まれている。諸君はこれまで、うらやましく思うこともできないほど立派な徳を負わされて、あまり美しくて、とがめることのできないような罪をきせられている。わが国の昔の文人は――その当時の物知りであった――まあこんなことを言っている。諸君には着物のどこか見えないところに、毛深いしっぽがあり、そしてしばしば赤ん坊の細切《こまぎ》り料理を食べていると! 否、われわれは諸君に対してもっと悪いことを考えていた。すなわち諸君は、地球上で最も実行不可能な人種と思っていた。というわけは、諸君は決して実行しないことを口では説いているといわれていたから。
私がたてた茶を飲みおえると、彼は身体の向きを変え、ふたたび座卓に向かって仕事をはじめる。彼の頭のなかでどれほどかむずかしく、私には理解のできない言葉やかんがえがうずまいているのか、私には知ることができない。しかし、私の眼にいま彼の姿が映っているように、彼の眼にも私の姿が映ることはあるだろう。彼がどれだけ私の知らない世界に行き、私の見ないものを見たとしても、彼はやはりここにもどってきて私の姿を眼に映し、私がたてた茶を味わうだろう。私はただそのことを思い、茶柱虫のようにかすかな存在であってもここにいて、この家にいつづけて、さやけき物音を立てながら生きつづけるだろう。さっさっさっ。さっさっさっ。
ツイキャスにて朗読させていただきました!
返信削除ありがとうございました!