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----- ジャズ夜話 #2 -----
「How Deep Is the Ocean」 水城雄
店に客が多い日は、ピアノの音が吸われる。とくにピアノ席に客がいると、音は変わってしまう。
平日のくせにやけに混んでいた。桜町は二回目のステージのために店にもどってきたところだった。
十人がけのカウンターには、ひとつも空きがない。奥に置いてあるグランドピアノの上でも飲めるようになっているのだが、そこにも三人の客がいた。もっとも、詰めれば八人すわれる。
カウンターの中では、マスターの中川が、きりきり舞いをしていた。
ピアノ椅子に腰をおろした桜町が合図を送ると、スモークサーモンで手を油だらけにした中川が、肘を使って器用にオーディオのボリュームを落とした。
ピアノに向かい、演奏をはじめる。アイ・キャント・ゲット・スターティッド。ゆっくりしたバラードのテンポで。
ピアノ席の三人組は、この店に似つかわしくない客だった。
男を真ん中に、女がふたり。三人とも若い。二十代前半だろう。男と、手前の女が、髪を派手な茶色に染めている。金髪といってもいいほどだ。さらに男はその髪をつんつんに立たせている。
男と向こう側の女はビールを、手前の女はウイスキーの水割りを飲んでいた。
どう見ても、ジャズを聴きそうな客には見えなかった。
男と向こう側の女は、なにやら熱心に話しこんでいる。手前の茶髪の女は会話にくわわらず、ピアノの上に両肘をついて、けだるい表情で桜町の演奏を聴いていた。
「だからさあ、あんなやつとはさっさと別れちまえばいいんだって」
男の言葉が聞こえてくる。
「あいつだって他で適当にやってんだよ。お前だけマジになって、ばかみたいだぜ。お前だって適当にやりゃいいじゃん」
三人がいることで、こつんこつんと音がこもったように響かないピアノを、桜町は苦労しながら弾いた。ただし、バラードよりアップテンポの曲のほうが弾きにくい。それに、今日のように店ががちゃがちゃした雰囲気のときは、アップテンポの曲はますますうるさい。
二曲めもバラードを選んだ。マイ・ワン・アンド・オンリー・ラブ。ジョニー・ハートマンがコルトレーンのカルテットをバックに歌っている。そのときのピアノはマッコイ・タイナーで、桜町の好みからいえば過剰気味のアルペジオがやや鼻につくが、ハートマンの甘くこもったようなヴォーカルが、コルトレーンの内省的なテナーと奇妙にしっくりきている。
そんなことはこの若者たちには知ったことではないだろう。
ぺんぺん髪の男が手品のようなことをはじめた。
「お札、あるかい? 千円札でも万札でもいいからさ」
「あるけど、あとで返してくれる?」
「信用しろよ」
向こう側の女が千円札を出した。こちら側の女は、相変わらずふたりには無関心で、桜町のほうを見ている。いまにも眠ってしまいそうだ。
「ボールペンかなにか持ってるか?」
女がほそいボールペンを渡した。
「いいか、よく見てろよ。このボールペンを千円札にはさむんだ」
男が千円札でボールペンをはさむようにした。ふたつに折った千円札の中心部にボールペンの先があたり、残りの軸が千円札から突きでている。
桜町は演奏を続けながら、手品を見ていた。
「この千円札をさらに紙ナプキンではさむ」
目の前にあった紙ナプキンを広げ、千円札を置くと、ナプキンをふたつにたたんだ。ボールペンをはさんだ千円札を、さらに紙ナプキンがはさみこんでいる格好だ。
「ボールペンのケツを持て」
女にそれを差しだした。
突きでているボールペンの軸の尻を、女がいわれたとおり持った。
「ぶすっと突き刺してくれ」
「え、だって、そんなことしたら、穴があいちゃうじゃない」
たしかにボールペンの先は、千円札の真ん中に突きたっているのだ。そのまま押せば、お札に穴があくことは間違いない。
「いいから、やれ。ぶすっと」
「いいの?」
「やれってば」
「知らないからね」
女が指に力をこめた。
ボールペンの先が千円札と紙ナプキンをつらぬいて、反対側に突き出てきた。
男はその様子を女に見せた。
「突きとおってるな?」
「通ってるわよ。穴があいてない千円札を返してよね」
「心配ないって」
男はボールペンを引きぬいた。
紙ナプキンを見せる。
真ん中にボールペンが通った穴があいていた。
つづいて、千円札を広げてみせた。
穴はあいていなかった。
「え、なんで? ボールペンはちゃんと刺さってたじゃない」
女が目を丸くしている。桜町にもそのトリックはわからなかった。
たしかにボールペンは、千円札とナプキンを貫通したように見えた。ボールペンは千円札にたしかにはさまっていた。
簡単なトリックなのだろう。
「ねえ、ねえ、久美。いったいどうなってんの、これ?」
「知らない」
それまで黙っていた女が、興味なさそうにぼそっと答えた。
「びっくりしたか? いまからおれんちに来いよ。そしたら、もっとすごいのを見せてやるからさ」
「しんちゃんちに? これから?」
「ああ。泊まってけばいい」
「そんなあ。だって、久美に悪いじゃん」
「いいんだよ。こいつのことは気にするな」
「だって、しんちゃんは久美と――」
「気にすんなって。三人でやりゃいいじゃん。いいだろ?」
久美と呼ばれた女が、水割りをひと息に飲みほした。
自分で目の前のボトルからグラスにウイスキーを注いだ。たっぷりと。
アイスピッチャーから氷をひとつだけ入れ、カラカラと振った。
ひと口大きく含む。
桜町のほうに身を乗り出し、いった。
「おじさん、この曲、なんていうの?」
おいおい、おれはまだ三十二だぜ。そう思いながらも、彼は答えてやった。
「いいから、来いって。もっとすごいの、見せてやるよ、ほんと」
男がまだいっている。ほとんど向こう側の女を押し倒さんばかりに迫っている。彼らの口ぶりでは、男と久美というこちら側の女が恋人同士のように聞こえたのだが。
「すごいのって?」
「いまサンプルを見せたじゃないか」
「あんなんじゃだめ。もっとすごいのじゃなきゃ」
「じゃあ、こういうのはどうだ」
「どういうの?」
「このおっさんが次に弾く曲名をあてる」
「なにいってんのよ、しんちゃん。そんなことできっこないじゃない」
そうだ。そんなことはできっこない。なにしろ、次に弾く曲は、おれだってまだ決めてないんだからな。
「できたらどうする?」
「できっこないって。だって、しんちゃん、ジャズの曲名なんてほとんど知らないじゃない」
「知ってるさ。A列車で行こうとか、ミスティとか」
「それだけでしょ?」
「オリーブの首飾りとかさ」
その曲をジャズとはいわないだろう。
まあいい。いずれにしても、桜町にはそんな曲を弾く気はない。
久美がグラスを持ちあげ、ふたたびたっぷりとウイスキーを口に含んだ。そのコースターを、男が取った。
「さっきのボールペン、貸せよ。ここにいまから、このおっさんが次に弾く曲の名前を書くからさ」
「まじぃ?」
「まじだ。あたったら、おれんちに来いよ」
「あたるわけないって」
男がコースターになにか書きつけ、伏せて、ピアノの上に置いた。
自分が飲んでいたビールを、その上に置く。
桜町はマイ・ワン・アンド・オンリー・ラブを弾きおえた。
なにを弾いてやろうか。こいつが絶対に知らないような曲を弾いてやる。
桜町は次の曲をバラードテンポで弾きはじめた。
男の向こう側の女が、伏せたコースターを取った。
「おじさん、その曲、なんていうの?」
「ハウ・ディープ・イズ・ジ・オーシャン」
女の顔が凍りついた。
「いくぞ」
男が立ちあがった。
両側のふたりを抱きかかえるようにして、ピアノ席を離れた。
左手でコードを押さえながら、右手でコースターを引きよせて見てみると、そこには汚い英字で曲名が書きつけられていた。
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