2009年10月30日金曜日

農夫

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #33 -----

  「農夫」 水城雄


 まだ日も出ない早朝、荷車いっぱいのネギと白菜をロバに引かせて、街まで15キロの道のりをゆく。
 ロバはうんと年寄りだ。道中何度も苦しそうに立ち止まって、鞭を入れるのもかわいそうなほどだ。今年いっぱい……いや、この夏ごろにはもう使い物に
ならないかもしれない。といって、若いロバを買うほどの金は、偉(ウェイ)にはない。
 年々、街には高層ビルが建築され、ピカピカのアパートが立ちならんでいくというのに、偉一家の生活はますます苦しくなるばかりだ。経済は驚異的な発展を遂げているといっているが、その金は偉のところにはいっこうに回ってこない。
 かといって、偉のまわりにないわけではない。その証拠に、向かいの王(ワン)の息子は、まだ二25だというのに、BMWだかいう車を乗り回している。親にもヤンマーのトラクターを買ってやった。なんでも、つてを頼って日本から古新聞を買付いつける仕事を始めたらしい。日本人はたくさんの古新聞を出し、中国人はたくさんのトイレットペーパーを使う。昔はケツなんて汲み置きの水で洗ってたもんだが。
 ほかにも村には何人か、車やトラックを買ったものがいる。皆、なにかの商売を始めた連中だ。偉のところのように畑仕事だけでやっている者は、生活が苦しくなるばかりなのだ。ものの値段はあがるばかりなのに、作物の値段はいっこうにあがらない。
 ――これじゃわしら百姓に飢え死にしろといってるようなもんじゃないか。
 偉の声はだれに向けられたものか。彼自身にもわかりはしない。
 ――この先、わしらはどうすればいいのか。
 ひとり息子は今年、大連の大学に入った。賢くて勤勉な息子だ。ひとりっ子政策で、子どもは息子がひとりきりだ。一家の自慢の息子だ。学費は安いが、それでもいくらか仕送りをしなければならない。息子への仕送りをすると、偉の手元にはいくらも残らない。あたらしい服も買えなければ、ストーブの石炭すら事欠くこともある。むろん、若いロバなど望むべくもない。
 年老いたロバが、懸命に荷車を引いている。吐く息が白い。偉の息も真っ白だ。
 ネギは売れるだろうか。白菜は売れるだろうか。
 偉の作る野菜は、形は悪いけれど、泥だらけだけれど、味はとびきりだ。しかし、町の道端で店を広げても、最近は思うようには売れなくなった。大型のショッピングセンターや、コンビニとかいう店が街にたくさんできて、みんなそこで、きれいに泥を洗い落とされ形のととのった野菜を買うようになった。だから、道端で売っている泥だらけで形の悪い偉の野菜は、このところ売れ残るばかりだ。
 ――いっそ飢え死にするか。
 偉は大きくため息をつく。四十七にもなって、自分の生きていく道が見えなくなった。これまで迷いもなく生きてきたのに。懸命に生きてきたのに。安らかな老いの時間が待っていると信じてやってきたのに。
 明日の糧すら手のなかにない。
 ――わしらのせいか? わしらが悪いのか? わしらがまちがっていたのか?
 たぶんそうなんだろう。
 ロバが立ちどまった。
「えいや、歩けよ、ほい!」
 鞭をかまえて、偉は思いとどまった。この年老いたロバもまた、自分の歩く道が見えなくなってしまったのかもしれない。
 見上げると、えもいえぬ色合いに染めあがった暁の空が見えた。
 この宇宙のなかで、自分のようなものがひとり、人知れず消えていってしまうのはさほど意味ないことだろう。王がBMWを乗りまわしていることも、さほど意味ないことだろう。
 身が軽くなった。
「えいや、歩けよ、ほい!」
 偉は渾身の力を振りしぼって、ロバの尻に鞭を振るった。
 ロバが歩きだした。

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