2009年9月30日水曜日

Three Views of a Secret

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----- ジャズ夜話 #1 -----

  「Three Views of a Secret」 水城雄


 ドアが開く音がすると、つい癖で目をやってしまう。
 はいってきたのは、野球帽を目深にかぶった小太りのじいさんだった。よれよれのポロシャツにジーンズ。そういう格好でこんな場所に来るのは、アメリカ人に決まっている。
 じいさんを店に押しこむようにして、背の高い中年の日本人がはいってきた。ガイド役らしい。となると、じいさんは観光客か。
 そのとき店には、ビル・エバンスがかかっていた。ピアノトリオで、曲は「ワルツ・フォー・デビー」。腹の突きでた白人の観光客と、野暮ったいネズミ色スーツの日本人というふたり組には、およそ似つかわしくなかった。こういう曲のときの客は、すらっとしているがボリュームはある、手足のきれいな女がいい。三十五を越えてくずれかけた胸のふくらみが、大きく開いた襟元からすこしのぞいているくらいがふさわしい。
 私はすぐに、白人観光客と日本人ガイドのペアから興味をうしなった。
 なんの話だっけ?
「やっぱりアタック音のない楽器は、ジャズには合わないと思うんですよね」
 私のグラスに氷をひとつ落として、池田がいった。
 そうだった。ジャズ・バイオリンが苦手だという池田に、私と、マスターの中川が説教していたんだった。この前にかかっていたステファン・グラッペリの話からの流れだ。
 どうもあのバイオリン特有のふにゃふにゃした音が好きになれないんですよね。
 だからお前はだめなんだ。ジャズはメロディなんだ。歌なんだ。もっと大人になれ。
 でも、このあいだ、ジャズのハープ演奏ってのをテレビでやってたんですが、気持ち悪かったっすよ。なんか変なおばさんがA列車かなんか、演奏してた。
 ハープって、あの弦がびろんとたくさん並んでいるやつかい? ハーモニカのことじゃなくて?
 そうです。気持ち悪かったっすよ。ふにゃふにゃした音で。ジャズはリズムですよ、やっぱ。
 ばか、ハープはそうかもしれんが、グラッペリのバイオリンをけなすようじゃ、わかってないといわれてもしかたがないぜ。それにしても、なんでハーモニカのことをハープっていうんだ? ブルースハープとかさ。
 中川は例のふたり連れから注文された飲み物を作っている。
 十人がけの細長いカウンターと、奥にグランドピアノが一台。ピアノの上にはタータンチェックのカバーがかけられ、そこでも飲める。私はピアノから数えて三つめのカウンター席、ふたり組はピアノとは反対側の一番入口寄りの席。
 客はそれきりだ。
 残っていたワイルドターキーを飲みほし、おかわりを頼んだとき、今夜の演奏者がふたり、店にはいってきた。
 ひどく小柄で、刈りこんだ髪のせいで広い額がますます広く強調されている男が、ピアニストの亀田。その背後とカウンターの間の狭い空間に、ベースギターを持った細長い宇塚が立つ。
 ベースアンプに火をいれ、音量を調節する。
 ぽん、ぽんと、ハーモニクスで軽くチューニング。
 店内のBGMのボリュームが落とされ、ふたりが目配せすると、イントロなしでいきなり演奏が始まった。
 ストレート・ノー・チェイサー。Fのキーのブルース。セロニアス・モンクの曲。
 速いテンポだ。
「イエイ!」
 私はカウンターに肩肘をつき、ふたりのほうに身体を向けて、脚でリズムを取った。
 これを聴くために、私はここに来た。
 それにしても、三人の客のための演奏とは、ゴージャスだ。今日は顔を見せていない常連客全員が、あわれに思える。
 数コーラスの亀田のアドリブのあと、宇塚のアドリブに移った。
 メロディラインが低くうなる。背後からピアノが鋭く切りこむ。
 宇塚のアドリブが終わり、曲テーマにもどったとき、カウンター席の一番ピアノ寄りにあの白人がよたよたとやってきた。小さなスツールにでかい尻を乗せて、すわる。持ってきたグラスを、カウンターの上に置く。よたっているのは、酔いのせいか、あるいは老齢のせいか。
 演奏が終わったとき、彼が亀田になにかを話しかけた。
 早口の英語だ。私には聞きとれなかった。アメリカ滞在が長かった亀田には通じたようだ。うなずき、宇塚にいった。
「酒バラね」
 宇塚の返事を待たず、亀田はバラード風のイントロを弾きはじめた。
 その音をしばらく聴いていたじいさんが、ポケットに手を突っこみ、なにやら取りだした。なにか小さな、光るものだった。
 それを口に持っていく。
 亀田の演奏に乗せて、いきなり「酒とバラの日々」のテーマが流れた。
 ハーモニカだった。
 一瞬、亀田も宇塚もあぜんとした顔になった。が、演奏は続く。宇塚も合わせてベースで曲に乗りこんできた。
 私は鳥肌が立つのを感じた。じいさんのハーモニカはあきれるほどうまかった。
 テーマが終わり、ハーモニカのアドリブソロが始まる。
 バラードから次第にオンテンポにリズムが変化していく。宇塚のベースがフォアビートを刻みはじめた。亀田がテンションノートを多用したコードで、バッキングをつける。じいさんは自由奔放なメロディラインを、ちっぽけなハーモニカからくりだしてくる。
 完全にじいさんが演奏を支配していた。
 こんな演奏を聴いたのは、生まれて初めてのことだった。
「あれ、トゥーツじゃないの?」
 マスターの中川がカウンター越しに私にささやいた。
「トゥーツ?」
「トゥーツ・シールマンスだよ」
 彼が来日しているという情報は、私にははいってきていなかった。
「店にはいってきたとき、エバンスがかかっていたろう? だから、酒バラをやったんだ」
 いまは亡きビル・エバンスとトゥーツ・シールマンスがいっしょに演っている「酒とバラの日々」は、私の愛聴曲のひとつだ。
 演奏が終わり、トゥーツが宇塚になにかいった。
 宇塚は英語を解さない。亀田が通訳してやっている。
「いいベースだってよ。昔いっしょにやってたジャコ・パストリアスを思いだしたってさ」
 宇塚が目をしばたたいた。ジャコもまた、すでにこの世にはない。
「ジャコとやった曲で、スリー・ビューズ・オブ・ア・シークレットという曲があるんだけど、知ってるかって」
「ああ」
 宇塚がうなずいた。
 亀田が抜け、宇塚とトゥーツのデュオ演奏が始まった。
 私はその演奏について言葉にあらわす方法を知らない。演奏が終わったとき、不覚にも自分が涙ぐんでいることを知った。
 トゥーツがハーモニカをポケットにもどし、グラスの酒を飲みほした。
 ばかげた野球帽を目深にかぶりなおした。
 それから立ちあがり、宇塚と亀田に握手した。
 連れの日本人をうながし、勘定を払わせた。
 そして、店を出ていった。
 しばらくだれもなにもいわなかった。中川はBGMをかけることすら忘れてしまっていた。ダクトから聞こえる空調の音だけが、店に満ちていた。
 ようやく中川が静寂に気づいてなにか適当なCDをかけた。チェット・ベイカーかなにかだったと思う。
 たったいま、ここでトゥーツが演奏していたのだという痕跡は、われわれの記憶以外なにも残っていなかった。

2009年9月29日火曜日

先生への手紙

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----- Jazz Story #20 -----

  「先生への手紙」 水城雄


 拝啓。
 山々もすっかり色づき、いつ雪が舞い降りはじめても不思議ではない季節になりましたが、先生はいかがおすごしでしょうか。
 わたしのほうはなんとか元気でやっております。
 長男がやがて二歳になります。生まれてすぐのころ、少しアトピーが出て心配しましたが、大事にはいたらず、いまは元気に家のなかを歩きまわっています。といっても、せまい家なのですけれど。
 都会の生活なので、子どもが生まれると思いもかけない不自由がいろいろと出てきます。家がせまいこともそうですし、マンションの階段の登りおりもそうです。
 田舎では階段といえば、家のなかにあるものだけでしたよね。学校のギシギシいう木の階段もなつかしいです。でも、学校はもうあたらしい鉄筋コンクリートのものに建てかえられてしまったんですよね。
 あの階段を騒々しく駆けおりて、先生にしかられたことを思い出します。いまとなっては先生のおやさしがわかりますが、あの頃は厳しさばかりが身にしみたものです。
 子どもを抱いて冷たいコンクリートの階段を登りおりしていると、ふとそんなことを思い出したりしてしまいます。

 先生にこんなことを書くのはご迷惑かもしれませんが、書きます。
 子どもが生まれてから、わたしたち夫婦はあまりうまくいっていません。彼は仕事が忙しく、あまり子どものことをかまってくれません。そしてわたしのほうも子ども中心になってしまって、ついつい彼のことをおろそかにしてしまうことが多いのです。
 ささいなすれ違いでも、それが重なっていくと、夫婦の気持ちなんて離れていってしまうものなんですね。
 とてもおきれいだった先生の奥様は、いまもお元気でいらっしゃいますか? わたしたち女子学生ばかりが何人か、先生のお宅にお邪魔したとき、やわらかい笑顔をお迎えくださいました。そしておいしい和菓子をごちそうになりました。
 先生は、お好きだった夏目漱石の小説の話をしてくださいました。覚えていらっしゃいますか?
 あのころのことが、わたしにはひどくなつかしいです。あのころにもどりたいと思うことがよくあります。でも、もどることはできないんですよね。この子も大きくなっていきますし、わたしたち夫婦も年をとっていきます。
 先生にお会いしたいです。でも、もう先生はいらっしゃいません。
 きっと暖かな笑顔を浮かべて、天国からわたしたちを見守ってくださっているのでしょうか。

2009年9月28日月曜日

気分をよくして

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----- Urban Cruising #13 -----

  「気分をよくして」 水城雄


 空には高く、すじ雲が見えている。
 雲の下を、風切り羽をいっぱいに広げて、鳶が舞っている。
 ハサに干した稲からは、秋の日向のにおいがしている。

 この気持ちを伝えられたら、と思う。
 そうなんだ。今日はとても気持ちのいい一日だった。そういう日っていうのがあるものなんだ。
 目ざましが鳴る前に目をさませた朝。
 ぴかぴかにみがかれた洗面台。
 替えたばかりの歯ブラシは、すこし痛いくらい硬い。
 外に出ると、底が抜けたような天気だった。ゆうゆうと舞っている鳶をながめていると、さらにはるか上空、雲のあいだを、ゆっくりと突っ切っていく飛行機が見えた。飛行機のうしろには、一直線に飛行機雲ができている。
 車に運転していると、前の車の窓からこちらに向かって、ちいさな女の子が手を振った。
 横断歩道では、高校の制服を着た少女が、腰のまがったおばあちゃんを助けて、渡らせている。
 すこし風があるのか、開きかけたススキの穂が、同じ方向に流れている。その横では忘れられたスズメオドシが、くるくると回っている。
 秋だからといって、きみは電話の向こうで泣いたけれど、そんな必要はちっともない。遠くはなれているといって、きみは泣いたけれど、きみにだってこんな気持ちのいい一日があるだろう?
 トップギヤがことりとはいる感触。
 アネさんかぶりをした花売りのおばあさん。
 朝露をためたサト芋。
 きみにも、こんな気持ちのいい一日があればいいと思う。

 気分がよくなる方法を、ぼくはいろいろと知っているんだ。
 きみに教えてあげられたら、と思う。いや、今度教えてあげることにしよう。
 簡単なことさ。
 ちょっと椅子に腰をかけて。
 身体の力を抜いて。楽にして。目をとじて。
 慣れれば、目なんか閉じなくてもできるようになる。歩きながらだってできる。車を運転していたってかまわない。
 そして、思い浮かべるんだ、こういうことを。
 まっ白な雪原をどこまでも歩いた小学生のころの記憶。
 釣り糸を垂れているとき聞いた、魚のはねる音。
 繻子のドレスを着た人形の感触。
 冷たい小川に手をいれたときの気持ち。
 窓をあけはなった家の中を渡っていく風のこと。
 籐で編んだ枕の手ざわり。
 ほこりをぬぐったばかりの、自転車の濡れたサドル。
 掃除したばかりの、気泡のついた熱帯魚の水槽のガラス。
 草笛を丸めるときの気持ち。
 暖かなワラのにおい。
 地蔵さまの前にそなえられたお団子。
 ヘッドライトの中を横ぎる野ねずみ。
 引き出しの底から見つけた古い手帳、古い写真。
 ひと気のない浜茶屋にならんですわっている高校生。
 体育祭の汗。
 思いがけない友人からとどいた絵はがき。
 雨降りの川岸にたたずむ青サギ。
 だれもいない夜の駅の待合い室。
 忘れていた自分の誕生日。
 傷だらけの古い鞄。
 そう。海辺で、かけていたサングラスをはずす瞬間の気持ちを思いだすのも、いいね。

 でも、ぼくがいちばん気分よくなれるのは、もちろんきみのことを思いだすときだ。
 椅子に腰をかける。
 身体の力を抜く。目をとじる。
 そうすると浮かんでくるんだ。
 手をつないできみと歩いた、見知らぬ街。
 ぼくのサングラスをかけておどけたきみの顔。
 街角のバーで飲んだビールの味。
 ホテルの窓からならんで見た遠くの花火。
 高速道路の加速車線をかけあがっていくときの、きみの真剣な顔。
 汽車から降りてくるきみの姿。
 きみも、いまのぼくみたいに、ぼくのことを思いだして、気分がよくなることはあるのだろうか。もしあるなら、ぼくはうれしい。だれかがぼくのことを思いだして気分をよくしてくれていると考えるのは、とても気分がいいと思う。
 つまらない電話なんかやめて、きみも気分のよくなることを考えればいい。
 ぼくは考えているよ、いつも。
 ペタペタと音をたてるきみのパンプス。
 風でふくらんだきみのスカート。
 さらさらしたきみの手。
 ぼくの腕の中にすっぽりおさまるきみの身体。
 きみの笑顔。
 きみの寝顔。

2009年9月27日日曜日

砂漠の少年

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----- MIZUKI Yuu Sound Sketch #25 -----

  「砂漠の少年」 水城雄


 この砂漠で生まれ、この砂漠で育った。ムハディは今日もウリムを連れて山のふもとに行く。
 ウリムはフタコブラクダで、十八歳になる。ムハディより七歳も年寄りの老いぼれラクダだ。
 山のふもとには観光バスの駐車場があって、運がよければ日に15台もやってくる。中国人、ロシア人、インド人、ドイツ人、フランス人、日本人、韓国人、ブラジル人もやってくる。オーストラリア人とイギリス人もやってくるが、ムハディにはほとんど区別がつかない。アメリカ人はめったにやってこないが、来ればすぐにわかる。日本人とおなじくらい、すぐにわかる。
 山といっても、高さがせいぜい150メートルほどの、丘みたいな突起だ。見渡すかぎりの赤茶けた砂漠のなかに、ぴょこんと突き出ている。山の中腹に洞窟がいくつかあって、薄汚れた絵が壁に描かれている。人々はそれを見に来るのだ。ムハディも何度か見たことがあるが、同級生のナジームの絵のほうがよほどうまい。
 運が悪ければバスは一台もやってこない。
 今日はどうだろうか。
 同級生といったが、ムハディはもう学校には行っていない。勤め先の病院で母がロケット弾の直撃を受けて、右足を失った。父はそのすぐあとに部隊に加わった。だから、四人の幼い弟と妹を養うのはムハディの仕事になった。
 金持ちのナジームがまだ学校に行っていることを、ムハディはうらやましくなんかない。ここの仕事は学校なんかよりいろいろと勉強になる。ここが世界の片隅だってことはムハディにもよくわかっているけれど、観光客たちと話をしていると、逆に自分が世界の一番てっぺんにいるような感覚になることもある。
 バスがやってきた。中国人か? いや、韓国人か日本人だ。年寄りの団体だ。みなころころと太った腹にウエストポーチを大事そうにくくりつけている。
 女のひとりがムハディにカメラを向けながらいう。
「かわいい坊やだわ。うちの孫と同い年くらいよね。学校には行ってないのかしら」
 日本語だ。
 すかさずムハディはいう。
「帰りにラクダ、乗ってよ。写真撮れるよ。いい思い出、撮れるよ」
 一団が歓声をあげる。砂漠の少年の見事な日本語に驚いているのだ。そして少年の透き通った青い目をのぞきこんで、いう。
「かしこい坊やね。わかったわ。きっとあとでラクダに乗ってあげるわね」
 ムハディはときどき、自分の青く透明な目が世界のすべてを見ているような気になることがある。しかし、自分は世界の片隅にいるのだし、自分はおそらく死ぬまでこの地を離れることはないだろうとも思っている。
 ガイドに連れられて山に登っていく観光客たちの姿を、熱くやけた地面に腹ばいになったフタコブラクダのウリムとともに、ムハディはじっと見送っていた。

2009年9月26日土曜日

迷信

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----- Another Side of the View #9 -----

  「迷信」 水城雄


 古びた桟橋をギシギシいわせながら、その男はやってきた。
 よれよれのシャツにすりきれた半ズボン、使い古されたゴムのサンダル。まっ黒に日焼けした顔。短く刈りこまれた頭は、ゴマ塩というよりほとんど白に近い。
 ヨタヨタと彼らの船に近づいてくると、老人は口をひらいた。
「ぶじに航海をつづけたいなら、すぐに船を動かすがいいな」
 思いがけず日本語を聞き、ふたりはキョトンと顔を見合わせた。
 夕刻からずっと飲みつづけていて、いいかげん酔っぱらっていたのだった。塚田の足元に置かれているジャマイカ・ラムのボトルは、もう半分ほども残っていない。
「じいさん、旅行者ってわけじゃないな?」
 ややもつれた口調で村上がぶっきらぼうにたずねた。
「飛行機乗りだったのさ。いっぺん内地に引きあげてから、また舞いもどってきた」
「そのまんま居ついちまったのか」
「ちょいとわけありでな」
「女か」
 大きな口をあけて、老人は豪快にわらった。
 彼の笑い声がおさまるのを待って、塚田はいった。
「よかったらいっしょに飲みませんか。それに、船を動かさなきゃならないわけを聞きたいな」
「なにを飲んどる?」
「ラムですよ」
「ま、よかろう」
 彼はよっこらしょと桟橋からヨットに乗りうつってきた。
 塚田はキャビンからグラスを取ってくると、酒を満たして老人に渡した。老人はそれをグッと一気に半分ほどもあおった。
 プーッと息を吐きだしてから、にらみつけるような視線をこちらにむけてきた。
「これからどこに行く?」
「日本にもどるだけだよ」
 と、村上。
「この船でか?」
「ああ」
 老人は値踏みするような視線でヨットをながめまわした。41フィートのスループ。先日のレースでいささか痛んではいるが、熟練者がふたりでのんびりと回航しようというのだ。
「とにかく、動かしたほうがいいな」
「なぜですか」
 塚田はふたたびたずねた。
「この場所は縁起がよくねえ」
「縁起?」
「ああ。ここにひと晩つけてた船で、ぶじに航海が終えられた船はねえ。この場所は縁起が悪いんだ」
「おいおい、よしてくれよ」
 村上が苦笑いしながら、手をひらひらさせた。
「おれたちに縁起の話なんかしないでくれ。おれたちほど縁起なんて言葉に無縁の人間はいないくらいなんだ。おれは土地屋、こいつは大学の物理屋さんなんだからな」
「なにも縁起の話をしてるんじゃない」
 老人がグラスを差しだしながら、いった。
「わしはほんとのことしかいわん」
 塚田は彼にラムを注いでやり、ついでに自分たちのグラスも満たした。
「先月のことだ。隣の島の若いやつが、わしのいうことも聞かないでここに一晩、船を泊めた。まだクチバシの黄色いような若いやつだ。カナダから来たダイバーふたりをガイドしていた。ナイトダイビングだとかいって夕方の凪の海に出ていったきり、いまだに帰ってこない」
「凪の海?」
「なにがあったのかは知らん。とにかく、若いやつもダイバーも帰ってこなかった。この桟橋のこの位置に一晩つけた船は、ロクなことがねえんだ」
 村上が塚田と顔を見合わせてから、グラスの酒を口にふくんだ。それから吐きだすようにいう。
「ふん、馬鹿ばかしい」
「馬鹿ばかしいと思うか?」
 老人が気にしたようすもなく、問いかえす。
「ああ、馬鹿ばかしいね。だいたい、縁起をかつぐとかいった迷信くさいことは、おれたち、大っきらいなんだ」
「そうか。迷信か。迷信だと思うか」
「思うね。迷信なんか信じてたら、命がいくつあっても足りないね」
「じゃあ、いってやろう。おまえさんはつい最近、カミさんに逃げられたね」
 村上がギクッとした顔になった。
「じいさん、なんでそれを……」
 いいかけて、あわてて首を横に振った。
「馬鹿ばかしい。あてずっぽうを……」
「あてずっぽうなんかじゃないぞ。わしにはわかる。この島に住んでいると、そういうことがいろいろいとわかるようになるもんでな」
「じゃあ、ほかになにがわかる?」
「おまえさんは最近、商売で大きな損をしたろう。その損を穴埋めするために、けっこうヤバいことをやっておるな。それをこのままつづけると、やがてお縄をちょうだいすることになる。それから……」
 唖然と口をあける村上から視線をそらし、老人は今度は塚田に指を突きつけた。
「あんたのほうだが、職場の人間関係に気をつけるがいい。なんの仕事か知らんが、近いうちに上の者の心証を悪くして左遷されるおそれがある」
 村上も塚田も、返す言葉がなかった。
 ふたりを得意そうな顔で交互にながめると、さらに老人は言葉をついだ。
「この船の船室に子どもの写真が置いてあるだろう。右側にあるそいつを左側に移したほうがいい。マストのウインチはもうすこしさげたほうがいいな。位置がよくない。あんたの着ているその服、色がよくない。この船に乗るときには、赤はご法度だ。よくおぼえておけ。それから……」
 とめどなくしゃべりつづける老人の前で、ふたりの男は顔を見合わせた。
 どちらからともなく肩をすくめ、うなずきあう。
 塚田が老人の手からグラスを取りあげた。立ちあがった村上は、老人の背後のデッキに足を踏みしめた。
 老人の両脇に腕を差しいれる。
「な、なにをする!」
 塚田は老人の両足首をつかんだ。足をバタつかせたが、力はない。酔っぱらっているとはいえ、こちらは壮年の男ふたりだ。
 そのまま身体を持ちあげた。
「足もとに気をつけろよ」
「わかってるって」
 老人の身体を揺すり、反動をつけた。悲鳴をあげながら、老人の身体はライフラインを越えて派手なしぶきをあげた。
 どちらからともなく、笑いはじめた。いったん笑いはじめると、とまらなくなった。
 水面から顔を出した老人が、ふたりにむかってわめいた。
「笑いごとじゃないぞ! わしのいうとおりにしないと、あんたらふたりとも、命はないぞ」
「おまえの知ったことか」
 村上が叫びかえした。
「なんのためにおれたちがこうやって船に乗ってると思ってるんだ?」
 それから笑いの発作がぶりかえし、村上は腹をかかえた。
 あっけにとられている老人の顔を指さしながら、ふたりはいつまでも笑いつづけた。